4 エルナス公の噂

 雷鳴団の会計を、カグラーンは一手に握っている。

 なにしろ読み書きが出来るものすら雷鳴団にはほとんどいないのだ。

 契約の際の書類の確認やその他、細々とした事務手続きはすべてカグラーンの仕事である。


「言われなくたってわかってるよ……」


 リューンは、蛙みたいな顔をした弟の顔を見た。


「そんなことより、お前ももっと飲め。それとも……まさかまたいつものアレ、飲んでいるのか?」


 そう言われて、カグラーンはばつの悪そうな顔をした。


「な、なんだよ。あれは体にいいんだぞ。酒なんか呑んだって体をこわすだけだ」


 カグラーンは、彼らの母親が生前、独自に調合した薬草茶をいつも酒の替わりに飲んでいるのだ。


「お袋だって言っていたじゃねえか。酒ばかり呑むと馬鹿になるって」


「へっ」


 リューンは、ぐいと葡萄酒の瓶に口をつけると中身を喉に流し込んだ。

 もともと酒には異常なほどに強いたちなので、葡萄酒程度の酒精ではほろ酔い程度にしかならない。

 リューンにしてみれば麦酒などは水替わりである。


「お袋、お袋って……カグラーン、お前はいつもそうだ。あんな死んだ女のことをいつまでもぐちぐちと」


「な」


 途端に、カグラーンの顔が怒りのために真っ赤に染まった。


「またそうやって、お袋のことを悪く言うつもりか! 兄者のせいで、お袋はどれだけ苦労したか……」


「ああ、ああ、悪かったよ」


 リューンはすぐに矛先をおさめた。

 弟が死んだ母に対してほとんど信仰にも似た気持ちを抱いていることは、さすがに長いつきあいなのでよく知っている。


「だいたい、兄者はいつか王になるんだろ? こんなところで酒くらっていていいのか? もっと他にやることがあると思うけどな」


「わかったって言っているだろう」


 だんだんとリューンはいらいらしてきた。

 そこに、ミシアが目を丸くして割り込んでくる。


「ちょっと、ちょっと! あんたたち、いまなんかすごく面白いこと言ってなかった? 王になるとかなんとか」


「ああ」


 リューンはうなずいた。


「言ったよ。俺は、嵐の王になる。俺の目を見ろ」


 そう言って、リューンは真っ正面から赤毛の娼婦の顔を見つめた。


「見ての通り、俺の目は右が青で、左が銀色をしてる。これはな、ウォーザの目っていって、いずれ王になる者のしるしなんだよ」


「はあ?」


 ミシアが、きょとんした顔で言った。


「確かに珍しい目だけど、なんでそれで王になるというかいう話が出てくるのさ」


「そういう予言だかなんだかがあるんだよ! まったく、売女だけに学がねえな!」


「悪かったね!」


 今度はミシアのほうが怒り出した。


「どうせあたしは無学な売女ですよ! でもなんで、未来の王様が売女相手にこんなことろでくすぶってんのさ!」


「そりゃあ……」


 リューンはいつもの癖で、金色の豊かな蓬髪をいらいらとかきまわした。


「まだ、ええと、機が熟していないんだ! でもな、いまでこそこんなちっぽけな傭兵団の団長だが、今度の戦じゃ軍功だってたてたんだ! そのうち、見る者がみれば俺の実力を知って……」


 それか、とふいにリューンはいままで心の中で渦巻いていた不満の正体を理解した。

 レクセリア王女を助けることで、まだ遙か遠いとはいえ「王になる」ための階段を一歩、昇ったとばかり思っていたのだ。

 ところが実際には、リューンが手にいれたのは報奨金だけだった。

 それこそが、胸中の不満の正体だったのである。


(なにかが起きるはずだったんだけどなあ)


 まだリューンは若い。

 それに傭兵としての生活は嫌いではない。

 だが、それでも心のどこかで「このままでいいのか」という不安のようなものはあった。

 傭兵として活躍し、戦場で暴れ回る。

 酒をくらい、女を買い、博打を打つ。

 野放図な毎日は決して悪くはない。

 しかし、このままいけばいずれどこかの戦場でのたれ死にして、それきりになってしまうのではないか。


(俺が本当に王になるんなら……あのお姫様ともなにか縁があっても良かったはずなんだ。いや、実際、あんなふうに出逢うだけで十分に普通じゃない……)


 ある意味ではきわめて劇的な出会い、といっても良かったはずだ。

 しかし、その後にレクセリアとの間にはなにもなかった、というのがどうにも不満だったのである。


(そうだよ……王になるんなら……)


