その輪は一時に壊される
鬼虫兵庫
その輪は一時に壊される
ゴルディアスの結び目というものを知っているだろうか?
それは遙か昔、牛車と柱とを紐で嫌味なほどに複雑に結びつけたもので、絶対に解けない結び目と言われたものだ。仮にそれを解くことが出来たのならば、その人物はアジアの王になるとも予言された。
数々の人間がそれに挑み、その悉くが敗れた。だが、かの有名なアレクサンドロス大王は剣でその結び目を両断し、それを解くことに成功したのだ。
「なんだそりゃ?」
と思う人も多いだろうし、俺もその場にいたら、
「おい、そりゃイカサマだろ」
と言っていたかもしれない。
まあともかくも、このように傍目から見ればインチキにしか見えないような強引で荒っぽい回答が実は正解という場合も確かに存在したりするのだ。コロンブスの卵しかり、真横にいればそりゃないだろという手口も妙な説得力によって納得し、誤魔化されてしまう。
今からお話しするのはそう言った類の話になる。
ただこの話に登場するのは結び目ではなく、一つの輪だ。
それは少女の首にかけられた首輪。
その首輪は絶対に壊すことが出来ない代物だった。いや、正確には『物理的に壊す』ことは出来た。ただそうするとその少女は確実に死んでしまうことになるのだが……。
まあとにかくそういう話だ。
そう、これはその輪を壊す話だ。
Introduction
午前一時。
ある施設から一人の少女が逃げ出した。
そこは厳重すぎるほどのセキュリティによって隔離されている絶対に逃げ出すことが出来ない施設のはずだった。
だが、その少女はただ一人で、誰の力も借りることもなく、魔法のようにそこから抜け出したのだ。
男達は彼女を捕らえる為に数々の追っ手を差し向け、同時に少女の首に取り付けていた首輪を起動させる。
それは確実に少女の命を奪う爆弾。
一日後、きっかり午前一時に爆発する計算だった。
*
その日はたいした仕事も無かったので、俺は椅子に寄りかかり新聞に眼を通しているところだった。
オフィスをアンティーク調で統一しているため、部屋には白熱球の弱い光しかない。
新聞を読むには少し暗すぎるようにも思えるが、ブラインドを開けると横から照らされる形になるので新聞を読むのには適していない。
それにこの辺りはブルックリン地区のどん詰まりのような場所にあるので、どのみち大して日の光は入らないのだ。
俺は新聞を読みながら伸びきったあごの無精髭に触れる。口ひげは意図的に伸ばしているからまだしも、あごの無精髭はいい加減剃らないといけないように思えた。
「先生、コーヒー入れてきたんですけど。どこに置けばいいんですか、これ」
コーヒーをお盆に乗せて運んできた
「そのへんに置いてくれよ」
俺は書類の上を指差す。
「いいんですか? じゃあ置きますよ?」
鯉はその山積みになった書類の中からかろうじて水平になった場所を見つけてそこにコーヒーを置く。
不意にその動きが止まった。
「誰か来ますね? なんか若い女の子みたいですけど……」
直後、オフィスの中に鉄製の外階段を上る足音が響いた。
確かに若い感じのする足音だ。体重が軽いせいか足音の調が高い。そして同時にその足音には酷く緊張した様子と極度の疲労を思わせる覚束無さがある。
「穏やかな様子じゃないな。鯉、一応用心しておけ」
「了解です」
その何者かの来着に対して身構えた直後、オフィスの扉が開かれ、一人の少女が倒れ込むようにして姿を現した。
現れたのは長い金髪の少女だ。少女はネグリジェのような服一枚だけを着ているだけで他に持ち物は何も持っていない。ただ、首にかけられた金属製の奇妙な首輪が目につく。
ともかく、それはよくここまでたどり着けたといった格好だ。警察は勿論のこと、タチの悪い連中に捕まらなかっただけでもよほどに運が良かったと思われた。
それ程に少女の顔立ちは美形だったのだ。金髪の輝きとその肌の白さからしてまるで亡国から逃れた姫のようにも思える程だった。
オフィスの床に膝をついた少女はそのまま力尽きたかのように床へと倒れ込む。
「追われてる。助けて」
少女は白い肌を上気させ、荒い呼吸と共に片言の英語でなんとかそれだけの言葉を吐き出した。
「おい、大丈夫か? 鯉、身体を見てやれ」
「あ、はい」
半ば呆気にとられていた俺は鯉にその少女を任せつつ窓に身を寄せる。
ブラインドの隙間から外を窺うが、今のところ誰かが迫っている様子はない。
だが、こんなに目立つ少女だ。追っ手がいるとしたらすぐにでもここまでたどり着くだろう。
眉間に皺が寄る。
この少女はかなり厄介な出来事を招き寄せる予感がする。
「特に怪我は無いようですけど……」
「ふむ……」
俺は身をかがめて少女と向き合う。
「どうした? 誰に追われているんだ? とりあえず警察を呼ぼうか?」
「警察駄目! 絶対駄目!」
少女は大声で叫び、怯えきった様子でブルブルと頭を振る。
余程に警察はまずい事情があるらしい。
そういった事情を持つ人物は決して少なくないが、この手の幼い少女が警察を避けるのは珍しい。
「わかったわかった。警察は呼ばないから安心しろ」
「私、あなた探してた。
「俺を知ってる? ……ってことはつまり偶然ここに来たってわけじゃないってことか?」
俺の問いかけに少女はコクリと頷く。
少女は不法入国者、犯罪者と言った態ではない。ならば家出人、児童虐待? 児童虐待は近い感じもするが、単なる児童虐待の被害者がこのオフィスを目当てにしてくるようにも思えない。
このオフィス『旅の道』は一見するだけでは単なる探偵事務所でしかない。だがその実態は違法スレスレの危険な仕事を請け負うアウトロー御用達の店なのだ。そのことを知っている人間はかなり限定されるはずだが、どうやらこの少女はその裏の顔を知っている様子だ。
