7 笑うガイナス

 アルヴェイア軍は迅速に行動を開始した。

 彼らが向かったのは、ヴォルテミス渓谷と呼ばれる谷間である。

 名前の由来は知られていないが、この渓谷にはかつては河が流れていたらしい。

 その水が周囲の大地を削って、いまのような谷となったのだった。

 谷の幅は一千エフテ(約三百メートル)ほどで、南北に四イレム(約六キロ)ほどのびている。

 左右は急峻な断崖となっており、その高さは百エフテ(約三十メートル)ほどだった。

 斥候の報告によれば、アルヴェイア軍のうちレクセリア軍は谷の南部に軍を進め、陣を敷き始めているらしい。


「ふん。なるほど、レクセリアとかいう小娘……ただの幸運でアルヴェイアの反逆者どもを討ち取ったわけではない、というわけか」


 グラワリア第二十四代国王ガイナス一世は、その精悍な顔に獰猛な笑みを浮かべた。

 見る者を引きつけずにはおかない、一種独特の覇気と霊気を放つ男である。

 今年で二十七になるまだ若い王ではあったが、その堂々たる風格はとうてい、まだ即位して五年にしかならぬとも思えない。

 まさに「王」……あるいは「覇王」という概念を、そのまま人物にしたかのような男だった。

 いかつい、ごつい岩から削りだしたかのような顔だちは美男とはいえないが、男性的な魅力を漂わせている。

 瞳は青く、高温の炎を連想させた。

 そしてなにより、彼の額の上で赤き炎の如き豊かな髪が燃えさかっているようにも見える。

 グラワリアの国家の色である、赤の軍装に身を包んだガイナス軍は幾つもの偵騎を放ったまま、南にむかって行軍を続けていた。

 その後背にスィーラヴァス軍が追いかけてくるという、正直に言ってガイナスにとって愉快とはいえない状況である。

 なるほど、レクセリアというのはいかにも女らしく、こざかしい手を使ってくる。

 スィーラヴァスの身近に潜り込ませた間者からの報告を聞いたときには、そう思った。

 レクセリアは自分とスィーラヴァスの不仲、というよりはほとんど宿敵ともいってよい関係を利用し、両者の一時的な同盟を崩そうとしてきた。

 なんとレクセリア軍がガイナス軍と戦闘を続けている際、スィーラヴァス軍が後背を衝いてくるようにと勧めてきたのである。

 しかも土産は、レクセリア自身の妹、ネシェリアとの縁談ときた。

 スィーラヴァスからすれば、こちらを撃つ絶好の機会である。

 だが、この密約に対し、スィーラヴァスはあくまで冷静に取り合ったらしかった。

 あくまで自分はガイナス王の弟として、グラワリア軍の一軍を率いている。

 王に背くような真似は出来ぬ、としてレクセリアからの密使を追い返したのだ。

 それが下らぬ演技であることをガイナスは知悉していた。

 なにしろ五年もの間、グラワリアの覇権をかけて相争ってきた弟なのである。

 スィーラヴァスは後にことが公になった際、問題にならぬような発言をしたにすぎない。

 本音をいえば、弟は間違いなく自分の首を後ろから狙っているだろう。

 もしレクセリア軍との戦況が不利になれば、ここぞとばかりにあの男は牙をむきだしにしてくるに違いない。

 そもそも今回のネルディ侵攻には、ガイナスの周りの者はこぞって反対したものだった。

 実際、ガイナスも当初はこのような形でネルディに入るつもりはなかったのである。

 すべては、あのレクセリアという小娘のせいだった。

 先日の南部諸侯の乱で戦ったラシェンズ候ドロウズは、言うまでもなくグラワリアの……ガイナスの息がかかっていたのだ。

 なにしろドロウズの妻はガイナスの従姉妹である。

 頼りないアルヴェイア王家に対し、ドロウズが野心を抱くようにガイナスは従姉妹を通じてさまざまな働きかけを行った。

 そしてついに、南部諸侯が決起したのだ。

 予定ではアルヴェイア王家の軍は、南部諸侯軍に完敗とまではいかぬまでもメディルナス近郊まで押される予定だった。

 そこに機をあわせて、ガイナス率いるグラワリア軍がネルディに侵攻するはずだったのだ。

 そうなれば、当然のことながらアルヴェイアはこちらに兵力をさく余力はない。

 王都近郊にまで迫ったドロウズ軍が王都を包囲し、アルヴェイア国王ウィクセリス六世の退位を迫る。

