第2話
彼が目を覚ますと外はもう真っ暗だった。
寝る前はまだ日が昇っていて明るかったので電気はつけていなかった。そのため部屋の中も真っ暗だ。
電気をつけるためにスイッチのある所まで行く途中で、何度も足を何かにぶつけて痛い思いをした。なんとかスイッチまでたどり着き電気をつける。
辺りが明るくなった。明るくなったと同時に目の前が真っ白になる。
暗い所から急に明るいところにくれば目が眩む。目を擦りながら時間を確認しようと壁時計を見る。
時計の針は午後の7時を示していた。
「あぁ~あ」
彼は頭を抱えてその場にしゃがみこんだ。
――寝過ごした!
貴重な一日を無駄にしてしまった精神的ダメージは大きい。
「少し寝てから現場に向かおうと思ってたのに……はぁ」
どんなに悔やんでも、過ぎた時間は元には戻らない。こんな時いつも考えるのは、「戻れるならばその時点の自分を殴ってやりたい」である。しかし実際、戻れるならば苦労はしない。
とりあえず彼は、窓のカーテンを閉めて机の上の書類を片付け、六階に行って夕食を取ることにした。
階から階へ移動するときには階段かエレベーターを使う。一階程度の移動なら階段だが、地上一階から事務所の五階に来る時などはエレベーターが基本だ。
三月も終わりが近づいてきたとは言え、夜はまだまだ寒い。階段は建物の中にあるのでまだいいが、何かの拍子に外に出る時にはコートが必要になる。
階段を上り、六階の部屋のドアを開ける。
六階は居住区にしているため土足厳禁。ドアを開けてすぐに土間があり、靴を脱ぐ。
ちなみに、五階は事務所として使うので依頼者が来る。そのため足元は土足OKなタイルとなっている。
部屋に入るとまずはキッチンへと向かう。
キッチンはとても綺麗に片付いていて「男性宅のキッチンは流しに洗っていない食器が散乱している」と言うお約束を見事に裏切った形になった。
唐突だが、桐生渚と言う人物は料理をする男である。最近では料理を作る男などあまり珍しくもないだろうが、彼の料理の腕と種類の多さには驚きを隠せない。和洋中華は言うまでも無く、暇な日は手作りの和菓子やケーキ・ゼリー・アイスなどを色々と作ってみては探偵を求めてやって来る依頼人やその他の訪問者に振る舞っているほどだ。
今日の夕食は昼間に作っておいたカレー。それを温めて食べる。一度冷ますことで具に味が染み込んで美味しくなるのだ。
カレー鍋を火にかけて焦げないようにかき回し続ける。五分ほどすれば丁度いいくらいに温まり、カレーのいい匂いがキッチンに広がっている。
カレーをアツアツのご飯の上にかけたら、冷蔵庫にしまってあったタッパーからポテトサラダを適量取り出して皿に盛り付ける。これで完成だ。
あとはそれを無言で食す。テレビを見るでもなく、パソコンを見るでもなく、ただただ無言で。
傍から見るとそれはかなり寂しいものだ。一人暮らしにしては広すぎる部屋でカレーを無言で食べ続けている。彼は今どんなことを考えているのだろうか。
カレーを食べた後は食器を洗って乾かす。余ったカレーは冷めるのを待って冷蔵庫に入れ、明日のご飯にする。
ふと、思い立ってベランダに出ると、朝方に干した洗濯物が取り込まれずに放置されたままになっていた。干した本人が取り込まなかったのだから当然と言えば当然だ。彼が寝てしまったため、取り込まれずにいた服は、夜の冷たい風に吹かれて冷たく湿っていた。
とりあえず服を取り込み、部屋の中で干す事にした。もう一度洗いなおして明日干すという手もあるが、そんな二度手間は行いたくはないだろう。
その後、黒のコートと車のキーを持って事務所に戻る。
ソファーにコートを置き、机の上の資料を手に取った。
食後なので写真を見る事はしない。そんな事をすれば今食べた物をすべて戻しかねない。
確認する点は事件場所と死亡推定時刻だ。
普通に考えれば、死体の破壊を行ったのは殺人を行った直後だろう。
