3 林檎酒軍

 リューンたちが集まっているあたりは、フィーオン野と呼ばれていた。

 アルヴェイア王都メディルナスの南、フィーオン村郊外の原野である。

 村人からは、単に「あの原っぱ」と呼ばれるような、ただ広いだけの野原だった。

 土壌が貧しいために、開墾もされていないような土地である。

 羊や大兎を放牧する以外には使いようのない場所、とフィーオン村の人々には思われていた。


 だが、二つの軍勢が激突する戦場としては、平坦な、開けた土地はまさにうってつけの場所といえた。

 この一見、なんの変哲もない原野で、後に「フィーオン野の会戦」と呼ばれることになる歴史的な戦が、行われることになるのだ。

 とはいえ、これから戦を戦うことになる兵士たちの士気は、一部をのぞいて、両軍ともにお世辞にも高いものとはいえなかった。


「もうアルヴェイアも終わりだな……」


 軍勢の片方、アルヴェイア王国軍に属する一兵卒が、革を蝋で茹でた硬式の鎧に身を包みながら、ひとりごちた。

 彼にしてみれば、それは本音であったに違いない。

 アルヴェイアの民は、戦に慣れていないわけではなかった。

 なにしろ彼らは、ここ数世代ほどの間、絶えることなく続いてきた戦につきあわされてきたのだ。

 敵軍がグラワリアやネヴィオンといった異国の軍勢であれば、異邦の民と戦うということでそれなりに意気は上がっただろう。

 だが、いま、アルヴェイア王国軍が敵対している軍勢は、他国の軍ではなかった。 彼らがこれから戦おうとしているのは同じアルヴェイア王国の民、つまりは本来であれば「味方」の軍勢だったのだ。


「なにが哀しくて、同じアルヴェイアの人間同士で戦わなくちゃいけないんだ」


 王国軍と対するもう一方の軍、俗に「林檎酒軍」と呼ばれる軍勢の兵卒も、敵方と似たような愚痴をこぼしていた。

 兵が自らの未来と国家に絶望したのも、ある意味では当然といえる。

 同国人の戦いほど虚しいものはないのだ。

 時はネルサティア歴二〇一〇年、いわゆる旧三王国期末期である。

 かつてセルナーダ全土に覇を唱えていたセルナディス帝国は、すでに三つの王国に分裂していた。北のグラワリア、東のネヴィオン、そしてアルヴェイアの三国である。

 もとを正せば三つの王国の王統は一つに遡ることが出来るが、あるいはそれゆえにというべきか、この三王国は実に二百年以上の長きに渡り、不毛な三つどもえの戦いを繰り広げていた。

 長きに渡る戦乱は、三つの国の国力を疲弊させることになる。


 その結果、それぞれの王国内で王権は弱まった。国家の中央集権制が弱まった結果、力をつけてきたのが貴族諸侯である。

 かつては、輝かしき帝国皇帝の末裔、さらには辿れば初代太陽王、太陽神その人の血をひくとされるソラリオンの子孫として、三王国それぞれの王は人々の尊崇を集めていた。

 絶対君主である王を、地方領主である貴族たちが支えるというのが古来からのセルナーダの地での政治の姿だった。

 それが時の流れとともに変わってしまった。

 もはや諸侯は、単なる王の臣下ではない。

 彼ら自身が自らの領土の絶対的な支配者であり、権力者である。

 王のもとに束ねられていた貴族たちは、それぞれが独立した君主としてのふるまいを見せるようになっていた。

 王権の弱体化により、封建諸侯が力をもつ時代へと移り変わりつつあったのである。

 

