3  苛立ち

「なあにが、停戦だ!」


 リューンのすさまじい怒声が、あたりにとどろき渡った。


「まあまあ、兄者……それもアルヴェイア軍を率いるレクセリア殿下の決めたことだ。俺たちがなにか言っても仕方がない」


 カグラーンが、そう言うと上半身が裸になった兄の体に薬草をはりつけた。


「いてっ」


 途端に、リューンは声をあげた。


「おまえ、もうちょっとそっとだな……」


「俺たちの制止もきかずに、こんなに傷だらけになるまで戦ったんだ。これくらい、いい薬だ」


 そう言って、カグラーンは兄の傷口を乱暴に清潔な布でぬぐった。


「くそっ……おもしろくねえ!」


 あぐらをかいた姿で手当をうけながら、リューンは酒袋のなかに入れられた葡萄酒をぐっとあおった。


「おいおい、兄者……いま酒を飲むと傷口が開くぞ」


 カグラーンの声を無視して、ごくりごくりと酒袋のなかの葡萄酒をあっという間に空にする。


「しっかし……あのお姫様も、なんで降伏なんてしたんだ。あの戦、まだまだ、先はわからなかったぞ? げんに俺たちは、ガイナス軍を押していたんだ。あのまま攻撃を続けていれば……」


「無理だよ」


 カグラーンが、冷静な口調で言った。


「無理だ。いくら俺たちががんばったところで、もうあの戦の趨勢は決していた。ガイナス軍はレクセリア軍と、消耗戦を繰り返していた。確かに俺たちの攻撃もある程度は効果があったろうが、いつまでもレクセリア軍が持ちこたえられたとはとうてい、思えない……」


「くそっ」


 今日、何度目かももうわからぬほど、リューンは罵声をあげていた。


「だったら……そうだ、エルナスの殿様が緒戦からもっと真面目に戦っていれば良かったんだ。まず俺たちがスィーラヴァス軍を撃破して、それからガイナス軍の背後をつけば、レクセリア軍だって南からも挟撃をうけることはなかった。そうなれば、この戦、俺たちが……」


「さて、それはどうかね」


 カグラーンが革袋から薬草茶をすすると言った。


「確かに序盤からスィーラヴァス軍に猛攻をかけていれば、ちょっとは形勢は変わっていたかもしれない。でもね、スィーラヴァス軍は俺たちゼルファナス軍の倍近い数がいたんだ。正面から戦えば、むしろひどいやられかたをしたのは俺たちだったかもしれない」


「じゃあ……やっぱり、あのお姫様が」


 リューンはぶつぶつと愚痴をこぼした。


「そうだ……あのお姫様が、悪い。南部諸侯を破ったときには、大したお姫様だと思ったもんだが、よりにもよって敵に降伏するなんて……」


「さて、なあ」


 カグラーンが、蛙のようなぎょろりとした目を瞬かせた。


「俺はあのお姫様は、大したタマだと思うぞ。あの戦況じゃあ、どうやったって勝ち目はない。もしあのままずるずると戦ってみろ。レクセリア軍の兵士は無駄死にするだけで、結局は軍勢として機能しなくなっていただろうよ。本当は兄者だって、わかっているはずだぜ。レクセリア殿下は、最高の時機を選んで英断を下したって。戦の下手な将だったら、あのまま勝ち戦になるかもしれないって幻影にとらわれて、自軍が崩壊するまで戦い続けただろうよ。その点、レクセリア殿下は大したもんだ。誰が教えたわけでもないだろうに、一番いい時点で『負け時』って奴をちゃんと選んでいる。戦に勝つよりも、綺麗に負けるほうがよっぽど難しい……兄者だって長年、傭兵やってりゃそれくらいの道理はわかるだろうよ」


 すでに雨は小雨となっており、空は再び明るさを取り戻しつつある。

 小山のような巨躯の全身が傷だらけにして、その上半身、裸の姿を雨にさらしたまま、リューンは天を仰いだ。


「ああ……わかっちゃいるよ……」


 その青と灰色の色違いの瞳は、すっかり力を失っている。


「わかっちゃいるけどな……」


リューンは、深い吐息をついた。


「どうにもこう、やりきれねえんだよ……結局、この戦……」


「もちろん一番の勝者はガイナス王だが……エルナスの殿様も『勝った』な」


 カグラーンは、にやりと笑った。


「ゼルファナス軍は、レクセリア軍と違って武装解除する必要もないし捕虜もとられていない。全軍、ほとんど無傷のままにメディルナスに帰れる。そしてもちろん、エルナス公家はきちんと武勲をたてている……」


「俺たち……か」


 リューンの科白に、カグラーンがうなずいた。


「騎士も見事なものだったが……ガイナス軍をおしまくったのは、俺たちエルナス親衛隊だ。そのことはゼルファナス軍の者ならだれでも……いや、ガイナス軍の奴らもよく知っているだろうよ。特に、兄者が馬鹿みたいに戦ってくれたおかげでな」


 序盤でこそスィーラヴァスと正面から激突しなかったものの、そのあとのガイナス軍との戦闘ではゼルファナス軍は十分に戦果をあげている。

 むろん、ゼルファナスも敗軍の将ではある。

 メディルナスに戻れば、副将である彼の責任を追及する者もいるだろう。

 だが、実質的には、この戦で一番、得をしたのはゼルファナスではないのか。

 ガイナスがあえて、ゼルファナス軍にも降伏を勧告しないのは、もしいまゼルファナス軍がいまガイナス軍に襲いかかれば、むこうもただではすまないからだ。

 さらにガイナスの「友軍」であるスィーラヴァスも、隙あらば、とガイナスのことを狙っているだろう。

 そのなかで、ガイナスは最良の勝利を収めた。

 なにしろ王女であり敵将であるレクセリアを捕虜にし、さらに大量の諸侯や騎士の身柄も確保したのだ。

 レクセリアの命令、という口実ですでにゼルファナス軍はヴォルテミス渓谷の西二イレム(約三キロ)の地点に撤退している。

 どうやら戦は、このまま終わり、ということになりそうだった。

 本来であれば、ゼルファナス軍もアルヴェイアの軍勢なのだからまだ戦うべきだ、とリューンは思う。

 だが、アルヴェイア軍の指揮系統は、あくまで大将レクセリアがもっとも上に位置しているのだ。

 彼女は全軍に戦闘停止を命じた。

 だから、ゼルファナスもそれに従った。

 もっとも、レクセリアが捕虜になった今では全軍の指揮権は副将であるゼルファナスに移っている。

 もし彼がその気になりさえすれば、とも思うのだが、すでにレクセリア軍が無力化され、ガイナス軍とスィーラヴァス軍を敵にまわさねばならないこの状況では、やはりこちらから戦いをしかけるのは無謀というものだろう。

 それにレクセリアの命令で停戦した以上、こちらから勝手に再戦すれば道義にもとる。


「まあ、そういう理由をいろいろつとつけて、エルナスの殿様は『自分の兵隊はほとんど無傷のまま』メディルナスに戻れるってことだ……」


「…………」


 さきほどから、カグラーンの言っていることが正しいことは、リューン自身も理解している。

 だが、理性を感情が否定しているのだ。


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