8 開戦

 鬨の声があがったのは第四刻(午前八時)のことだった。

 戦笛の音が、戦場に高らかに鳴り響く。

 林檎酒軍は、三段仕立ての陣を敷いていた。

 前方に一千の騎士を集めている。次に続くのは、戦慣れした一千の傭兵隊である。

 三千の歩兵は、後方に控えていた。

 手堅い、常識的な布陣といえる。


 まず最前列の騎士たちが、敵の中央、翩翻とアルヴェイア軍旗と黄金旗の翻っている敵本陣に突撃をかける。

 こちらが総勢、五千であるのに敵は三千の寡兵だ。

 左右から歩兵を繰り出して、騎兵の突進を阻止しようとてくるだろう。

 だが、一度突撃を開始した重装騎兵の勢いは、簡単に止められるものではない。

 騎兵という槍を止めようとしても、歩兵では勢いを削ぐので精一杯のはずだ。

 騎士によって陣形を崩された敵歩兵に、二段目の傭兵隊が襲いかかる。

 こうなれば、もう敵の陣形はなかば壊乱しているはずだ。

 そこに後詰めの三千の歩兵を押し立て、物量で圧倒するのである。

 林檎酒軍は数が多い。

 だからこそ、下手な策をたてるよりは数に任せた戦をしたほうが良いのである。

 そもそも林檎酒軍は諸侯軍の寄せ集めという側面があり、部隊同士の連携は決してよくない。

 複雑な陣形を組むよりも、こうしたやり方のほうが向いているのだった。


(さて、レクセリア殿下はどうでてくるか)


 半ば哀れむような気分で、ネルトゥスは思った。

 敵は三千の兵で、数にまさり重武装した騎士を揃えた軍勢を向かい撃たねばならないのである。

 もし小細工を用意していたとしても、果たしてどこまでこちらに抵抗できるか。

 そもそも、このフィーオン野は騎士の突撃に向いた場所である。

 視界は開けており、大地の起伏も平坦だ。

 落とし穴を掘ったりした様子もないし、王国軍は真っ正面から林檎酒軍の騎士の突撃をうけることになる。


(どんな手を使っても……まともにやりあえば勝ち目はないな。レクセリア殿下も所詮は女、しかもまだ子供のようなものだ)


 十六で成人と見なされるのがこの地のならいである。いまだ十五のレクセリアは、王家の生まれとはいえ小娘に過ぎない。


(おかわいそうにな)


 他の諸侯はどうか知らないが、ネルトゥスはレクセリアが優れた知性の持ち主であることを知っている。

 彼女は王家の生まれで教養もあり、さまざまな故事を学んでいる。古典に通じ、学識も高い。

 なにより彼女は、人物眼にかけてはかなりものがあった。

 王家の生まれで当然といえば当然のことだが、諸侯のこともよく知っており、入り組んだ家系から領地のこと、また領主本人の気質なども知悉している。

 純真な子供の目ということもあるのか、レクセリアは幼い頃から直観的に人の本質を見る才能があった。


(ハルメス伯は歯をむきだしにして恐そうに見えるけど、案外、気が小さいのですね)


 まだ十になるかならずかの少女の言葉にふいをつかれたときのことを、いまでもネルトゥスははっきりと覚えている。

 あれはタルネスの戦いから帰った直後の出来事だった。

 グラワリアを辛くも撃退した戦いの後、武勲をあげたネルトゥスは王に行賞されることになった。

 その直前に、控えの間で一人でいたネルトゥスにむかって、彼女はそう言ったのだった。


(心を見透かされていた)


 としか言いようがない。

 ネルトゥスは本来、レクセリアの言う通り小心者なのである。

 戦場では逆に恐怖のあまり自分を失うことで、無茶が出来る。

 あのとき控えの間で、ネルトゥスは実は怯えていたのだ。

 何人もの貴顕たちの間で、王から賞を賜る際になにか不始末をしでかすのではないか、と。

 昔から、格式張った場所がネルトゥスは苦手だった。

 だが、自分の容貌が人からみれば恐ろしげに見えることを、ネルトゥスはよく心得ている。

 顔立ちもいかついし、なにより牙のように発達した犬歯を見て、普通であれば子供のほうが彼を怖がるのだ。

 それなのに、あの王女はネルトゥスの外見に騙されず、直観的に彼の本質を理解した。

 なにを考えているかよくわからない、あるいはああ見えて優柔不断、と親しい者に言われたことはある。


 だが、「小心者」とネルトゥスを表したのは今まで彼女ただ一人だ。

 それだけに、印象に残った。

 逆にネルトゥスには、まだ幼かった少女が一体、なにを考えているのか理解できなかった。

 ある意味では、王宮でもレクセリアは変わり者扱いされていた。

 頭がよいのは確かだが、言動に変わったところがあったのだ。

 たとえば、レクセリアは王が健在な頃は、よく狩りの供をした。

 女だてらにわざわざ乗馬用のズボンを仕立て、他の貴族たちとともに王が狩りをする様子を黙って見つめていたのだ。

 彼女は狩りのときに、いったいなにを見ていたのだろうか。

 ふと、青と銀色と、左右で色の違うレクセリアの謎めいた輝きを持つ瞳が脳裏に浮かんだ。

 おそらく、いま彼女はあの目で「敵軍」であるこの自分のことを見ているのだろう……。

 

