第16話
転移の魔法によるあの浮遊感の余韻を味わいながら、長閑な空気に身を委ねる。
この骨の肉体のどこに染み渡ろうというのか、それでも心地よい空気だ。
閑散とした、それでいて活気づいた平穏な村。
今この瞬間、数分後に待ち受ける惨状を想像できる者など居るはずがない。否、俺たちだけは、この魔王軍だけは彼らの悲劇を強く想像している。
この魔王の後ろに従うは一人の腹心と、数十体にも及ぶ骨の騎士たち。
彼らを前に一介の村人が抵抗する手立てなど存在しない。この魔王の前に軍門に下ろうという奇特な人間も居たものだが、その者ほどの魔法を扱えるような存在はそう多くないだろう。というより、それだけの手練れがこんな辺境の地に居座るはずがない。
俺たちは今から彼らを奴隷として屈従させるべく、力を奮う。
力を持たぬ人間には理不尽であろうと、この数十に及ぶ騎士たちが、この魔王が彼らを屈服させるのだ。
魔王軍が誇る数百数千の兵たちは、今ばかりはこの世界の各地へと分散し、理不尽に奴隷を確保して回っている。その末端に過ぎないはずのこの村に魔王が自ら足を運んだ理由、奴隷となる者への手向けとは、ただの自己満足だ。
ここは勇者の故郷である。勇者を知る者が多く居るはずの場所である。
勇者に対する人質という意義に重点をおけば、第一印象として魔王の恐怖を刻み込むことは効果的であるのかもしれない。勿論、そんなことはこの非道な手段の結果に付いてくるだけで、俺の自己満足を隠すほどの理由にはなってくれないのだろう。
ならばせめて、この魔王に絶対の畏怖を刻み込まなければならない。反抗の意思すら恐れ多いほど、彼らにとって希望すら持たせてはしまわぬほど、それが悲しい結果を生むだけだとその身に理解させる。
否、勇者というただ一つの希望を、縋れるものをたった一つだけ残して。
「ごきげんよう、勇者を知る者ども。突然だが、貴様らには我が魔王の軍門に下ってもらう」
悲劇とは掛け離れた、正に平穏を刻むひと時の中に、突如と現れた恐怖の権化。
当然の如く誰一人とて冷静に居られた者は居らず、誰かの驚愕の声が聞こえる。
「――なっ! ま、魔王!?」
勿論彼らがこの魔王の容姿など、長き封印から目覚めて以来、居城にて活動を狭めていたはず魔王の姿など知るはずもないだろう。それでも村に口々と広がる絶望の輪唱は、俺を魔王と認めて勢いを増していった。
人々にとって希望の象徴、勇者。その対となる絶望の象徴を、彼らが見紛うはずがないのだ。
彼らが冷静な判断に駆られ逃げ惑うより早く、俺は背中越しに命令を下す。
さながら希望と絶望を表す対と同じく、彼らの恐怖に反してあまりにも淡々と呟いた。
「捉えるのだ。一人残らずな」
その命令を下してからの、先の光景は悲惨である。
足が竦み動けないことも関係ない、勇ましき男の抵抗すらも、か弱き女の悲痛の叫びすらも、未発達な、衰えた筋力による無抵抗すらも、全てこの目に焼き付けた。彼らの怨念、憎悪が耳に残る。俺は魔王だ。こんなことで胸を痛めているのは筋が違う。
とはいえ、この光景を見て何も思わないことは、前世の記憶の前にありえない。手脚を動かす配下の彼らはさておき、俺の傍らで共に行く先を見据えるガーネットちゃんはどう思っているだろうか。下賎な者共を捉える感覚が、俺と同じく少なからぬ含む部分はあるはずだ。それが快感であるか、苦痛であるか、あるいは冷徹なだけの義務感かもしれないが、その差を広げているのは間違いなく前世の記憶である。前世の記憶こそがガーネットちゃんとの隔たりを生んでいるというのなら、恐らくそれは俺が一方的な距離を感じているだけに過ぎないのだ。
この光景を冷酷な瞳で見据えるガーネットちゃんの視線。俺が耳を塞ぎたくなるような悲鳴さえ、彼女は何の変哲もなく凛とした表情で聞き入れている。それが羨ましいというか、学ぶべきというか、俺はそこにもの悲しささえ覚えているのだ。
俺が魔王として生きる上で必要な感情の一つ。敢えて言い換えるとすれば捨てるべき感情なのだが、捨てることを拒もうとする感情もまた潜んでいるのだ。どうにももどかしく、瞳に映る光景を複雑に見せてくるのである。
もっとも、それこそが前世の記憶的としか言えないのだが。
