第19話

「恋人、か……」


 哀愁漂う呟き。ため息を吐きたくなるほど、羨望や嫉妬が入り乱れる呟きだった。

 誰にも気づかれないように吐き出したつもりだが、エリスへの返しの言葉として必然的に注目は集まる。もとより、この場の主たる俺の言葉が通りやすくなることもまた必然。


 恋人と、聞けばどこか彼女の様相がより女性らしくも見えた。否、エリスがこの場所に連れられた最初から女性らしさという意味では十分に魅力的に見えている。奴隷という立場がその価値に傷を付けているだけであり、そして女性としての価値を求めていなかったことが俺の目に曇り硝子を掛けていたのだろう。


 恋人とはつまり、当たり前だが勇者にとっての彼女であるということ。

 遠距離恋愛とは随分と仲睦まじいことだ。彼女いない歴=年齢のまま魔法使いになるでもなく魔王になってしまった俺に、どういう領分で顔を出したものか。言うしかない状況に追い込んだのは他でもないこの俺だが、自慢されたようでむかっ腹に来る。

 ただ不思議なもので、こういった嫉妬が女性へと向くことはなく、勇者へと向くことは同性の性なのかもしれない。

 もっとも、当の者にいけずな感情が一切ないことも事実である。


 どこの世界でも本人の意図しないところに嫉妬は芽生えるものだ。

 そんなことを考えつつ、俺の小言が嫉妬などとは決して悟られないよう咳ばらいを一つ。

 改めて様相を整え、エリスへと詰問を続けた。


「恋人……いや、それにしても恋人か……なるほど、まあ、なかなかどうして彼の者も隅には置けんものだ」


 こんな日々に考えられたことではなかったが、何より魔王ともある存在におけるそれに当てはまるほどの人物を欠片も想像できなかった。そして無意識のうちにそれを考えていなかったのは、恐らく俺である。

 前世で彼女も出来ぬまま儚く散った俺という意識を引き継いだこの魔王だけに、色恋沙汰など荷が重い。

 非リア充的思考かつ魔王として培った独裁者的思考に、恋愛など結びつくことなどなかったのだ。


 否、一方的な恋心は確かにある。忘れもしない、俺がこの世界に来た瞬間から一目惚れしたただ一人。

 ただしそれは魔王であって高嶺の花というか、そんな関係すら想像出来なかった俺が、そんな関係になることなど想像するもおこがましい。何よりも、そういう関係を望むことは彼女のこの魔王への忠誠に釣り合わないのだ。


 羨ましくも仰望はできない儚さ。

 実ることのない恋心を抑えながら、他人の恋路に首を突っ込むのも甚だ空しくもある。


「エリス、と言ったな。此度はじっくりと話しを聞かせてもらう。それにあたって、実は貴様に贈り物を用意してあるのだ。この魔王からの餞別であるぞ」


 ガーネットと、俺が耳打ちするような声で呟けば、傍らの彼女はすべてを理解して魔法を使う。


 手を伸ばせば届くはずでありながら、高嶺に大輪を広げる絶世の花。あるいは、足元に咲いたはずの、それでいて摘むことは許されていない花。

 命令をすれば従ってくれる、どんなこともあろうとこの魔王にかしづく忠誠。そこに手を伸ばすことができないのは、俺の勇気が足りないだけかもしれない。

 綺麗な花に付いた棘ごと握りしめる勇気もない、怯弱な幽かさ。


 裏切り行為にしかならないことを知り、手を握ることも出来ない女々しさとは。

 せめてこの距離感こそ魔王とその従者として正常な位置だと信じていたい。


「その腕の拘束も外してやって構わん」

「よろしいので?」

「別段、抵抗するような力があるでもない。ガーネットにもまた拘束に変わる抑留を用意させているとも」

「魔王様が仰るのであれば」


 ふと痛々しく見えて、エリスの腕に縛られた拘束を外させる。所詮、村人ほどの人間に抵抗する力がないことは周知のこと、マルクの念入れの確認も理解できるが無用な心配である。もとよりガーネットちゃんに命じたことは他でもない、拘束を外したことによるエリスからの危害を抑制する手段だ。もっとも、それもまたたかが知れている。