もちろん、別の場所で被害者を殺しておいて、事件現場に移動した後で死体を壊したと考える事もできるが、それに一体どのくらいの意味があるのだろうか。いや、何もないだろう。考えられるのは捜査の撹乱くらいだが、それなら最初から死体など山に埋めるなり海に捨てるなりすればいい。そうすれば事件の発覚すら防げたかもしれないのだから。
司法解剖の結果、一件目と二件目の死亡推定時刻は午前0時から2時の間、三件目は午後の8時から10時となっている。
後ろ二件の事件も、比較的人通りの少ない時間・場所での犯行のため、目撃者や不審人物の証言も取れなかったようだ。
「今の時間は……8時か。じゃあこの三件目の現場に行ってみるとしよう。場所はここから、車で10分と言ったところかな」
コートを着て、資料を持ったまま、エレベーターで一階の車庫まで下りる。
エレベーターが一階に着き、ドアが開いたその瞬間、入り込んで来る夜の冷たい風が彼を家の中へと戻そうとする。
「さぶ! これは寒すぎるだろ」思わず身震いをする。
ホントに、今は四月なのかと考えさせられる寒さだ。
今日の昼間は、この季節としては珍しく、雪がチラチラと降っていたほどだ。
今日は戻って、明日また行く事にしようかと思ったが、ここまで来て何もしないのは職務怠慢だろう。(依頼を受けた直後に寝ている時点で職務怠慢ではある)
「仕方ない、さっさと仕事を終わらせてくるか」
そう言って、意気盛んに、彼は車に乗り込んだ。
車内は夜の寒さで冷え切っており、彼のやる気は著しく損なわれた。
***
現場近くに車を置けるスペースが無かったため、桐生は仕方なく、近くのコインパーキングに車を止める事にし、そこから現場に向かう。
途中、何人もの人とすれ違った。学生、仕事帰りのサラリーマンやOL、家族連れや、道端に座り込んでいる老人など。制服姿で無線通話をする警官ともすれ違う。
辺りには、飲み屋やショッピングセンター、家族連れにもってこいなファミリーレストランもあり、この時間帯の人通りはかなり多い。しかし、少し道を外れて路地裏に入れば、明かりも、人通りも少ない、薄気味悪い通りになる。
つい三日ほど前に、ここで無残な殺人事件が起きたことを、一体どのくらいの人が知っているのだろうか。知らずにこの道を通っているのならば、それはそれでいいだろう。世の中には知らない方が良い事もある。しかし、知ってなおこの通りを歩く人は、いったい何を思っているのだろうか。
恐怖を感じるのだろうか。自分とは関係ないと思い、何も感じないのだろうか。そもそも、なぜこの通りを通る。人が殺された通りだぞ。普通なら気味悪がって近寄りもしない。ここを通るだけの理由があるのか。それともやはり、何も考えていないのか。
そんな事を考えていると、現場の路地に続く細い脇道にたどり着く。それはビルとビルの間にできた、隙間の様な物だ。
案の定、現場となった路地への入り口には、警察が規制線を張っていた。見張りをしている警官は居無い様だが、無理に入ろうとすれば、周りにいる通行人に怪しまれる。
人目につかない様にして規制線の中に入るのは、かなり難しい。せっかく、今日みたいな寒い日に、家の中でコタツに入りたい欲求を抑えながら調査に来たというのに、何もなしに帰るのは骨折り損だ。
「仕方ない、あれを使うか」
そう言って、彼はコートの内ポケットから親指ほどの小瓶と、長方形の紙を一枚取り出した。
「調べるのには、三十分もあれば十分だろう」
そう言って、彼は紙に瓶の中の液体を三滴ほど落とし、近くの壁に貼り付けた。
その瞬間、明らかに空気が変わった。
周りから人の気配が薄くなっていくのが分かる。さきまで嫌と言うほどに感じていた、人と言う感覚がなくなった。いや、もっと言うと、この世から人と言う『概念』が欠落したかのように感じた。人の足音が、話す声が、車の音が、徐々に少なくなっていくのが分かる。
数秒後、先ほどまで何人もの人がいた通りには、彼一人しかいなかった。
周りには、誰もいない。仕事帰りにお酒を飲むお父さんも、寒い中で呼び込みをするお兄さんも、さっきまで近くで座り込んでいた老人も、誰一人いなくなった。