もとより、そんな感情さえも矯正するための意味合いも含めたこの遠征に、得るものも無くして帰還しようならこの叫びへの餞別としてあまりにも無礼である。否、礼節のどうこうが既に前世の記憶に縛られた考え方なのだ。常に冷酷な目を持つことが俺の思う魔王らしさではないが、時としてそれを求めることがある。今も無駄な抵抗で傷ついた村人たちを、割り切って見れるのならどれだけ楽になれるか。
居た堪れなさを胸中に押し込み、その上で魔王を演じる。魔王の戯言に付き合った配下の彼らを前に、魔王の私欲で理不尽に平穏を奪われた村人たちを前に、どの顔を下げればいい。
長閑な辺境の村に訪れた、突然の惨劇。
勿論俺はこの光景を想像したが、捕らわれた彼ら自身が想像していたのかは別である。とはいっても、彼らの危機管理能力が劣っていたことがこの惨状を描いた直接の原因ではない。抵抗する力のない彼らが捕らわれたのは必然なのだ。今もこの世界の各地で抵抗する力のない村を襲い、魔王の配下が奴隷として確保して回っている。
末端に過ぎないはずの村の中で、この村だけが作為的に選ばれた理由など勇者と魔王の因果というだけで事足りる。勇者の故郷だから、何の罪もない、直接の恨みもない彼らを傷つけざるを得ない。
全ては俺が仕組んだ茶番だ。
「……これで全てか?」
「その様です」
「どうだね人間。貴様らの友人、家族はこれで全てか?」
悲劇はひと度の静けさを迎える。
村の開けた場所で団子状に押しやり、数十人ほどの村人たちが肌を密着させ、怯え、座り込んでいる。逃げ出す者が出ないよう囲い込むように並ぶ異形の騎士たちは、威圧的に彼らを睨んだ。先の逃亡劇からか、恐怖からか、荒んだ呼吸の音だけが聞こえてくる。
俺は数えるように見渡しながらガーネットちゃんに確認を取り、同じ質問を彼らに振りなおした。勿論特定の誰かに名指しで聞いたわけではない。答える者は居なかった。
数秒にも満たぬ沈黙を破ったのはガーネットちゃんだ。この魔王の問いに彼らが答えないことはつまり、彼女の怒りを表している。
「……貴方方はその両の耳に何か詰まってでもいるのですか? 魔王様が問われているのです。貴方方には心臓を捧げる覚悟で答えなければならない義務がある。それを知った上で押し黙るのなら……良いでしょう。一人ずつその身に聞いて差し上げます。勿論、答えられないようならその命で償ってもらう必要がありますが」
ガーネットちゃんは悠然とした足取りで彼らへとにじり寄っていく。いつもの彼女らしからぬ冷静さを欠いたような、優雅な振舞こそあれど、どこか野蛮な足取りである。蔑んで見下した視線がある意味では彼女らしいとも言えようか。その命を取ろうという言動は、やはり冷静さを欠いているとしか言いようがない。
「――まあ少し待て、ガーネットよ。其方の気も分かるが落ち着くのだ。この魔王が命を覚えているだろう。捉える以上のことはまだ許していない」
「も、申し訳ございません。如何様な罰も受け入れます。出過ぎた真似、お許しください……」
ガーネットちゃんは俺の言葉に足を止めた。そのまま踵を返し跪く。艶やかな黒髪が地面に触れるほど深く頭を下げ、物憂げに反省を示した。
魔王の言葉に、罰を受けることに恐れているというよりは、自らの過ちを気付いた自戒の念に駆られていると見た方が相応しい。
「落ち着いたのなら顔を上げよ。日頃の働きに免じ、これ以上の言及はよそうとも」
彼らの命を扱う上で、そんな感情で左右されることの危険性を理解する。ガーネットちゃんの冷静さを取り戻すことのできた者はこの魔王しか居なかっただろう。魔王の側近たる彼女を止められる立場が云々の以前に、村人を囲う異様の騎士たちはガーネットちゃんに同調し、今一度その身に力を加えようとしていた。
魔王の言葉は騎士たちへの歯止めでもある。ガーネットちゃんには汚名を被せるようで申し訳ないが、この抑制は他方に知らしめる効果があるのだ。
渦中の彼らもその命がこの魔王の言葉に同義であることを理解してくれただろう。
「……さて、改めて問おう、と言いたいところだがこのままでは埒が明かない。この中に村の長は居るな。居るのなら代表して聞かせてもらう。居ないのなら、それこそ我が腹心の言葉が実現するだけだ」
