第3話
(気のせいか)
それにしても、ずいぶん突拍子もないものを見たものだ。夢の中でもあんなものは見たことはない。
どこかで薬でも吸い込んだかな、と思い返してみたが、覚えはない。和彦は酒もタバコもやったことはないし、試してみたいと考えたこともなかった。
調べてみると、宮沢賢治が原稿を書いていると書いた文字がやはり原稿用紙から起き上がって「こんにちは」とあいさつしたという話はある。しかし、それは常識的に考えて賢治が精神的な問題を抱えていたか、あるいは特別な感覚を持っていたかだろう、自分がそういった条件にあてはまるとは思えなかったしね第一自分が書いた文字ではなく、人が書いているのをはたから見ただけだ。
他の部員も気づいた様子はなく、改めて千晶に訊くのも変なので、この変事はそれっきりになってしまった。何か気づいているのではないか、と思える素振りを覚えることもあったが、気のせいだと言われてしまえばそれまでだった。誰に言われるわけでもなく、自分で自分に言っているだけなのだが。
しかし、舟木の千晶に対する扱いは次第に変わってきた。初めは好きに書かせていたのだが、そうしているとだんだん奇妙な文字を書くようになった。 釘のような鋭い線を組み合わせた、漢字というより象形文字そのものといった文字。ぐねぐねとした丸みを帯びた線の文字。
舟木は、それぞれ昔の中国の文字だと解説した。釘のような線の字は甲骨文字といって、まだ紙のなかった時代、なんと紀元前十四世紀の殷王朝(この文字も王朝も和彦は知らなかった)に亀の甲羅や牛の肩甲骨に刻んだ文字だという。漢字の漢が前漢・後漢合わせてキリスト教紀元元年の前後五百年にわたるのだから、その千年以上前ということになる。ちょっと見当もつかないくらいのあまりの古さに、和彦はきょとんとしてしまった。
さらにそれが発見されたのはかなり最近の十九世紀の後半、なんと漢方薬に使われていた竜骨(大型の哺乳類の化石化した骨)に刻まれていた傷が文字だとわかってから、だという。
なるほど、「日」とか「月」とか「山」といった文字を見ると、今の漢字とそれほど変わらない。
さらにそれは当時占いに使われていたものだろうと言われており、その研究が他ならぬ日本で進んでいたということを、先日見せられていた字典「字統」を参照しながら教わった。
千晶か書いているくねくねとした文字は青銅器に書かれたもので、篆書(てんしょ)と言うのだという。筆で書くこともあるが、彫ってハンコにすることも多い。
そう言って、舟木は自分の書の名前の下に押してある印を見せてくれた。そういうハンコが既製品であるのかと思っていた和彦は、あ、これも自分で作るものなのかと思った。
それにしても和彦は自分の無知ぶりを今さらのように知ったわけだが、特別に無知なのではないと開き直る気分もあった。そういうおそろしく古い文字を知って、しかもそれを毛筆による書法にアレンジして使いこなしている千晶の方がかなり変わっているのだと思う。
いつのまにこんな素養を身につけたのだろう。それもただ素養があるというだけでなく、妙な力のようなものを千晶の書は持っていた今どきの女子高生の持ち物としては何か違和感というか気味悪いような気がしてきた。
もっとも、これは和彦があまりに無知だったせいのようで、次第に先輩たちも主に舟木がいない時を見計らってだが、それらの文字や典籍の知識を披歴し始めた。それだけでなく、それぞれ自分のお気に入りの文章や詩を教えたがるようになった。
丸山は仮名文字が好きで、まるまっちい手で細いしなうような線を綴って「源氏物語」の抜粋を書き写していた。その上で和彦を完全に無視して美男子好きを公言している。さらにどうかすると、好みの美男子の絵を水墨画風に描いたりして、これが結構上手だったりする。
細野は角ばった太い文字で「天下布武」とか「風林火山」とか「兵者詭道也」 いった武将の名言や兵法絡みの勇ましい文字を好んで書く。
荒川は何のつもりか、般若心経を写している。全文を写すこともあるが、「色即是空」といった四文字熟語扱いで書くことも多い。そればかりか、原文であるサンスクリット=梵字で写す試みも始めている。制服着た女子高生が卒塔婆に書いているような文字やお経を写している情景というのは相当におかしく見えたが、当人は平然たるものだ。
