エピローグ

「――おい、貴様」


 魔王は、その呼称を受け入れたままの背中で声を張る。

 彼を、かつての自分を――勇者を屠り、無限に繰り返された転生の中で久々に得た快感を吐き出すように息を吐いた。

 瞬間的に生まれたのは、想像以上の虚無感である。


 仮に、この先に彼の人生が続くとしても、未熟だった頃の自分の体を嬲り殺す以上の快感など得られるはずがない。

 誰にでも消し去りたい過去はあるだろう。

 彼はそれを叶えてしまったのだ。


 廃れた心の中に快楽は一気に満たされていった。

 故に、後は枯渇していくばかり。

 乾いた大地のように、一瞬ほど潤ったところでまた乾き続ける。

 ひび割れた器で水は汲めない。


 彼は、そんな虚無の中で側近に声を掛けたのである。


「ソレを処分しておけ」


 顎で指図するように、目だけを覗かせ威圧的に一瞥する。

 視線に映るのは、そこに転がっているのは、ただの肉塊。

 彼にとってもはや何の意味ももたらさない、かつての自分の頭部だ。


 醜怪たるそれを不愉快そうに、彼は見下ろしていた。

 溶け落ちた胴体から切り離された断面には、水溜まりを作るように滴った血が残っている。

 彼はその視覚的な醜悪を咎めているのではなかった。

 魔王として座するべく、この玉座の間に相応しくない醜い物体を疎ましくしている。

 廃れた心ゆえか、あるいは、この肉体に宿る魔王の自覚か。

 かつての自分にさえ、もはや興味を失っていた。

 ただ、汚物を消毒する清潔さ。

 埃の処分にわざわざこの魔王の手を煩わせるまでもないという、あまりにも見下したかつての自分への評価だった。


「早くしろ……」


 側近は何を言うでもなく、静かに頭を下げる。

 完璧に、流麗に、体で忠誠を示すように美しい作法を持って御意に応じた。

 揺るぎない忠誠心すらもってしても、そこに汚物が転がっているという、魔王の苛立ちを中和することはなかった。

 もとより、今の彼の感情を左右できる存在など、まず現実にはありもしないのだろうが。


 勇者、もとい魔王。

 かつて、勇者として純粋に世界の平和を望んだ彼は、もういない。

 平和を求めて戦う勇者は、もはやこの世界に存在しないのだ。

 彼の目の前に転がっていた彼自身が、この世界に置ける事実上の最後の勇者である。

 彼は世を混沌に貶める存在と成り、忘れていた感情――愉悦を取り戻したのだ。

 あるいは、勇者と魔王の因縁が、彼の中でおよそ千度にも渡る人生を経て始末がついたことによりたがが外れてしまったのかもしれない。

 彼を僅かの所でつなぎ止めていた糸が解け、魔王で在ることを簡単に受け入れさせた。

 彼の廃れた心は、既に魔王然る器に達している。


「それでは、コレを処分しに参ります」


 側近が勇者の頭を拾い上げ、抱きすくめるように両の掌に乗せた。

 魔王の苛立ちを際立たせるかの如く対照的に、そこに嫌悪感や醜悪じみた歪な表情はない。

 涼やかな表情で、あくまでも様式的に職務をこなしている。


 勇者の首という、それだけで世界の支配者を裏付ける代物をさながら汚物同然に、あるいはこれ以上血や死臭を撒き散らさないように丁寧に扱う側近の姿を魔王は横目に眺めた。

 つい先刻の極度の高揚から崖から突き落とされるほど萎えたこの苛立ちを噛み殺すように、その原因たる嘗ての自分の姿を極力目から離しながら、退屈そうに眺めていた。

 結局、落ち着きを取り戻して気づいたのは自分自身の廃れた精神。

 勇者を――今でも後悔と羞恥だけを思い出す虚弱な自分を、自責の念すらも自らの手で壊してしまった魔王にこれ以上の至福は無い。

 これから魔王として生きる人生は、彼にとって今までの千度に及ぶ地獄のような人生と等しく苦痛に曝されることになるだろう。


 勇者という柵に囚われることのないだけに幾分か救われるかと、彼は独りでに考える。

