第319話 快楽に溺れない

 張繍の企みなど露知らず、曹操は今宵も鄒氏と酒を酌み交わしていた。

 乱世の世など忘れて、今はただその身を快楽に捧げるのみ。

 女と酒と音楽に溺れ、彼は至福の中にいた。

 すると・・・


「むっ、なんだあの音は?」


 どこからか馬蹄の音が聞こえてくる。

 怪しんだ彼は、すぐに侍臣を音のする方へ派遣した。


 しばらくすると侍臣は帰って来て、


「張繍が逃亡兵を防ぐために兵を動かしております。」


 と告げた。


「ああ、そうか・・・そうであったな。」


 曹操は先日の張繍からの相談事を思い出し、一人納得した。


 侍臣に苦労の礼を述べると、彼は杯を手に取り、鄒氏に酒を注がせると、月を肴にそれを飲み干した。


「鄒氏・・・もう一曲頼む。」


「はい。」


 曹操からの命を受けた鄒氏は、細い指を弦に絡ませ、弓を左右に動かし、再び美しい胡弓の音色を奏で始めた。


 けれどまた、不意に屋敷の外より吶喊とっかんの声がした。

 さらに、窓の隙間より赤い光が部屋に差し込む。

 悠然と構えていた曹操もこれにはギョギョギョッ!っと驚き、窓を押し開いてみると、そこには黒煙が立ち昇っていた。


「これは・・・ただ事ではない!誰か見て参れ!!」


 曹操の号令に侍臣は再び駆けて行った。

 彼が戻ってくる間に、曹操は鄒氏の手を借りながら鎧を身に纏った。


「典韋!典韋っ!」


 喊声かんせいと人影の動きに恐怖を感じた曹操は、頼れる護衛長である典韋を呼びたてた。

 しかし、


「典韋!どうした典韋!何故来ない!!」


 いつもは忠犬の如く、颯爽と自分の元へ駆けつけてくる典韋が来ない。


「――――まさかっ!!」


 曹操はすぐに察した。


 自身の置かれている状況。

 自身の愚かさ。

 自身の油断。


 乱世に身を置く者としてあってはならない失態を自分がしでかした事を彼は察したのである。


(私は今まで何を学んできたのだ!無学にも程がある!!)


 女に溺れ、その身を滅ぼした英雄は大勢いる。

 今、彼が置かれている状況とは違えども、女に溺れて乱世に敗れた英雄が身近にいたことを曹操は思い出した。

 数年前、一人の女楽じょがくにより酒池肉林の夢を失った英雄を。


(噂であった。あくまでも噂であった。あの董卓が女に溺れて、呂布と仲違いしたという噂・・・。何故私はその噂を糧にしなかったのだ。)


(『女に溺れて視野を狭める。』)


(私はそれを学ばなかったのか・・・。)


 後悔の念にさいなまれる曹操。


 しかし、時は戻らない。


 後で不安がる鄒氏をよそに、曹操は、独り、取り戻せない明日を見つめるしかないのであった。

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