第三章 爆炎

1 夜明け


 東の空から曙光があたりにさし込み始めていた。

 今日も、ネルディはどうやら晴れることになりそうだ。

 天幕の外で青い空を眺めながら、とりあえずレクセリアは安堵の吐息をついた。

 例の策を実施するにあたって、一番、不安だったのは他ならぬ今日の天候だったのだ。

 もし雨ともなれば、レクセリアの仕掛けは見事に失敗する。

 彼女の策は、晴れて大気が乾いた状況でなければ意味がなかったのだ。

 王女に胸のあたりに余裕をもたせた、特製の女性用の鎖帷子を着せながらヴィオスが言った。


「しかしながら、山の天気は変わりやすいともいいます。ネルディは東に北アリッドの山々が連なる山岳地。昼になって、突如、嵐に見舞われるということもあるとか」


「それが事実だとすれば、面倒なことになりそうですね」


 レクセリアは籠手をはめると、腰に長剣の鞘をさした。

 もうこうして武具や鎧を身につけるのは、すっかり慣れっこになっている。

 いつものように簡単な朝食を済ませると、レクセリアはレクセリア軍の諸侯を呼び集め、これまたいつものように軍議を催した。

 ただし、軍議でも彼女は自らの策について説明を行わず、ただ各自がなすべきことを伝えた。

 実際のところ、レクセリアは天候の次に情報漏洩をおそれていたのだ。

 自らの意志を瞬時に遠距離に伝達する魔術が存在するため、理屈としては軍議で話した内容が間諜の魔術師を通じてガイナス軍の軍議の場にそっくり送られる、ということもありうるのだ。

 レクセリアが慎重になるのも当然といえば当然のことだった。

 だが、大将の真意を聞かせてもらえず、将兵や諸侯が不満や不安を抱くのも、また当然のことである。

 レクセリアは王家に連なる身ではあるとはいえ、所詮、まだ十五の少女である。

 確かにかつては南部諸侯を見事に撃滅させてみせたが、あれは言うなればまぐれではないのか。

 麾下の将兵のなかに、そうした思いを抱く者がいないといえば嘘になる。

 実際、このヴォルテミス渓谷の南部に布陣した時点で、兵士たちのなかにはこれでは逃げ場がなくなると不安げな声を漏らした者たちも少なくなかったのだ。

 さらにいえば、ガイナス軍の騎士と戦うのは、なんと同じ騎士ではなく王国軍歩兵であるという。

 確かに諸侯軍の引き連れてきた練度の低い歩兵に対し、王国軍の精鋭三千はそれなりに戦闘経験のある者ばかりだが、騎士の突撃に歩兵を当たらせるというのは、戦の常道とはとてもいえない。

 一応、敵方にむかって斜めにつきだした木の杭を埋め込んだりしてそれなりに騎士の突撃に対する対策はとってあるが、それでも歩兵が騎士と対峙するのは圧倒的に不利であることには変わりない。

 重装騎兵の突撃は、敵陣に壊滅的な破壊を生み出すのだ。

 にも拘らず、レクセリアは妙なことを歩兵を預かる王国軍の千人隊長たちに告げたのだった。


「ことと次第によっては、騎士の突撃は起きないかもしれません。それよりむしろ、火に対する備えをおこたらぬようにしてください。『昨日、使った砂』は綺麗に落とし、別の砂を新たに用意していざというときに備えてください。それと、今度の戦ではおそらく、いままで誰もが経験したことのないような現象が発生します。なにが起きても、兵たちが浮き足立つことがないよう、統率をしっかりお願いします」


 レクセリアの指示は、奇怪としか言いようがなかった。

 戦の常識として、グラワリアは緒戦で騎士を突撃させてくるはずだ。

 にもかかわらず、それは起きないかもしれないという。

 火に対する対策うんぬんというのは、おそらくグラワリア軍が抱えている火を生み出す神の僧侶への対策だろうが『いままで誰もが経験したことのないような現象』とはいったい、なんなのか。

 さらにレクセリアは、南部諸侯を中心とした、騎士たちを率いる諸侯たちを、昨日、ネルトゥスに漏らした通り、谷間の南側に向けた。


「あなたがたは、万一、ゼルファナス軍をやり過ごしてスィーラヴァス軍が来襲してきたときのための備えとなります」


 それを聞いて、内心、ひやりとしたものを感じた諸侯も多かっただろう。

 彼らも諸侯として、ゼルファナス軍に参加している貴族たちが無駄な戦で自分たちの兵を減らしたくないと考えていることくらいは理解できる。

 とはいえ、レクセリア軍に加わっている諸侯は、本来であれば反逆者である南部諸侯がかなりの数を占めていた。

 彼らは自分たちがここで活躍しなければいつまでたっても「反逆者」の汚名を雪げないことを理解している。

 いよいよ戦を控えて、ヴォルテミス渓谷南部に陣取ったレクセリア軍にはびりびりと緊張した空気が走っていた。

 あちこちで騎士たちが参集し、騎士の守護神たるイシュリナスの僧侶から加護法力を授かっている。

 武器の威力を高めたり、あるいは盾のように神の加護が身を守ってくれるこの類の法力を使う戦術は、この時代のセルナーダでは常識とも言ってよかった。

 他にも傭兵たちなどの間にいる傭兵の守護神キリコの僧侶も、法力を唱えている。

 練度の低い部隊では限られた神の加護を巡って諍いが起きることもあるが、レクセリアに率いられたこの軍勢ではそうしたことはほとんど起きなかった。

 レクセリアの将としての資質に疑問を抱く者がいる一方で、彼女のことをまるで女神かなにかのように崇拝する者たちも、決して少なくはなかったのである。


「なにしろ前の戦だって、レクセリア殿下のおかげで俺たちは勝てたんだ。あのお方は、ただの王家の姫君じゃない。きっと、アルヴェイアの現状を哀れんだソラリス神が使わされた救世主よ」


 かと思えば、同じレクセリア軍でもかつては敵だった南部諸侯軍に属する兵卒は、まったく別の理由でやはりレクセリアを一種、畏怖していた。


「ふつうならあの戦は、どう考えても俺たちが勝っていたはずだ……でも、あの『アルヴェイアの戦姫』は、戦況をあっさり逆転させちまった……あのお人はただの王女じゃない。なにか神が憑いているんだ。そうでなきゃ、十五の小娘が一軍を率いて戦になんか勝てるものか! きっと、今度の戦だって俺たちが勝つ……そうに、決まっている」


 戦では、それを率いる指揮官の質と人格とが重要になることが多い。

 その軍の色とでもいうか、気風というものが大将によって決められてしまうのである。

 たとえば彼らがこれから戦うことになるガイナス軍は、ガイナス王同様、いつしか覇気にあふれ、小細工を好まず、力にまかせた戦をする兵士の集団となっていた。

 それに対しレクセリア軍はいつのまにやら、「あの王女様なら、きっとなんとかしてくれる」という祈りにも似た思いからなる、まるでなにかの神を信仰する小集団と化している。

 とはいえ、その崇拝対象である「女神」レクセリアは、いまだ実際には十五の少女にすぎないのだ。

 鎖帷子をまとい、兜をかぶり、いかにも麗々しく武ばった軍装に身を包みながらも、異形のトカゲの民たちの近衛兵に守られた本陣に陣取ったレクセリアは、内心、激しい恐怖と戦っていた。


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