 もっとも、逆に言えば勇者として魔王を討つという目標を定められてない手持ち無沙汰は、彼の廃れた心に退屈の文字を刻むことになるのだろう。


 陰鬱な気分に陥る主人を逆撫でしないよう音を殺して退室する側近の計らいは、虚ろじみた魔王に気がつくはずの無い配慮である。

 魔王の気に触れぬ所で、側近がまた別の意図を持って肝要に抱きすくめるソレの扱いなど、よもや魔王の知るところではなかった。



 ◆



 その場所がどこにあるかということなど、これから行われる行為が魔王の眼前でないこと以外には関係がない。

 薄暗い空間には一つの燭台の火が包むだけ。

 恐らく、そこは魔王の城の何処か。

 台座に供えられた勇者の生首は、魔王の魔法に溶けた皮膚や顔中に広がっていたはずの血の汚れが清潔さを取り戻している。

 首から下の肉体こそ損失しているが、それは安らかに、眠っているだけのように両の瞳を閉じていた。

 彼の死は誰の目から見ても明らかで疑いようのない事実ではあるのだが、生命の灯火を残しているような、あるいは、彼という存在の彼としての個を主張するように佇んでいる。


 身を分けたともいうべきか、精神を分けた勇者と魔王、複雑な意思が未だそこに宿っていると言っても過言ではない。

 今頃、世界を守れなかった後悔に苛まれているところだろうか。


 傍らに寄り添うのは、その処分を任されたはずの側近の姿だ。

 空気すら死んでいる程に沈静した空間で、側近は未だあどけなさを残した勇者の頬を静かに撫ぜる。

 輪郭に沿って艶かしく妖艶に指を這わせながら、返事もないはずの勇者に語り掛けるのだ。


「良く……本当に良く、この場所までたどり着けたものです。まだ幼いはずなのに世界の命運を託された勇者。私は貴方に敬意を払いましょう」


 悠然と離れていく掌は名残惜しむように最後まで指先を残し、その腕はそのまま胸の前に掲げられる。

 丁寧な所作を持って、側近は僅かに頭を下げた。

 忠誠の主君が塵同然に扱ったはずのそれに、側近は冒頭から頭を垂れたのだ。

 魔王の側近という立場から相対する、元勇者に敬意を払った。

 だが紛れもなく、そこに忠誠の揺れは断じてない。

 側近がこの世界で唯一崇拝する主君の意図とはかけ離れているやも知れぬが、側近が醸す勇者への敬意とは、云わば嘲笑的な意味合いも含まれている。

 赤子を褒める時の賞賛に等しく、そこに立場上のおごりはなかった。


「久しく、魔王様のお力を見ました。全身全霊、全力を出されたのは何時以来でしょう。あれだけ愉しそうな魔王様は、私の記憶の限りに珍しいことです」


 側近には、他の誰より魔王の傍に仕えている自負がある。

 その側近を持ってして珍しい光景、狂乱じみた魔王の破顔。

 側近の両の瞳に焼き付いた魔王の力は、恐らく、後にも先にもこれ以上のものはない。

 勇者と魔王の因縁の終止符はあまりに呆気なく、それでいて熾烈だった。

 その極限の闘淨に至上の愉悦を覚え、その光景に焦がれたのは側近も同じ。

 誰よりも至近で括目した力に魅了されたのだ。

 何よりも美しい憧憬が、瞼を閉じれば蘇ってくる。

 偲ぶだけで自然と綻び紅潮する頬を誰に咎められることなく、没頭するように悦に浸った。

 忘れようとも忘れることも出来ない、それだけ鮮烈に記憶に刻み込まれた。


 火照った体が落ち着くまでどれだけの時間を要し、どれだけの沈黙に委ねたことだろう。

 悶えるように吐き出した吐息で品を損なわないよう、淑やかな手つきで口元を覆う。

 側近の精到な礼式さえ崩してしまう、今更ながら行き過ぎた粗相に身形を整え直した。


「――強く、弱き勇者よ……」


 そして、再び語り掛ける。

 強く弱い、矛盾した相反する言葉に含まれた意味は、勇者としてこの場所まで辿り着いた、即ち強さを称賛し、あまりにも容易くこの成れに果てた、即ち弱さを侮辱した皮肉である。

