『理解』

矢口晃

第1話

 朝目が覚めた時から、私はとても気分が良かった。なぜなら今日は、私にとって一生の思い出に残る、記念すべき日だから。私はいつものようにパンにコーヒーの朝食を済ませると、大学へ行くために、前日から用意しておいたお気に入りの、空色のワンピースに袖を通した。そしてその上から、白いカーディガンを羽織り、低いハイヒールを履いて家を出た。

 春だな、と思う。公園の土手には、たくさんのいぬふぐりがぱちぱち音を立てるように咲いていた。つぼみのほころび始めた梅の木の下には、目にも鮮やかな蛍光色の菜の花がまぶしい。日当たりのいい塀に今年最初のハエを見つけて、そんなことにも私は感動してしまった。寒がりの猫も幾分は過ごしやすくなったようで、盛りのついたオスがフニャフニャ変な声をどこかで上げている。

 毎日が、こんな晴れやかな気分で始まればいいのに。私はそんなことを思いながら、鼻歌交じりに大学行きのバスに乗った。

「おはよう」

 教室で最初に会った友人の美香に声をかけた。美香は生まれつき茶色がかったくせ毛がかわいい女の子だ。

「おはよう、京子。ずいぶん機嫌がいいのね?」

 美香がそう笑顔で返事を返してくれた。

「わかる?」

「わかるわよ」

 私は美香の隣の空いていた席に腰をかけた。鞄をおろすと、肩が急に楽になった。

 美香は興味津々といった顔つきで私の方を覗き込んで、

「もしかして、彼とデート?」

 と小声で聞いてきた。

「ううん。違うの」

「じゃあ、一体どうしたのよ」

「ちょっとね」

 私は鞄の中から教科書を取り出しつつ、美香の質問攻撃を軽くいなした。と言っても、心の中ではもちろんもっとたくさん質問してもらいたい気持ちでいっぱいだった。

 でも、そのうちに先生が教室に入ってきて、いったんおしゃべりは中断してしまった。

 九十分の授業が終わると、美香は私の機嫌のことなどすっかり忘れてしまっていたらしく、そのあと今日が私にとって何の日であるか聞いてくることはなくなってしまった。私はちょっと物足りない気持ちになった。

 美香と別れた私は校内の日当たりのいいベンチに腰をかけると、恋人の祐作の電話を鳴らした。彼も学校に来ているはずなのに、今日はまだ一度も会っていなかった。しばらく電話を鳴らし続けると、ようやく彼が出た。

「――はい。誰?」

彼は今まで寝ていたような、とても億劫そうな声で話をした。

「もしもし。私」

「京子か」

「うん、そう」

 二人の間に、いったん間ができた。

「寝てたの?」

「ああ、徹夜でレポート仕上げたばかりなんだ」

「じゃあ、疲れてるのね」

「うん。だいぶね」

 彼の声は、確かに覇気がなく疲れているように聞こえた。でも、私はどうしても彼に会いたかった。今日はどうしても伝えたいことがあるのだ。

「ねえ、今から会えない?」

「はあ?」

 彼にしては強い口調でそう言った。

「今言ったろう? 昨日徹夜でレポート書いて、今ようやく寝たところなんだよ。明日にしてくれないか?」

「だめ」

 私は携帯電話を耳にあてたまま大きく首を横に振った。

「どうしても、今日会って話したい大事な話があるの。ねえ、出てこられない?」

「勘弁してくれよ。いったい、どんな話だよ?」

「それを会って話したいの。ねえ。お願い」

「まさか」

 彼が一瞬電話の向こうで固まったようだった。そんな声に私には聞こえた。

「別れるとか、そう言う話じゃないだろうな」

「別れる?」

 その言葉を聞いて、今度は私がショックを受ける番だった。

「どうしてそんなこと言うの?」

「いや、だって、大事な話とかいうからさ」

「そんな話じゃないの」

 興奮して、ついつい私の声も大きくなってきてしまった。

「とにかく、会って話したいの。ねえ、お願い。」

 彼はしばらく沈黙していた。迷っているようだった。でも最後に、

「わかったよ。行けばいいんだろう、行けば」

 渋々そう言って承諾してくれた。

「ありがとう。学校の前の、いつもの喫茶店で待っているから」

 そう言って、私は電話を切った。

 彼の家は学校から遠かった。私は約束した喫茶店で、彼が来るまでの長い時間をひとりでぼんやりと過ごした。私と彼とは、学校が終わってからよくこのお店でお茶を飲んでおしゃべりをする習慣があった。

 電話が切れてから二時間後、ようやく彼がお店にやってきた。徹夜していたというのは嘘ではないらしく、彼はどろりと重そうな目の下に、大きなくまを作っていた。顔色もいくぶん黒ずんでいるようだった。

 彼は大儀そうに私の隣の席に腰を下ろすと、ゆっくりとした動作でポケットから出した煙草を吸いだした。まだ頭がもうろうとしているようで、何となく不機嫌そうに私には見えた。

「ごめんね、疲れているのに、呼び出しちゃって」

 彼は黙って煙草をふかした後、口から大量の煙を吐きながら私に言った。

「で、何だよ。大事な話って」

 彼からそのことを聞いてもらえて、内心私は飛び上りたいほどうれしかった。これが話したくて、わざわざ彼を呼び出したのだ。これを話すために、わざわざ二時間も喫茶店で時間をつぶしたのた。

 話したくてうずうずしていた私は、目を爛々と輝かせながら、彼の左腕をつかんだ。

「ねえ、聞いてよ」

「聞いてるよ」

「私ね――」

 やっと彼に話せる。喜びが爆発しそうだった。彼も私の眼を見ながら、話の続きを待っているようだった。

 私の彼の腕をつかむ手にも、自然と力が入った。

「私ね、今日やっと記念日を迎えたの」

「記念日って、何の記念日だよ」

「一周年記念」

「一周年?」

「そう、一周年。私ね、去年の今日から使い始めた一日使い捨てコンタクト、ついに一度も取り換えることなく、まる一年使い続けることに成功したの」

 私の言葉を聞いて、彼の困憊していた表情が、驚きに変わった。

「ねえ、すごいでしょう? 一年間、一度も取り換えなかったのよ」

 彼はしばらくの間、言葉が見つからないようだった。私は彼の口から何でもいいから早く言葉を聞きたくて、つかんでいる彼の腕を左右に振った。でも、私が喜ぶのとは反対に、彼の驚きの表情はだんだん強張って行った。

「ねえ、すごいでしょう? すごいって言ってよ」

「――大事な話って、まさかそのことか」

「うん。そうよ」

 私は彼の顔を見ながら、にっこりとほほ笑んだ。しかし私がこんなによろこんでいるのに、彼は少しも嬉しそうな表情を見せず、真顔のままじっと私の顔を見つめていた。

「ねえ? どうして喜んでくれないの?」

 私は彼の腕をぐいぐい引いた。

「ねえ? 嬉しいでしょう?」

 彼はそれでも、何も答えなかった。灰皿のたばこは、だいぶ長いこと吸われずに放置されたままになっていた。

「ねえ? どうして何も言ってくれないの? 私がこんなに喜んでいるのに?」

 彼の心からは、まるで感情が抜け落ちてしまっているようだった。私はまるで、人形に話しかけているような味気なさを感じた。

 私はだんだん、彼の気持ちを理解するのに苦しみだしていた。

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『理解』 矢口晃 @yaguti

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