10 暗殺
沿道の警備はそこそこ物々しいとはいえ、こうして建物の屋根に上がってまで人々が見物におしかけているのだ。
もしエルナス公爵の命を狙っているものからすれば、絶好の好機といえるかもしれない。
だが、かりに相手が暗殺者だとすれば、妙な点が幾つもある。
まず、あそこから飛び降りてエルナス公を襲撃したとしても、すぐにその場で男は周囲の兵士に取り押さえられるだろう。
たとえエルナス公をうまい具合に殺せたとしても、暗殺者本人の命がない。
だとすれば、あの男は死すらも覚悟しているということになるが。
(そのわりにはあんな殺気をぷんぷんさせるなんて……やっばり、素人もいいとこだ)
周囲の群衆は気づいていないようだが、リューンのように戦場で場数を踏んだ練達の傭兵からすれば、男は自分から「これからエルナス公を殺してやる」と言いふらしているようにも見える。
殺気を隠し仰せない暗殺者など二流どころか、そもそもそんな者は職業的暗殺者たりえない。
(ってことは、素人が思い詰めて、ってところか)
だが、なぜエルナス公は、男の恨みを買っているのか。
そんなことを考えているうちに、エルナス公を乗せた馬車はゆっくりとこちらに近づいてきた。
天蓋のついていない馬車に乗っているのは、周囲から自分の姿がよく見えるように、という公の政治的配慮だろう。
男ウォイヤ、という話はそれなりに知られているらしいが、エルナス公本人は王都メディルナスにあってもそれなりの人気者のようだ。
公自身も、その点をわきまえているらしく、まわりにむかって手をゆっくりと振っている。
「きゃあ……見て、エルナス公ご本人よ!」
ミシアがすぐ隣で黄色い声をあげていた。
大貴族というよりは、流行の芝居役者にでも対するような歓声をはりあげている。
「ゼルファナス様あああああ!」
だが、それはミシアに限ったことではなかった。
特に王都の女性たちは、それこそ子供から腰の曲がった老婆までがエルナス公におしみない歓声を投げかけている。
どうやら公の隣にも誰か座っているようだが、あるいはあれは護衛かなにかだろうか。
いずれにせよ、いまのリューンの注意はエルナス公を乗せた馬車ではなく、例の向かいの建物の屋根で思い詰めた様子で公を見つめている中年男のほうに向けられている。
さまざまな装飾の施された麗々しい馬車が、リューンたちの目の前を通り過ぎようとしたそのときだった。
「ゼルファナス! 覚悟しろ!」
中年男が懐から短剣を取り出すと、屋根の上から馬車にむかって跳躍した。
その瞬間、リューンも体を踊らせていた。
思い切り跳躍し、短剣を持った暗殺者にむかって飛びかかっていく。
ものすごい勢いで石畳が迫ってきたが、リューンは綺麗に着地をすると眼前でおたおたしている男にむかって、拳を繰り出した。
「!」
リューンの四肢は長く、その腕から放たれる一撃は凄まじい。
素手ではあったが、リューンのごつい岩のような拳は、男のあごのあたりを捕らえていた。
がつんという骨が砕けるような音とともに、男の体が背後の指物屋の石壁に叩きつけられる。
「兵隊ども! なにしてやがる! こいつは暗殺者だぞ!」
リューンの怒鳴り声を聞いて、そばに控えていた王国軍の兵があわてたように男を取り囲み始めた。
何人もの兵が、槍の石突きを使って男の腹を突き、あるいは脇腹を蹴って相手を無力化していく。
たちまちのうちに、男はその場に蹲った。
「娘の……娘の仇だ! ゼルファナス! 娘の……」
そう叫び声をあげるが、すぐに王国軍の兵にあごを蹴られて沈黙させられる。
口のあたりから派手に血を流したまま、男はひっくり返った蛙みたいに四肢をひくつかせていた。
「なんだ!」
「どうもゼルファナス様が暴漢に襲われたらしいぞ!」
「いや……エルナス公はご無事のようだが」
たちまちのうちにあたりが騒然とした空気に包まれる。
さきほどまでの歓声が、悲鳴と怒号に変わって王都に鳴り響いた。
「ちっ……まったく、この野郎、手間かけさせやがって」
そう言ったリューンにむかって、王国軍の兵士が兜の下から鋭い目をむけてきた。
「貴様……何者だ!」
リューンは体についた埃を払うと、王国軍の兵士を睨みつけた。
「俺か? 俺は、雷鳴団って傭兵団の団長、リューン様! だいたいお前ら、かりにも警護しているんなら、かかしみたいにつったってないでちゃんと怪しい奴がいないか、あたりにきっちり目配りしてろってんだ」
王国軍の兵士に悪態をついたリューンに向かって、背後から声をかけてくる者がいる。
「リューン……聞いた名だな。先日のフィーオン野の戦いで、ネルトゥス伯に襲われたレクセリア殿下をお助けしたというのは君のことか?」
「ああ、俺がそのリューンだが……」
振り返った瞬間、リューンは全身を硬直させた。
馬車の車高が高いうえに椅子を高くしているのか、車上の若者の姿は長身のリューンよりもさらに、頭一つほど高い位置にある。
(なんだ、こいつは……)
男を見た瞬間に息を呑んだことなど、後にも先にもリューンはこれ一度きりである。
(なんなんだ……この『生き物』は……)
世の中に美男美女はあまたいるが、所詮は人間ということで美しいといっても限度がある。
いくら絶世の美女といったところで相手は人間なのだ。
(だがこいつは……人間とも思えねえ……だとすれば、神々かなにかか?)
リューンはぽかんと口をあけたまま、なにかに憑かれたかのようにその男の顔を……エルナス公ゼルファナスを凝視し続けた。
完璧な美貌というものがもし存在しうるとしたら、こういう顔をいうのだろうとしか思えない。
あまりにも眉目が整いすぎているため、ゼルファナスはほとんど超自然の存在のようにも思えた。
その肌は雪花石膏にも見紛うような、あまりにもなめらかな白だ。
白銀のまっすぐな髪を肩のあたりにまで伸ばしているが、陽光を浴びてまるでイリアミス女神に仕える光翼天使のように、光の輪が頭を取り巻いているようにさえ見えた。
すっと通った鼻筋と小さな唇は、男というよりはむしろ少女のそれを思わせる。
匂い立つような色香とも、あるいは神聖さともいえるような香気めいたものを漂わせていた。
だが、なにより人の目を集めるのはその瞳である。
黒い、不可思議な輝きを宿らせたその瞳は、なにかの魔力でも持っているのではないかと思わせるほどだ。
明るい髪には闇の色の双眸という取り合わせは一見すると不似合いなようだが、その微妙なずれのようなものがかえって一種な異国的な魅力となっている。
聖なる輝きを放つ宝玉のような、それとも深淵のような……神々しいようにも、あるいは魔を孕んでいるようにも見えるゼルファナスのこの世のものとも思えぬ瞳を、リューンはそれこそ魅入られでもしたかように時がたつのも忘れて呆然と見つめていた。
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