 あるいは、その弱さもまた、敬愛する魔王にあらん限りの力を出させたことへの賛美だった。


「魔王様の御礼は如何でしたか? いえ……如何ですかと、言うべきでしょうか。今尚夢見心地の中に捉われていることでしょう。この世界の呪縛に、民衆の嘆きが、私の耳にも聞こえてくるようです」


 側近の言う言葉は勇者に届いていない。

 無論、民衆の嘆きなど側近にも聞こえてはいなかった。

 精神や魂という曖昧な部分に語りかける、言わば自己満足の口上である。

 ただし、魔王の側近ともある手練が満たされるだけの言葉では終わらない。

 続く言葉は変わらぬ賞賛を含め、あるいは羨望の意も翳っている。


「しかし、嘆くことはありません。むしろ光栄に思うべきこと。魔王様のお戯れ相手になったことは、他の何より誇りになる。それこそ、私からしたら……」


 含みのある口調で言葉を飲み下す。

 細めた瞳で見下ろす視線は何処か妬ましさすらあった。

 嘆いていても無駄だと悟り、魔王限定で被虐嗜好な卑しい思考を振り解くために小さく頭を振るう。

 魔王の力に触れることを想像しただけでも息を呑むほど行き過ぎた愛心を、今ばかりは片隅に追いやり此度こそ勇者を想う。

 失礼と、咳払いをひとつに続けた。


「その栄光に称え、永遠ほどに永き恒久の旅路のお供は出来ませんが、僭越ながらこの私からも贈り物を一つ、勇者へ……忌々しき、貴方へ贈りましょう」


 魔力の流れが具現化し、やがて空間に灯る明かりを塗りつぶすほど輝きを放つ。

 贈り物というには、それこそ死人への贈答品など価値がない。

 魔王と同じく、勇者の死後の世界にほんの僅かな花添えを、主君の祝福を殺さないよう。

 あくまでも、千度の旅路の邪魔にならぬよう、側近の側近として差出ない限りの付与を、魔術を唱える。

 死んだ勇者は知らぬこと、魔王すらも。

 あるいは、渦中の側近すらも、その想像を超えた付加価値を与えてしまったのかもしれない。

 それは無限の輪廻を表した。


「――また……また、もう一度魔王様の御破顔を見るために……」


 側近の表情に張り付いた破顔。

 あの時見せた魔王ほど狂気的ではないが、劣らずともそれとまた似ている。

 恍惚に歪み、沈着な雰囲気は最早無い。

 詠唱を終え、そこで初めてその魔術の意義を口切った。


「――もう一度、戻ってくるのです。勇者よ、貴方はもう一度この場所に戻ってこなければならない。魔王様を愉しませる為に、魔王様の御破顔の為に。この場所に、この時に、魔王様の最上の祝福を受ける為に! 何度でも! 魔王様に殺される為に! この時間に帰ってきなさい!」


 次第に興奮した口調へと、というよりも、狂ったような豹変を見せる。

 返事のない勇者の首へと乱暴に掴み掛り、息すら返ってきそうな距離に詰め寄っては止まることなく尚も続いた。


「千度の転生……? それはまた、地獄のように苦しいことでしょう。想像もできないような退屈に、心も廃れてしまいそうな。だが、足りない! まだ足りない! その程度で魔王様の悦が満たされると思うな、勇者! 貴方はまた何度でも、この場所に帰ってこなければならない!」