それだけにことの緊急度は高まる。
「鯉。とりあえず、お前の服でもなんでもいいから着替えさせろ。なるべく目立たない格好にな。話はそれからだ」
まさかこの格好のままというわけにもいくまい。人混みの中に紛れるような格好をさせなければならないだろう。恐らく、すぐにそうせざるを得ない状況になる。
「あ、はい。わかりました。けど合うサイズあるかなぁ?」
俺から見ると、大して凹凸のない鯉の体付きは少女と似たようなもののように思えるのだが、鯉はそんなことを言いながら少女の手を取ってオフィスの奥へと向かっていく。
だが、その鯉の足が途中でぴたりと止まった。
「女性が一人向かってきてます」
「わかってる」
既に俺はブラインド越しにその女へと視線を向けている。
灰色のスーツにタイトスカート、癖のある長い赤毛髪の女がこのオフィスに向かって歩いている。一見すると単なるスコットランド系の一般人ようにも見えるが偽装かも知れない。
「拳銃は吊ってないようだが、右手に妙な緊張がある。何か武器を隠し持っているかもな。ともかくお前達は早く行け」
「うい」
鯉は頷き、少女と共に奥の部屋へと姿を消す。
やがて、階段を上る女の足音がその場に響いた。
*
ブルックリンのダンボ地区に降り立った私は手でわざと髪を乱し、いかにも思い詰めている相談者のような見た目を作り上げた。
ターゲットがあのオフィスに入ったことは既に突き止めている。そこにいる探偵の素性は不明だが、せいぜい警官崩れといったところだろう。恐らくは簡単に無力化できる。
私は一刻も早くあのターゲットを確保しなければなかった。それも出来るだけ証拠を残さずに、そしてどのような手を使っても。それ程にことは緊迫した状況にあったのだ。彼女が敵国か或いは反政府的な組織に渡れば大変な問題になることは明らかだった。
ただし、彼女に仕掛けられているあの首輪が有る限りはその心配は少ないだろう。僅かな機密が露呈する恐れはあるが、あの首輪はそれ以上の露呈を速やかに防止してくれるはずだ。あの首輪は誰によっても、そしてどのような方法を用いても外すことが出来ない代物なのだから。
オフィスへと続く階段を登り終えた私はその木製扉をノックした。
「誰だい?」
僅かに間を置いて、扉から口ひげの男が姿を現す。
長身で短髪の男、一応スーツを着ているが、ネクタイはだらしなく締められシャツはよれている。一瞬その彫りの深さから中東系かと思ったのだが、どうやらその男はアジア系のようだ。ともかくとして、その男の第一印象はたいしたものではないことは確かだった。まず脅威はないと見ていいだろう。
「あの……少しご相談したいことが……」
私は酷く思い詰めた相談者を装い、弱々しい声を吐き出す。
「あー……今、少々立て込んでいてね。仕事ならまた今度にしてもらえないかな?」
「あの本当にお願いします。少しだけでもいいですから」
私は口ひげの男を押しのけるようにして強引にオフィスの中へと入る。
オフィスの中には人の姿はなかったが、僅かに気配が残っている。間違いなくこの場にターゲットが潜んでいるのだ。
「おいおい、ちょっと待ってくれ。今日は仕事は無理だ」
男がそう言ったのと同時、私はポケットの中にあるピストル型の注射器に手を伸ばす。
この喧しい男には眠って貰う必要があるだろう。
私はポケットから注射器を引き抜き、素早い動きで男の首元へと突き出す。
注射器は確実に男の首元を捉えたかに見えたが、その注射器は男の信じられないような動きによって躱されてしまう。
同時に頭に強い衝撃が走った。
「……ッ?」
鋭い痛みと共に視界がグラグラと揺れる。
まったく認識出来なかったが、殴られたのだろうか?
だが、口ひげの男はそんな姿勢にはない。
私はその奇妙な衝撃に混乱しつつも、もう一度注射器を男の首元へと突き出す。
「うっ!」
不意を突かれたのか、男は二回目の攻撃を避けきれずにあっさりと首元へと受けた。
「は、速い……」
そんな言葉を吐き出し、男は床へと崩れ落ちる。
初めの動きは予想外に鋭いものだったが、何故かその後の動きは拍子抜けするほどにあっけなかった。
私は僅かに安堵の息を吐き出した後、視線をオフィスの中へと向け、口を開く。
「さあ出てこい、四号。お前がここにいるのはわかっている」
直後、ソファの裏に隠れていた四号が怯えた様子で姿を現した。
私は間近の扉を閉め、四号の叫び声が漏れないようにした後、間合いを詰める。
「ち、近寄るなッ!」
四号の手にはどこから手に入れたのか刃の短いナイフが握られていた。
だが所詮は素人、それも子供だ。
私は平然と間合いを詰め、四号が突き出したナイフを躱してそれを払い落とす。
「あッ!」
そのまま腕を取り、四号の身体を強引に床へと突き落とす。
受け身を取ることも出来なかった四号は身体を窮屈に折り曲げながら苦しげなうめき声を吐き出した。
「大丈夫、悪いようにはしない。だから今は眠れ」
首元へと注射器を押しつけると、バタバタともがいていた四号は一瞬にして意識を失い、床へとその身体を落とした。
その時、不意にオフィスの扉が開かれた。
新たな敵が現れたと思った私は咄嗟に身構えるが、そこから姿を現したのはなんとロナルド・レーガン大統領だ。
大統領を前にした私は慌てて戦闘態勢を解き、その装いを正す。
レーガン大統領は満面の笑みで二三回軽い拍手をした後、私に手を差し出した。
「よくやった、シエラ君。彼女の確保は我が合衆国にとっても非常に重要な案件だった。君は大変な仕事をやってくれたのだ」
「きょ、恐縮です、大統領」
私は酷く緊張をしながらもその大統領の手を握り返した。
「…………」
レーガン大統領?
いや待て、今のアメリカ大統領はレーガンだったか?
古すぎるだろう。レーガンは何期前の大統領だ?
