10 ネルトゥス

 大地が揺るぐような轟音が兜越しに伝わってくる。

 一千の騎士が突撃をしかけるさまは、まさに壮観の一言に尽きた。

 まるで海原をゆく銀色の巨大な波のように、騎士たちがフィーオン野を駆けていく。

 だが、そのなかにあってネルトゥスだけは、他の騎士たちとはまったく別なことを考えていた。


(まずい。我らはレクセリア殿下の踊りの相手をしているわけではない。我らは「狩りの獲物」に選ばれたのだ。このままでは……)


 とはいえ、一度初めた突撃はそう簡単に止められるわけではない。

 駆けだしてしまった馬には、勢いというものがつくからだ。

 しかも他の馬との距離はあまりない。

 ここで一騎だけ離脱する、というわけにはいかないのだ。

 まるで突撃のための目印のように、遙か向こうで金色の旗が翻っている。

 

 いや、事実、林檎酒軍の騎士たちにしてみればあの黄金旗は目印なのだ。

 通常であれば、あの王族の所在を示す旗の下に敵の大将である王家の者が……今回であればレクセリア王女が……いるはずである。

 だが、彼女があそこでおとなしく騎士の突撃を待っているだろうか?

 距離が縮まるにつれて、旗の周囲にいるゼルヴェイア近衛の姿が見えてきた。彼らは人間にはありえない長身のせいで、戦場ではひどく目立つ。

 だからこそ目印にはちょうどいいわけだが、レクセリアという少女のことをある程度、知っているネルトゥスからすれば、これも見事な「囮」としか思えない。

 なぜわざわざゼルヴェイアを軍使にしたててきたのか。

 一つはラシェンズ候とエルキア伯を侮辱して怒らせるためだが、二つ目には「レクセリアの周囲はゼルヴェイアがいる」と印象づけるためだったとすればなにもかも納得がいく。

 レクセリアがもし狩りの名手だとすれば、すべては計算づくということなのだろう。


(だが、もはや止まるわけにはいかん)


 異変が起きたのはそのときだった。

 まるで大海の波がひくかのように、青い軍装をまとった敵の歩兵の列が、左右にものすごい勢いで駆けだし始めたのだ。

 本来であれば、彼らはなんとしても大将である黄金旗の周囲にとどまろうとするはずだ。

 が、敵の動きは決して恐慌にとらわれて逃げ出した、といったものではない。

 規律がとれた動きで、こちらからみて左翼の兵は左に、右翼の兵は右へと一斉に走り出したのである。

 その、左右に分かれた人の波の間を騎士たちは突進していく格好になった。

 ここまで勢いがついてしまうと、もう簡単に馬首をめぐらせて方向を変えるといった真似は出来ない。

 もはやネルトゥスだけではなく、他の騎士たちも馬上でなにかがおかしい、ということに気づいているだろう。

 しかし、ここまできてはあとは駆けるしかないのである。

 ネルトゥスがかすかな異臭をかぎ取ったのはそのときだった。

 馬と金属、草や大地の匂いに混じって、かすかではあるが鼻がつんとするような悪臭が嗅ぎ取れる。この臭いは……。


(油だ!)