 その間、ネルディに侵攻したガイナス軍の存在はアルヴェイア王にとっては精神的な重圧となるはずだ。

 最終的に、ウィクセリスは退位し、ドロウズ候の息子をガイナスの息のかかったアルヴェイア国内の貴族によって王に推挙させる。

 そして新王はガイナス軍と和睦を結び、ネルディ、さらには南のフィンディまで割譲させる。

 それが本来の戦の構想だったのだ。

 グラワリア国内はガイナス派とスィーラヴァス派とに二分され、不毛な内乱が続いている。

 このままでは、グラワリアは国力を疲弊させていくだけだ。

 だが、ガイナスのさきほどの策が成功すればグラワリアは一気に領土を拡張し、さらには新アルヴェイア王は親グラワリア派の人間となるはずだったのだ。

 そうなればいままで拮抗していたスィーラヴァスとの力関係も変わってくる。

 ネルディを手に入れ、アルヴェイアという後ろ盾をえたガイナスはそこで本格的にスィーラヴァス派をたたきつぶすつもりだった。

 その予定は見事に狂わされた。

 それもたった一人の、まだ十五の小娘のために、である。

 グラワリアの王宮、紅蓮宮でその報告を聞いたときには、ガイナスは玉座で笑った。

 自らの構想が見事に潰えてしまったというのに、ひたすらに笑い続けた。

 愉快だったのだ。

 やはり、宿命の女神ファルミーナ女神が己に与えた運命はそう甘いものではないらしい、と改めて実感できた。

 そしてセルナーダの政治の表舞台に突如、彗星の如くいままでまったく目立つことのなかった一人の王女が現れた、ということが奇妙に愉しく感じられた。

 スィーラヴァスも、ガイナスにとっては強敵である。

 だが、スィーラヴァスの「強さ」というのはガイナスのそれとは質が違い、なんというか水のようにとらえどころのないものだ。

 それは経済や各種の謀略といったものからなる強さで、戦で雌雄を決する、といった類のわかりやすい強さではない。

 事実、ガイナスは軍事面ではスィーラヴァスに何度も勝利を収めているが、その後の戦後処理やさまざまな経済政策などで、結局、おくれをとっている。

 だが、レクセリアという王女は違う。

 アルヴェイアの戦姫などとも呼ばれているらしい。

 果たしてこの王女がどれほどの「強敵」となるものか。

 レクセリアの出現は、言うなれば喧嘩の強さを誇る子供が、自分より強いかもしれない敵が現れたときに感じるような類の喜びをガイナスにもたらしたのだ。

 そもそも、ガイナスは戦が好きだ。

 そうした意味では、自分は名君といえるような王ではないのだろう、とは思う。

 戦場にいるときだけが、生きていることを実感できる。

 流血が、剣戟が、そしてなにより焼かれる街の炎とがガイナスの心をどんな美酒よりも酔わせてくれるのである。


「谷間に布陣するとは……つまりは、こちらの数の有利を封じるつもりでしょうか」


 ガイナスの傍らで徒で歩いていた若い女が、額にしわを刻むようにしてなにやら考え込んでいた。

 美しい女である。

 年は二十三、四といったところだろうか。

 鍛え上げられた全身は鞭のようにしなやかで、肌はグラワリアの陽光に赤褐色に日焼けしている。

 瞳は稲妻の輝きのように青く、豪奢な金色の巻き毛を肩のあたりにまで垂らしていた。

 全身を硬式の革鎧でよろい、その手には稲妻の文様が彫り込まれた、ランサール教団特有の「雷槍」が握られている。

 彼女こそはランサール雷槍団の「槍頭」、つまりは隊長を務めるメルセナだった。

 かつてはランサール教団は、ガイナス王の強権的な政治を嫌い、王権に反発していた。

 だが、いろいろとごたごたがあったあげく、ガイナスはついにランサール教団を自らに従えさせたのだ。

 だが、それにはメルセナの存在が深く関わっている。

 彼女は稲妻を司るランサール女神より神託を受けたのである。

 ガイナスこそが「グラワリアの嵐の王」となる存在であり、ランサール雷槍団はガイナスのもとで彼を「嵐の王」とすべく務めるべし、と。

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