だが確かに目の前には紛うことなきレーガン大統領が立っている。そっくりさんとも思えない。
私の頭は混乱する。
疑問に思う私の前、レーガン大統領はその顔に笑みを浮かべながら私の耳に口を寄せる。
「馬鹿が。いきなり注射器を押しつける奴があるか。もう少しおしとやかになれよ。嫁のもらい手がなくなるぞ」
大統領とはいえ流石にそんなことを言われて思わず私はカッとなる。
大きなお世話だ。というかセクハラだ。
私は失礼にならないようにしながらも毅然とした表情を浮かべ、口を開く。
「お言葉ですが大統領」
*
「さっきから何言ってんだこいつ?」
俺は床に倒した女の腕を締め上げながら顔を歪めた。
俺の下にいる女はさっきから大統領がどうとかわけのわからないことをうわごとのように呟いている。
いきなり注射器を押しつけられたので思わずカウンター気味に頭を殴りつけてしまったが、余程に打ち所が悪かったのかと心配になった。
ともかく俺は女のスーツから手帳と財布を抜き出す。
貧乏くさそうな財布の中には身分証が入っていた。
「シエラ・ネル? まあ偽名だろうな。他にはろくな情報はないか」
手帳と財布を調べ終えた俺は財布の中に唯一入っていた五十ドル札を頂くことにする。
「あ、先生、それ泥棒ですよ。勝手に財布からお金を取っちゃ駄目ですよ」
丁度、奥の部屋から鯉が姿を現し、言った。
後ろにはあの少女の姿もある。黒のダッフルコートに灰色のチェック柄のキャスケットをかぶり身体的特徴を隠している。まずまずの変装と言っていい。
「馬鹿を言うなよ、鯉。見ろよ。こいつが襲いかかって来たせいでルイスポールセンのスタンドライトがお釈迦だぜ。五十ドル程度じゃまったく釣り合わん」
少女は気絶しているシエラまでトコトコと駆けよりそれを見下ろす。
「この女に見覚えは?」
問いかけるが、少女は首を横に振る。
「知らない。たぶん政府の犬。行き遅れ女」
「大統領……それはあまりにも酷い……」
シエラから再びうめき声が漏れた。
「やかましい」
シエラが持っていた注射器を取り上げそれを首元へと打ち込む。
ビクリと身体が反応した後、やっとシエラは深い眠りに落ちた。
「……っ!」
その時、オフィスにある旧式の電話機からやかましいベルが鳴り響いた。
俺は思わず舌打ちをする。
その旧式の電話機は電話を受けるためのものではない。それは周囲のビルに張り巡らされた警戒線が切られた時に反応する偽装された非常ベルなのだ。
「おいおい、勘弁してくれよ。とにかく逃げるぞ。そういやお前、名前は?」
「私、リーリヤ・ミラー。宜しく、池田戦」
「ああ、正直名前なんてどうでもいいんだがな。とにかく逃げるぜリーリヤちゃんよ」
吐き出すように言ってオフィスの奥へと向かう。
既に鯉はオフィス奥にある小型の冷蔵庫を横から押しているところだった。
冷蔵庫の後ろの壁をくり抜いた場所から隠し梯子が姿を現す。
それはこういった際の秘密の脱出通路だった。
細い路地を抜け、俺達は路地に隠してあった車へと乗り込んだ。
それと同時にオフィスの方からガラスの割れる音とポンという高い音が聞こえた。恐らくは催涙弾が打ち込まれた音だろう。
「糞っ。リーリヤ。これもまとめて経費で請求するからな」
車に乗り込みながらそう言うと後部座席に乗り込んだリリーヤは申し訳なさそうな顔をしてその身を縮める。
「お金持ってない」
まあ、十中八九そうだとは思っていたが、俺はあからさまな様子でその顔を歪めて見せた。
「ただ働きはしてないんですがねぇ」
「ちょっと、先生。あんまりですよそれ」
「お金、ちょとならある」
「いいね。その金でドライブスルーに寄ってハンバーガーでも食べるか。足りるならだがな」
「隠し口座に十五万ドルある。それ全部あげる。それでハンバーガー食べれる?」
「…………」
僅かな沈黙が車内を支配する。
「まあ……釣りは出るだろうな」
「よかった。私嬉しい」
バックミラーに映るリーリヤは満面の笑みを浮かべる。
「十五万ドル、私嬉しい。借金返せる」
同じく後部座席にいる鯉もリリーヤの口調を真似して馬鹿みたいな顔で笑った。
十五万ドルの依頼とは実に景気がいい話だが、俺の頭は鯉と同じような脳天気さで出来ていない。依頼というものは常に金額とその危険性とが釣り合っている物だからだ。
この依頼はとんでもなく危険な香りがする。
「それでリリーヤ、お前の依頼を聞いてなかったな。お前は一体何をしたいんだ? 国外逃亡か? 或いはマスコミに駆け込むとか……」
「人会いたい。私居場所知ってる。そこ行って欲しい」
「人に会いたい? ふむ……敵か味方か?」
「友達。とても仲良い。だから会いたい」
「友達に会うために逃げてきたってのか? 随分と妙な話だな……たかだかそれだけで政府の連中がお前を追ってくるようには思えないんだが……」
「私、クローン。施設から逃げてきた。逃がしてくれた友達会いたい」
「クローン? 今、クローンって言ったか?」
俺は右手で髪をかき乱す。
「クローンか……政府が秘密裏に研究していた実験体が逃げ出したんでてんてこ舞いになってるってところかね……まあろくなネタじゃなさそうだな」
「リリーヤちゃん、かわいそう」
鯉は言いながらリリーヤの頭を帽子越しになでる。
「私かわいそう?」
「まあともかく一度、近場の場所に身を隠して、それから準備を整えることだな」
「それ駄目」
リリーヤは自分の首輪を俺に向かって見せながら緊張した様子を浮かべる。
「この首輪居場所わかる。早く逃げないと駄目」
「……ちょと待て、居場所がわかるだと?」
信号待ちで車が止まった時、俺はその首輪に視線を向ける。
銀色の金属製で出来た首輪には何かの電波を受信しているかのようにいくつかのランプが点灯している。
「GPSか?」
「GPS大丈夫。遮断してる。でも近くなら電波でわかる」
「おいおいおい! 糞! 嘘だろ!」
リリーヤの背後、道の向こうから黒いバンが凄まじい速度で迫ってきているのが見えた。
俺は咄嗟にアクセルを踏み込む。
一斉に迫ってくる数々の車を避け、猛然と車を走らせる。
「おい! リリーヤ! 他に言ってないことがあったら、教えろ!」
後部座席にいた鯉は慌ててリリーヤにシートベルトをつけ、リリーヤは緊張した様子で頭を悩ませる。
「あ、一つある。この首輪、爆弾。絶対に外せない。私の命、後十二時間」
それを聞いて俺と鯉の二人はギョッとなった。
「そういうことは真っ先に言えよ!」
この車めがけて突っ込んできた二台の黒い車がコントロールを失い互いに激突し、凄まじい轟音を立てて横転する。
俺は更にアクセルを踏み込んだ。
*
