第4話
千晶の家まではかなりの距離があったので、和彦は舟木先生と車に乗って千晶の家に向かった。
それまでもっぱら部室でしか会わなかった舟木と二人きりで車に乗っていると、運転するのにメガネをかけたせいもあって、先生がちょっと違って見えた。
「ところで、なんで先生は書道を始めたのですか」
そのせいか、なぜ舟木が書道を始めたのか和彦は自然に訊いていた。。
「母がやっていたから」
舟木はあっさり答えた。
千晶の家は山に入ったところにあるので、途中で車を降りて歩いた。
駅の近くのビルが連なっているような場所はまったく和彦の記憶にはない、あるいは引っ越すたびに見てきたのと似たり寄ったりの風景が広がっていたが、野山が連なっている中の歩いていると、どこか懐かしいような感覚に襲われた。
ある書道会の二代目会頭を務め、直接の弟子は何十人、孫弟子も含めれば何百人もの弟子を持っていたという。その中で書道を始めるのは自然なことだったと。一代目と二代目である母とは別に血縁があるわけではなかったし、派閥的にはむしろ傍流とみなされていたところから抜擢されたので、むしろ娘が書道をやって跡を継がないと恰好がつかない、ちゃんと血のつながりがある三代目ができて初めて安定するというのが舟木の母の考えだったが、 しか、舟木はそういう家元がかった制度にだんだん反発を覚えるようになり、自分の将来を勝手に決めないでほしいと高校一年の時にいったん書道をやめたという。
へえ、と和彦はおもった。
自分は事実上始めたのが高校一年なのに、同じ時期にやめたのか。
「それで、なんでまた始めたんですか」
そうね、と舟木は首をちょっと傾げた。
高校の時はまったく書道とは無縁で過ごしていたが、大学に入った時にやはりちょうど和彦のように部活の勧誘を受けたのだという。そしてやはり同じように、まったくそれまで習っていたのとは別の形の書と出会った。
「今思うと、それほど新しかったわけではないのだけれどね」
「どんなのだったのですか」
「よくあるでしょう。大きな紙に墨の塊をぶつけた模様のような、現代美術みたいな」
「ああ」
ちょっと女子高生が畳何畳かもある紙に自分の背丈より高いような筆で墨をぶつけているパフォーマンスというのか、そういう競技をテレビで見たような覚えがあったので、それかと訊くと、
「あれほど大がかりではないけれど、まあ似たようなもの」
「なるほど」
「ただ新しいから良い悪いとは言えないけれど、実は大がかりというだけだったらずっと昔からあるわけで、というか、しばらくやっているとちょっと違うかな、と思えてきて」
「そうですか」
「お金かかりすぎるってこともあったし」
和彦はちょっと笑ってしまった。
「大学に入ると一緒に家を出ていて自活していたからね」
それから教員免許を得て大学を卒業すると、再び母のもとに戻り、収集されていた先人の書を繙いてみて、改めてその価値を再発見したという。
舟木はあまり歩くのは早くなく、ゆるい上りになっている道を歩きながら、それまで交わしたことのない話を交わせたのは、和彦にとってちょっと新鮮な体験だった。
和彦は見覚えのある道にさしかかった。
やわらかい土を落ち葉が薄く覆い、ゆるやかにカーブしながら少し上り坂気味に山の方に伸びている。
かたわらの木々は記憶より伸びているが、自分が成長したせいかあまり大きくなった印象はない。
その時、落ち葉を巻き込んで一陣の風が木々の間を吹き抜けた。乾いた木の葉がかさつく音と風が運んできた土の匂いで、それまで曖昧にだぶってはぼけていた記憶と目の前の風景がぴたりと一致し、とたんにこのあたりの遊んで回った地形全体がありありと脳裏に浮かび上がってきた。
「あ、ここだ」
思わず声が出ていた。
「何がここなの」
舟木の問いに和彦は答えなかった。
幼い千晶が走り回るのを追いかける体感が蘇る。木に登った時の幹の感触が掌と内股にまだ残っているようだ。
(木?)
さらにもうひとつの図が蘇る。
(千晶と並んで木の枝に座っている)
何かまだ思い出さないものがある気がした。
「滝村くん?」
再び舟木に呼びかけられ、和彦は我に帰った。
「ああ、すみません。昔このあたりで遊んでいたもので」
「そう。行きましょう」
二人が歩きだすと、すぐ家があった。しかし近づいてみると屋根瓦がいくつか落ち、ぐるりの板は色褪せ、周囲の地面にはちらほら雑草が生えている。
人が住んでいる気配はない。
「ここではなさそうね」
「ええ」
和彦はそう答えながら、見覚えのある家だな、と思った。
前に来た時は、この家のまわりで遊んでいたのではないか。
「こっちみたい」
舟木が先に立って歩き出した。
たちまち木の密度が高くなり鬱蒼とした中、足元も舗装ではなくなって昔の神社か寺の参道のようなごつごつした石が出ている道になった。
(こんな道を毎日通って学校に通っているのかな)
いぶかしく思いながら、足元に気をつけながら歩くと、数十歩のうちに違う世界に足を踏み入れたような気がしてきた。
突然視界が開け、何か大きな動物がうずくまっているような建物が現れた。
特に建物が大きくて立派というわけではない。それでなぜ妙に巨大な印象がしたのか、と思って見ると、横に広い玄関にあたるだろう入り口からいくらもしないところに崖が迫っているのが見えたからだった。
崖ぎりぎりに建てられているのかと思ったらそうではなくて、崖の横っ腹をえぐって家を押し込んだとでもいった体裁になっているのだった。玄関から先、家がどういう状態で続いているのか見当がつかない。
(なんだ、これは)
当惑したのは和彦だけではなく、舟木も相当に困惑した様子でどう家の中に来訪を知らせればいいのかわからないようだった。
玄関は太い木の柱と梁に囲まれていて、明かりもついておらず薄暗い中、女物の履物が何足も投げ出されたように乱雑に並んでいた。
千晶のものだろう平底の通学靴の他、女物の草履やつっかけがいくつも見える。おそらく母親のものだろう。
しかし、男物と思しき靴は見当たらない。
「ごめんください」
和彦は大声を出してみた。
「ちょっと」
舟木がたしなめた。しかし、家の奥から反応はない。
奇妙な音が聞こえてきた。
ばたん、ばたんというような人が暴れているようでもあり、何かを叩きつけているようでもある。
(なんだろう)
和彦はやきもきしだした。
「電話番号わかりますか」
舟木に訊いたが、舟木は首を横に振った。
「わからない」
「携帯も、固定も、ですか」
「もしかしたら、持っていないのかもしれない。誰かとメルアド交換しているところ、見たことある?」
そう言われると、そういった情景は見たことがない。
今どき、男子相手ならともかく、他の誰ともメールアドレスも何も教えないでいる女子は珍しい。
「というか、携帯持っていましたっけ」
ふと気づいて、和彦がつぶやいた。
持っていなかったような気がする。そう考えると、相当に変わっでいると、改めて思えてきた。
また、妙な音がした。小さな、かさかさいうような音。
ふたりが顔を見合わせて耳をすませた時、どーんという巨大な扉を叩くような太い音が轟いてきた。
思い切って、和彦は靴を脱いだ。
「入りますよ」
声を出しながら、和彦は奥に入っていく。舟木も間髪入れずに続いた。
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