 そうも言っているうちガーネットちゃんの方は準備できたようだ。これもまた耳打ち一つで望みどおりにしてくれることだろう。


 拘束を外されたエリスは縛られていた腕の動作を確認するように体を動かした。

 短くはない時間を縛られた腕が軋んで痛みを覚えてか、時折少しだけ苦痛の表情を浮かべて俺を睨んでくる。その表情は、気弱な人間でありながら決して折り合いを見せはしなかった。


「マルク。其方らは下がって良いぞ。引き続き勇者の故郷の者共から益のある情報を集めてもらいたい」

「畏まりました。それでしたら、この者が逃亡することの無いよう見張りの一人でも残していきましょう」

「いや、その必要はない。先にも言ったが拘束に変わる手段は用意してある。もとより人間一人逃がしてしまうほどのろまではないさ」

「これは、出過ぎた真似を。重なる非礼をここに」


 おどけた様に嘯いて見せては、配慮からの無用になった進言を詫びるマルクに掌で制す。何も悪い気を起こした訳でもない、詫びる必要までは迫らなかった。

 マルクもそれを理解してか俺が制するも前に略式的に下げようとするだけ、冗談が通じてくれる。

 それも人間との価値観の差なのか、無礼だと攻めよりかけたガーネットちゃんにも同じく掌で制する。俺としてはもっと砕けた姿勢で良いとも思うのだが、彼女の凛とした厳格さもガーネットちゃんの魅力の一部だとも思うわけで。ガーネットちゃんに限らず魔族の配下たちは堅苦しい気がする。

 同じ配下を比べるのも無粋だと、これ以上の思慮はやめておいた。


 エリスだけを残させてマルクたちには下がらせる。そこに魔王への疑いはなく、ただの一人を逃がしてしまうような手落ちは起こり得るはずがないという信用が、素直にマルクたちの脚を下げさせた。傍らの彼女の存在がその信頼に一翼を担っているとしても、彼らがこの魔王の期待に背くことは断じて無い。

 俺が連れて来いと言うなら連れて来て、下がれと言えば下がる。魔王の命令はもはや事象として刻まれ、遂行することに疑問はないのだ。

 魔王とはそういうものであると、魔王として生きてきた短い時間の中に俺が見つけた、それもまたただの事象にすぎないが。


 監視の目が消え、狭い状況下における束の間の自由を得たエリスは尚も鋭い凝視をやめない。監視される者の立場が逆転したと言えなくもないが、その眼差しを然るべくとして受け入れる。奴隷と主の関係の前に、支配する者される者の立場が生み出す憎悪はやむを得ないのだ。それは圧制や脅迫で埋めることのできない、そもそもそれらが生み出した敵意である。


 勿論、俺にはエリスの敵愾心を咎め立てする権利がある。奴隷と主の関係が否応にもなく可能にしているからだ。支配する者とされる者の関係とは、本来恐怖と媚の眼差しで満たさなければならない。それは同時に俺の中に罪悪感を両立させていた。


「エリスとやら、そう嫌悪ばかりでは気も持たんぞ。この期に及んで敵対心などつまらないだろう」


 エリスの怒りは確かだ。あるいは、俺の発言は彼女の怒りを焚きつけているだけなのだろう。

 だが明らかな確執が心苦しい。決して晴れることはない敵意は、俺の罪悪感を容赦なく刺激してくる。


「これ以上、この魔王を憎んでどうなる。故郷を失った、それ以上に失うものなど無いはずだ。その上で魔王を恨むことに意味はなかろう。つまらん敵意など捨て、仲良くしようじゃあないか」


 この罪悪感こそが既に魔王として未熟の烙印そのものであるが、言葉にして初めて晴れやかになった部分もある。エリスの敵意がつまらないものであるはずがない、開き直って吐き捨てることで、俺の中の後ろめたさに区切りがつく。


 故郷を失った、奪ったのは俺だ。

 全てを、平穏や人としての尊厳すらも奪い、壊した。


 他人からの怒りがこれほども心地良いことなど、この瞬間以外に訪れることはないだろう。


「ふざけないで。お前が私たちにしたこと、分からないとは言わせないわ……!」

「分かっているさ。だから謝罪をしているわけではない。ただ、所詮失うものも無い身に、この魔王が仲良くしてやろうと言っているだけだろう? 拒む理由があるのなら、逆に聞かせてくれたまえ」