追ってくる十六台の車を破壊し、違法な方法で三回車を変え、三百五十三マイル(約五百六十八キロ)も走った後、バージニアのシャーロッツビルを抜けた先の草と森と山しか見えないようなその場所にたどり着いた時には既に辺りは夜になっていた。
リリーヤがここまでのすべての道順を記憶していた為に来ること自体は容易であったが、連中の追走にはほとほと嫌気が刺すレベルだった。一応、すべての追走は巻いたらしいが、すぐにこの場に現れるような気配もある。何しろ相手にしている連中は政府レベルなのだ。
辺りには草原が広がり、遠くに背の低い山々が連なっている。その山々の下には深い森が暗い影のように広がっていた。月の光の加減か、或いは辺りにろくに明かりがないせいか、その空と辺りの草原は奇妙な程の青色に包まれ、その中でただ一つカントリースタイルの家から漏れ出す明かりだけがオレンジ色に輝いていた。そのコントラストはまるでゴッホ作の『夜のカフェテラス』のようにも思える美しい光景ではあったが、その感想は一瞬の感動を与えただけですぐに消え去ってしまう。
俺は車から降りてその家の木扉をノックする。
「あー、えーと。こちらはリーナ・ミラーさんのお宅ですかね? ちょっとお届け物があるんですがね。少女を一人ばかり」
扉からは反応は返ってこない、気配を窺うが家の中には誰もいない様子だ。
リリーヤが車から降りてトコトコと家に駆け寄る。
その瞬間、近くの草むらから草を振りまきながら一つの人影が飛び出した。
俺はそれに向かって反射的に銃口を向ける。
「リリーヤ!」
姿を現したのは一人の少女だ。
少女の姿は一瞬、リリーヤが姿を現したのかと思う程に瓜二つだった。ただ金髪が寝癖やら適当に手入れしているせいか酷く乱れ、寝不足なせいなのかその目の下には酷いクマがある。それ以外はまったくリリーヤと同じ容姿だ。
俺は構えていた銃を下げ、ホルスターへとしまう。
その少女は俺の姿など目に入っていないかのような様子でリリーヤに駆けより、互いに抱き合った。
「リーナちゃん! 会いたかった!」
「私もよ、リリーヤ」
そうしてここまでたどり着くまでの過程や出来事の話などを二三してしばらく経った後、リーナは俺達に視線を向け、口を開いた。
「入って。中で詳しい話をするわ」
「遅いじゃないの! この木偶の坊! あなたが優秀な男だからって選んであげたのに、何時間かかってると思ってるのよ!」
家のテーブルについた時、まずリーナの口から出たのは俺に対する恨み節だった。
俺は眉間に皺を寄せ、片眉を下げる。
六百キロ近い道のりを奴らの追撃を振り切りつつ、車を三台も変えてここに到着した割には上出来すぎるほどの早さのはずだ。感謝の言葉はあっても恨み節を言われる筋合いはない。
どうやらこのリーナは見た目は瓜二つでも正確は相当に違うらしい。この糞生意気なガキにあの悲惨な逃避行の恐怖を追体験させた方がいいかと思ったりもした。
「そりゃすまんね。で、お前がリリーヤを施設から逃したっていうハッカー、リーナか? なるほど、確かにお前は彼女のクローン元のようだな。だがそれにしては年格好が似すぎているようだが……」
通常クローン体を体細胞から作成する場合、その元になる人物との年齢差が生じるのが普通のはずだ。だがこの二人はまるで双子のようにそっくりで歳も同じに見える。
「リリーヤは私が赤ん坊の頃の体細胞を使用して複製されたのよ。優秀なDNAを持つ人材を効率的に複製、量産し、国家に役立てようとしたクローン作製プロジェクトの一環でね。彼女、私と同じだから頭脳は天才なのは間違いないと思うわ。だからだいぶ政府のきな臭い技術開発とかにも関わっていたみたいね」
「なるほど、まあ大体予想通りだな。だがとりあえず今はそれは置いておくことにしよう。今、重要なのはこの彼女の首に取り付けられた首輪だ。お前、これを解除できるのか?」
リーナはムスッと頬を膨らませる。
「馬鹿にしないで。私は天才なのよ。こんなものすぐにでも解除してみせるわ」
「それは結構」
「リリーヤ、こっちに来て。その首輪調べてあげるから」
「リーナちゃん。私、リーナちゃんとお話がしたい」
「じゃあ、一緒に話をしてあげるから。付いてきて」
リーナがそう答えた後、俺は不意に遠くから迫ってきている車の気配に気づいた。
「車か……」
既に鯉もその気配に気づき、家の外へと視線を向けている。
「一台だけのようですけど、もしかすると追っ手かも……」
リーナは俺達二人を睨み付ける。
「あんた達、まさかつけられてたんじゃないでしょうね? こっちは忙しいんだからそっちでどうにかしてよね! ほんと無能なんだから!」
リーナはそんな嫌味と共にそのまま俺達を家の外へと押し出す。
寒空の下に追い出された俺はこの場に近づいてきている車の気配に意識を向けながら深いため息を吐き出した。
この何も無い田舎のことだ。それはもはや敵であることは間違いないだろう。
「まあとにかく、鯉。スナイプの用意をしておけ。とりあえず相手は俺が対処してみる。合図を出したら撃て」
「あー、了解です」
鯉は車の中から狙撃銃の入ったギターケースを取り出して草原の中を走っていく。
やがてしてその姿が青い闇の中に紛れて見えなくなったのとその車が現れたのはほとんど同時だった。
その人物は俺の目前で車を急停車させ。というより止めきれずに近くの柵にぶつかったのだが、車から飛び降りるようにして姿を現す。
「みつけはそ!」
姿を現したのは意外なことにあの赤毛髪のシエラだった。
僅かにそばかすが浮かぶその顔は怒りのせいか赤く上気している。
「ん? なんだって?」
いまいち何を言っているのか聞き取れなかったので聞き返す。
「見つけた! っていったんほ。麻酔が抜け切れへなくて口がおかしいんはよ!」
シエラは自分で頬を二三回叩いて痺れを取る真似をする。
「よくもまあそんな状態で追ってこれたもんだな……で、俺になんのようだ?」
「とぼけるのは無駄だ」
シエラはポケットの中からライター程度の大きさの何かのスイッチを取り出し、上部のプラスチック保護カバーを外してそれに指をかけた。
「これが何かわかるか? あの娘に取り付けてる首輪を爆破するスイッチだ。早くあの少女を渡せ! さもないとこれを起動させるぞ!」
「……ほう、爆弾のスイッチね」
俺は呟きながら辺りの様子に気を配る。
どうやら他の連中がこの場に追ってきている様子はないようだ。恐らくシエラはどうにかしてこの場所を探り出し、そしてほとんど完全な私怨でたった一人でここ場所に来たのだ。かなりの稚拙で短絡的な行動と言っていい。怒りのせいか麻酔のせいか状況が把握できていないのだろうか?
