第二章 ~シームレス 拡張幻想世界へようこそ~

「わりい! 結構待った?」

 右手を上げた学ランの男子が、友人だろう二人組に向かって笑顔で駆け寄った。三人とも身長は八雲とそう変わらないけれど中学生だろう。顔立ちに80%ほどあどけなさを残している。

「いや、それほどでも。そっちの中学の方が遠いし、仕方がないって」

 学ランの男子を迎えた二人はブレザーを着ていた。同じ小学校の友達か、同じ塾の友達同士といったところだろう。濱月駅は複数の路線が乗り入れているし、周辺には塾や予備校が多くある。学校が違ったとしても放課後一緒に遊ぶには都合がいい場所だ。

「パーティ作ってあるから加わってくれよ」

 もう一人のブレザー男子がエクスフォンを片手に急かすように言った。

「了解っと。それで今日のクエストってもう決めたの?」

「マサがバンシーナイフを強化するのに嘆き石が欲しいっていうから、死霊系が出てくるクエスト回す予定、それでいいよな」

「うん、おっけー。俺も紫魂の水晶玉欲しかったからちょうどいいや」

 エクスフォンを突き合わせた中学生たちは、装備や役割分担について確認を始めた。

「回復どうする? オレの魔法で済ますなら、MPポーション多めに持って行くけど」

「いや、俺らもHPポーション多めに持ってくは。それより、マサにはレイス系の使ってくる魔法防御低下の解除を優先してほしいかな」

「分かった。ゾンビの毒は?」

「それも魔法で頼むは。基本的に異常状態使ってくる奴優先して全力でぶったおす感じで」

「なら俺が焔の鉤爪もってく。初っ端の《火炎演舞》でだいたい排除できると思う」

「いいね、頼りにしてるぜ」

 手慣れた様子で三人は相談を済ませると、目抜き通りの方へ歩き出す。学校でなにがあったとか他愛もない雑談をしながらも、手元ではエクスフォンをスムーズに操作していた。

(うーん、ゾンビは体力が高くて毒も厄介だけど動きは鈍いから、むしろ体力が低くて動きの素早いレイスを一撃で倒せる装備の方が楽かな。あ、でも三人パーティならそんなことないか)

 八雲がそんなことを考えている間に、三人の姿は見えなくなっていた。クエスト中のPCは個別フィールド扱いのダンジョンに入るから、例えば彼らの後をつけても一緒にはプレイできない。

 オンラインゲームの利点といえば、いつでも、どこでも、誰かと、遊べることだ。でも、XFWはその全てを否定している。リアルの時間と場所を合わせた、知り合いとしか遊べない。もちろん、パーティ募集などで知らない人同士が一時的に組むこともあるけれど、基本的に友人同士が集まって遊ぶゲームだ。そんな都合の良い不便さがきっとヒットした理由なのだろう。

(その不便さが、ソロプレイヤーには結構きついクエストとかあるんだよね)

 コミュニケーションが重要なXFWをたった一人でプレイする楽しさと難しさを知っているからこそ、八雲はあの掲示板の呼びかけに応えよと思い濱月駅へやってきていた。

 ビル壁面のモニターに映されたニュース番組を見ると、現在の時刻は午後3時50分。約束の時間まで10分と迫っていたけれど、八雲はまだXFWのメインフィールドにはログインしていなかった。手助けしたい気持ちとまだ訝しむ気持ちが半々だった。

 《ジャック》に助けを求める書き込みは、今まで何度もあった。小学生ぐらいの男の子たちに頼まれて一緒にグリフォンを倒したこともあれば、約束の場所に行ったら五人の男女に囲まれてギルドに勧誘されたこともある。イベントでたまたまパーティを組むことになった中年の男性に、ジャックのファンだと言われしつこく名前を聞かれた時は怖くて逃げ出した。リアル世界はXFWを闊歩するモンスター並に危険がいっぱいだ。

 掲示板の書き込みをもう一度チェックしてみるけれど、その後の追加の文言は特に無い。『待っている』というだけで具体的な連絡方がないのはどういうことだろうか。何らかの手段で相手はこちらを発見できるのか、それともこちらが名乗り出ることを期待しているのだろうか。どちらにせよ困った話だ。前者ならリアルの大神八雲とヤクモとジャックを結び付けられる人物が存在することになるし、後者なら単純に恥ずかしい。

(すごく初心者っぽい書き込みだし、できるだけ助けてあげたいな)

 現実の『大神八雲』は無力だけれど、XFWの『ジャック』なら恐ろしい魔神討伐の手助けだって倒せるし、古代神殿の謎を解いて財宝を手に入れることだってできる。

 約束の5分前になるけれど、掲示板にも現実の駅前にも変化はない。

(ゲーム内で呼びかけてるのかな)

 用意してあった剣士の装備に変更すると、八雲はXFWのフィールドにログインした。パブリックなフィールドでの開始位置をプレイヤーから前方10メートルに設定してあるので、画面内のヤクモは少し離れた場所に現れる。鉄鋼シリーズの防具に聖紋の盾、大鷲の剣という中級者によく見られる装備なので、目立つことはないだろう。

 CGで再現された月濱駅前はPCたちで賑わっていた。現実とまるで同じとはいかないものの、ざっと見える範囲だけでも500人はいそうだ。時間帯的にも学校帰りの若いプレイヤーが多そうだ。

 このメインフィールドはAG社が提供する地図システム《ガーデンアース》をもとに作られているので、普通の道はもちろんショッピングモールや地下街など商業施設も多く再現されている。写真から生成された3Dモデルを配置したものらしいけれど、非常に精巧にできている。一人称視点に切り替えてカメラを起動させれば、他のPCや敵モンスターがリアルの街中に合成されて表示される。このXRモードは没入感を高めたい人だけでなく、隠されたポータルの発見や謎解きに使ったりする。

