7 苛立ち
ゼルファナス軍とスィーラヴァス軍が向かい合ってからというもの、すでに一刻(二時間)が経過していた。
ゼルファナス軍は南西に、スィーラヴァス軍は北東に陣取ったまま、互いになかなか動こうとはしないのだ。
数からいえばゼルファナス軍は、スィーラヴァス軍に対して圧倒的に劣勢である。
その兵力差は倍近いのだ。
「ま、それを理由にしてこちらからはうかつにしかけられないとかなんとか、エルナスの殿様が考えている言い訳はそんなとこだろうな」
カグラーンがにやりと笑うと、革袋に入れていた薬草茶に口をつけた。
この薬草茶は彼ら兄弟の母親が調合したもので、カグラーンはいまだにありがたがって機会があれば飲んでいる。
「けっ」
リューンは、派手に舌打ちした。
「カグラーン……おまえの読みが、あたったってわけか」
ゼルファナス軍、スィーラヴァス軍ともに互いの様子をうかがうだけで積極的な戦闘には及ばない。
それがカグラーンの予想だった。
その予測は完全に的中している。
ゼルファナス軍に属している諸侯は、アルヴェイア王国でも有数の大貴族ばかりである。
彼らは自分の配下の騎士や兵卒を減らすのをいやがっているのだ。
ナイアス候、ウナス伯、ネス伯……だれもがゼルファナスに進言できる立場でありながら、動いた様子はなかった。
ただ、さきほどまではかんかんに照りつけていた太陽が、黒い雲に覆われつつある。
どうやら、嵐が近づいているらしい。
嵐は、リューンにとっては吉兆である。
となれば、雨が降り出せばあるいは戦況も動き、戦が始められるのではないか。
だが、ゼルファナス軍もスィーラヴァス軍も、ある程度の距離を保ったまま、依然、動こうとはしない。
(ちっ……まったく、こんな戦、戦じゃねえな)
それに比べて、東のヴォルテミス渓谷ではすでにかなり激しい戦闘が行われているらしい。
だいぶ前にとんでもない爆発音のようなものが聞こえてからというもの、鬨の声や剣戟の音が風に乗って聞こえてくる。
「くそっ……」
リューンは、ぎりっと歯を噛みしめた。
いまの彼は、かつてのような傭兵団の団長ではない。
エルナス公の常設兵団、エルナス親衛隊の隊長という地位にあるのだ。
ここで勝手に動くわけにはいかない。
「つまんねえな……一体、いつまでこうしていろっていうんだ」
わずか数百エフテ向こうでは、赤い軍装に身を包んだスィーラヴァス軍が槍を並べて対峙しているのである。
戦場にいるときの常で、リューンは敵方をにらみつけるようにしていた。
だが、こうも長く待たされていると、その気力も尽きてしまいそうだ。
実際、奇妙な戦場だった。
ときおり思い出したようにぱらぱらと矢が交わされることがあるが、両軍ともになれ合いのような感じで、いっこうに緊迫感というものがない。
こんなふざけた戦場は、リューンにとっては初めてである。
「やってられるか」
リューンはいらだって、左手に右の拳を打ちつけた。
ぱん、という乾いた音が鳴る。
「で……でも、楽でいいんだな」
肥満漢のクルールが、のんきな口調で言った。
「これならば、きょ、きょ、今日は戦わずにすみそうなんだな。このままでも給金がもらえるから、得なんだな」
クルールの言っていることも、間違ってはいない。
しかもその給金は、定期的に与えられるだけに傭兵の稼ぎよりよほどいい。
傭兵の場合、戦のときは稼げるが平和時には収入がないのだ。
(でも……こんなんじゃ、なんていうか、なまっちまう)
兵士もそうだが、なによりリューンの心が、である。
「兄者」
低い声で、カグラーンが言った。
「これも戦だぞ。兄者の好きな戦とはちょっと違うがね」
「わかってるよ」
リューンは暗い目をして言った。
そう、これもある意味では戦なのだ。
現在、ガイナス軍とレクセリア軍はヴォルテミス渓谷で死闘を演じているだろう。
もしガイナス軍が潰走を始めれば、渓谷の北を塞いでガイナス軍の兵たちを撃滅する。
スィーラヴァス軍も、もしレクセリア軍が劣勢となれば谷の南に移動して、同じことをするだろう。
そういう意味では、いまの両軍は互いに牽制しあっているともいえる。
うかつに動けば、陣形を崩したほうに敵が襲いかかってくる。
いや……それはやはり、言い訳だ。
ゼルファナスもスィーラヴァスも「友軍」の力が衰えることを望んでいるのだ。
長期的にみれば、それが彼らの利益となるのである。
(汚い戦だな……)
東の谷から、戦の喚声が風にのって聞こえてくる。
それなのに、自分はいつまでたっても動けないのだ。
ただじりじりと、時間だけが過ぎていく。
長い。
ひどく時間の流れが、リューンにはゆるやかに感じられた。
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