第7話

 世界に俺たちだけの二人、そう錯覚させてしまうほどに空間は静寂に包まれる。

 神殿を外から見た、講堂を二人で歩いた、それらとは比にもならぬ、二人であって孤独すらも感じてしまうのだ。正に世界から切り取られた、切り取ったのは、それ自体か。

 聖剣に触れられる距離を持ちながら、そこに永遠の道を感じる。

 手を伸ばせば届くはずなのに、指が掴もうとしない。見蕩れたままで触れようとしても、中空を握るばかり。


「魔王様」


 ガーネットちゃんの声で、漸く我を取り戻した。

 この後に及んで呆然として、少々の醜態を晒してしまった。ガーネットちゃんもまた普段見せることのない息苦しさに歪ませた表情。魔の王とその側近として、尚も実感させられるこの距離感に、二人とも息を呑むことしかできない。

 まずは抜かなければ、この軍勢を動かした責任を果たせないのだ。持ち帰ってこそ価値があり、あわよくば魔王だけど聖剣使えたら無敵じゃねなんて思ってた時期が俺にもあったが、この息苦しさの中には勇者の手に渡ることだけを拒む手段として抜くしかなかった。


 改めて、聖剣に触れる。浮つかぬように、その感触を意識しながら掌に集中する。

 指の一本ずつを確かめて柄を握り、力を加えるのだ。


「――っ!」


 台座に対し引き抜く力を加えた瞬間、全てを悟る。

 この剣は抜けない。少なくとも、魔の者に抜くことはできない。この魔王とて例外ではなく、勇者以外の手に収まることはないと瞬時に悟った。台座が強固に聖剣を掴み離さないのだ。物理的な硬質による強度ではなく、聖剣自体が台座を動こうとする感覚がない。どれだけの力を加えたところで、例え屈強な戦士の腕を借りようと、例え魔王の持てる限りの力を尽くそうと、力任せの方法で聖剣を抜くことは出来ないだろう。

 それは、膠着した時に干渉しようとする愚かさに等しい。

 聖剣は、台座の上で時を止めていた。勇者以外に時を刻むことのできる者は居ないのだ。


 魔王であってもその事実は覆らない。

 遺憾な思いも湧き始め、俺の腕は自然と中空に戻ろうとしている。


「――魔王様、御力を緩めないでくださいませ」


 半ば、台座から引き抜くことを諦めかけていたところ、柄を握る俺の手に重なったか細い手。骨の、体躯だけは恰幅に大きい魔王の拳を、包みきることもできない女性らしい繊細な腕だ。手だけではない、腕を伸ばす体も比較的に渺々とし、自ずと密着する。

 柔らかい感触が腕から背中から、聖剣の放つ瘴気以上に、俺の鼻睦をくすぐるガーネットちゃんの淡い香りで息苦しくなっていた。胸がいっぱいだ。


「ガーネット……」


 その名を呼べば手に力を入れて答えてくれる。

 瘴気が苦しくとも、凛々しい表情で聖剣に向き合うのだ。

 決して台座から動くことはないと知りながらも、それでも重ねた手を緩めることはないのだ。

 俺はこの瘴気の不快感にまだ耐え得る余裕はある。不快感に収まる程度の、苦痛ほどの余地には達していない。だが、恐らく魔王よりは強靭ではないであろう、か細い体に掛かる負荷を想像したら何時までこうして居られるか。消耗する体力が徐々に、徐々に彼女から感じる力の在処を遠ざけていく。

 大丈夫かと、目で問う。

 聖剣に加える集中力を解かないよう、目線での意思疎通は密着したこの距離ならではこそ、苦痛を見せていた。

 もう良いのだと、これ以上苦痛に歪む彼女の表情は想像するに難く、首を左右に振る。


「魔王様の野望のために、私はこの手を、離したくは無いのです」


 最早添えているだけの、すっかりと力を失ったガーネットちゃんの手を解くには、重なった上にさほどの力は必要ない。

 もう、立っていることも辛いのだろう。おぼつかない足元が体重をあずけるように、たちくらみのように俺の体へと倒れ込む。緊張の糸は切れた。ガーネットちゃんの漆黒の黒髪が俺の腕に絡みつき、袂がそのまま肩に触れる。彼女は、自らの脚で立とうとはしなかった。支えがなければ膝が崩れるからだ。