「さあ、時間を稼ぐのは無駄だ。すぐに彼女を引き渡せ!」
「あーあー、わかったから、ともかくそのスイッチから指を離せよ、間違って押しそうに見えて気が気じゃねぇよ」
両手をあげて降伏の姿勢を示す。
それを見たシエラはその顔にニヤニヤと笑みを浮かべて、ポケットの中からピストル型の注射器を取り出した。
「私にしたのと同じようにこの注射器で気絶させてやる! あと財布から盗った五十ドル返せ!」
俺は思わず苦笑する。
「お前この仕事向いてないぜ。普通犬ってのは私怨では動かないもんなんだ。悪いことは言わない、転職を勧めるぜ」
「五月蠅い男だな……往生際悪いぞ!」
「んー……いや、ところでお前の持っているスイッチなんだが……」
俺は両手を上げた姿勢のまま、右手の人差し指と中指だけを立ててそれを僅かに横に動かした。
「俺の見立てだと、そいつは壊れてる」
その場に鋭い風切り音が鳴り、同時にシエラが持っていたスイッチが手から離れて地面へと落ちる。
「わっ!」
シエラは何故自分の手からそれが落ちたのかも理解出来ないまま、慌てて地面に落ちたスイッチに飛びかかり、拾い上げる。
「止まれ! 本当に押すぞ!」
それを見せつけ、牽制するシエラだったが、手にしたその装置には既にスイッチがなくなってしまっていた。
「お! お? お?」
逆さまに持っているのかと思い、シエラは何回かそれを回転させるが、スイッチはもうどこにも見当たらない。
既にそのスイッチの上部は鯉による遠距離狙撃によって破壊されていたのだ。
この薄暗がりの中でもシエラの顔色が真っ青になったのがわかった。
奇妙な笑い声がシエラから漏れ出し、その足がガタガタと震え始める。
「あ、あれ……おかしいなぁ……いや、別に私は本気でこれを押すつもりなんてなかったんだけど……いや、本当にただちょっと脅そうとしたってだけで……あ、あれ? その注射器取り上げてどうするつもりなんだ? い、嫌だなぁ……冗談だよな? 止めてくれないかなそんな冗談? あの、止めて……止めてーー!」
シエラは叫び声を上げた直後、地面に顔をぶつけるようにして土下座する。
地震が起きてるのではないのかと錯覚する程にシエラは激しくその身を震わせた。
「少し眠るだけだ。別に構わんだろ」
「あ、いや……あの……じ、実はその麻酔薬、前回よりもちょっと強い薬入ってて危ないレベルで……下手すると呼吸まで止まっちゃうかも……」
「あ? そんな危ないもんを俺に打ち込もうとしてたのか?」
わざと苛ついた口調で問い返すと、シエラの身体がビクリと跳ねた。
「い、いや。今のは嘘で、大丈夫! 命に関わるようなものじゃないから! そんなに危ない薬じゃないって!」
「じゃあお前に打っても問題ないじゃないか」
「や、嫌ーーー! 駄目駄目駄目。無理、それは無理。そ、それだけは許して!」
そのシエラの様子に俺は苦笑すら浮かべるのも忘れてただただ呆れる。
丁度その時、狙撃を終えた鯉が姿を見せたので俺はそれに視線を向けた。
「鯉、どうやらこいつの他に追っ手はないようだ。拷問でもなんでもしていいからこいつから情報を吐き出させろ。俺はリリーヤ達の様子を見てくる」
「うい」
鯉は少し楽しげな様子で答えてシエラに近づいていく。
シエラは顔を俯かせていながらも相手がかなり幼い少女であることに気づいた為か、顔に僅かに侮りの表情を浮かべた。
このままおとなしく言うことを聞いた振りをすれば簡単に逃れることが出来ると踏んだのだろう。実際にシエラは鯉と二人っきりになった瞬間に襲いかかることだろう。まあ相手の見た目は幼い少女なのだ、そう思うのも無理はない。
「まあ、お手柔らかにな」
そう答えて俺は家の方へと歩を向ける。
その直前、土下座しているシエラの顔にニヤリと笑みが浮かんだのに気づいたが、まあ別にそれはどうでもよかった。
家の中へと入るとリリーヤの隣にいるリーナがパソコンを前にして固まっているのが見えた。フリーズしているという表現が的確過ぎるほどに見事なまでに固まっている。
リリーヤの首輪からは配線が伸び、それがパソコンに接続されているところから見て何かの解析を行っているようだったが、今のリーナは固まったまま動こうともしない。
その部屋の内装は田舎にあるごく一般的なカントリースタイルの家なのだがリーナの周りに積み上げられているパソコンの類は壁のように連なりそこの一角だけが異質に浮いている。余程に金のかかった設備のように見えた。
「どうだ、天才。調子の方は? 解除出来そうか?」
俺が問いかけるがリーナは微動だにしない。
反応しないリーナにしびれを切らしてリリーヤに視線を向けると、リリーヤは慌てた様子でおろおろしながら、
「だ、大丈夫。問題ない」
とだけ言った。
やがてして、リーナは身体を固めたまま、口だけを動かし始める。
「プリンストン大学のウィニッチ糞何某って奴が新暗号アルゴリズムってのを開発したのよ」
「……?」
「AESを再発展化したSPN構造だけどそれよりも更にラウンド関数の自由度を高めた構成の新規格で量子コンピュータでも登場でもしない限り絶対に解けない暗号だと話題になったやつ」
「はあ? ……で?」
「現行のスパコンの浮動小数点数程度では解析しきるには二十五万年かかるとも言われててこの暗号アルゴリズムを解くには……」
「なんだ? 結局解除できないってことなのか?」
無理なら無理と言えばいいものを余程に天の邪鬼なのか、リーナはそういうことが言えないタチらしい。
ただ俺がそう言った途端、リーナはモニターを見つめたままポロポロと泣き出したのでそれ以上の言葉を止めた。
「リ、リーナちゃん、泣かないで」
リリーヤが慌ててリーナを慰める。
