12 教育係
歴史や文学に始まって、軍事や帝王学に至るまで、いまのレクセリアがあるのはヴィオスのおかげといっていい。
ヴィオス自身、レクセリアをよく出来た「弟子」だと認めているだろう。
二人の関係は、かなり奇妙なものである。
ある意味ではレクセリアはこの王宮で血をわけた肉親である他の王族よりも、誰よりもヴィオスのことを信用していた。
なにしろ相手は宦官なので父と娘、あるいは母と娘といった一般的な肉親との関係では表現しづらいが、それでも単なる教師と生徒、あるいは主と侍従を超えたなにか特別な絆めいたものすらレクセリアは感じている。
そもそもヴィオスの教育がなければ、あるいはレクセリアもいまのような王女には育っていなかったかもしれない。
この時代のセルナーダでは、宦官はきわめて珍しい存在である。
ヴィオスは自ら進んで宦官となった。
宦官になれば王の後宮で働くことが出来る。そして後宮とは、権力の蠢く場所なのである。
どんなに卑しい生まれであっても、宦官となった者はさまざまな形で王国の国政に関わることになる。
それをヴィオスは望んだのだ。
事情をよく知る者のなかには、あるいはレクセリアはヴィオスの操り人形ではないかと勘ぐる者もいるかもしれない。
ヴィオスは王家の一員の教育をするために選ばれただけあって、単なる魔術師ではない。
むしろ水魔術師としての腕は、大したことはないのだ。
彼の本領は知識人である、という点にある。
あらゆる古典に通じ、歴史に通暁し、王国内の各諸侯それぞれの家系の入り組んだ関係を二百年以上にも遡って完全に把握している。
セルナーダ語と古代ネルサティア語……王宮政治や高等な文学、あるいはセルナーダの外交ではもっとも頻々に用いられる言語……はむろんのこと、セルナーダ先住民系の言語やシャラーン系の言葉まで自在に駆使できるのだ。
レクセリアは膨大な量の知識をヴィオスにたたき込まれた。
だが、それはただ頭に詰め込んだ、というものとは違う。
たとえば兄のシュルタテスなどとは異なり、レクセリアは知識そのものが持つ意味を直観的に把握し、それぞれの情報を結びつけて複雑な思考を行うことが出来た。
「いずれ殿下が王国を支える礎となる日がきましょう」
とかつてヴィオスは言っていたものだ。
その予言通り、まだ十五だというのに、彼女はその能力をいままさに開花させつつある。
ある意味では、レクセリアはヴィオスによって育てられたようなものだ。
その人格形成からして、ヴィオスの影響力ははかりしれない。
常に彼は言っていた。
「王国とは、本来は王のためのものではありません。王国は民のものです。貴族諸侯も王を補佐し、民の暮らしをよくするために存在しています。つまり、すべては民のためにあるのです」
それは、王を絶対者としてきたセルナーダの地にあって、異様とも言える思想だった。
王国のため、とレクセリアが言うときには、常に「民」のことが念頭にある。
ヴィオス譲りのこの思想は、ヴィオスが貧農の生まれであることとまったく無関係ではない。
彼は故郷では神童ともてはやされ、魔術神であるユリディン寺院での大賢者になるのではないかと噂されていたが、あえて自らの男性器を切除し、宦官になることを選んだ。
学者では、国政に携わることは出来ない。
だが宦官になれば、後宮の王妃や王女たちと接することで王国の政治そのものを動かすことが出来る。
ヴィオスの目的が権力でないことは、レクセリアが一番よく知っていた。
たとえば帝国期の頃などは、宦官が絶大な権力を握り国政を左右するなどということがあったのだが、いまのヴィオスにはそうして野心というか、生臭い野望のよなうものが感じられない。
「すべては王国のため」
というのがヴィオスの口癖だった。
なぜヴィオスが男性たることを捨ててまで、王国の政治をよくしようと志したのかは、レクセリアも知らない。
だが、彼の志のなかにある、ある種の崇高さは理解できた。
彼女の人物眼からすれば、ヴィオスの大志はたとえば成り上がったり、権力を得たりすることではない。
綺麗事ではなく、ただ王国をよりよい国にすることが、ヴィオス本人の歓びであり、ある意味では「野望」なのである。
かといって、ヴィオスが聖人君子などでないことは理解している。
彼は自分の目的……つまり王国を良くする……ためなら、どんな汚い手でも平気で使うだろう。
そもそも、レクセリアに教育を施したのも、自分の目的を達成するため、なのかもしれない。
だとすれば相当に気の長い話ではあるが。なにしろ十五年間、それこそゆりかごの中にいたときからヴィオスはレクセリアを教育してきたのだから。
(ヴィオスもやはり、変わり者ということなのでしょう)
だが、それは彼に教育をうけた自分も、似たようなものだ、とレクセリアは皮肉げに思った。
王女であればもっと王女らしい人生を愉しむことも出来るのかもしれないが、レクセリアにはそうした女性としての愉しみのようなものを享受する機能そのものが欠落しているかのようだ。
たとえば、男と恋をしたこともない。
いや、恋そのものの経験はあるし、それは今も心のなかで進行してはいるのだが……。
珍しくレクセリアが白い面をうっすらと赤く染めたそのときだった。
「そういえば、殿下……ご存じでしたか?」
ヴィオスがふと淡い笑みを浮かべると言った。
「最近では、メディルナスの民は殿下のことをアルヴェイアの戦姫とお呼びしていると」
「まあ」
侍女頭のメシェラが、怒ったような声をあげた。
「戦姫だなんて! なんてひどいことを言うのでしょう」
「そうでしょうか?」
レクセリアは微笑した。
「下々の者が私を戦姫と呼んでいることは国王陛下からも聞かされましたが、良い名ではないですか。アルヴェイアの戦姫……響きもなかなかに素敵ですし」
「なにしろ殿下は、フィーオン野の会戦で王国軍に見事な勝利をもたらしましたからな」
ヴィオスはそう言ったが、目では別のことを告げていた。
「わかっていますよ、ヴィオス。あなたの言いたいことは」
レクセリアは鏡に映った自分の姿を見つめながらつぶやいた。
「戦とはただ戦場でするものにあらず……明日からの諸侯会議は、それこそ大変なことになるでしょうね。王家はエルナス公に頼りつつも、相手につけ込まれぬようにしなければならない。もちろん、他の貴族諸侯とも同じ事。明日からが……」
アルヴェイアの戦姫は、銀と青の目をすっと細めると言った。
「真の長い戦の、始まりとなりましょう」
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