何もかも筒抜け

 最近、お隣さんが風邪をひいた。

 正確に言うと、お隣さんではなく下の階の住人が風邪をひいた。


 私のアパートの部屋は上下左右の世帯と壁を共有している。合計4世帯のお隣さんがいるのだが、私は誰一人として名前を知らない。ぼんやりと顔を知っているくらいだ。


 お恥ずかしい話、西洋人の顔はみんな同じに見えてしまう。頑張って違いを見つけようとするなら、男か女か、太っているか痩せているか、禿げているか長髪か、その程度だ。私の西洋人見分けスキルは無きに等しい。


 下の階の住人は、髪の長い痩せた女性だ。その彼女が風邪をひいた。面識もなく、「Hello」と挨拶を交わしたのも1年間でたったの2回。全く持って親しくない。そんなご近所さんが、なぜ風邪をひいたことが分かったか。


 ズバリ、それは咳とくしゃみと鼻をかむ音が聞こえたからだ。私のフラット(アパート)のリビングの真下がおそらく彼女の寝室なんだろうと思うのだけど、そこから明らかに体調不良の時の音が聞こえたのだ。


 驚くことなかれ、上下左右どのお隣さんが風邪をひいても咳やくしゃみの音は聞こえてくる。つまり、それだけ壁が薄いのだ。ちなみに、風邪をひいてなくても、あらゆる生活音や話し声が筒抜けである。


 思い出話をしようと思う。


 今回風邪をひいた彼女が住んでいる物件の前の住人は、痩せ気味で癖っ毛の男性だった。彼の生活音はそれはそれは酷かった。


 お酒と思われる瓶が倒れる音や、ぶつかりあう音、酔っぱらっていると思しき声、マグをテーブルに置く音、ため息、唸り声、そして彼は突然叫んだりもした。一度だけ、ギターを弾き語りしてその歌声を披露してくれたこともあった。もちろん、彼は近所に聞こえているとは思っていなかっただろうが。


 彼は、夜な夜な大音量でテレビを見たり、大声で電話をしたり、時には友人たちと明け方まで酒を飲みながら過ごしていた。はっきり言って迷惑以外の何物でもなかった。


 んもー、頭にきた。

 本当に頭にきた。


 テレビの音も酒を飲んでいるときの話し声も寝室によく響いた。寝られるわけがなかった。


 英国人風に皮肉のきいた苦情の手紙を送りつけてやろうか(もちろん現地人に書いてもらう)。堪忍袋の緒がブチ切れそうになったある日、朝からガタン、バタン、ガッシャンと騒々しい音がし始め、初めて聞く階下の住人の掃除機の音が聞こえたかと思うと、その数日後から見事に物音がしなくなった。


 もしかして、と思った。そして予想は当たった。


 奴は引っ越したのだ。住宅情報サイトに下の階の物件が賃貸として出されていたのだ。


 こうして私は平穏を手に入れた・・・かのように思えた。

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