こうやって見ると、この書道部はかなり変わり者の集まりのように思えてきた。しかしもともと周囲とあまり溶け込めずにいた和彦にとっては、それでかえってほっとするような気がした。
しかし変わり者揃いの部員の中でも千晶は浮いていた。初めから素養がある、というのはわかっていたことだし、それを見込んで部に誘い入れたわけでもあるが、ただ古典に通暁しているとか既に十分すぎるくらいの腕を持っているという以上の何か奇妙に周囲と違う時間を生きているような違和感があった。
そう感じるのは和彦だけではないようで、先輩たちも顧問の舟木もいろいろと課題を与えたり指導したりして、それにおとなしく不満も異論もとなえずに従ってはいるのだが、それでも(言うことを聞かない)(勝手なことわしている)感じは拭えないでいた。
一番短気な丸山など、どうかすると自分を馬鹿にしているのかと思ったらしく声を荒げたこともある。舟木が仲裁に入ってことなきを得たが、ちょっと難しいことになってきたと、一番の下っぱで女の中に男がひとり状態の和彦から見ても思えてきた。
どうも気が散っていけないので、もう少し集中して書道をやってみることにした。とはいってもただ書いていれば集中できるというものでもない。
和彦は、書道というとにかく精神を集中し、無心で書くものだという先入観を持っていたが、実際に無心になどなれるものではなかった。
座禅を組んでいる禅僧でも、本当に無心になどなれるものではない、仮になっているとしたらそれは眠っているのだ、と高名な禅僧が語ったという話を聞いたことがあるのを、和彦は思い出した。
そのあたりで舟木にとにかく型をなぞること、手先ではなく全身で書くようアドバイスされた。
この打ち込みはもう少し強く、打ち込んだらわずかに戻って力強さを出す、横線は右上がりに、とめ、はねはしっかりと。力を入れては止め、止めては一気に動く、リズムを常に意識し、文字そのものにリズムと命の息吹を吹き込む。絶えずそいった指示が顧問からも先輩からも飛び、ひとつの払い、ひとつの止めに神経を注ぐ。
しかし、なかなか思うようにいかない。 集中しようとすればするほど、無数の雑念が襲ってくる。
特に何度も頭をかすめては戻ってくるのは、なぜ、意味のわからない、読めない文字を書くのだろうという疑問だった。あまりに初歩的というか無知をさらけ出しそうで口に出せないでおり、またもし相手も答えられないなどということになったら顔をつぶして機嫌を悪くするのではないかと恐れた。
そうこうするうち、千晶が部室に出てこなくなったのに気付いた。いつも一心に筆を握っていた窓際の席には、カーテンが揺れているだけだ。
訊いてみると、先輩たちもそういえば来ていないし、特に連絡もないという。
和彦は気にしていることを知られるとなんだかんだ言われそうなので、しばらく何も言わなかった。とはいえ、五人しかいない部で一人出てこなければ、穴は目立つ。
そうこうするうちに、部に出なくなっただけでなく、学校自体に来ていないことがわかってきた。千晶のクラスに訪ねて行って訊いたりしたが、なぜ
出席していないのかわからないので、ちょっと問題になりかかっているらしい。
和彦は千晶の担任が訪ねて行ったりすると大ごとになるのではと心配した。なぜ大ごとになるのか根拠はないのだが、先に自分が千晶の家に行ってみることにした。といっても、家がどこにあるのか街も道も離れているうちにすっかり変わってしまってわからなくなってしまっていたので、舟木先生に訊くことにした。部長に訊くと、考えすぎかもしれないが良からぬ意図があるのではないかと勘繰られるような気がしたからだ。
と、舟木は自分も行くと言い出した。大げさではないかと和彦が言うと、実はどちらかというと千晶の母の方に興味があると言う。書家として名前を何度か聞いたことがあり、作品に感銘も受けていた。というか、あまりにさまざまな書体を使い分けるので、どういう人なのかと思っていた、興味があったと語る。
舟木について、単に顧問教師としての顔だけでなく、自身がれっきとした書家、あるいはかなりの程度、書の歴史研究家でもあることを改めて知らされたようだった。
いずれにせよ、訪れるのに男子生徒一人で行くより、顧問教師と一緒に行く方が遠慮しなくていいと、和彦はともに千晶の家を訪ねることになった。
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