 俺はそれを許す。されど、彼女自身は自らを責める。


「お力添えになれず、申し訳ございません……」


 苦しさに息を乱し、それが妙に艶っぽく、俺の首筋を刺激してくる。律動的に上下する肩、空気を求める度に吸出し、吐き出される熱を孕んだ吐息が俺の首に掛かった。だが、こんな場合にこれ以上の熱は膨れ上がらず、瘴気の不快感にやはり萎えるばかりだ。

 ガーネットちゃんでさえ、瘴気に充てられ何時もの表情を歪ませる。塵と屑の部屋に匿われたくらいの不快感に収まるこの魔王の異常性を垣間見ながら、優しくガーネットちゃんの肩を持った。俺という意識が鈍感なだけなのか、一日中でも居たら気が狂いそうではあるが、この差に純粋な能力を感じる。


 前世の記憶ながらに間違いなく持て余してしまう能力。俺の意識と魔王の地位、あまりにも噛み合うことのないその隔たりに多少の気遣わしさは覚えていた。それでも家臣の者共から求められる魔王の姿に、後ろめたさがあったのだ。

 今この場でも証明されてしまった魔王の力は、彼らの期待に応えるだけの能力に相応しい。聖剣を抜けない無力感はともかくとして、俺に欠けているのは魔王としての意識に他ならないのだろう。前世の記憶がある限りは一朝一夕で身につくことでもないと知りながら、彼らの期待に応えたいという傲慢も俺の中には存在する。

 煮え切らない意志を急かすように、首筋の息がまた乱れた。


 ひとりで歩くことの測れないガーネットちゃんに肩を貸しつつ、中央に座する聖剣を見送りながら部屋を出た。否、さすがにそこまで弱っていないとは思うが、初めてしおらしい様に素っ気のない態度は出来なかった。

 苦しいのなら出ろと、命令することも可能だろう。そして彼女はその命令ばかりは素直に聞き入れないはずだ。忠誠という誇りに一度はこの魔王の言葉を拒む。惚れた女を守れずは魔王が廃る、故に肩を貸すのは、こと魔王とてやぶさかではなかった。

 男を堕とす手段を心得てはいまいかと目を疑うところ、当然この魔王に色目が働くはずもないと知りながら首筋に残る熱の感覚に行きがちな意識を取り戻す。もとより、苦しそうな表情を前に欲情するほど歪んだ性癖は持ち合わせていない。


 魔王の言葉がなくとも扉は閉まる。

 魔王の意志を理解する傍らの騎士達が聖剣の瘴気を遮ったのだ。

 畏れ多くも、怪訝げな表情を浮かべて俺を見つめる彼らの心意は、口にせずとも分かる。彼らの忠誠から来る信頼と同時に、俺自身も忠誠への信頼があるからこそ言葉は必要なかった。


 魔王ですら聖剣を持ち帰ることのできないという事実が、彼らへ諦念を突きつけるのだ。深い迷宮の中で守護獣との死闘を繰り広げた末、漸くたどり着いた意味を無駄にした物悲しさもあるのかもしれない。

 本来勇者の手元に収まるべき聖剣の在処、彼らはこの魔王の手に宿ることを望んだ。そのはずが、ただ側近を侍らせ引き下がる姿に、幻滅したのだろう。はっきり言って、やはり俺という存在はそんなものだ。期待を背負うには惨めで、魔王の名は虎の威を借る程度の目眩しに相応しい。