 エリスを逆撫でするよう、嘲笑を含めて小ばかにした態度を敢えてとる。

 俺の罪悪感とはつまり彼女の怒りだ。ならばせめてその鬱憤、鬱憤ほどで収まらぬ果てしない激昂を解放しなければならない。

 彼女の怒りが、正当で克明な怒りこそが、魔王として不当な罪悪感を晴らしてくれる。


「ふざけないでよ……」


 エリスはようやく俺への眼差しを俯かせ、震える声を絞り出した。静かな、それ故明確に怒りと判断できる声だった。

 その仕草を一つずつ見ても指先から力が込められていることが分かる。女性らしく華奢な腕が作り上げる拳は、あるいは女性らしからぬ意気を持ち、込められた力のやり場を探そうとしていた。否、既に見つけた上で手持無沙汰にされていると表現した方が正しいか。


 目下にあるはずの距離はされど果てしなく開いたように力のやり場を遠ざけている。

 一歩、踏み出した彼女の足取りは重い。悠然としていてその距離をより遠くさせているようにも見えた。


 彼女の中に未だ残った迷いこそが、足取りを遅くさせているのだろう。魔王への恐怖と怒り、作り上げた拳を振るうと後戻りはできない。もとより後に戻ったところで失うものはないと知っていながら、自らの命を惜しんでいるのだ。魔王への反逆が命取りになるなど知れたこと、彼女が力のやり場に迷うのは必然である。ただ、こみ上げた怒りが止まることは出来ないところまで来ているのも事実だ。


 そしてその怒りこそは、勇者という唯一の希望を強く信じているからこそ沸き上がったもの。

 今ばかりは正当である怒りに、眼前にして背中を押してやった。


「勇者のことなど忘れて平伏せ、彼の者はこの魔王が壊してやろう。そう、貴様の故郷のようになあ」


 勇者。それは彼女、彼らに残されたただ一つの希望。

 この魔王の口から聞くその一言は、エリスの琴線に触れる。


「魔王うううう――っ!」


 あるいは、他ならぬ故郷の侮辱こそが彼女の怒りを触発したのかもしれない。

 目の前で壊された故郷のように、恋人までを、勇者までを奪われる想像をしてしまったのかもしれない。


 そしてまた一歩、エリスが踏み出した脚は遥かな進歩を刻んだ。この魔王への距離を文字通り目前にと戻した強かな足取りだ。

 煽られた憤怒のままに轟然たる速度を持って目前にと迫った。


 勿論、予備動作を見て十分に躱すことも止めることも出来ただろう。所詮ただの人間程度が成せる疾走を見極められないわけがないのだ。何よりも、怒りから見える予期はあまりにも容易い。

 そしてそれは同時に、傍らの彼女の仲裁も可能とさせていた。事実ガーネットちゃんはエリスを制止しようと声を荒げ、腕を伸ばした。魔法の制御に多少の遅れは見せたもののエリスを止めるには十分な反応だったが、それを先ほどと同じく制したのは俺である。


 掌を向け言外に制した、ガーネットちゃんの虚に衝かれ漏らした声を当のエリスは気づかず横を走り抜ける。頭の一、二つ分ほど高く設けられた玉座の下へ、その拳を振りかざしたまま躊躇いもなく迫ってくる。

 拳はそのまま俺の胸を叩いた。


「返しなさいよ! 私たちの村を、平穏を! 人としての尊厳すらも私たちから奪って、傷つけられた私たちの心を返しなさい! 決してお前なんかが踏み入ってはいけなかった、私たちの普通の暮らしを返して!」


 あまりにも切実で、それ故に悲痛な叫び。

 大切なものを失った、しかし、後悔することすらできない理不尽が涙となって零れる。


 どれだけ懇願されたとて、俺はエリスに故郷を返してやることは出来ない。魔王としての立場も含め、あの日あの場所に存在した平穏、村というその空間はもう壊されたのだ。俺という意思がどうであれ、魔王としての認識はそこにあったものが壊れただけの、子供の玩具が壊れたようなものだ。

 そこにどれだけの思い入れが染みついていようと、客観的な視線は所詮ただの事実として以上の感情はなかった。


 エリスは何度も俺の胸を叩いた。怒りのまま、悲しみのまま、魔王に対して成すその行為の意味を忘れ俺の胸を拳で強く打ち付ける。


 されど、この胸に痛みまでは届きはしない。

 何度も、何度も打ち付けてくる拳に込められた力は、この魔王の身体には届かなかった。


「――き、貴様! 魔王様に何をしているのです!?」


 俺の制止とエリスの行動に呆気を取られ、その末を見届けたガーネットちゃんはようやく自分の本分を思い出したようだ。何度も俺の胸を打ち付けた拳を、今また本能のまま振りかざしたエリスを引き剥がすように止めてくれた。


