11 ヴィオス
「エルナス公閣下が不審な賊による襲撃をうけたそうです」
ヴィオスの言葉に、一瞬、レクセリアは全身を硬直させた。
眼前の巨大な鏡には、彼女の姿が映っている。
いまはシャラーン産の上等な絹の肌着、一枚という姿だったが、別にレクセリアは羞じらいなどは感じなかった。
いまこの部屋にいるのは、彼女のための衣装をみつくろっている女官たちと、ヴィオスだけである。
ヴィオスは、女ではないが男でもなかった。
でっぷりと太ったそのその姿は、一見した限りでは中年女に見えぬこともない。
いかにも明るい農家の女将さん、といったふうに見える。
だが、ヴィオスは女ではない。
彼は性器を切除した男性機能を失った、後宮での女性の世話をする存在である。
いわゆる宦官だ。
ヴィオスは青いローブに身を包んでいたが、これはアルヴェイアという国家の色を意味しているのではなく、彼のネルサティア魔術の術者としての流派を表している。
たいていの魔術師は、地水火風闇の五大元素のうち特にに一つの元素系統の技を極めるものだ。
青はこのうち、「水」を意味する色だった。
「で、エルナス公はご無事だったのでしょうね?」
レクセリアの問いに、ヴィオスはうなずいた。
「一応はご無事だということです。興味深いことに、ゼルファナス卿は危ういところを、傭兵に助けられたというとこですが……その傭兵、なんとあの、リューンヴァイスだそうですよ」
フィーオン野の戦では、ヴィオスも本営にいたのである。
当然、レクセリアがリューンによって助けられた顛末も知っていた。
「リューン……あの傭兵が、ですか」
これにはさすがにレクセリアも驚いた。
青と銀色のようにも見える灰色の瞳が、大きく見開かれる。
「しかし、リューンは傭兵だったはず。彼に助けられたということは、エルナス公はリューンたちと……なんと言いましたか、彼の率いていた傭兵団……」
「雷鳴団、ですな」
それを聞いて、レクセリアがうなずいた。
「そう、その雷鳴団を雇い入れていたのですか?」
「いえ、それが」
ヴィオスは咳払いをすると言った。
「私の知る限りでは、エルナス公が賊による襲撃を受けた際、たまたま沿道に居合わせたそうで」
「大した偶然ですね」
レクセリアが、すっと目を細めた。
「まさかとは思いますが……なにか、裏があるとか?」
「考えにくいですな」
ヴィオスはあっさりと主人の意見を否定した。
「もしなにかありうるとすれば、リューンなる傭兵が自らの名を売るために自作自演してみせた、という可能性がなきにしもあらずですが……」
思わずレクセリアは苦笑した。
「あの者は、そんな姑息で、下らない策を使うような者ではありません。で、賊のほうはどうしました?」
「ただいま、王立魔術院の術者たちによって、尋問をうけております。身柄のほうは、王国軍の兵士が確保しましたので」
しばし沈思黙考した後、レクセリアはうなずいた。
「それでよいでしょう。いまのところ、王家にはエルナス公を殺す理由もありませんし、彼も王家が暗殺者を送ったとは考えてはいないはずです」
「ですな」
ヴィオスは中年女性のような顔に、淡い笑みを浮かべた。
「むしろ殿下のお考え通りに王国の改革を進めていくのであれば、エルナス公がいまいなくなって一番困るのは殿下」
「まあ、従兄弟どのもそのことはよくわかっているはずです」
レクセリアの口調に、いささか苦いものが混じった。
人間として、レクセリアはゼルファナスのことを嫌っている。
彼の母は国王ウィクセリス六世の妹だから、二人は従兄弟同士ということになる。
だが、昔からレクセリアはあの美しすぎる従兄弟のことが苦手だった。
その点でも、やはりレクセリアは王家ではかなり異質な存在である。
現国王ウィクセリスを初めとして、王太子シュタルティスから王家の姉や妹たちまで、みながあの人とも思えぬ美貌を持つゼルファナスのことを慕っているのだ。
それがレクセリアには、率直にいって面白くない。
(みんなあの男の上っ面に騙されている)
確かに美男である。
学識が高く、為政者としても有能。剣の腕もかなりのものらしい。
いささか病弱なのが玉に瑕というところで、少なくとも大貴族たるにふさわしい人物に思える。
だが、レクセリアはゼルファナスという男から、そうした表向きの評判とは、また別のものを感じ取っていた。
王家とはエルナス公家は親しく親戚づきあいを続けており、幼少の頃から何度もあの男のことは見続けている。
(確かに、ゼルファナスは自分を飾るのがうまい。それに、どうすれば人の心を捕らえることができるかよくわかっている。でも、あの男は……)
心の奥底に、なにか危険なものを秘めている。
特にいまでも覚えているのは、あの冬の日の子猫のことだ……。
「殿下……殿下?」
ふいに背後から声をかけられて、レクセリアははっとなった。
「次はこのドレスに裾をお通し下さい」