そして警察も、その例外ではない。
さて、彼らはいったいどこに行ったのか。それは彼の知る所ではない。
見ると、近くにあった居酒屋が、とても賑わっている。ガラス越しに大勢のお客さんがいるのが見てとれる。店員は急に大量の客が来たことに慌てている様だ。嬉しい悲鳴と言う言葉はこんな時に使うのだろう。
遠くでパトカーのサイレンの音がする。事件でもあったんだろうかと思うと、とても心配だ。彼は心の中で、これ以上の厄介ごとが起こらない事を切に願う。
人っ子一人いないこの状況は、彼にとっては、まさに好都合だ。
彼はとりあえず、規制線をはがして路地に入った。
路地の幅は三メートルほど。大人二人が並んで入ると少し狭かろうといった感じだ。明かりが無いため、彼が進み続けると次第に辺りは暗くなっていく。持ってきた懐中電灯を点けて、慎重に先へと進む。
そうすると、徐々に異臭がしてきた。血の匂いだ。近づくにつれ、より折強烈になる血の匂いに、思わず足が止まりそうになる。
血の匂いは、血が乾けばそこまで匂うことはないのだが、三日たった今でも匂うのは、大量の血が壁や床に染み付いているからだろう。
不意に足が止まる。懐中電灯の光が、大きな黒いシミの様な物を照らしていた。
「ここが、殺人の現場か」
それはすぐに理解できた。黒いシミは、血が変色した物に違いない。周りには、血のシミ以外には何もない。警察の鑑識が徹底的に調べた後のため、現場には被害者の髪一本落ちてはいないだろう。
現場はビルの隙間のかなり奥に位置しているため、ここからもとの通りは見る事ができない。つまりそれは、向こうからも見えないと言う事にほかならない。辺りには何もなく、ただ、何もないビルの壁が、空高くかまでそびえ立っている。
「この場所なら誰かに見られる心配もないと言う事か。まさに、人を殺すにはもってこいの場所だな」
しかし問題もある。まず、この人気のない場所に、どうやって殺害対象を連れてくるか。そして、どうやってあの様に、死体を壊す事ができるのかと言う事だ。人を連れて来るのはどうにかできると考えても、人をあのように壊す事はどう考えても不可能だ。
しかし、それは一度脇に置いておく。彼がここに来た最大の目的は、この事件が普通では起こりえない特別な事件であることを確認するためだ。
彼はコートのポケットから香水瓶の様な小さなスプレーを取り出し、中の液体を周りの壁に吹きかけた。
吹きかけられた場所の壁は、徐々に色が変わり、血で黒く染まっていた壁や地面は、鮮やかな紫色に変わってしまった。
「当たりだな。間違いなくこの事件、『異能者』が絡んでいる。とするならば、不可能なことなんて何一つなくなると言うことだ」
この確信を得た瞬間、彼の中に沸き起こる感情が三つあった。緊張と恐怖、そして責任感だ。
彼が先ほどまで感じていた寒さは、どこかに飛んでいったみたいに無くなっていた。
――アツい、汗が出てきた。急にこの辺の気温が上がったのか、それとも緊張しているだけなのか。体も少し震えている。これが武者震いってやつなのか、ただ恐怖で震えているのか。そんなことは、私には分からない。しかし、分かる事もある。この事件は私が解決する。その責任があることに今、気がついた。
彼は周りをよく観察し始めた。何か犯人の手掛かりは残っていないのか、警察に見つけることができなくとも、自分には見つけれる物があるはずだと。壁を調べ、しゃがんで地面を調べる。何か一つでもとあればと思い。
だから周囲への注意が薄れていた。
コツン、コツンと、後ろから迫り来る足音に気が付かなかった。
彼の背後数メートル程まで来たところで足を止める。まるで気づくのを待っているかのように。
彼は背後に誰かが立っているのに気づいた。しかし、それを否定する。
――馬鹿な! 人払いの札はまだ機能しているはずだぞ。あれがある限り、普通の人間はここに近づくことはできない。できるのは、同業者か、ここに来ると言う強い意志を持っている者。あとは考えられるのは異能者くらいしか……!