 エリスとて力を入れた体を、簡単に引き剥がすガーネットちゃんの力が人間と魔族の差を表している。強引に引っ張られたエリスは、その身を宙に浮かせるほどの力には逆らえず地面に転がり伏せた。

 宙から落ちるほどの衝撃も然ることながら、簡単に引き剥がされた事実と、決して魔王には届かないという無力感は先ほどまでの威勢を失わせるには十分だった。


 ガーネットちゃんが類例のない無礼を目撃した放心とそれを見逃した失態に取り乱した呼吸音、あらゆる感情に揺らいだエリスの嗚咽の中で、ただ一人俺は冷静を装う。状況はそのまましばらく動かない。玉座からエリスを見下ろす目は、俺自身の目ではないかと思うほど冷たかった。


 痛みこそ無いものの、打ち付けられた箇所に残された熱の感触が俺の中から何かを浄化させていく。

 それは恐らく罪悪感である。エリスが喪失感に捉われているように、彼女の怒りに比例して俺の罪悪感が潜めていったのだ。否、彼女の怒りと俺の罪悪感は一概に同等とは言えないが、痛みには足り得ない熱が罪悪感を挿げ替えてくれているのだろう。


 この程度のことが罪滅ぼしにならないなんてことは、重々に承知している。ただ、怒りの形を見ることに初めて晴らされた。俺が魔王として背負った業を、初めてエリスは目に見える形にしてくれた。

 痛みには足り得ない、されど胸を突き刺してくるこの痛みに救われる。

 感謝とはあまりにもおこがましい。


 俺は涙を携えた虚ろな瞳を見下ろしながら、ガーネット、とだけ名前を呼ぶ。傍らの彼女は身を震わせながら慌てて様相を整え、こんな状況でありながら理解が早く様式的な返事だけを口にした。今一度魔法の制御を解放して、数瞬ほど輝く発光に俺は目を窄める。


 無力に拉がれるエリスを取り囲んだのは円柱型の檻だった。幾つも連なった冷たい鉄の柱が罪人を捕縛するかの如く、無力な彼女を無慈悲に取り囲んだ。

 謂わば転移の魔法の応用らしい。ガーネットちゃんの魔法が檻を呼び寄せたのだ。


 エリスは顔だけを動かして檻の存在を確認したが、しかし、横たわったまま無関心に抵抗もしない。

 俺はそんな姿に満足とばかりの表情を作り立ち上がる。


「気に入ってくれるだろうか、エリス。これがこの魔王からの餞別だとも。多様な話を聞かせてもらえるよう、我なりの趣向を凝らせてもらったのだが……もっとも、その様子ではあまり意味もなさそうだな」


 今度は俺から、悠然と歩み寄っていく。

 エリスの表情は怯えているでもなく、変わらず抵抗する様もない。未だこの胸に残った熱の感触の報復にしてはちんけだが、あるいは、逃げ出す場さえも奪われて抵抗も無駄だと悟ったか。


 檻の前にと立った俺を目だけで見上げてくる。俺は跪いて手の柱の間に腕を通した。強引に顎の下からエリスの顔を俺の目線に持ち上げて語り掛ける。


「今日からほんの少しばかり長い時間、ここに居てもらう。せいぜい迎えを待つことだ」


 それは何時のことになるか分からない。

 ただ間違いなく、必ず何時か来たる瞬間。


「恋人を信じ、檻の中で迎えを待つお姫様。さながら鳥籠の姫君、といったところか。実に夢見的で美しいじゃあないか」


 エリスの中に残された唯一の希望。勇者の存在。

 彼女にとっては恋人でもある、彼の者がこの場所にたどり着くのは何時のことになるだろう。

 何時になろうと、少なくとも俺に出来ることは彼の者に通用する手段を蓄えるだけだ。


 鳥籠の姫君。きざったらしい言い回しだが、恋人とはつまり弱点にもなり得る。

 俺はその意味を今一度この胸に刻み込んだ。

 彼女に打ち付けられた熱の感触は、もはや無くなっていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る