 肩は上下に、吐息は勇者に、死人とは思えない綺麗な顔の、前髪が靡いた。

 冷めやらぬ興奮は無理やり落ち着きを取り戻そうと、噛み殺すように呼吸を整える。

 返事のない怒りか、あるいは嫉妬であり、不倶戴天の敵としての性である。

 いずれにしても、目の前に在るはずの相容れぬこの狭間が気に障っているのだろう。

 それは所詮弱者たる所以であり、側近は余儀なく受け入れざるを得ない。

 今一度深い呼吸を経ては漸く満足したのか、再び嘘のような甘い声で囁くのだ。

 気に触れた声を忘れ、さながら、恋人同士の耳打ちのように。


「千度の死を経た暁には、またこの場所へ帰ってくるよう。死んだ心は魔王様をきっと、愉しませていただくことでしょう。只々死ぬことを千度繰り返すだけではつまらない、その終止符に、私なりの花添えを――いえ、魔王様の為の、華となるのです。それが、私からの囁かな贈り物……」


 その想像の中は、既に勇者への興味を失せていた。

 あくまでも敬愛すべき主君のため、曰く、またあの狂気的な破顔を見るため、妄想の中には所詮魔王への愛心しかない。

 弄ぶだけ弄び、飽きたように突き放す。

 魔王と同じく、だが、やはり丁寧な所作で、自分と共に勇者の身なりを整えた。


「それでは、御逝きなさい……」


 別れは余りにも淡々と、ふっと息を吹きかけるかの如く魔術を唱えては、蝋燭のように勇者の首を炎が包み込んでいく。

 ほんの僅かな最後の灯火が儚く消えると、そこは跡形もない。

 塵すら、勇者の闘諍の痕跡すら、恰もそこには初めから何もなかったように絶えた。


 死んだ後には何も残らない。

 例えば、死んだ者の人生が後に千度続くことになろうと、理不尽な苦痛が続こうとも、彼がこの世界で絶命した事実は覆らない。

 誰が認めるでもなく、殺した者も、看取った者すら、その事実に対する興味を失い目を瞑る。


「……また、その時が訪れることを待ちましょうか」


 側近は侘しい独り言を呟き、踵を返した。

 二、三歩、軽やかな足取りが進みかけたところで、ふと思い出したように脚を止める。

 ああと、白々しい声を上げては、頭だけを振り向きざまに態とらしく嘯いた。


「――それは、先ほどの闘いになるのでしたね」


 魔性の微笑みが勇者の残像に留まる。

 永遠に、無限の時をさ迷うしかない勇者の哀れな運命に、側近は嘲笑を隠せない顔を背けるのだった。



 ◆



 勇者を、かつての自分を殺し、その後処理を側近に命じ一人残されることとなった魔王は、嫌でも頭の中で考えてしまう。

 千度の命を終え、戻ってきてしまった元の世界。

 未練など遥か昔の記憶に捨て、情もない。

 何が、誰がこの世界に自分を縛るのか、と。

 そんなことを考えたところで、きっと無駄なのだと諦め虚空を睨んだ。


 他ならぬ自分自身がかつての自分に地獄のような理不尽を強い、それを自業自得というならば、本来の自分が勇者か魔王か、根底から全てが否定される。

 それこそ、そんなことを考えていては永遠に終わりなど来なかった。


 勇者と魔王、自分とかつての自分、その認識が成立してしまった時点で、全てが破綻している。

 魔王となり、勇者を殺し、千度の命を強いた他に、別の何者かが魔術を吹き込んだ。

 否、最早元々そういう呪われた運命だと納得したほうが手っ取り早いような、やはり考えるだけ無駄である。


「私ではない私が、無限の時に取り残されている、か……」


 適当な結論に至ったところで意義を成さない。

 無論、千度の下らない人生の一部に、側近の企てが働いていることなど魔王は知らない。

 それだけに、混沌としていくばかりの脳内に整理は付かず、やがて考えることを放棄せざを得なかった。


 静寂の中に帰った気配が、魔王に最後の疑問を抱かせる。


「――私は何者だ?」

「……はい?」


 忽然、無遠慮に魔王は問う。

 思いがけず惚けた返事に、高圧的な口を続けた。


「私は、何者に見えるのかと聞いている」


 その視線は何を捉えているでもなく、変わらず虚空を眺めていた。


「――魔王様は、魔王様に御座います」


 あるいは、忠義の成す、慰めのような答えだった。

 そうかと、疲れたような、染み入って納得するような声が静寂に飲み込まれていく。



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転生―勇者はそして、魔王へ― 八斬 @yzn

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