「馬鹿、全然泣いてなんかないし……これが泣いてるように見える?」
未だにポロポロと涙を流し続けるリリーヤは持ち前の天の邪鬼ぷりを発揮してかなり無理な言い訳をして見せた。
俺は小さくため息を吐き出す。
となると、もはや期待出来るのはあのシエラしかないということになる。
だが、それを頼りとするには随分とか細く、弱い糸のようにしか思えなかった。
隣の納屋にいたシエラは鯉を張り倒してまんまと逃げ出していた。
というわけもなく、普通に椅子に縛り付けられて青い顔でぐったりとしていた。
別に酷い外傷があるわけでもないが、シエラの様子は気を失う寸前のように憔悴仕切っている。顔からは涙やら汗やら鼻水やら涎やら、液体と思われるものはすべて流れ出ている状態で、椅子の下の足下には得体のしれない水たまりが出来ていた。
「あ、先生。言われた通りやってますよ」
鯉はにこやかに笑みを浮かべ、答えた。
「何か引き出せたか?」
「あんまり目新しい情報はありませんね。絶対に外せない首輪だとか、二十四時間以内に施設に戻さない限りは解除不可能とか、首輪は壊そうとしたり分解しようとしたりすると0.5秒後で爆発するように出来てるとかくらいですかね? まあそのくらいの程度です」
「ほんとに碌な情報がないな。だが、0.5秒か……物理的に破壊するのも難しそうだな……」
俺はシエラに近づきその両頬を手で挟んで持ち上げる。
「おい、シエラ。本当にお前はあの首輪の解除法を知らないのか? 嘘を言っていると為にならんぞ」
それまで完全に茫然自失と言った様子でうなだれていたシエラはビクリと身体を震わせて涙で溢れる瞳で俺を見返す。
「ゆ、許して……許してください……もうこれ以上は死んでしまいます。うえ……うえぇ……おえぇ……」
泣きじゃくりながら吐きそうな感じで喉を鳴らしたこのシエラの様子からして、どうやら本当にこれ以上の情報は持っていないらしい。
となると一体どうやってあの首輪を解除すればいいのか?
そんな方法などあるというのか?
「ちなみにだが。鯉、お前どんな拷問したんだ?」
「えー、全然たいしたことやってないですよ。ちょっとくすぐっただけです。まあ五回くらい酸欠で気絶してましたけど」
「はぁ……そうか。まあ、まだ何か隠してるかもしれないから。とりあえずもう少し痛めつけておけ」
「うい」
「ひっ、ひぃ……」
その言葉にショックを受けたのか、シエラは白目を剥いて気絶してしまう。
丁度その時、その納屋にリリーヤとリーナが姿を現した。
リーナの方は泣きはらした顔で憔悴しきっている様子で、首輪をしている当のリリーヤの方が彼女を慰めているような状態だった。
とりあえず俺は二人に向かって小さく首を左右に振った後、今シエラから聞き出した情報をリーナに伝える。
リーナの青い顔から更に血の気が引くのがわかった。
この首輪が絶対に破壊できないという事実に気づいた為だろう。自他共に認める天才のリーナでもこの首輪を破壊する方法は見つけ出せないようだった。
「リリーヤは施設に戻るのは嫌なのか?」
俺は一応、リリーヤに問いかける。
「絶対嫌」
リリーヤははっきりとした口調で答える。
施設に戻るくらいなら死んだ方がマシだということだろう。確かに傍目から見れば死んだような生活と言えるのかもしれない。それに恐らく今回の機会を逃せばもう二度とその施設からは逃げ出せないだろう。そう考えるのも無理はない。
俺は顎に手をやり、考えを巡らせる。
「プログラム的に爆弾を解除するのは不可能。ならば物理的破壊、或いは物理的に爆破の衝撃を止める……」
「首輪の爆発を緩衝材で止めるのは無理だし……そんなちゃちな威力の爆弾じゃないし、これ……爆弾の種類はセムテックス3。二百グラム」
「セムテックス3か……」
俺は思わず絶句する。
「先生。なんですか、それ?」
鯉の問いかけに対し、俺はしばらく思考を巡らせた後、口を開く。
「従来のセムテックスの三倍の威力を持つ新型プラスチック爆弾だ」
だが、明らかに不審な点が一つある。
「セムテックス3、二百グラムといえば周囲二十メートルを木端微塵に吹き飛ばせる程の威力だ。対象者だけじゃなく辺りの人間も巻き込むぞ。正直言ってオーバースペック過ぎる」
「きっと……解除しようとした人間も一緒に始末出来るような造りにしたんでしょうね。情報を探る人間は一人も生かさないってことよ……」
リーナが弱々しい声で答えてまたポロポロと涙を流す。
「リーナちゃん、泣かないで」
再びリリーヤが慰める。
「リリーヤ、何かして欲しいこととかない? やりたかったこととか……なんでもいい。私に言って……」
「私……」
リリーヤは僅かに口ごもった後、顔に笑顔を浮かべて口を開いた。
「私、お菓子屋さんになりたかった。リーナちゃんと一緒にドーナツ焼いて。売ってみたかった」
そう言ったリリーヤの顔をリーナは悲しげな目でジッと見つめる。
「お菓子屋さんか……それは難しいなぁ……でも私も一緒にお菓子屋さんをやりたいよ。どうにかして……どうにか……」
涙が涸れ果てるのではないのかという様子でリーナは泣きじゃくる。
その姿を横目にしつつも、俺は未だに考えを巡らせ続けていた。
「残された手は首輪を壊すしか方法がないわけか……だが、首輪を破壊しようとしても0.5秒で起爆し、周囲二十メートルは木端微塵……無論、緩衝材は不可能。液体窒素……いや、無理か。糞っ……」
この首輪を外す方法はもはや完全に失われたかに思われた。
いや……待て。
まだ何かある気がする。
それは誰もが思いつかないような……いや、誰もが思いつくが、馬鹿馬鹿しすぎて実行しないような方法、そんな方法があるのではないだろうか?
