2 法力
「神々の兵士、つわものどもの長たるキリコよ、かの者を守り給え」
祈りの言葉とともに、イルディスがゆっくりと傭兵の一人に手を触れる。
目には見えないが、敵の攻撃から身を守る魔術的な盾が傭兵のまわりに生じていた。
キリコが僧侶に与える法力は、他にも槍や剣の刃を鋭くして武器の威力を高めるものなど、いろいろとある。
いざ戦の前とあって、加護の儀礼を行っているのは彼らだけではない。
ラシェンズ候率いる軍勢の兵たちは、他にもさまざまな戦の神の僧侶から法力をかけてもらっていた。野営地のあちこちから、僧侶の祈りの声が聞こえてくる。
騎士たちに法力をかけているのは、主に騎士の守護神たるイシュリナスの僧である。
また、歩兵のなかには狂戦士の神オルアの加護を賜っている者たちもいた。
実戦の前に戦に関わる神の法力を使うのは、セルナーダの地の戦争では常識といってもいい。
これは単なる気休めや迷信、といったものではない。神々の魔術のおかげで現実に兵たちの戦力は高まるのである。
だが、神々に仕える僧侶たちも無限に法力をかけられるわけではない。
神々より流れ込む神聖なる力を人々に分け与えると、それだけで僧侶は心身ともに消耗するのだ。
僧侶が一度に行使できる法力の数は限られている。
そのため、軍律の緩い軍隊では僧侶に法力をかけてもらう権利、いわゆる法力権をかけて諍いが起こることも珍しくはなかった。
文字通り、兵士にとって法力をかけてもらえるかどうかは生死をわけることもあるのだから、これは無理からぬことといえる。
逆に言えば、法力をかける際に争いがないかでどうかで、その集団がただの雑兵の寄せ集めか、あるいは精兵か計ることもできる。
実際、いまも他の傭兵団や、諸侯が率いる軍勢のなかでは小さな争いが起きていたが、リューンが率いるこの「雷鳴団」では、加護の儀式も滞り無く行われていた。
雷鳴団が、ただの雑兵の集まりではない証である。
「よ……イルディス、俺にもキリコの法力を頼む」
「これは……団長」
さきほどまで祈りの言葉を唱えていた男が、リューンのほうを見て苦々しげな顔をした。
「あまりに遅いので、団長のぶんの神の加護を他の者にくれてやろうかと思いましたぞ」
そう言って、二つの鉄製の輪でそれぞれ両目の周囲を囲むような、独特の形をしたまびさしの奥からリューンを凝視してくる。
子供であれば失禁でもしてしまいそうな凄まじい目つきだったが、リューンも歴戦の傭兵である。
平然と相手の目を見つめ返すと、いたずらっ子のように笑った。
「ああ、悪かったな……こっちもちっと、まあ、神様にお祈りをしていたようなもんだ」
「団長の守護神というと、嵐のウォーザ神ですか」
イルディスが、ひどく生真面目な口調で言った。
「ご自分の神に祈るのも結構ですが、キリコの加護を賜りたければ私が祈りを捧げている間は、無心を保たれることです」
そのまま、片手をリューンの体にかざすと、神への祈りの言葉をつぶやき始める。
「我が神キリコよ、猛き者よ、この者リューンに身を守る見えざる盾を与えた給え……」
傍目から見れば、リューンの身にはなにも変化が起きたようには見えないだろう。
だが、実際に法力をかけてもらっているリューンには、神の力が文字通り、盾のように自分の体を取り巻くのがはっきりとわかった。
「よっしゃ……これで、ちょっとくらい無茶をしても平気だな」
無邪気に笑ったリューンをたしなめるように、イルディスが言った。
「あまり無茶をしてもらっては困りますな。もう我らも昔のような流浪の傭兵ではありません。雷鳴団といえば、アルヴェイアではすでにそれなりに知られた傭兵団。団長には、七十人の部下に対する義務と責任があるのです。一人で突っ走らぬよう、注意してもらわねば」
「ちっ」
リューンが舌打ちした。
「まったく、どいつもこいつも、キリコの坊主ってのは堅物揃いで困る」
荒くれ揃いの傭兵のなかでも、キリコの僧侶といえば規律に厳格なことで知られていた。
キリコは兵士の神であり、たとえば豪放磊落なオルアのような狂戦士の守護神ではないのだ。
法力を使えるということで、キリコの僧侶は兵士たちの間では特別の目で見られている。
その装備からして、団長のリューンよりも、イルディスのほうが上だった。