俺はこの魔王の優秀な配下たちが取りこぼしていることなど端から考えていない。だがそこに慎重さを持たないことは愚策であり、質問を繰り返した。
勿論名指しされたからと言って彼の者が名乗り出ることのできる勇気を持っているとは限らない。俺の質問から変わらぬ数秒の沈黙に、当てが外れたかと肩を落としかけたところ、震える声が上がった。勇者の故郷だけあってか、その勇気には素直な賞賛を送れる。
「……私がこの村の村長だ……」
「ほう。貴様がそうか。良くぞ、名乗り出てくれた」
見たところ、年の頃はさほどもいってないように見える。一人孤高に立ち上がる勇ましき姿を、口には表せずとも心に評する。ガーネットちゃんの言葉が実現することは、奴隷として確保する建前を持つ俺以上に、彼は長たる者としてそれだけは避けねばならないのだ。自分を犠牲にする精神、一概にこの魔王と共有することはできないが、見習うべきだ。
「して、これで全てだな?」
「……ああ、そうだ。それで、お前は我々をどうするつもりだ」
「まあ、そう慌てるな。質問しているのは我であるぞ。あまり無礼な口を聞けば、また我が配下たちが気性を荒くする。端的に真実だけを述べれば話は早い。その言葉、偽りはないな?」
「……当然だ」
無論、口では如何とでも言える。ただ、彼が嘘を言っているようには見えなかった。恐れ、緊張もありながら、この魔王の眼差しを頑なに逸らそうとはしない。当然それだけを根拠とするには疑心が足りないが、人質ほどの意義で無駄に数を集めたところで効果は薄い。否、奴隷という建前に数は居るだけ居た方が正しいのだろう。所詮は俺の慢心と同情が入り乱れた、俺のエゴである。
配下を信用しているといえば体は良いかもしれない。
「よかろう。ならばこの村、焼き払ってしまって構わんな」
だがやはり、そこに情けをかけることは哀れみが過ぎる。
容赦なく綴り、魔王自らの手で魔力を練る素振りを見せた。勿論彼らはその言動に驚き、止めようとするだろう。想定した通りに声を荒げるのは、俺と会話を成立させている村長だけではなかった。押し込めた集団の中から隈なく聞こえてくる。その中で、一番声を通らせたのは村長だった。村の長たる者としての責任感が強いのだろう。
「なにっ……待て! どういうつもりだ?」
「何、どうせ二度と帰ることも出来ぬ場所など、無くなって問題ないと言っているだけだ」
「ふざけるな! ここは我々の故郷だ!」
「侮ってくれるなよ。そのくらい知っているとも。それとも、知った上で口にしていることすら分からないような阿呆か? どうやら人間とは知能が劣った種族のようだな。だが安心したまえ、手厚い教育で迎え入れてやろう」
「ま、待ってくれ! 頼む、少し待ってくれ……」
苦しい懇願だった。されど見苦しいとは思わない。故郷が無くなることを想像して悲壮になる気持ちは十分に理解できる。まして奪おうという存在が魔王とあれば、無力な己を責めることも出来ず、ただ縋ることが彼らに出来る唯一の防衛手段になるのだろう。
俺の心のどこかにはそれを聞き入れたい感情も存在し、だが魔王として押し殺すしかできなかった。同じ思いを持った多数の視線は気分のいいものではない。彼らを捕らえる上で直接の手を施した訳でもないはずだが、彼らの敵対心を一手に担う。当然の如く魔王の宿命として受け入れた。
わざとらしいため息を吐き出して、白々しく言葉を綴る。
本心に反した口ももう慣れたものだ。
「やれやれ。これから主となるこの魔王に口の利き方も知らないような劣等種を教育するのは骨が折れる」
そして俺は魔力を練る。
彼らの抵抗の声を無視して、この場所に希望すら残してはしまわぬよう、魔王への畏怖を刻み込む。
遺恨や憤慨を直接感じる中、淡々と呟いた。
「まあいいさ。口で言うよりその目で確かめた方が早い」
希望を断つ。この手で奪い去る。
淡白な口調に似つかわしくない、黒い炎が村を包んだ。
反抗の意思すら削ぎ、希望を殺し、絶望を生み出した。
彼らは愛する故郷の最後の姿を目に焼き付け、言葉を失う。魔王への畏怖に言葉を失くしたのだ。
平穏で長閑だったはずの一つの村が、魔王の手に消えた。
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