「0.5秒か……」
俺は小さな声でもう一度その数字を呟く。
その瞬間、俺の脳裏に鋭い光が走り、目の前を通り過ぎた。
それは二つの光の線だ。
二つの光が闇の中を走り、一点で交錯する。
その光の交差点に俺は答えを見つけた。
「いや……破壊する方法はある」
小さな声で呟いた俺の顔をその場にいる皆がハッと見返した。
「俺はガキのことから裏技ってのを見つけるのが得意な方でね。遊びや勝負の裏技を使ってよく勝ったものさ。まあ悪く言えばイカサマみたいなもんだが、どうやら今回もその裏技を見つけたようだ。酷く馬鹿馬鹿しくて無理矢理な方法だが今はそれに賭けるしかない」
ゴルディアスの結び目のような話だな。
俺は古代のその神話を思い出し、何気なくそんなことを考えたりした。
そうした後、俺は携帯電話を取り出し、ある電話番号をコールする。
「ああ、トニオか。俺だ。ちょっとお前に頼みたい物がある。至急の依頼だ。今から言う物を二時間で用意してくれ。おいおい、まあそう言うなよ。報酬とは別に時間に五万ドル払う話だぜ。……OK。乗ってきたな。ああそう……それだ、流石にカンがいいな、トニオ。そいつに加えて出来るだけ同程度の技量を持った奴を二人用意してくれ。……双子? いいね。今回の条件にピッタリだぜ。落ち合う場所は……」
俺は電話先のトニオと会話を続けながら、尚も不審な様子で視線を向けている皆に視線を向け、僅かに微笑を返してみせた。
*
「待たせたな。池田の旦那」
トラックから姿を現した小柄な中年男、トニオはいつもの通り、茶のイタリアンスーツに身を包んでいた。何度見てもB級映画のマフィア崩れのようにしか見えないその姿はある種の形式美すら感じる程だ。
不意にトニオの手にしていた腕時計が音を立てて鳴り響く。
「おっと! へへ、危なかったな。今のが二時間のアラームだぜ。これで五万ドルとは旦那も景気がいいね」
「トニオ、無駄話をしている暇はない。例の物はどこだ」
「勿論、用意してきたぜ」
トニオの合図と共に大型トラックの荷台から工具箱などを手にした大勢の男達が降りてくる。恐らくトニオがかき集めてきた連中だ。どれも一流のテクニックを持った男達だろう。
だが俺はそれを見ながらも顔をしかめた。
「おい、待てよ。肝心の物がないじゃないか」
「ま、待て待て! こういった物にはサプライズってのがつきものなのさ! ほら! もうそこまで来てるようだぜ! 耳を澄ませてみなよ!」
遠くから猛獣の唸りような激しいエンジン音が響き、間を置かずしてその場に二台のスポーツカーが現れた。どちらも同じ車種で同じカラーリングの車だ。
路肩に停められた二台の車から二人の男が現れる。
背が高くk、短い金髪の男。来ている服も全く同じその姿は鏡を映しているかのようだった。
「エヴァン・ウォーカーだ」
「ギャビン・ウォーカーだ」
金髪の男は示し合わせたかのように同時にそう言った。
トニオは両手を広げ、笑みを浮かべる。
「どうだい旦那、これほど無いまでに条件にぴったりな二人だろ。技能も度胸も同等、それも二人ともドラッグレース界の実力者ときている」
トニオは二人が乗ってきた車に小走りで駆け寄る。
「それにこの二台の車を見てくれよ! フルチューンされたGT―Rだぜ! 最高時速時速四百キロ近くまで引っ張れるモンスターマシンだ!」
トニオは二人が乗ってきた車をまるで自分の物のように自慢げに紹介し、小ずる賢い商人のような手もみをしてみせた。
「さあさあ、さてさて。旦那そろそろ教えてくれよ。旦那は一体この二人に何をやらせようとしてるっていうんだ? 単なるドラッグレースが見たいってわけじゃないんだろう?」
俺は顎で間近の草むらを示す。
そこからリーナとリリーヤの二人が互いを抱きかかえるような様子で姿を現した。
「これは……このお嬢ちゃん達も双子なのかい? で、これが一体……」
俺はリリーヤの首に取り付けられた首輪を手を指差す。
首輪に表示されている時間は残り二十二分三十秒を示していた。
「この首輪には爆弾が仕掛けられている。このままだともうじきこの娘の命が失われることになる。だからこいつを破壊するんだ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。爆弾だって? いや、このトニオ・アントニーニ、爆弾の一つや二つくぐり抜けたことも珍しくないが……このお嬢さんの首に仕掛けられた爆弾とこの二台の車を用意したこととがどう関係するって言うんだ?」
俺はこの延々と続くストレートの道へと視線を向ける。
この場所を選んだのにはわけがある。出来るだけ水平で長い直線があるこの場所はまさにその条件にピッタリの場所だったのだ。
「首輪に切断のガイド線を刻んだ後、二台の車に取り付けたワイヤーとこの首輪を連結させる。同時に両方向からワイヤーを引っ張りこの首輪を破壊するんだ。爆発による致命傷を回避するには時速二百キロ以上の速度が必要だ」
トニオはその顔を真っ青に青ざめさせ、大仰に両手を広げた。
「お、おいおい! じょ、冗談を言うなよ旦那! 時速二百キロオーバーだって? そうだとすると……そう、コンマ一秒ずれただけでも五メートル以上の差が生まれるんだぜ! その爆弾とやらをきっかり同時に破壊する真似なんぞ出来るわけねぇ! 仮に0.01秒ずれただけでも五十センチもずれる! 二百キロの速度で五十センチ動けばそれだけで即死だ! 不可能だ! 絶対に無理だ!」