キリコの僧侶のみが着用を許される、例の二つの輪を連ねたような、奇怪なまびさしのついた兜を頭に被り、首から下は全身、鎖帷子をまとっているのだ。
鎖帷子といえば、普通は騎士でもなければ着られないような高価な代物である。
法力という特殊な力を使えることから、キリコの僧侶は通常の兵士より遙かに多い金額の報酬を、雇い主から払ってもらえるのだ。
そのため、彼らの装備は一般の傭兵よりも充実していることが多い。
そうなると傭兵であればみな率先してキリコの僧侶になりそうなものだが、あいにくと誰でもキリコの僧侶になれるわけではなかった。
厳格なる軍神の僧となるためには、兵士としての腕はもちろん、強い精神力や高い身体的能力が要求されるのだ。
さらに、キリコの僧となるためには、一生、戦場で過ごすという特別な誓いをたてねばならないのだが、これに二の足を踏む者が多いのである。
キリコの僧侶となった者は、生涯、戦場を渡り歩かなければならない。
もしこの神聖な誓いを破り、戦場から長い間、離れていた僧侶には、神罰が下される。
伝説に名高き「キリコの戦乙女」と呼ばれる霊的な使徒が神のもとより使わされ、戦場から離れた僧を殺しにくるのである。
結果として一度、キリコの僧侶となった者は戦場から離れずことができず、結局はそのほとんどが戦いで命を落とすことになる。
戦の神だけにキリコは甘くないのだ。
「さてと……そろそろいい塩梅になってきたな。みんな、やる気まんまんってところか」
にやりと笑うと、リューンはあたりを見渡した。
今回の戦は、かなりの規模のものである。
友軍だけで、その数は実に五千近いのだ。
主力は、南部諸侯に仕える騎士たちだった。
総勢で一千騎を超える騎士である。
騎士たちはみな重々しい鉄製の鎖帷子に身を固め、馬上で槍を携えていた。
帝国期の頃は、兵士と一口にいってもさまざまな種類の者がいた。
だが、旧三王国期末期のこの時期は、兵士は大きく重装備の騎士と、ふだんは農民が主体の歩兵との二種類に分けられる。
騎士は領主に仕える、戦の専門家であり、装備も充実している。
対して歩兵は、緊急時にしか招集されず、装備も革鎧などが主体な、わりと貧弱な兵である。
特にいまの南部諸侯に徴用された兵士は、満足な訓練も受けていない兵が多かった。
とりあえず、数だけかき集めたという感じである。
だが、それでもまがりなりにも三千もの歩兵を集めたのだから、南部諸侯を率いるラシェンズ候の政治手腕はかなりのものといえるだろう。
残る一千の兵士が、傭兵である。
この時期、傭兵たちはセルナーダ全土のいたるところにいた。
三王国どうしでの戦いで、彼らは重要な位置を占めるようになっていたのである。
リューンたちが南部諸侯軍に参加したのは、彼らのそもそもの本拠地が南部諸侯の領地だからだった。
アルヴェイアの南東部に位置する辺境である。
(それに……ラシェンズ候は、王の軍隊と戦うっていうしな。いずれ、俺は嵐の王になる。ということは、いまの王は……俺の敵だ)
とはいえ、そんな団長の考えを知っているのは、この雷鳴団のなかでも、弟のカグラーンだけである。
そもそも古からの皇帝、さらにはその先祖の太陽王の血をひく者しか王者にはなれないというのがこの時代の常識なのだ。
ときおり、リューンが「将来の運命」について漏らしても、カグラーン以外、誰もがただの冗談としか思わなかった。
(でも……俺は、冗談ですますつもりはねえ。いまはしがない傭兵稼業の身だが、俺は必ず王なる。俺が生まれる前から、それは決まっていたことなんだ)
今度の戦も、リューンにとっては野望への通過点に過ぎない。
その、彼がつくべき地位にいま座っている男は、遙か北方、王都メディルナスにいるはずだった。
王家の軍勢は、このフィーオン野の北方に布陣しようとしている。
だが、王国の軍を率いているのはアルヴェイア王本人ではなく、王家の一員の誰かのはずだった。
すでにアルヴェイア王の病は篤く、まもなく薨ずると噂されている。
そんな重病人が、軍勢を親率しているとはまず考えられない。
だが、さしものリューンも、これから自分が戦うことになるアルヴェイア王国軍三千を率いているのがまだ今年で十五になる少女だとは夢にも考えていなかった。
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