3 酒場にて


「へっ……なあにがアルヴェイアの戦姫だ! あのとき、この俺が助けてなきゃあ、今頃あのお姫様、林檎酒軍に捕まっていたかもしれないんだぜ!」


 リューンはそう叫ぶと、陶製の葡萄酒の瓶に口をつけた。

 鮮紅色の液体が、口の端から首筋を伝い落ちていく。

 もともと上品に酒を呑むたちではないが、それにしても今夜の彼は、行儀が悪すぎた。

 一気に一リトゥス(約五百ミリリットル)もの葡萄酒を飲み干すと、酒臭い息を吐く。


「まったく、俺がいなけりゃ、あの戦だってどうなっていたかわからないんだぜ? それなのに……」


「兄者」


 店の隅にいたカグラーンが、顔をしかめて大声をかけてきた。


「なんだかずいぶんと飲んでるみたいじゃないか! 酒はほどほどにしていたほうがいいぜ?」


 カグラーンがそう言うのも、無理からぬことではあった。

 なにしろメディルナスの都にきてからこの一週間というもの、リューンは酒浸りの日々を送っている。

 リューンたちが定宿に選んだのは、「黒狼亭」と呼ばれる安宿だった。

 メディルナスの都でもアルヴェイス河岸に近い、「トカゲ通り」に連なる宿屋である。

 このあたりは波止場で働く水夫や船員、あるいは見習い職人といった都市でも低所得者層のための店が建ち並んでいた。

 その名の通り、道端を歩いているとときおり緑色の肌をしたトカゲの民、ゼルヴェイアの姿を見かけることもある。

 路地は狭く、人と人とが通り過ぎるだけで肩が触れ合うような場所だ。

 場末の歓楽街とあって治安もそれなりに悪く、ときおり辻強盗にやられた不運な者の死体がアルヴェイス河に浮かぶこともある。

 むろん、もっと上品な場所のように魔術の光が夜間照明のように輝いているわけではない。

 明かりはといえば道端にときおりかけられた松明の炎くらいのものだ。


 敷き詰められた敷石のうえには、野菜や魚の屑、反吐の痕、その他、得体のしれない汚れがこびりついてぬるぬるとしている。

 川魚の匂いとどぶのような臭気、吐瀉物と安酒のイマム酒の甘酸っぱい香りが通りには染みついていた。

 通りの両側にびっしりと軒を連ねる酒場のなかにあって、「黒狼亭」は一応は宿屋である。


 本来はアルヴェイス河を通って船旅をしてきた者たちが泊まるための宿なのだが、いまはリューンたち「雷鳴団」の傭兵たちが、一軒まるごと、店を借り切っていた。

 なにしろ、当分の間は遊んで暮らせるほどの金はあるのだ。

 リューンはレクセリアの身を助けた、ということで多額の報奨金を得たのである。

 さらにいえば、ハルメス伯を捕虜にしたのもリューンの功績だ。

 この時代、戦で敵の貴顕を捕らえた場合、相手の家族に身代金を要求するのが通例になっている。

 だが、リューンはもともと林檎酒軍に属していた身なのだ。

 さすがに、ハルメス伯の身代金までは受け取りにくい。

 そこで、ハルメス伯は王家の捕虜として、本来の身代金のぶんも見越した額の報奨金を、レクセリアから受け取っていた。

 とはいえ、受け取ったのはそれだけだ。

 他に特別なものをもらえたわけではない。


(ま、当たり前っていや当たり前なんだけどな)


 蝋で封をした新たな葡萄酒の瓶の口をナイフで切りながら、リューンはぼんやりと考えた。


(いくら王女様を助けたって、所詮はそれだけのことだ……)


 苦い想いで、再び陶製の瓶に口をつける。

 

 しかし、どこかで自分はなにかを期待していたのではなかったか。

 なにしろ一国の王女の身を助けたのである。さらにいえば……。


(あのお姫様も、俺と同じ目をしていたんだ……)


