9 死地

 アルヴェイア王国軍の千人隊三個部隊は、完全に友軍から孤立していた。

 前面と左右はグラワリアの軽歩兵に、そして後背は下馬した騎士に包囲されている。

 悪夢のようだ、とレクセリアは思った。

 だが、あいにくとこれは夢ではない。

 自らの過ちにより、貴重な兵たちをレクセリアは死地に向かわせてしまったのだ。

 実際のところ、ヴォルテミス渓谷に陣を敷くことを選んだ時点で、すでにレクセリア軍は死地に入り込んでいたともいえる。

 この谷に入ってしまえば、逃げ場はないのだ。

 ある意味では、愚かしいとすらいえる決断である。

 実際、事情を知らぬ将校や諸侯はみな、レクセリアの判断に反対した。

 だが、ガイナス軍を誘うためには、これはどうしても必要な賭けだったのだ。

 最初の賭けには、見事に成功した。

 同じく、あえて死地に入り込んだガイナス軍にしかけた、炭塵爆発による罠はうまい具合に発動し、クーファーの火炎法力は完全に押さえ込んだ。

 しかし、その一時的な興奮によってレクセリアは致命的な過ちを犯したのだ。

 王国軍の三千の兵を、前方に深入りさせすぎた。

 縦深陣の敵中を突破する際、陥りがちな罠にはまってしまったのだ。

 完全に、今は王国軍歩兵は包囲されている。

 下馬した騎士にむかって弓兵たちを使って矢を集中させたが、さして効き目はなかった。

 結局、このように移動できる土地の限られた場所ではとれる戦術も限定されてくる。

 レクセリアとしては、後背に控えていた練度の低い歩兵を大量に戦線に投入するしかなかった。

 出現したのは、ささやかな地獄だった。

 ここまで兵が密集してしまうと、もはや戦をしているのか押し合いをしているのかすら判然としなくなる。

 北側に陣取ったガイナス軍と、南側のレクセリア軍が激突するあたりでは激しい戦いが繰り広げられていたが、なかには後背から押し出されて敵歩兵の突き出した槍に貫かれるものや、圧死する者さえ現れ始めていた。


「アルヴァーール!」


「アルヴァーール!!」


「ガーガール!」


「ガーーガーーールーーーッ!」


 異なる鬨の声をあげた二つの軍勢が激突し、槍をそろえて突き出し、剣を振り、とっくみあい、体当たりをくらわせ、敵ののど元に短剣を突き、腹に槍の穂先を刺し、剣で腕を切断し、眼球を短剣でえぐり……。

 すでに両軍が衝突してから一刻(二時間)が経過していた。

 甲乙つけがたい奮闘ぶりをみせているが、これではとてもではないが決着などつきようもない。

 谷間という狭い場所に閉じこめられた両軍の兵は、わずか幅一千エフテ(約三百メートル)という戦線にすし詰めになって戦闘を続けているのだ。

 逃げようにも、逃げ場がない。

 味方であるはずの友軍兵が背後から次々に殺到してくるため、最前列の兵は敵とぶつからざるをえなかった。

 そこに生まれるのは、この時代の戦の常識では信じられないほどの大量の死体である。

 すでに両軍あわせて、四千近い死傷者が出るという異常な状況に陥っていた。

 炭塵爆発によってグラワリア側には大量の死者が出ていたとはいえ、兵学の常識からして正気とも思えぬ数字である。


(これでは……お互いに、無意味に殺し合いを続けるだけだ)


 この戦いの不毛さに、すでにレクセリアは気づいていた。

 とはいえ、ここまで接敵してしまうと、一時的な撤退はそのまま全軍の壊乱につながりかねない。

 両者ともいたずらに被害を出し続けるだけで、ひくにひけないという、特異な状況に陥っていた。

 レクセリアは歴史上の戦史に通暁しているが、このような戦は聞いたこともない。


(なにがアルヴェイアの戦姫だ……私は結局、こうして兵士たちを無駄死にさせている)


 まさに無駄死にだった。

 互いに互いをすりつぶすような、不毛きわまりない戦である。

 全体の戦況でいえば王国軍歩兵三千を包囲殲滅しかけているグラワリア側が優位だか、それも圧倒的なものとはいえない。


(この戦……負けるか)