 具体的に自分がどのように王になるのか、リューンは全く考えていない。

 もともとが物事を深く考えるほうではないし、行動力は図抜けているがやることなすこと気まぐれだ。

 とりあえずカグラーンなどは「いまは傭兵として名を売っておくことだ」としか助言してくれない。

 考えてみれば、レクセリアほどの高貴な生まれの者に出逢ったのは先日のフィーオン野が初めてだったのである。


「くそっ……どうせなら、レクセリアってお姫様、俺の魅力でめろめろにしちまえば良かったんだ。それで結婚すれば、このアルヴェイアの王様にだってなれたかもしれねえ」


 それを聞いて、ミシアがけらけらと笑い声をあげた。


「馬鹿言わないでよ! あんたみたいな傭兵風情が、アルヴェイアの王女と結婚できるわけないじゃない! だいたい、レクセリア殿下はエルナス公あたりに嫁ぐんじゃないかって噂だし」


 さすがにリューンもエルナス公のことはおぼろげに知っていた。

 アルヴェイス河の河口に広大な領土を有するアルヴェイアきっての大貴族である。

 先日の戦を起こしたラシェンズ候よりも、貴族として遙かに実力があるという話だった。

 だが、実際にどんな人物なのかまでは知らない。


「へっ……でも、そんな公爵様っていったって、どうせいい歳したごうつく爺かなんかだろう? だいたい貴族なんてのに、ろくな奴はいねえ」


「あんた馬鹿ねえ」


 ミシアは呆れたように言った。


「エルナス公ゼルファナス閣下っていえば、王国一の貴公子って話よ? ものすごい美男子で、女より綺麗だなんて話もあるんだからね」


「けっ」


 リューンは赤鶏のもも肉を囓ると葡萄酒の瓶に口をつけた。


「女より綺麗? そんななよなよした奴には大した男はいないぜ。だいたい、男前っていうんならこの俺くらいの美男子じゃねえとなあ」


 自分で言うだけあって、確かにリューンはなかなかの美男だった。

 さらにいえば巨漢で、男性としての野性的な魅力も十分に兼ね備えている。

 実際、リューンは当たり前のように、女にもてた。

 もてすぎるために、逆に自分が女からみればどう見えるかなど、あまり意識したことがないほどだ。


「ま、確かにあんたもなかなかいい男だけどね……」


 ミシアは、むきだしにされたリューンの逞しい二の腕をそっと撫でさすった。


「でもほら、ゼルファナス卿はあんたみたいな筋肉自慢って感じじゃなくて、もっと繊細な……なんていうか、貴公子っていうか、貴族的っていうか、そんな感じらしいのよ。ああ……一度でいいから、お目にかかってみたいわ」


 桃色の吐息を吐くミシアを見て、再びリューンは顔をしかめた。


「けっけっ……なにが貴族的だ。だいたいそんな男だか女だかわからんような奴、『男』としてみればどうなんだろうな。案外、女より男にもてるような男娼みたいな奴かもしれないぞ」


 途端に、ミシアがうなだれた。


「ああ……まあね、問題はそこなのよ」


 冗談のつもりで言ったのにミシアが真顔になったので、リューンはあわてて言った。


「お、おい、冗談だって。俺の言うことを真に受けるなよ」


「いえね……その、エルナス公は少年好きって、結構、噂になってるのよ」


 あやうくリューンは葡萄酒を噴き出しそうになった。


「なんだ……冗談で言ったのに、それじゃただの変態じゃねえか! 男ウォイヤとか、そっちなのか?」


 ちなみにウォイヤとはもともとは南のフェルスアミアンの森に棲む「森の民」と呼ばれる人間に似た異種族の崇める女神の名である。

 彼女は女同士の同性愛の女神なのだ。

 その文化が人間の間に広まったため、女同士の恋愛は「ウォイヤ」、男同士であれば「男ウォイヤ」という隠語で呼ばれるのだ。


「なんでも、美少年の取り巻きをいつも連れているとかで、それで悪い噂が広まっちゃったみたいなのよね。ま、実際のところはどうか知らないけど」


「けしからん奴だな」


 リューンは、葡萄酒を瓶ごと一気に飲み干した。

 これで今日だけで三本、一リトゥス入りの葡萄酒の瓶を開けたことになる。


「男に生まれた以上、女を歓ばせてやるのが義務ってもんだろ。あのレクセリアってお姫様、そんな男ウォイヤ野郎に嫁がされるってのか?」


「いやだから……まだ、嫁がされるって決まったわけじゃないけど」


 ミシアが、はっとなったように言った。


「そういえば、エルナス公はもうすぐメディルナスにやってくるって噂があるわよ。なんでも、この間の戦の後始末のために王国のあちこちから貴族たちが集まってくるんだって。運が良ければ、リューン、あんたもエルナス公ご本人の顔、拝めるかもよ?」

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