 確かに王は尊い者である。

 だが、いくら王が尊貴な身であるとはいえ、なにをしても良いというのか。


 かつてのような王が絶対者であった時代ならば、諸侯はその通りと答えただろう。

 だが、すでに時代が違う。

 いくら王とはいえなにをしていいというわけではない。

 王家が道を誤れば、臣下としてたとえ王であっても行いを正さねばならない。

 それが、今回、王家に反旗を翻した貴族諸侯の言い分だった。


「正義は我らにある。ご一同、ご案じめさるな」


 軍装に身を包んだ諸侯が一堂に会するなか、ラシェンズ候ドロウズが、自慢の漆黒の顎髭を満足げにゆっくりと撫でさすりながら言った。

 今年で齢五十になるが、まだ髭に白いものは混じっていない。

 額はやや後退しているとはいえ髪もまだまだ豊かである。

 この時代、五十となればすでに老人だが、ドロウズの外見はいまだ若々しいものだった。

 ドロウズが片手に持つ銀の杯には、彼らが率いる軍勢の俗称でもある林檎酒がなみなみとたたえられている。

 比較的、寒冷な地で育つ林檎から醸したこの酒は、アルヴェイア南部諸侯軍の象徴のようなものだった。

 そもそもこの酒がなければ、今度の戦も起きなかったのだ。

 ドロウズだけではなく、他の貴族たちもみな、林檎酒をついだ盃を手にしている。

 参集した貴族たちは爵位を持つ者だけで総勢、二十三名にのぼる。


「ラシェンズ候の仰有る通り」


 鎖帷子に身を包んだ小男が、体躯に似合わぬ大声で、一同を鼓舞するように言った。

 どこか鼠を思わせる貧相な男だが、彼はかつては黄金を産し、いまは岩塩で知られる豊かな山岳地帯を領している。

 ドロウズに並ぶ南部諸侯の雄、エルキア伯ヴァクスである。


「我らがこのたび、挙兵するのも決して、私利私欲のためではない。あくまでも王家の専横を糺し、民のことを考えてのことだ」


 何人もの貴族たちが、ヴァクスの科白に賛同するようにうなずいた。

 だが、よくよく見れば、彼らのなかには不安げな顔をしたものや、苦虫を噛みつぶしたような表情の者も決して少なくはない。

 ここに集った貴族たちは、決して一枚岩というわけではなかった。

 みなが好きで挙兵したわけではないのだ。

 極言してしまえば、彼らはドロウズとヴァクスにのせられて、戦をする羽目になったのである。


 そもそものきっかけは、アルヴェイア王家が貴族諸侯に発した布令だった。

 林檎酒一杯につき、それと同額の「林檎酒税」を徴収する、というものである。

 林檎酒を飲む習慣があるのは、アルヴェイアでも南方のフェルスアミアン大森林と接する南部域に帯状に広がっている、比較的、寒冷な地域に限られている。

 林檎酒は林檎栽培の盛んな土地におけるいわば地酒のようなものだった。

 値段も安い、庶民のための酒だ。

 あろうことか、この酒に王家は法外な税をふっかけてきたのだった。

 

 グラワリアやネヴィオンとの長年に渡る戦乱で、王家の財政はひどいことになっていた。

 国庫はほとんど空っぽという有様である。

 すでに王国はそれなりの重税を、民に課している。特にグラワリアと接する北部や、ネヴィオンと接する東部などは戦乱のせいで荒れ果てている上、重税を搾り取られたためこれ以上、税を払いたくても払えないというところにまで追い込まれていた。

 そうした地域に比べれば、林檎酒を飲む習慣のある南部一帯はまだそれなりのゆとりがある。


「王家はそこを狙って、我らに無理な税を押しつけてきた」


 ラシェンズ候が、林檎酒入りの銀杯を片手に言った。


「だが、我らは断じて王家の暴政を許すわけにはいかん。我らは文字通り、こうして林檎酒の盃をともにかざす仲である。我ら林檎酒飲みの意地にかけても、悪税を廃し、臣下として王家をあるべき姿に戻さねばならぬ」


 美髭候とも呼ばれるラシェンズ候は、咳払いをすると、盃を高く掲げた。


「アルヴェイアの明日のために……乾杯」


 乾杯、という声がそれなりに唱和したが、これから戦をするわりには意気というものがいま一つ感じられなかった。


(あるいは、我々はラシェンズ候にうまく乗せられたのかもしれんな……)


 といささか苦い想いで林檎酒を飲み干す貴族たちも、決して少なくはなかったのだ。

 確かに林檎酒税は、王家が南部諸侯の領土から金を引き出すためにつくりあげた税かもしれない。

 だが、ラシェンズ候にしてみれば、これはもとから抱いていた王家に対する野心をあらわにする絶好の機会だったのだ。


「ドロウズ卿は、ご機嫌のようだ。この上機嫌が、いつまで保つかはしれんが」


 渋い顔で、諸侯の一人がひとりごちた。

 年の頃は、三十の半ばといったところだろう。

 犬歯が、ちょっと異常なくらい発達しているため、まるで牙をむき出しにしているようにも見えた。

 身長は人並みだが、鍛え上げられたがっしりとした肉体の持ち主である。

 その眼光も鋭く、いかにも武人といった趣だった。

 鎖帷子の上に、青い海と白い波線、そして鮫を図案化した紋章を織り込んだ陣羽織をまとっている。

 この紋章は、ハルメス河河口域を領有するハルメス伯家に代々伝わるものだった。

 「ハルメスの鮫」とも恐れられる、ハルメス伯ネルトゥスである。

 

 ネルトゥスは、もともとさほど王家に対する敵意はなかった。

 決して現在のアルヴェイア王家のあり方を良く思っているわけではないが、なにもこうして正面からぶつかりあうことはあるまいと思っている。

 それでも戦場に出向く羽目になったのは、いろいろと彼自身の複雑な家の事情もあるが、最終的にはラシェンズ候とエルキア伯に説得させられたためだった。

 そのとき、ネルトゥスは一人の男に声をかけられた。

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