 寝ても覚めても、考えるのはあの、自分と同じ青と銀との瞳を持つ王女のことばかりだった。


「ひひ……団長……ひひ、またあのお姫様のことでも考えているのか?」


 卓上に置かれていた山羊のチーズを口のなかに放り込むと、アヒャスが口を動かしながら言った。


「でも……もぐもぐ……相手はアルヴェイアのお日様なんだ……ひゃひゃ……いくらなんでも団長とは身分違いってもんだ……もぐもぐ……ひひ……」


「ええい」


 リューンは、どんと葡萄酒の瓶を古びた樫材の卓の上に置いた。


「うっとうしい野郎だな。食うか笑うか喋るのかどれか一つにしろ」


「あらら」


 アヒャスの傍らで極めて高価なご馳走である、アマリス牛の骨付き肉を囓っていたクルールが、例によって汗を全身からだらだらと流しながら言った。


「団長……なななんだか、最近、怒ってばっかりだな。ききききっと、お腹がすいているんだな。も、もももっと食べたほうがいいんだな」


「お前は食い過ぎだよ、クルール。これ以上、太ったら、また新しい鎧を特注しなきゃいけなくなるぞ」


 リューンはさすがにうんざりして言った。

 今日もいつものように、酒をくらっては飯を食い、女とたわむれるという一日を送っている。

 少なくとも、はたからみれば気楽に見えるだろう。

 実際には、憤懣が胸の奥でわだかまっているのだが。


「ねえ、リューンの旦那」


 一人の少女が、胸をぐいと押しつけてきた。

 赤毛に青い瞳で、なかなかに可愛らしい顔立ちをしている。

 このあたりで稼いでいる娼婦の一人で、名はミシアと言った。


「そんな飲んでばっかりいないで、戦場での話、してよ! あたしなんだか、戦の話とか聞くとこう血がたぎってくるんだよ!」


 ミシアはむろん商売ということもあるが、特に傭兵とみれば飛びついてくるということでこのトカゲ通り界隈でも有名な娘だった。

 きったはったの話が大好きで、傭兵相手なら料金半額、などということもしているらしい。


「けっ……女のくせに、戦場の話なんてするんじゃねえ」


「なにさ」


 途端に、ミシアはぷくっと頬を膨らませた。


「男だからって偉そうに! くそっ、あたしも男に生まれていればみんなみたいに傭兵になって、荒稼ぎしてやるんだけどなあ」


「お前みたいな頭の弱そうな奴は、戦場にいけば真っ先にくたばるね」


 ひどいことを言ってリューンは笑った。


「戦場は、もともと女の居場所じゃねえ。あくまでも男のための場所だ」


「よく言うよ」


 ミシアは皿の上に載っていた固い種なしパンを砕いてむしると、口のなかに放り込み麦酒で喉りの奥へと一気に流し込んだ。


「それ言うなら、レクセリア殿下はどうなんだい? あの人は王女様、立派な女じゃないか! それでも王国軍を率いて、南部の田舎者どもをとっちめてやったんだろう?」


 レクセリアの名が出た途端、再びリューンの面は翳った。


「あれは……その、なんだ、例外っていうか特別なんだよ。あのお姫様は……」


 確かにリューンにとって、彼女は特別な存在だった。


(あのお姫様にあったとき……ひょっとしたら、なにかが起きるかもしれないと思ったんだけどな)


 それがなにか、と具体的に問われれば困る。

 だが、それでも確かにリューンはレクセリアになにか特別な、大げさに言えば「運命」に近いものを感じたのだった。

 なにしろウォーザの目の持ち主自体、百万人に一人、いるかいないか、といったところだろう。

 その二人の出会いに、リューンがなにか宿命めいたものを感じなかった、といえば嘘になる。


(てっきり、なにかが始まるんじゃないかって思ったんだけどな……)


 実際には、リューンは報奨金を受け取っただけだった。

 むろんいきなり騎士として取り立ててくれる、あるいは爵位を授かるなどといった厚遇を期待していたわけではない。

 だが、得たのが袋一杯に詰められた金貨だけというのは……それだけでも己の幸運を噛みしめるのには十分すぎるはずなのだが……なんだか肩すかしをくらったような気分だったのだ。

 だからこうして、鬱屈しては宿屋で酒をくらい、女を抱くだけの無為な日々を送っている。


「しかし兄者」


 カグラーンが、途中、転ばないようにと用心した様子で、店の隅からこちらにむかって歩いてきた。

 なにしろ照明はといえば卓上に置かれた燭台の蝋燭くらいなので、宿屋の食堂はひどく薄暗い。

 おまけに、すでに酔いつぶれた雷鳴団の傭兵どもが石床の上に転がっているので、一歩間違えればそいつらに足をとられて転倒してしまう。

 カグラーンは兄の横の椅子に腰を降ろすと、耳打ちしてきた。


「確かに報奨金はもらったが、いつまでこんな贅沢、しているわけにはいかないぞ。英気を養うのも結構だが、そろそろ次の仕事のことも考えないと」


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