片手に濃紺の絹地のドレスを持った女官が、まるで出来の悪い部下を叱りつける軍人のような顔でこちらを見ている。
「すみません……ちょっと、考え事をしていたので」
「まったく、政事など、殿方に任せておげはよろしいのですよ」
白髪まじりの髪をひっつめた女官が、厳しい声でそう言った。
名はメシェラといい、レクセリアが生まれたときからそばづきで世話をしている第二王女付き侍女頭である。
国王に進言するときでさえ臆することのないレクセリアではあるが、彼女にだけはどうにも頭があがらないのだ。
「まったく……殿下はこんなにお美しいというのに、戦だの税だの諸侯がどうだの、そんなことばかりおっしゃっては殿方の仕事に首を突っ込んでいる。よいですか。そもそも淑女たる者は……」
「もう結構です、メシェラ」
冗談ではなく、生まれてこの方、一千回は聞かされている言葉に、レクセリアは思わず吐息をついた。
メシェラの他に、何人もの女官たちが忙しく周囲を動き回っては、改めてドレスの大きさや色合いを確認して回っている。
なにしろ今夜は諸侯会議の前の王宮晩餐会もあるし、明日以降は本格的に会議が始まることになる。
レクセリアも王家の女性だけに、それなりの衣装をまとわなければならない。
いま行っているのは、そのための下準備だ。
我慢しなければならないと、理屈ではわかっている。
黄金の髪飾りに、大粒の青玉をあしらった銀製の腕輪、巨大な紅玉の首飾りといった、乙女であれば誰であれため息の一つもつきそうな装身具がレクセリア一人のために用意されていた。
だが、彼女にしてみれば衣装あわせなど拷問と変わらない。
(なんで世の中の女性というものは、こうしたものが好きなのだろう)
ほとんど素朴な疑問である。
自分が女性に生まれついたということが、レクセリアにはどうにも納得できない。
かといって、彼女は男になりたいといったような願望があるわけではなかった。
フィーオン野では軍勢を率いたが、あれは彼女自身がそうする必要があったからで、好きこのんでやっているわけではない。
いや、とレクセリアは思った。
少年のように剣や鎧、あるいは騎士といったものに憧れたことはない。
だが、軍を率いていたときの興奮は、なかなか悪くはなかった。
少なくともこうして人形のように、何着もドレスを着せられてはぬがされ、やたらと重い装身具で飾り立てられるよりは遙かににましというものだ。
(やはり男に生まれたほうが良かったのかしら)
もし男に生まれていれば、自分の才覚をいま以上に生かせていたはずだ。
第一王子シュタルティスに続く第二王子として王家を支える柱となれば、もっと万事がやりやすかったはずなのである。
(でも……そうなると、きっとお兄さまが黙っていない)
兄のシュタルティスは、政務をいままで宰相のカトゥレスに任せてきた。
今後はレクセリアにも補佐をしてほしい、と公言している。
だが、自分がもし男であれば、シュタルティスが自分を見る目はまた違ってきていたろう。
シュタルティスの目からすれば、所詮は相手はまだ十五の妹、つまりは女である。
だからこそ逆に、無邪気に頼ったりできるのだ。
もしレクセリアが男に生まれていたら、むしろ彼女が……いや、男だったら彼、か……政事に関わることを嫌っただろう。
兄はお人好しなようでいて、どこか猜疑心の強いところがある。
子供の頃から、兄の性格など知り抜いている。
(となると、お兄さまを味方につけるのがやはり一番かもしれない)
レクセリアは再び思考を巡らせた。
諸侯会議では、エルナス公が主導権を握るだろう。
手をこまねいていれば、エルナス公が実質的に王家を、そして王国を取り仕切るということもありうるのだ。
だが、それは危険だ、とレクセリアは思う。
雪の日のあの子猫のことを、彼女は忘れていない。
もしエルナス公が世間で言われているような、評判の良い人物であれば極端な話、彼に王国を任せるという手もあるのだ。
なにもそれこそ女だてらにと周囲に言われながら自分が政事の舞台に首を突っ込む必要はない。
しかし、それは危険なのだ。
ゼルファナスは、危うい。
危険人物、といってもいいほどだ。
確かに王家はエルナス公家の力を必要としているし、ある程度はその力に頼る必要がある。
だが、あの男に王国の全権を任せるわけにはいかない。
「しかし、エルナス公が襲われるとは……一体、裏にはどんな事情があるのでしょうな」
ぼそりと、ヴィオスが言った。
温厚そうな家庭の主婦めいた顔をしているが、その青い瞳にはその知性の高さをしめす、炯々たる眼光が宿っている。
この宦官魔術師は、レクセリアの教育係だった。
幼少の頃から、彼女はこの宦官にさまざまな物事を教えられてきたのだ。
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