 次の瞬間、目指していた黄金の旗が、突如、紅蓮の炎に包まれた。

 さらに炎の波は草の上をものすごい勢いでこちらに伝わってくる。

 あらかじめ、このあたりには大量の油がまかれしていたらしい。

 さらには、太陽が天に昇ったせいで油はかなり燃えやすくなっていたようだ。

 空気にまで油の匂いがとけ込むほどに。


「!」


「うわっっ」


「止まれ! 止まれ!!!」


 たちまちのうちにあたりは凄まじい悲鳴に包まれた。

 いくら油をまかれていたとしても、実は炎そのものはさほど恐れるものではない。

 一千の人間を焼き殺すほどの火力はちょっと草原に油をまいた程度で得られるものではないのだ。

 問題なのはむしろ、火に驚いた馬たちの反応だった。

 馬は動物の常として、火を恐れる。

 騎士の騎乗する馬はむろん軍馬としての訓練はうけているが、それでも火をみれば恐慌をきたすものなのである。

 それは馬の本能といってもいい。

 途端に一千の騎士を乗せた一千の馬が、一斉に暴れ出した。

 竿立ちになって前脚を高々と掲げた馬が派手ないななきをあげる。


「うわっ」


「ぎゃっ」


 途端に、何人もの騎士たちが宙に放り出された。

 馬体の平衡が崩れ、次々に馬の体が大地に叩きつけられる。

 そこに後ろから突進を続けてきた馬がぶつかってきた。


「やめろ!」


「止まれっ……!」


「馬鹿っ突っ込んでくるなっ……うああっ」


 落馬した騎士の頭蓋が、次々にやってくる後続の騎馬の馬蹄で踏みしめられ、熟れた果物を石壁の投げつけたかのように弾けていく。

 脚をとられた馬が、混乱して前のめりになってそのまま足を折り、大地の上を転がっていく。


「ぎゃーーー!」


「やめろっ!」


 たちまちのうちに、あたりを凄まじい混乱が支配した。

 一度、地上に転がった騎士や馬はそのまま後続の騎士たちにとっての障害物となり、さらに犠牲者は増えていくのだ。

 おまけに彼らは、炎の燃えさかるなかに突っ込んでいく。

 騎士たちが板金鎧や鎖帷子の上に羽織っていた陣羽織に、次々に炎が着火していた。

 もし彼らがまとっているのが金属製の鎧だけならこんなことにはならなかっただろうが、諸侯の騎士が陣羽織をまとうのは常識である。

 この陣羽織で、騎士たちは誰がどの家門に連なる者かを識別するのだ。

 だが、一度、炎に取り巻かれたこの大混乱のなかにあっては、識別など無意味だった。

 アルゼマスの竪琴の家紋が、あるいはラシェンズの赤い林檎の紋が、エルキアの黄と白につるはしの文様が、次々に火に取り巻かれていく。

 何人もの騎士たちは、火だるまになって大地の上に転がっていた。

 黒く煙った世界のなか、何頭もの馬が恐慌をきたしてはまた竿立ちになり、そのまま体の倒すようにして大地に崩れ落ちていく。

 甲高い馬のいななき、騎士たちの救いをもとめる悲鳴があたりに叫喚した。

 まさに地上に現出したクーファーの火炎地獄のごとき光景である。

 そこに追い打ちをかけるように、黄金旗の周囲に残っていたゼルヴェイア近衛が、騎士たちをかり出し始めた。

 もはや騎士たちは兵隊としてほとんど機能していない。

 まだ馬上にいるものは炎のなかで暴れる馬を御するだけで精一杯だったし、なんとか馬から下りられた者も、重い鎧をまとって愚鈍な様子で後続の馬の「突撃」に巻き込まれぬよう逃げまどっている。

 そこをゼルヴェイア近衛たちは、彼ら独特の武器である骨槍を片手に躍り込んできたのだった。


「シャーーーーーーーーッ」


「シャーーッキャーシャーっ」


 明らかに人間とは異なるトカゲの姿をした異形の人型生物が、次々に騎士の関節の狭間、武装が弱いところをねらって骨槍を振り下ろしてくる。

 もとは父祖の骨からつくったものだが、彼らの種族に伝わる独自の魔術によって強化されているため、その硬度と切れ味は鉄の武器に決してひけをとるものではない。


「逃げろっ!」


「撤退! 撤退だ! 撤退!」


 ここで、悲劇の第二幕が上がり始めていた。

 林檎酒軍は、諸侯の集まりからなる。

 その指揮系統も、それぞれ諸侯が配下の騎士を率いているという、非常に封建的なものだ。

 こうした場合であっても、もし騎士たちがそれなりにきちんとした命令系統をもっていれば状況を立て直すことが出来ただろう。

 だが、騎士は羽織っている陣羽織の違う……つまりは他の諸侯の騎士とは同格で、誰が命令を出していいのかわからないのだ。

 結局、彼らの上にたつ爵位をもった貴族たちが配下全員に指示を出すしかない。


「アルゼマス騎士! 集結せよ!」


「我はヴィナリス子爵サイアス! ヴィナリスの旗のもとに集まれ!」


 だが、馬のいななきに人々のわめき声があわさって、あたりは凄まじい物音に圧されている。

 多少、声をはりあげたくらいでは命令の声も聞こえなかった。

 おまけに巨大なトカゲ兵ゼルヴェイアが、弱った騎士を狙って次々にとどめをさしているのだ。

 戦場の混乱は、もはや修復不可能な段階にまで達していた。


「くそっ!」


 幸い、ネルトゥスはいまだ無事だった。

 炎に巻き込まれることもなかったし、火に取り囲まれて完全に狂乱していた馬もなんとかおさえることが出来た。

 鮫の口を象ったまびさしをあげると、ネルトゥスは叫んだ。


「ハルメス伯はここだ! ハルメスの騎士たちよ! 一度、主君のもとにつどえ! ばらばらなままではゼルヴェイアどもに狩られるぞ!」


 周囲の熱波など気にせず、声をからしてそう叫ぶ。

 きな臭い匂いが戦場には漂っていた。

 草や騎士の陣羽織が燃えているせいか、灰色をも通り越した黒い煙が視界を翳らせている。

 そのなかで銀色に輝く鎧のきらめきや大きな馬の輪郭、そして忌々しい炎がオレンジ色の光を放ってゆれているのが見えた。

 すぐ傍らでは、アルゼマス伯の騎士が頭から血を流して倒れている。

 どうやら落馬して、大地に頭を打ちつけたらしい。

 その隣には、エルキア伯の配下の騎士が、やはり馬から振り落とされた上に、後ろからきた別の馬に体を踏みつけられたらしく、口から臓物を吐き出す姿でつぶれていた。

 そのなんともいえぬなまぐさい臭気が、煤煙のすすと混じってネルトゥスの鼻腔を刺激する。

 幸いにして、まだゼルヴェイアはネルトゥスのいるあたりにまでは達していない。

 彼らは、黄金旗の周囲にいた騎士たちを掃討しているようだ。


(なんということだ……なんという……)


 だが、すでに戦の前から俺はこうなることを自覚していたのではないか?

 要するに、我々はみなレクセリアという少女を侮りすぎていたのだ。

 いくら王家の姫とは所詮は十五の小娘、と。

 そもそも俺は、むしろ彼女に対して哀れみすら抱いたではないか?

 しかし、このままで引き下がるわけにはいかない。俺も「ハルメスの鮫」として恐れられた男なのだ。

 なんとかレクセリア王女のもとにまでたどり着いてみせる。

 まだ負けと決まったわけではない。

 敵大将の身柄を確保すれば、話は別だ。


 とはいえ、それもこちらの大将であるラシェンズ候ドロウズが命を落としていなければの話だが。

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