そこまで考えたところで思考が止まる。可能性として一番大きいのは異能者だろう。この町に異能関係の仕事をしているのは彼とその先生しかいない。そして、こんなビルとビルの間にある暗い場所に、いったい誰が、どんな意思を持って来ると言うのだろうか。消去法で考えれば、殺人を犯した異能者が確認のために戻って来たと考える事ができる。犯人は現場に戻ると言うからな。人払いの札のおかげで、周りに人はいない。戻るタイミングとしては最高だろう。
――くそう! 何て事だ。
今日は調査だけの予定で、対人武器などは一つも持っていなかった。もしもこのまま戦闘になった場合、逃げ切るのは難しいだろう。勝つ事などは考えもできない。まさに窮地と言う訳だ。
彼は立ち上がり、背を向けたまま問う。
「君は……私に何か用か?」
直ぐに返事は無い。彼の頬を汗が伝って流れ落ちる。
熱を帯びていた体は冷えるどころか、より熱さを増していく。心臓の音がうるさいほど良く聞こえる。息は整っているから、相手に自分が窮地である事を悟られることはないだろう。
一瞬ならば相手をひるませる事も可能が、その隙に逃げ切る事はできるだろうか。所有しているのは、護身用の特殊警棒と人払いの札が二枚。あとは異能を防ぐ札が数枚。しかし、これだけではとても無理だ。
一か八か、懐の警棒に手を伸ばそうとした時、声がした。
「あの……その……、あなたは警察の人なんですか?」 若い女性の声だった。
意外だった。女性であったことも、その声がとても若い事もだったが、もっとも意外だったのは職業を聞かれた事だ。さすがに職業を聞かれるのは想定していなかったからだ。
「いや、私は探偵をしている者でね。ここへは警察からの依頼で来ているんだ」嘘は言っていない。
実は先生の持って来た依頼、元々は警察が先生に依頼した物なのだ。
「警察からの依頼ですか、そうなんですか……」
そう言って彼女は黙り込んでしまった。
――何かがおかしい。この時そう彼は思っていた。もしも彼女が殺人犯だと言うのなら、なぜ職業を聞く必要がある。それも警察官と限定して。警察官かどうかを確認する理由は、警察に用事があるからだろう。もしくは警察に関わらない様にしているかだが、そうした場合、「警察ですか」とは聞かないはずだ。聞いて、相手が警官だった場合は目も当てられない。聞かない方が遭遇率は低くなるはずだ。
それらを踏まえた結果、この人は殺人犯ではないと彼は考えた。
そう思い、彼は警棒に伸ばした手を引っ込めた。そうして、相手の方にゆっくりと体を向けた。
暗くて良く見えないが、身長が低めで、とても線の細い少女がそこには立っていた。それ以外はよく見えない。どんな格好をしているのか、どんな顔をしているのかなどは、懐中電灯の光を当てれば、もっとよく見る事もできるが、そんな非常識なことをするつもりは毛頭ない。
とりあえず、現状では相手の情報が少なすぎる。これでは相手が何なのか、いったい何のためにこんな路地に来たのか全く見当もつかない。
――調べる必要がある。札を突破するだけの意思が何なのかを。
もしかすると、この少女は、この場所について何か知っているのかもしれない。そう思った彼は、まず手始めに、自分から名を名乗った。
「私の名前は桐生渚だ。この町で探偵をしている。勘違いしない様に言っておくが、探偵と言っても、殺人事件の捜査や誘拐事件の犯人を追ったりはしない。それ以前にそんな事はしない。あんなのは警察の仕事だ。基本的に私がしているのは、人探しや浮気調査と言ったごくありふれた物だ。今回この場にいたのは、ちょっとした事がきっかけなのだが、それは守秘義務と言うことで省かせてもらう。では次に、君の名前は何と言うのかな?」
「えっ! ええっと……その……あの……」
いきなりの質問に対して、少女はひどく動揺していた。無理も無い。さっき会ったばかりの人間に自分の名前を言うのは、どうしても抵抗がある。だから彼は、先に自分の名前を名乗ったのだ。相手が喋れば自分も喋れずにはいられないと言う心情を利用した駆け引きの技の一つだ。実にシンプルだが、純粋な者に対する効果は絶大だ。
少女は一度、大きく深呼吸をする。オドオドした気持ちを落ち着かせ、顔を少しそらし気味に、小さな声で話始める。
「えっと……、わたしの名前は陽(ひ)道(より)、大乗(だいじょう)陽(ひ)道(より)と言います。その……、読み方は普通なのですが、太陽の陽に、道幅の道と書くので、男の子みたいだって時々からかわれたりします。けど、私はこの名前が大好きです」