ネルトゥスは、半イレム(約七五〇メートル)ほど向こうに対峙している「敵」の軍勢のなかで、黄金旗の揺れているあたりに目をやった。


「目指すは、あの黄金の旗!」


 ラシェンズ候の怒号のような声が聞こえてくる。


「レクセリア殿下に、我らが教育してさしあげねばならん! ここは女子供の出てくるような場所ではないし、王宮の舞踏場でもないとな!」


 まださきほどの軍使の言っていることを、ラシェンズ候は恨んでいるらしい。

 ふと、レクセリアがかつてラシェンズ候を評したときのことを思い出した。


(ラシェンズ候は、いつも自分を偉くみせようとしすぎです。だからグラワリアの王女を妻にして、自分を本当よりもっと偉くみせようと躍起になっている。それに普段から威張りちらしている男の人は、からかわれるともの凄く怒るものです)


 思わず苦笑めいたものが漏れる。

 確かにレクセリアの言っていることは間違っていなかった。

 考えれてみれば彼女は昔から、ラシェンズ候の野心を察していたかもしれない。

 彼がこうして軍勢を集めた最大の理由は、やはり自分の息子を王にするため、だろう。

 王の父、という立場になって「自分をもっと偉くみせようとしている」のだ。

 あるいは、彼の心などいま敵陣にあるレクセリアにはとうの昔からお見通し、ということだったのかもしれない。

 ふと、背筋に悪寒が走ったのはそのときだった。

 なにか、自分はひどく重大なことを見落としているのではないか。

 なぜか、彼女が王とともに狩りに行ったときのことを、ネルトゥスはまた思い出した。

 一頭の巨大な猪が自分にむかって突進してきたときに、レクセリアは言っていた。


(なぜ、猪は殺されるためにわざわざむかってくるのですか?)


 そんなことを問いかけてきた気がする。

 あのとき、自分は確かこう言ったはずだ。


(猪は、自分が殺されるとは気づいていないのです。優れた狩人というものは、獲物に誤解をさせます。勢子をうまく使い、一つの道しか行く場所はないと錯覚させる。そしてその道に獲物を追い込み……)


 馬蹄が大地を踏みしめる音が一斉に轟いたのはそのときだった。


「突撃!」


 ラシェンズ候の咆吼とともに、騎士たちが鬨の声をあげる。


「アルヴァール(行け)」


「アルヴァール!!!」


「アルヴァールッ」


 セルナーダ語の「行け」と、アルヴェイアの国名をかけた、アルヴェイア兵独特の鬨の声である。

 とはいえ、敵兵もアルヴェイア王国軍なのだ。ある意味では皮肉なかけ声、ともいえる。

 ネルトゥスも鮫の頭をあしらった意匠の兜のまびさしを降ろし、馬の腹を蹴った。

 もう、ぐずぐずと考えている暇はない。

 これから本当の戦争が始まるのだ。

 まびさしをおろすと、一気に視界が狭くなる。

 この瞬間、いままでと世界はまるで違った場所のように見えるのだ。

 いつもであれば、まびさしを降ろしたあとは心は戦場用にと切り替わる。

 ハルメス伯だのネルトゥス卿だの、あるいは妻の前の夫、娘たちの父といった自分が消失し、一つの戦争機械の歯車となる。


 だが、今日に限って、そうはならなかった。

 頭のなかでは、まだレクセリアがささやいている。


(馬鹿な獣ですね。自分が追い込まれているとも知らずに、むかってくるなんて)


 彼らはそれが正しい、唯一の道だと思いこんでいるのですよ。

 良い狩りをするには、獲物に自分が正しい道を選んでいると「誤解させること」こそが肝要なのです。


(つまり相手をだませと)


 そう、相手を騙すのです。良い狩りをする者は、戦でも強いと言われますしな。


(戦も?)


 戦も、相手を騙す者が勝ちます。

 いまこうして、何人もの射手と槍を持った者たちが控えているともしらずに、あの猪は突進してきますよね?

 戦場で名将と呼ばれる者は、みな同じことをするのです。

 相手を一つの道に追い込む……。


 待て。

 全身に震えが走った。

 戦が始まる前から抱いていた違和感が、ようやく形になり始める。

 無茶な林檎酒税。オーロン子爵への処罰。ラシェンズ候とエルキア伯を始めとした南部諸侯の決起。

 あのとき、狩り場での会話はあくまで一般論に過ぎなかった。

 だが、もしレクセリアが自分の言ったことを正しく理解し……自分の置かれている状況にあてはめたとしたら?

 彼女はラシェンズ候のひととなりを知っている。

 なぜトカゲの民が軍使に使わされたのか。なぜあんな言上を言わせたのか。


(普段から威張りちらしている男の人は、からかわれるともの凄く怒るものです)


 まだ幼かった少女の声が頭蓋のなかでこだまする。

 そして眼前には、ほとんどこれみよがしに翻る、王家の一員の陣中を示す黄金旗が翻っている。

 わかりやすい敵。わかりやすい獲物。

 諸侯は誰もがあの黄金の旗を目指すだろう。

 だが、あの旗は本当に獲物の居場所を示すものなのか?

 ネルトゥスは、いつのまにか自分が狩人だと思いこんでいた。

 この戦ではこちらは五千で数においてまさっている。敵にはない騎士たちも揃えている。


(馬鹿な獣ですね。自分が追い込まれているとも知らずに、むかってくるなんて)


 これは狩りではない。

 我らは狩人だと勝手に誤解していた。

 だが、違うのだ。レクセリアはただ「彼女の狩り」をしているだけなのだ。

 この戦で俺たちは狩人ではない。


 俺たちは狩人に狩られる獲物なのだ。

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