第四章  変転

1  イリアミス旗

 イリアミス女神は癒しと慈愛の女神であり、平和を司るとされている。

 その象徴は、金色の鹿の角だ。

 白地に金色の鹿の角の図案が描かれた、いわゆるイリアミス旗をたいていの軍隊は携行している。

 もっとも、この旗を使うことを好む者はいない。

 戦場で自ら平和の旗をふるということは……つまりは、敵への降伏を意味するのだ。

 激しい雨がふりしきるなか、レクセリア軍の本陣に、高々とそのイリアミス旗が掲げられていた。

 すでに前線にも、伝令が届いている。

 イリアミス旗が用意できない場合、白い布が代用品として使用される。

 レクセリアからの命を受け取った兵たちは、その胸中はさまざまだったろうが、身近にある白い布を棒に巻き付けては、雨のなか、白い旗を振ったのだった。


「これで、戦も終わりか……」


「くそ……なんで、降伏なんて……」


「バカをいえ、俺たちはもう限界だった。もしここで降伏していなければ、俺たちは皆殺しにされていたかもしれないんだぞ」


 あちこちで、兵たちが虚脱したような顔をしてぼんやりと天を仰いでいた。

 最後まで激戦の続いていた、ガイナス軍と接する北の戦線でもすでに戦闘は終息している。

 男泣きに泣き声をあげる者、また安堵したように大地にひざまずく者……兵たちはそれぞれ複雑な心境で、それぞれの停戦を迎えていた。

 特にガイナス軍と激突した狭い谷には、それだけで陣地が構築できそうなほどに大量の死体が転がっている。

 頭蓋を割られて脳をはみだたせた者や、のど元にぱっくりと巨大な傷口を開けた者、また腹に槍が刺さったままになっている者など、その死に様もさまざまである。

 激しい雨にうたれながら、彼らは無言で降伏を受け入れているようにも見えた。

 もっとも、すでに死者となった者たちの本心など知るすべはないのだが。


「…………」


 北のガイナス軍の陣へ向かう道中、ゼルヴェイア近衛に守られながら、レクセリアはそのすさまじい数の死体を目にしていた。

 みな、レクセリアを信じて戦った者たちである。

 その数はとうてい、一千ではきかない。

 少なく見ても二千、否、三千は軽く超えているだろう。レクセリア軍は降伏までに、全軍の実に五分の一を喪失していたのである。

 もし降伏をしていなければ、この死者はさらに増えたはずだ。

 改めて、ガイナスに負けたのだ、とレクセリアは実感した。

 あの男は自軍の兵の損耗など気にしていないのだろうか。

 谷間での戦いで彼我の兵が狂気とも思えるような勢いで殺し合っていくのをガイナスは平然と見つめていたのだろうか。

 むろんこれは戦である。

 もし敵が相手であれば、戦に勝つために大量に殺戮を行わねばならないときもある。

 だが、すでにレクセリア軍の兵たちは、あまりにも多く喪われていた。

 兵たちの間を通って北に向かう途中、兵たちのすすり泣きのような声をレクセリアは耳にした。

 敗北が悔しいのか、あるいは命を拾ったことで安堵しているのか。

 レクセリアとしては後者だと思いたい。

 だが、ガイナス軍の陣にほど近い、相当数の兵が戦死したあたりで、一人の生き残りの兵が痛切な声をあげるのが聞こえてきた。


「レクセリア殿下! なぜ降伏など! それじゃあ……俺の仲間たちは、いったいなんのために死んでいったというのですか!」


 その言葉を聞いた瞬間、レクセリアの心は半ば麻痺したようになった。

 降伏したことが間違いだったというのか。

 であれば、全滅するまで戦い続けるべきだったというのか。

 違う。

 レクセリア軍は、要するにこの戦に勝てば良かったのだ。

 別の場所に陣を敷き、別の戦い方をすれば良かったのだ。

 兵たちは勇猛果敢に戦った。

 兵たちに責任はない。

 責任はこの自分にある、とレクセリアは改めて思い知った。

 全身が雨にうたれ、ぐっしょりと濡れている。

 兜からはみ出した白みがかった金色の髪が、レクセリアの目の上にあたりにまでもつれてかかっていた。

