9  脱走

 銀の月は、鋭い鎌を思わせる三日月となって中天にかかっていた。

 赤の月と青の月の光とが混じり合い、夜の底はどこか不気味な紫色に染められている。

 ゼルファナス軍の野営地は、ごく静かなものだった。

 すでにガイナス軍は北に向けて移動を始めているという。

 実質的に、戦はほとんど終わったといっていい。

 だが、リューンにとっては、これから新しい戦が始まろうとしている。

 いや、それが果たして戦と呼ぶべきものなのか、彼にはわからなかった。

 よく言えば冒険……もっと正確に言えば、愚行である。


「エルナス親衛隊、か」


 天幕を出ると、リューンは一人ごちた。


「まあエルナス公家の兵ってのも悪くはなかったが……結局、俺は誰かに仕えるとか、そういうことが苦手なんだろうな」


 そう言って、思わず苦笑する。

 あのエルナス親衛隊特有の、青と白の特徴的な衣装は脱ぎ捨て、いまは鉄片で補強した革鎧を身に着け、背中に大剣を背負った姿だった。

 さらに腰のあたりには小さな革袋を下げている。

 そのなかには、当分の間は必要と思われる携行用の食料や水、ささやかながらいくらかの路銀が入っている。


「それなりに出世する道を見つけたってのに……まったく、我ながら俺は馬鹿だね」


 そういうと、リューンは自嘲に口の端をゆがめた。

 このままエルナス親衛隊にいても、ゼルファナスの手駒として使われるだけだろう。

 確かに出世はできるかもしれないが、その程度も限られている。

 王になるには、やはり別の道を選ぶことが必要なのだ。

 もともとが平民のリューンである。

 とてつもない出世をとげるには、並の人間ではとても不可能と思われるような大功をたてる必要があるだろう。

 幸か不幸か、その大功をたてる機会が巡ってきた。

 いま、レクセリア王女はガイナス王の捕虜となっている。

 もし彼女を敵中から救い出せば、その功績は計り知れない。


(でもさすがに、今度ばかりは危険がでかすぎるな……戦場で戦うよりも、よっぽどやばい橋を渡ることになる)


 単独行動を選んだのはそのためだ。

 雷鳴団時代からの部下たちを引き連れていけば、そのまま彼らを死地に向かわせることになるだろう。

 彼らもエルナス親衛隊の一員として戦っていれば、それなりに出世の道が開けるはずだ。


(ま……俺のわがままに連中をつきあわせるわけにもしかねえし、な)


 寂しくないといえば嘘になる。

 だが、男には一人になってもなにごとかをなしとげねばならないときがあるのだと、リューンは思い極めていた。


(隊長が脱走兵になるなんて前代未聞だろうが……まあ、エルナス親衛隊もできたばっかりだ。あとは、カグラーンあたりがうまくやるだろう)


 そう思い、月明かりに照らされた大地にむかって一歩目を踏み出したそのときだった。


「おいおい兄者……いくらなんでも、冷たすぎやしないかい? 長年、一緒にいたこの俺を置いていくなんて」


 ぎょっとなって振り返ると、蛙のような不細工な顔をした小男が、後ろにいた。

 言うまでもなく、それはリューンの弟、カグラーンに間違いなかった。


「カグラーン!」


 人目をはばからねばならぬ身だというのに、思わずリューンは大声をあげてしまった。


「しっ」


 あわてたようにカグラーンが言った。


「兄者……まったく、これだから一人にはしておけないんだ。いいか? 俺たちはこれから脱走するんだろう? 脱走兵は、死罪なんだぜ? もうちっと、静かにしないと」


「で、でも……おまえ」


 カグラーンはにやりと笑った。


「兄者の考えくらい、俺にだってわかるさ。なにしろ長い間、兄弟やってるんだからな。兄者はエルナス親衛隊でいくら戦っても、とても王になんてなれない、そう見切りをつけたんだろ? それに比べて、ガイナス王にとらわれたレクセリア王女を救い出せばとんでもない大功をたてられる。もともと兄者は王女様と縁があるんだ。敵中から見事、王女様を救い出せば王女様は兄者に惚れるかもしれない。なにしろ兄者は王女様を助け出した勇者なんだからな。そうなれば、王女様と結婚して、兄者も王族の仲間入り。そして邪魔者どもをけ落としていけばいずれ兄者はアルヴェイア王になれる……おそらく、そんなことでも考えていたんだろう」


 実をいえば、リューンはそこまではっきりしたことを考えていたわけではない。

 ただ、これ以上、エルナス親衛隊で戦っていても先が見えていると感じたのが一つ。

 そして、自分と同じウォーザの目をもつあの王女がとらわれたかと思うと、なぜかいてもたってもいられなくなった、というのもある。


「でもな……兄者。兄者がいくら一人でがんばっても、世の中には限界ってものがある。だいたい、ガイナス王のとらわれの身となったレクセリア王女を救い出すなんて、よっぽど知恵を絞らなきゃ無理な芸当だぜ? 兄者は戦にゃめっぽう強いが、そういうときは雷鳴団の知恵袋のこの俺の助けが必要ってもんだろ?」


「ちっ……俺もお前も、兄弟そろって実に馬鹿だな」


 リューンは思わず苦笑して言った。


「カグラーン、わかってるのか? 相手はあの火炎王ガイナスだぞ? 何万もの兵士を動員して、敵兵であれば降伏しても平気で虐殺するような化け物だぞ? 俺たちの戦の相手は今度はいままでと違って、グラワリアっていう国そのものだ。勝ち目がない戦だってわかってるのか?」


「勝ち目?」


 カグラーンはひどく愉快げに言った。


「勝ち目はたしかにほとんどないな。でも、まったくないってわけじゃない。兄者はウォーザの目を持った男だ。いままでだって、並の人間にゃ不可能だって思えるような真似を平気でしてきた。その兄者だからこそ、俺も命を賭けてみようって気になったんだ」


 背後から、奇妙な笑い声が聞こえてきたのはそのときだった。


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