小さな声は徐々に大きくなっていき、最後には、はっきりした声で自分の名前を話していた。それには、とても強い意志が込められているかの様に思える。そして、彼女の心象と呼応するかのように、この暗い路地に月の光が差し込み、少女を照らし始める。
「そっか、君は自分の名前がとても大切なんだね。それじゃあ、その名前を付けてくれた人に対して、その感謝をいつまでも忘れずにね」
そう言ったあと、少しの間があってから「はい!」と彼女からとても良い返事が返って来た。月明かりに照らされて、今はその姿や表情がよく見える。
私に向けられている顔は、声と同じでとても幼く、ほころんだ表情をしている。背丈からして、おそらく中学生……いや、高校生だろうか。髪は肩にかかる程度に伸ばしており、その色は少し茶色に近い。服装は、最近の子が着ているだろう普通の物で、これと言って特徴は無い。四月だと言うのに長いマフラーをして、そのほとんどを首に巻かずに一回だけ巻き、後はそのまま下ろしている。この時期の風は非常に強く、そんな事をしていれば吹き飛ばされてしまうのでは、と思える。
「さて、お互いの自己紹介も済んだとこで、そろそろ明るいところに出るとしようか。月明かりは出ているが、まだまだここは暗いからな。そうそう、君は確か警察の人に用があったんだろう? ここで出会ったのも何かの縁だ、せっかくだから私が伝えておく事もできるが、どうする?」
上手い言い訳だ。そう言って、会話はまだ続くことを示し、同時に場所も変えようとする。誰もいない静かな所で話をするよりかは、周りに人がいて少し騒がしい方が、心の緊張も和らぐ。そうすれば人はより饒舌になり、話を聞き出しやすくなる。
しかしこのご時世、大人の男と中学生くらいの少女が、夜中に話をしているのはかなり不味い。最悪の場合、警察沙汰は免れないだろう(言い過ぎだと思うかもしれないが、これは冗談などでは無い)。この路地は、周りからは決して見えないが、その分見つかった時なお悪い。
――この少女から出来るだけ早くここに来た理由を聞き出し、この場を立ち去るのが最善の策だ。
そう思っていた。しかし、それは不可能となった。
「あの、すみません。えっと、今日はもう帰らないといけないので、お話する事はできません。ごめんなさい」お辞儀をしながら少女は言う。
「えっ!」 彼は思わず言葉が出てしまった。口を手で覆う。
「えっ?」 顔を上げて、少女も思わず聞き返す。
「いや、その……、何でもないよ、何でもね」ハッハッ、と誤魔化す。
彼は、この少女が断るとは正直思いもしていなかった。もちろん、断られる確率は決して低い物ではない。しかし、オドオドしていたり、言葉に詰まったりしているため、こういう場面で断れるタイプでは無いと思っていた。
――想定外だ。だが、何とかしてここに来た理由だけでも聞き出さなくては。そのために何か引き留めておける言葉を……。
そう思っていた彼のところに、意外にも、彼女の方から話しかけてきた。
「あの、それでですね、今日はもう無理なんですけどね、その、よろしければ……」
一度言葉を止め、深く息を吸う。目を開き、まっすぐ桐生の目を見て言う。いったい何を言うつもりなのか。
「明日の土曜日にでも、私の話を聞いてくれないでしょうか!」
「……は?」 彼にとってはこちらの方が想定外だった。
その後、この大乗陽道なる少女と、明日の午前十一時に駅内の噴水前で待ち合わせをする事になった。
「じゃあ、今日はこれで、失礼します」
陽道は桐生に対して、丁寧にお辞儀をし、この場をさった。
「……まあ、こんな事もあるだろう」――確率はとても低そうだが。
結局、彼女から得られた情報は名前だけだ。彼女がどんな理由でここに来たのかは、まあ、明日になれば分かる事だ。
陽道が去ったあと、彼はもう一度、異能の痕跡を確認して、他に異常がない事を確認する。その後で、また別の液体を吹きかけ、色を元に戻す。鮮やかな紫が、品の無い黒に変わる。
その後、彼がもと来た道を戻り、入った通りに出ると、道には人が溢れかえっていた。携帯の時計を見てみると、人払いの札を使ってから三十分を超えてしまっていた。
「まずい!」
この状況は非常にまずい。傍から見ると、彼は殺人現場から出てきた一人の人間だ。一般人相手なら、堂々としていれば問題は無いのだが、もしも、警戒中の警官にでも見つかれば、かなり厄介な事になる。
彼は急いで、先生からもらっていた規制線を使い、路地の入口に新しく貼り直し、逃げる様にその場を去った。
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