 はたからみれば、敗残の将はさぞや惨めに見えることだろう。

 だが、いまは自虐的な気分に浸っている場合ではない。

 降伏をしたとはいえ、まだまだレクセリアにはなすべきことがいくつも残っている。

 まず、生き残った兵の処理だ。

 いくらガイナスが破壊を好む王とはいえ、さすがに一万を超える兵を虐殺したりはしないだろう。

 否、もしそんなそぶりをみせようものなら、レクセリア軍の兵卒はそれこそ死にものぐるいになって、最後の一人が死ぬまで戦い続けるはずだ。

 だが王国軍の将官や、諸侯たちが捕虜になることはまず免れないだろう。

 彼らが生きて故郷に帰るためには、親族やアルヴェイア王国が莫大な額の身代金を出す必要がある。

 それでも、全軍が壊滅するよりはましなはずだ……。

 そのときだった。

 金色の巻き毛がかった髪と、日に焼けて黄金色に近い褐色の肌をもつまだ若い、美しい女性が何人もの女たちとともに、槍を手にこちらに近づいてきた。


「シャーーーーーーーーッ!」


 敵襲を警戒するかのように、ゼルヴェイア近衛たちがそのトカゲのような頭から威嚇の声を発する。

 槍をもった女たちの正体を、レクセリアは即座に理解した。


「あなたがたは……噂に名高い、ランサール雷槍団ですね」


 レクセリアの問いに、先頭の女が首肯した。


「私はランサール雷槍団の槍頭、メルセナと申します。レクセリア殿下とお見受けいたしますか」


「その通りです」


 レクセリアもうなずいた。


「私がアルヴェイア王国軍の大将をつとめる、アルヴェイア国王シュタルティス二世陛下の妹、レクセリア・ヴィアサ・アルヴェイアです」


 こちらを見たメルセナの目に、一瞬、驚きの色が浮かんだ。

 理屈では相手の正体を知っていても、実際にまだ十五の少女が一軍を率いていたという事実に、驚愕を隠せなかったようだ。

 メルセナという女性も、女だてらにランサールの尼僧兵をしているとはいえ、女で一兵卒をつとめるのと大将になるのではまったく別の話である。


「私は、グラワリア国王ガイナス一世陛下より、レクセリア殿下を本陣までお連れするように命じられております。そちらの警護のかたたちは……」


 ちらりと、メルセナはゼルヴェイア近衛のほうを見やった。


「この場でお待ちいただけますか?」


 それを聞いて、一人のゼルヴェイアがずいと前に歩み出ると、流暢なセルナーダ語で「言った」。


「我らは、陣中においてレクセリア殿下をお守りするのが役目である。いかなる場合においても……」


 口腔の違いにより、ゼルヴェイアが人の言葉を話すことは不可能だし思考も人類とは異質だが、この時代には彼らの意識をある程度まで、人間のものにいわば「翻訳」する魔術がまだ残っていた。


「シェキクル」


 レクセリアは、微笑した。

 このゼルヴェイアが単に職務としてではなく、自分のことを本心から心配してくれているのが実感できる。


「あなたの忠信はありがたく思います。しかし、すでに戦は終わりました。アルヴェイアの王女として命じます。ゼルヴェイア近衛はただちに本陣に戻り、別命あるまで待機。よろしいですか?」


 それを聞いて、シェキクルをはじめとするトカゲの民の近衛兵たちは、奇妙なほどに人間に似た仕草でうなだれた。


「殿下のご命令とあれば」


 ゼルヴェイア近衛たちは、哀しげな目でレクセリアを見つめていた。


「人と異なる種族の者たちにまであれほどの忠誠を誓わせるとは」


 メルセナは心底、驚いたように言った。

 グラワリアにも中央の湖グラワール湖にトカゲの民は住んでいるが、アルヴェイア国内の同族とは異なり、彼らは人間には激しく敵対しているという。

 外国人にとっては、アルヴェイアのゼルヴェイア近衛兵は存在そのものが信じがたいものなのだ。


「たとえ種族が違っていても、心が通じ合うこともあるのです……」


 レクセリアはつぶやいた。


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