 一瞬、レクセリアの脳裏にそんな考えが浮かんだ。

 このままではらちがあかない。

 そろそろ天は曇りだしており、いつ雨が降ってきてもおかしくないような薄墨を流したが如き色合いに染まっている。

 もしここで雨がふれば、炭塵爆発は期待できない。

 そうなれば、グラワリアは間違いなくランサール雷槍団を投入してくるだろう。

 彼らは稲妻の女神ランサールに使え、電撃を放つ法力を使うという。

 この時機を見計らってランサール雷槍団をガイナスが使えば、一斉にレクセリア軍は崩壊を始めるかもしれない。


(それならば、いっそ……)


 ここで撤退を指示すれば、一時的には戦線に混乱が起きるだろう。

 一歩間違えれば、撤退のつもりが敗走につながりかねない。

 だが、まだレクセリア軍には「逃げる場所がある」だけましなのだ。

 谷の南に一度出てしまい、そこで軍を再編成する。

 そんな芸当が果たして可能だろうか、とレクセリアは素早く考えを巡らせた。

 撤退を始めれば、ガイナス軍は間違いなく一気に追撃をかけるだろう。

 後退しながら陣を敷くなどという魔法のような芸当は、よほど練度の高い兵にあらかじめ訓練をつませておかねば、不可能のようにも思える。

 それでも、ここで無意味な殺し合いを続けているよりはまだましだ。

 いや、やはり一度、兵を引けばそこから陣は一気に崩壊を始めるのではないか。

 この時代の戦は「逃げ出したほうの負け」である。

 そもそも兵を集中して運用しているのは、兵がばらばらになって勝手に逃げたりしないように、という対策でもあるのだ。

 また、言葉や旗印、あるいは音などで兵を統率するためには、ある程度、近い距離に兵を集めている必要がある。

 もし兵たち全員が互いに自由にどんな遠距離でも意思疎通ができるという夢のような「魔法」があれば戦場はがらりとその様相を変えるだろうが、ネルサティア魔術を使う魔術伝令もその数はごく限られている。

 兵力の集中が解ければ、兵たちを拘束するものはなくなるのだ。

 そうなると、命惜しさに戦場から逃げ出すものが現れ始める。

 一人逃げ出せば二人、三人、とその数は次々に増えていき、軍勢はばらばらとなる。

 それが「負け」だ。

 すでにレクセリアは負けることを本気で考え始めていた。

 この戦に負ければ、ネルディという土地を失うことになる。

 いや、それだけなら冷酷なようだが、アルヴェイア王国全体のことを考えれば必要な犠牲といえるかもしれない。

 だが、ネルディをとられれば、次は王都メディルナスが狙われる。

 今回のアルヴェイア軍二万二千という兵力も、相当な無理をしてかき集めたものなのだ。

 もしガイナスが王都にまで軍勢を向けてきたら、次はどれだけの兵を集められるというのだろう。

 やはり駄目だ。

 ここで負けるわけにはいかない。

 だが、それならばどうする。

 眼前にいた魔術伝令たちの顔が、しだいに緊張と恐怖とにこわばっていくのがわかった。


「殿下……王国軍、ターヴィス千人隊長付きの魔術伝令の意識が途絶しました」


「レクセリア殿下……アヴァルス千人隊長付きの魔術伝令が……反応がありません。死亡したものと思われます」


 魔術伝令たちの言葉が、鋭い刃物のようにレクセリアの心に突き立てられた。

 駄目だ。

 南部諸侯との戦いで自分と戦ってくれた古参の王国軍の兵士たちは、もはや見捨てざるをえない。

 だがこのまま、負けるわけにはいかない。


(あとは……ゼルファナス軍と、スィーラヴァス軍の動きしだい、というところですか)


 なんとか冷静さを保とうと、レクセリアはゆっくりと深呼吸をした。

 大将が恐慌に陥れば、軍全体が軍として機能しなくなる。


「レクセリア殿下!」


 魔術伝令の、悲鳴じみた声が聞こえたのはそのときだった。


「ハルメス伯付きの魔術伝令より、敵部隊発見の一報あり! 数は……一万以上と思われます」


 ついにきた、とレクセリアは思った。

 谷の南を防ぐようにして、スィーラヴァス軍が現れたのだ。

 これからはレクセリア軍は、北のガイナス軍、そして南のスィーラヴァス軍の二正面で戦わねばならなくなったのである。



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