「出来る出来ないじゃない。今可能な方法はこれしかない。ただ一つ言えることはやらなければ死ぬってことだ。トニオ。やるぞ」
「おいおい……冗談だろ……」
トニオは頭を抱えてその身を縮める。
だがそうした後、
「糞っ!」
己を奮い立たせるかのように大声を出した。
「備え付けの牽引フックだと確実に強度が足りないな……ワイヤーをフレームに直付けする必要がありそうだ。おい! おまえら、このお嬢さんの命がかかってるんだ。早速仕事に取りかかるぞ!」
トニオは叫んだ後、その場のメカニックを引き連れ、皆に指示を出し始める。
一気に騒がしくなった辺りの中、エヴァンとギャビンの二人がリリーヤ達の元へと歩み寄った。
「君たちも双子なのか?」
「双子……そうね。たぶんそんなものね……それでいて私のとても大事な友達」
リリーヤを抱きしめているリーナが弱々しい声で呟く。
エヴァンとギャビンの二人はジッとその二人を見つめた後、緊張した様子でお互いの顔を見合った。
「やるか」
「ああ、わかってる。双子だからな。お前と同じ気持ちだ」
エヴァンとギャビンの二人は拳をあわせて頷き合う。
「ようよう、話は終わったか? ならどいてくれ、このお嬢ちゃんの首輪とワイヤーを接続しないといけないんでな」
「眼をつぶっていろ。少し熱いぞ」
メカニックの一人が防護用のシールドをリリーヤの首と首輪の間に噛ませ、アーチ型の接続器具を溶接する。
その場に火花が散り、青い世界にオレンジ色の光を灯した。
そして、ついにその首輪の残り時間は三分を切った。
準備を終えた俺は車の近くへと駆け寄る。
「エヴァン、ギャビン。やることは単純だ。スタートの合図と共に車を四百メートル走らせる。所謂ゼロヨンって奴だ。スタートでずれたとしてもそのまま突っ走れ。一発勝負だ。いいか、何があっても速度を落としたりするなよ?」
エヴァンとギャビンの二人は無言のまま親指を立て、それに了解の合図を出す。
ドラッグレースと同じようにその場にスタートシグナルが設置され、それが正常に作動することが確認される。
二台の車がタイヤの空転によりタイヤを加熱させ、摩擦でタイヤから白煙が散った時、全ての準備は整った。
白煙が薄い霧のように辺りに広がり、そして消失した。
リリーヤの首輪に表示されている残り時間は残り一分三十秒。
「よし! 始めるぞ! 後はアイルトン・セナでもなんでもいい、とにかくレースの神に祈れ!」
黄色のスタートシグナルが点灯する。
そしてそれがグリーンライトに変わった瞬間、その二台の車は走り出した。
同時に車に備え付けられたワイヤーが空気を切り裂く甲高い音を立てる。
百メートルを通過した瞬間、百メートル地点に設置されていた電子計測器がタイムをはじき出す。
だが、エヴァンの車の方が極僅かにだけ早い。
「な、なんてこった! だ、駄目だ! ずれてる!」
トニオが両手を頭にやって思わず叫び声を上げる。
「折り込み済みだ! リーナ!」
リーナは一瞬にしてその時間差から四百メートル地点での距離差を計算し、叫ぶ。
「二メートル二十七!」
地面には中心地点からの距離が刻まれていた。俺はリリーヤの身体を抱え、俺は跳ぶようにしてエヴァン側に二メートル二十七センチ進んだ。
二百メートルを通過する。
再び速度の差が表示される。
「十二センチ戻って!」
僅かにリリーヤの身体を動かす。
「池田、危ない。離れて。池田まで死んじゃう」
リリーヤが震える声で言ったが、俺はそれに笑みを向ける。
「死ぬものかよ。俺はラッキーボーイだ。最後までつきあうぜ」
ワイヤーの残りは少ない。
車は三百メートルを通過する。
ワイヤーが伸び、その場に凄まじい音が響く。
そして直後、それは到達点を迎えた。
*
オフィスの中、数々の請求書を前にして鯉はしかめっ面でいた。
何度見てもその数字が変わるわけでもないのに、鯉はその数字を見つめ続けている。
「ただ働き。どころか。赤字。私悲しい」
「そのしゃべり方。いい加減。止めろ。頭が痛くなってくる」
俺が頭を抱えながらそう呟いた時、オフィスに外階段をドタドタと上る音が響いた。
やがてしてオフィスの中に恰幅のいい初老の女性、このオフィスの貸し主であるマリーが姿を現した。
「池田さん、聞いてちょうだい。ここからツーブロック先にいった角に新しいお菓子屋が出来たのよ」
「お菓子屋……それがどうかしたんですかい?」
「私の勘だとあの店、絶対に流行ると思うから今のうちに食べておいた方がいいわよ。そのうち人気が出て食べられなくなるに違いないわ。赤毛の店員は無愛想だけど、そこの姉妹はお人形さんみたいな美人の双子でね……」
「ほう、それはなかなか良さそうですね」
俺はそう言った後、視線をデスクの上へと向ける。
既にそのデスクの上には書類に埋もれるようにして一つのドーナッツが置かれていた。
間食にはまだ早い午後一時。
俺は何気なくそのドーナツの輪を二つにわけ、僅かな笑みを浮かべてみせた。
その輪は一時に壊される 了
その輪は一時に壊される 鬼虫兵庫 @ikedasen
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