最終話
「なぜ……ここは……」
勇者の絶句が静寂する空間に響いた。
禍々しい瘴気が噴出す、広く暗い空間。
闇に相反して輝く、圧倒的豪奢に覚めたばかりの目が眩む。
例の如くとして存在したはずの知らない天井が見当たらない。
この場所はむしろ、知っていると言うべきか、忘れるはずもない光景だった。
「――如何なさいましたか、魔王様?」
繰り返す声は勇者を呼称しているのか。
だがしかし、少なくとも勇者が、この場所を、こちら側から見ることなど、ありえない。
蘇るひたすら遠い記憶は、今彼が座る、その光景を思い出している。
「これは……これは、一体……?」
勇者は腕を持ち上げる。
ずしりと重く、宝石が散りばめられた漆黒のローブを纏った白い腕。
細く、華奢で、それでいて異様な力を感じる。
彼は頭に浮かぶ想像を、頭を振って否定した。
しかし――。
「――魔王様?」
更に繰り返す声。
否定する想像とは裏腹に、記憶に存在する光景が肯定する。
彼は、魔王の姿をしている。
忘れるはずもない。
初めて、彼を殺した魔王。
初めての世界の魔王。
正真正銘の彼として存在した世界の魔王。
新たな世界へ巡り、後悔を呑まされた魔王。
あの日魔王が座した玉座で、勇者は魔王の姿で片肘を突いている。
悠然と開いていく空間の扉を、放心しきった目で見据えた。
「――さあ魔王。お前を倒しに来たぜ!」
剣をかざす、威勢の良い青年。
彼は、彼こそが、この世界の勇者――かつての『彼』だった。
思い出せば思い出すほど、記憶が蘇る。
そういえばあの時、確かに同じ言葉を吐いた。
自分を鼓舞するためであり、隠しようのない感情の表れだ。
幼稚な言葉遣いからも、あの時の勇者は今の彼が認めるほど勇者として愚かだった。
そして確かにあの時、この決戦の時。
魔王の言動に違和感を覚えた。
約千度も前の人生であるはずなのに、不思議とその時の感情を鮮明に覚えている。
「なるほど、今の私がまさにそうだ」
彼は小さく呟いた。
千度目の転生は、時間を遡り、魔王となり、勇者と対峙している、ということで彼は納得した。
合理的ともいえる、いつの間にか染み付いてしまったそんな思考が、無理やり納得させた。
「魔王様。あのような雑魚など私が葬ります。魔王様の手を煩わせる訳にはいきません」
今となっても良く分からないが、この声の主は魔王の側近なのだろう。
これだけ蘇る記憶の中で、居たような居なかったような、曖昧な存在である。
勇者であり、この場では勇者ではない彼は、侮辱されたことにもどうとも思わない。
それほどまでに廃れている。
対照的にと言うべきか、そんな挑発で逆上するかつての自分が、どこか情けないくらいだった。
「良い。退け。私が相手をする」
彼は悠然と立ち上がった。
先ほど腕を持ち上げただけで異様な力を感じたが、立ち上がるという誰でもするようなこの動作だけで、彼は更に異様な力を感じた。
否、魔王が持つ力が、全身を駆け巡っただけだろう。
妙に、あまりにも、とてつもなく妙に、体が馴染む。
今までのどの身体より、千度経験した人生の中で何より、それこそ今目の前で見据えるこの勇者の身体よりも、ありえないほどに馴染んでくる。
力が湧き上がる。
彼は昂ぶる気を抑えられない。
うずうずした。
この勇者に、かつての自分に、この力を解放できると想像しただけで、言い様のない快感を覚えた。
「来いよ魔王。来ないなら――こっちから行くぜ!」
だんっと、勇者が地面を蹴った。
「愚かな……そんな馬鹿正直な直進で捕らえられると思ったか? 分かるのだよ私には。全ての貴様の行動が……」
勇者に一瞥も下さず、つらつらと綴る。
蘇る記憶、あの時の思考。
そう、それは――。
「貴様は私だからなぁっ!!」
振り下ろした勇者の剣を素手でつかむ。
強引に吹き飛ばし、勇者の肩をつかむ。
「あの苦痛をっ! 地獄よりも厳しい体験をしていない貴様の愚考など、全て私には分かるのだぁっ!」
あの時の一振りは、渾身だった。
長い旅路を経て、全てを乗せた一撃だった。
簡単に吹き飛ばされたのを覚えている。
凄まじい形相で魔王に捕まれ、それに浮かぶ狂気的な獰猛な破顔に、絶望と恐怖を味わった。
「さあ、光栄に思え勇者! 今私が、私の最高の力を持って殺して差し上げよう!」
彼はかつての自分を突き飛ばし、手を掲げる。
魔力など使ったことなかったが、今の彼は知っている。
このとてつもなく馴染んでくる身体が教えてくれた。
鳥が自由に飛べそうなほど広い空間。
空間が禍々しく唸りを上げ、空間を埋め尽くさんばかりの魔力が集う。
どす黒く、何とも形容しがたい色が頭上に広がる。
彼は、無残にその手を振り下ろした。
「ハァーハッハッハッハ!!」
轟音の中、喜色を上げる。
久しく味わった快感だった。
何者にも勝る、何者も与えることが出来なかったはずの快感が、彼を満たす。
全身を巡る血の、心地よさ。
ひとしきり満足し、大きく息を吐き出し、大きく吸う。
「ハァー……エクスタシィー……」
舞い上がる砂埃が落ち着き始めた頃。
そこには勇者の――かつての自分の頭が転がっていた。
首から下は見事に溶けてなくなり、表情を失っていた。
「ありがとう、勇者。君に敬意を払い、礼をしよう」
何が良いかなと、彼は子供のように悩んだ。
浮かび上がってきた最上のアイデアに、口元がほころぶ。
そうだと、声を上げた。
「面白いことを考えたぞ」
肉片となった顔を雑に掴み上げ、そして囁く。
「君に転生させてあげよう」
肉片に、返事はない。
「例えば……そう――千回くらいはどうだ? おもしろいだろう?」
他には他にはと、思考を巡らす。
全てが可能な気がした。
この肉体なら何でも出来る。
例えば死人に転生させることも、例えば千度ほど理不尽に繰り返すことも。
あらゆる特典を、考え得る限り付与し、魔術を唱える。
「私だけでは寂しいからな、君にも同じ体験をして貰いたいじゃないか」
何事もなく唱え終わり、言葉を掛ける。
興味を失ってしまったように乱暴に放った頭が地面にぶつかり、ごとりと、鈍い音を上げた。
彼の思考は、その肉体と同様に、かつての心も忘れて醜く成り代わった。
「お見事です、魔王様」
勇者――魔王は、獰猛に邪悪に口角を吊り上げ、その呼称を受け入れるのだった。
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