9 闇色の瞳

(戦場で俺もずいぶんといろんな奴の目を見てきたが……あのエルナス公の目は、なんていうか、まともじゃない)


 神聖な光をたたえているようにも、逆に底なしの深淵をのぞき込んでいるよにも思えるあの瞳の持ち主は、いままでリューンが出逢ったことのない種類の人間だった。


(ただ殺気だった奴ならば、他にも戦場にも何人もいた。高貴っていえば、あのレクセリアのお姫様のほうがたぶん上だ。でも、あのゼルファナスって奴の目は……)


 そのときだった。

 彼らを先導していたエルナス公家の騎士が、一つの扉の前で立ち止まった。


「このなかに閣下はおられる。わかってはいると思うが、くれぐれもご無礼のないように、な」


 騎士はそう言うと、扉を手で三度、叩いて告げた。


「雷鳴団の団長リューン殿、ならびに副団長のカグラーン殿をお連れいたしました」


 数瞬の間を置いて、黒檀で作られたらしい、豪華な装飾の施された扉が、内側から開かれる。

 傍らには、小姓が控えていた。

 彼が扉を開けたらしい。

 リューンはがらにもなくかすかな緊張を感じながら、部屋のなかに足を踏み入れた。

 かなり大きな部屋である。

 この部屋一室だけで、黒狼亭の食堂ぶんくらいの広さはあるだろう。

 極めて高価な硝子窓から、室内に午後の陽光が射し込んでいる。

 窓の外は庭園になっているらしく、硝子窓を透かして木々や花々の姿が見えた。

 広間の中央には小さな卓が置かれ、その周囲に椅子が並んでいる。

 一人の若者が、ゆったりと椅子に腰掛けたまま、こちらに目を向けてきた。

 その途端に、リューンの全身に震えのようなものが走った。


(これだ……この目だ)


 ゼルファナスの黒い瞳には、底知れぬ輝きがたたえられていた。

 見る者を呪縛するなにかが、確かにエルナス公の瞳には秘められている。

 ある種の魔眼の持ち主、といってもよいだろう。

 だが、それは決して不快な感覚ではない。

 あるいはそれゆえに、彼の瞳は恐ろしいのかもしれない。

 あまり長い見つめていると、そのまま心を奪われてしまうのではないかと思えるのに、その感覚は奇妙に快くさえ感じられるのだ。

 エルナス公の闇色の瞳は、人を魅了して中毒にさせる麻薬のような、ほとんど魔力めいた力さえ持っているように思える。


「先日は、あなたのおかげで助かりました」


 ゼルファナスは淡い笑みを浮かべると、丁寧な口調でそう言った。


「あなたが『雷鳴団』を率いている団長、リューン殿に間違いありませんね?」


 柔らかな声音でそう問われて、リューンはうなずいた。

 闇色の目を見つめていると、自然と頭がくらくらしてくる。

 本能的に、リューンは相手の目からこちらの目をわずかにそらせると、ぶっきらぼうな口調で言った。


「おっしゃる通り、俺がリューンです。で、俺のよこにいるこのちっこいのは、弟のカグラーン。ま、よろしく頼みます」


「お、おい」


 カグラーンがあわてたように言った。


「兄者、相手はエルナス公閣下だぞ。そんな……」


「良いのですよ」


 ゼルファナスは少女のような面に微笑を浮かべたまま言った。


「ひょっとしたら、リューン殿に助けられていなければ私は今頃、死んでいたかもしれない。今日は、どうしてもその礼がしたかったのが一つ……そして、もう一つは……」


 ゼルファナスは妖しい光を帯びた目を細めた。


「リューン殿にカグラーン殿。あなたがたは雷鳴団という傭兵団を率いている。しかし、傭兵というのはなかなかその……不安定な立場です。なにしろ戦場を巡るたびに雇い主が替わるのだから。そこでさっそくですが、あなた方に提案したいことがあります」


 エルナス公は、二人に着席するように身振りで勧めながら言った。


「私もエルナス公爵として、何人もの騎士を抱えているし、いざとなれば領民を徴兵することもあります。ですが、領民たちは戦時でもない限りは普通の生活を送っているので、訓練された兵士とは言い難い。それに、騎士は確かに有力な戦力ではありますが、絶対的な数が少ない……」


 そこで、なにかに気づいたようにゼルファナスが苦笑した。


「おっと……本題に入る前に、客人にジョナ茶の一杯も差し出さねば礼を失するというものですね。フィニス、リューンどのたちによく冷えたジョナ茶を」


 エルナス公が手を叩くと、椅子に座ったリューンたちのもとに、ついと一人の少年が近づいてきた。

 年の頃は十三、四というところだろうか。

 黒髪と黒い瞳を持つ、ぬけるように白い肌の少年である。

 涼しげな目元が印象的な、なかなかの美少年だった。

 どうやら、エルナス公の世話をしている小姓らしい。

 美しいことは美しいのだが、奇妙にうつろな感じがした。

 うまくいえないが、生気のようなものがあまり感じられないのだ。

 人間というよりは、どこかつくりものめいて見える。


「どうぞ」


 黒髪の少年は銀製の盆に載せていた冷たいジョナ茶の碗を、二人の前に置いた。

 ジョナ茶の碗は白磁でできており、おそらくは北方大陸から輸入した恐ろしく値の張るものだろう。

 普通、ジョナ茶は暖めて飲むものだが、いまのようなそろそろ夏になろうかという季節には、氷で冷やしたものを飲むこともある。

 ただ、言うまでもなく暑い時期の氷は非常に高価なため、この季節はよほどの金持ちか貴族でもなければよく冷えたジョナ茶を呑むことはできない。


「こりゃどうも」


 とうなずきながら、リューンはずずずと音をたててジョナ茶を口にした。

 礼儀もへったくれもないが、ゼルファナスはそれで特に気分を害した様子も見せなかった。

 ふと、リューンが妙な匂いに気づいたのはそのときだった。

 あのフィニスという小姓か、あるいはゼルファナス自身が発しているのか、甘ったるいような臭気がリューンの鼻腔をかすかに刺激したのだ。

 どこかで嗅いだことのあるような香りだが、いったいそれがどんなものかどうしても思い出せない。


「なにか?」


 リューンは首を横に振った。


「いや、なんでもないですが……ええと、エルナスの殿様」


「ゼルファナスで、結構ですよ」


 とエルナス公は言ったが、さすがにリューンも王国一の大貴族を呼び捨てにするほど馬鹿ではなかった。


「じゃあ……ゼルファナス卿、これならいいかな。で、さっきの話の続きだけど、要するにあんたは一般から徴募した兵士や騎士以外に、自由に使える兵隊が欲しい、そういうことですか?」


 ゼルファナスがうなずいた。


「お察しの通り。私の予想では……これから、アルヴェイアはしばらく、荒れると思います。おそらくは、しばらくは戦乱の時期が続くでしょう」


 エルナス公がそう言った途端、さしものリューンも部屋の気温が下がったような錯覚に捕らわれた。

 なにしろ王国一の貴族、王家に匹敵する力を持つとさえいわれるエルナス公爵家の当主が、これから王国のなかで戦が起こると言っているのだ。

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