 彼らからしてみれば、ある意味では封印から目覚めた直後の魔王切っての初陣である。

 期待を裏切られた思いと同時に、各が責任を感じているのだろう。結果的に魔王の命に背いた事実は、忠誠心に拭いきることはできない。


「無駄に、なってしまいましたね……」


 息を整え、気品を整え扉を見据える。ガーネットちゃんは声を沈めた。

 これほどの軍勢を、彼らの忠誠を、無駄にした。責任は余りにも重い。否、彼らが俺を責め立てることは無いのだろうが、だからこそ責任を感じてしまう。

 俺の軽はずみの一言で軍勢を動かし、何ができるでもなく自ら出向いた挙句には簡単に引き下がる。しかもその内心、聖剣を直にこの目で見てみたいなんてただの好奇心とは誰も思うまい。彼らにはそうであっても、あるいはこの魔王ならと、聖剣を抜けるかもしれない可能性に賭けるには端から目測が甘すぎる。目に立つ後悔は、とにもかくにも成り行き任せの生温い思考だ。


 結果、ガーネットちゃん含めその様を見届ける騎士達を落胆させる余波を生んだ。

 暗い表情を隠しもせず、痛ましさと遣る瀬無い視線が俺に刺さる。扉越しにも伝わってくる聖剣の瘴気以上に、失敗という事実をより顕著にする重たい空気が漂った。その中で威厳を保つのが王の役目か、魔王として佇まいまでを変えるわけにはいかない。負い目の中に張る虚勢も、我ながらに哀れだ。


 本来勇者の手元に収まるべき聖剣。

 この魔王の手元に宿ることを望んだ彼らの期待と俺の傲慢。そもそも、魔の者を苦しめるこの瘴気があっては俺が操ることは叶わなかったのだろう。作戦の根本は勇者の手に付かぬことであり、それ自体は問題ではない。

 ともすれば持ち帰ることに価値はないが、嫌がらせほどの意味には成り得る。嫌がらせに軍勢を動かした結果が失敗では、魔王としてこれ以上に惨めな思いは無かった。正直、聖剣が抜けないことを計算していなかった。それが言い訳にならないことを知っているからこそ、自ら出向いた。どの世界に行っても、思い通りにはいかないものだ。


 聖剣は簡単には抜けない。

 勇者にのみその台座から動かす資格がある。

 魔の者の手元に宿ることのないよう、御丁寧に瘴気までも世の常を表しているのだろう。

 魔王に聖剣を抜く資格がないのなら、世の常に従うしかあるまい。この場の誰もが作戦の失敗を受け入れる。このままおめおめと引き下がり失敗の烙印を晒すしかないのだ。目にした通り、魔王の手元に宿る空虚が明確な結果を表している。


 魔王としてこの身に宿る果てしない力。反面、聖剣を前にして成し得ぬ無力。

 ガーネットちゃんの言葉が、傍らの彼らの暗い表情が、重く伸し掛ってくる。誰も責められはしないからこそ、俺自身が何よりも責任を感じるのだ。傍らの彼らはこの場所まで俺達を導き、ガーネットちゃんもまた側近としての役目に準じた。ふんぞり返ることだけが作戦の提唱者として魔王の勤めというなら、この場に立った時点でそれは覆っている。最早聖剣を持ち帰ることが魔王としての役目に等しい。

 期待を裏切り、役目を放棄し、生温い思考を打ちのめす責任。責任の重さが、見据えた扉の先に膨大な存在感を描いている。この魔王を持ってしても届かぬ聖剣への距離、永遠に縮むことはないその道を見据え、手を伸ばすことすらも重厚な扉に阻まれている。


 誰もが徒労の撤退を覚悟した。

 だが俺だけは、世の常とやらを欺く手段を用意していた。


「無駄ではないとも」


 数百に及ぶ軍勢も、彼らの忠誠心も、無駄ではない。無駄にはしない。

 責任逃れの虚言ではなく、魔王の力を根拠に言葉を綴る。

 この力があれば、少なくとも聖剣が勇者の手元へと渡ることはない。


「皆下がれ。聖剣は我が抜く」


 重い空気を払拭する。

 今一度彼らのたゆまぬ期待を引き寄せる。

 暗い表情を和めるように、俺は嘯いてみせた。


「――否、抜くのは聖剣ではないが」


 聖剣は抜けない。

 魔の者にその資格がないからだ。

 ならば聖剣をこの魔王の手元に宿すことは諦めた。

 されど、それは単なる諦念ではない。

 傍らに呆然と佇む彼らの期待の中、俺はおもむろに魔力を練り始めた。


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