8 変転

 敵軍の動きは、こちらの予想通りだった。

 ゼルファナスは革袋に入れた水で唇を湿すと、本陣から対面するスィーラヴァス軍の動静を見つめていた。

 諸侯たちには勝手に動くなと厳命してある。

 彼らも心得たもので、ゼルファナスの真意をくみ取っているようだった。

 貴族には貴族のやり方というものがある。


(さて、私は卑怯者かな)


 ゼルファナスは、少女のような美貌にくすりと笑みを浮かべた。

 スィーラヴァスとはすでに密約を交わしてある。

 いや、厳密にいえば約定を交わしたというわけではない。

 単に互いに無駄に兵力を損耗しないようにとほのめかしただけだ。

 すでにガイナスはこのことを知っているだろう。

 そしてレクセリアもおそらくは、こちらの真意に気づいているはずだ。

 本陣にひかえていた魔術伝令が、ついとゼルファナスにむかって近づいてきた。


「閣下。レクセリア殿下の軍は、現在、ガイナス軍と交戦中なれど、王国軍三千が前進しすぎて、孤立しかけているそうです」


「ほう」


 さすがにそれは素晴らしい、などという本音をゼルファナスは言わなかった。

 王国軍は、王国全土から徴用された兵からなる王家の常備軍のようなものだ。

 彼らが失われるということは、これからゼルファナスが戦うことになるあらたな戦いにおいての、「敵」が弱体化することを意味するのである。

 とはいえこの戦、レクセリア軍があまりに大敗を喫してもらっても困るのだ。

 一番良いのは、レクセリア軍とガイナス軍が互いに力ずくで敵兵力を削りあい、ほぼ引き分けに近い状況のまま戦況が推移してくれることだ。

 そうなれば、ゼルファナスは頃合いを見計らってガイナス軍の北方にまわりこみ、敵軍を撃滅できる。

 むろん、レクセリア軍はスィーラヴァス軍が勝手に掃討してくれるだろう。

 いまのところ、戦況はゼルファナスの予想通り、そして望んだ通りに進んでいる。

 この戦でガイナス軍とレクセリア軍は互いにつぶし合ってくれればいいのだ。

 そしておいしいところをゼルファナスとスィーラヴァスがいただく。

 ただ、問題なのはレクセリアの身柄だった。

 ゼルファナスが自らの目的を達成するには、彼女にはまだ生きていてもらわねばならない。

 スィーラヴァスもレクセリアをむやみに殺したりすることはないだろうが……なにしろ敵国の王女となればそれだけで莫大な身代金がとれる……戦場では、突発的にどんな事故がおきるかもわからない。


「まだまだ、戦は始まったばかりだということか」


 ゼルファナスが一人ごちた。

 傍らに控えていた小姓のフィニスが、小さな声で言った。


「諸侯たちもみな、閣下の命令に従っているようですね」


「ああ」


 ゼルファナスは微笑した。


「彼らも、自分の騎士や兵の無駄遣いはしたくないだろうからね。ただ……」


 エルナス公は、ふと眉をひそめた。


「問題は、あの若者だ。ほら、リューンとかいう……」


 それを聞いて、フィニスが不快げに整った顔をしかめた。


「またあの男のことですか? なぜ、あんな一介の傭兵上がりの男を……」


「人間というのはだね、自分にないものをもとめるものだ」


 ゼルファナスは再び謎めいた笑みを浮かべた。


「しかし、彼の忍耐がどこまでもつかな……場合によっては、エルナス親衛隊が勝手に動いて、スィーラヴァス軍と戦端を開かざるを得ないかもしれない。なにしろ、あの男は待たされるのが嫌いそうじゃないか」


「でも、もしそんなことになったら……」


 フィニスの言葉に、エルナス公爵は言った。


「少なくとも、エルナス親衛隊は敵軍と交戦した、という事実は出来るね。そうなれば、後々、あのときゼルファナスは自軍を敵にむけたので戦をさけたわけではない、とそれなりに言い訳もたつ」


 驚いたような顔をして、フィニスがつぶやいた。


「閣下……まさか、最初からそこまで計算して……?」


「いや」


 ゼルファナスはかぶりを振った。


「別にそこまで考えているわけではない。フィニス、君は私がやることなすこと、いちいち裏があるとでも考えていそうだね」


「そのように思えますが」


 フィニスのどこか皮肉げな声に、ゼルファナスが苦笑した。


「まったく……私のような正直者は滅多にいないよ」


「そう思っておられるのはご本人だけかと思いますが」


 フィニスとゼルファナスの二人は、いわゆる特別な関係で結ばれている。

 もしこの会話を聞く者がいたら、「やはりあのフィニスという小姓がゼルファナスの男ウォイヤの相手だ」とでも思うだろう。

 だが、それは真実の一部にすぎない。

 ゼルファナスとフィニスという小姓……より正確にいえばそれは偽装なのだが……の二人は、また別種の関係で結ばれているのである。

 そしてその秘密を知る者は、ほとんどいない。

 黒い雲が驚くべき速度でいままで晴れていた空を覆い隠していく。山の天気は変わりやすいというが、どうやらそろそろ嵐が近づいているらしい。


「雨中に行軍をすると、手間がかかるな……それに、リューンもそろそろ、忍耐の限界だろう」


 そう言って笑うと、ゼルファナスは魔術伝令によって全軍に命じた。


「これより我が軍は、ヴォルテミス渓谷の北方に迂回し、ガイナス軍の後背より攻撃をかける。全軍、速やかに移動すべし」


 かくて戦局は、新たな段階を迎えつつあった。

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