 3Dモデルの建物には多少のデフォルメが加わっている、キャラクターとは若干の違和感がある。どうせなら冒険者の集う酒場のようなロビー的システムにすれば良いと八雲は思っていた。その方が移動やプレイヤー間の売買は楽にできるはずだ。何故かXFWはやたらと現実とのリンクに拘った仕様になっている。外国ではその方が人気があるのだろうか。確かにヨーロッパの町並みなら、甲冑騎士やエルフ、とんがり帽子の魔法使いが闊歩していても絵になるとは思う。日本の背景ではどうしてもコスプレ感が漂う。

 そんな駅前コスプレパーティでは、PCたちが吹き出しを頭上に掲げている。アイテムの売買や情報の交換、そしてクエストメンバーの募集がほとんどだ。難易度補正もあるけれど、基本的に参加人数が多ければ多いほど、クエストの攻略は有利になる。

(そろそろ4時だけど……)

 ふらふらとヤクモが周囲を見て回っていると駅前デパートの仕掛け時計が動き出した。小さな人形たちが登場し、鐘を打ちラッパを吹き鳴らす。小人の楽団が奏でる軽やかなメロディが雑踏の上に降り注いだ。

(イタズラだったのかな)

 八雲は安堵と諦めの混じるため息を吐き出した。騙されたのは少し悲しいけれど、実害はゲームの時間が20分削られたぐらいと軽微だ。落ち込むほどのことではないと自分に言い聞かせた。

(せっかく人の多いポータルにいるんだし、買い物でもしよう。大量に余ってるレンズ蝶の繭を売るのもありかな)

 そうやってポジティブな方向に思考を持っていことした時だ。ヤクモの目の前に一人のPCがログインしてきた。

 黒いショートカットの女性キャラクターだ。革の防具一式に革の盾と鉄の剣という剣士系の初期装備を身に着けている。低ランク装備はカスタマイズ幅が広いので、極限まで鍛えてあれば上位装備と互角の性能を発揮する。超ベテランか超初心者のどちからだろう。

 こちらを見るように止まっている。なんだろうと思っていると、女性剣士が少しだけ右に動いて、止まった。道を譲ってくれたのかと思って通ろうとすると、女性剣士がまた戻ってきて行く手を塞いだ。古典RPGに出てくる村人のようなぎこちない動きは、どう見ても初心者のものだった。

(操作に困ってるのかな)

 吹き出しを使ってアドバイスしようか八雲は迷った。一人でプレイしたい人かもしれないし、変な勧誘だと思われるのも嫌だ。例え潜在的に助けを求めていても、相手が女性だったり、子供だったりすると、声かけ事案に発展する恐れもある。変なトラブルの追加クエストは御免被りたい。

(とりあえず、どんな人か確認だけはしよう。決めるのはその後で)

 もし本当の初心者ならPCのログイン位置もデフォルトなはずだ。つまりゲーム内のPCの位置と、プレイヤーの現在位置が一致している。

 八雲はゲーム画面から顔を上げ、正面5メートルほど先のリアル世界を見た。人々が行き交う通路にあって、その人物の周りだけ結界でもあるかのように人の流れが変わっていた。

 ちらりと見えたその人影に八雲は見覚えがあった。というか、つい数時間前に同じようにのぞき見た、あの人だった。

「あっ」

 八雲は思わず声を漏らした。相手と目が合ってしまったのだ。スニーキング中なら頭の上のビックリマークを確認して即座に逃げるところだけれど、現実世界での八雲にそんなスキルは無い。彼女の力強い瞳に見つめられ動けなくなってしまった。

 それだけならまだ硬直終了後に逃走できたかもしれないけれど、そうはいかなかった。彼女はずんずんと一直線にこちらに近づいてくる。まるで一番弱い魔法使いから襲う、極悪モンスターのような挙動だった。

「大神くんじゃん、ちょうどいい所で会ったね。ちょっとアプリゲームのやり方、教えて欲しいんだけどさ。あ、いま時間いい? もしかして誰かと待ち合わせだったりする?」

 ぐいぐいの如月さんは対処を考える暇もない怒涛の言葉ラッシュを繰り出した。

「あ、いえ……別に待ち合わせとかでは……」

 八雲はしどろもどろになりながら答えた。学校の外で誰かと待ち合わせしてると思われるのが、少し恥ずかしかった。

「よかった~、やり方が全然わかんなくてすっごく困ってたの! 大神くんに遭えてちょうラッキーだよ」

 嬉しそうに言って如月さんは、ずいっとエクスフォンを突き出してきた。その画面にはやはり、あの女性剣士が映っていた。

「エクワって奴なんだけどさ、分かるかな?」

「えっと、わかりますけど。少しなら……」

 八雲は握っていた自分のエクスフォンをポケットに隠しながら答えた。

「だよねだよね! やっぱり大神くんだもんね!」

 如月さんがテンション高めに納得した。如月さんのそんな態度に八雲は少し驚いた。教室内ではエクスフォンを弄ったりしていないのに、なぜゲームが得意なことを知っているのだろうか。登校中や放課後にプレイしている姿を見られたことがあるのだろうか。

(単純にぼくからゲームオタクっぽいオーラがでてるだけかな)

 他人からどう見えているのか分からないけれど、如月さんはそういった嗅覚が鋭そうなイメージはあった。

「えっと、それで、なにが分からないんでしょうか?」

 緊張してやたらと丁寧な口調になってしまう。如月さんとこうやってまともに話すのは、初めてのはずだ。彼女は誰に対しても気さくなようだけれど、八雲には色々とハードルが高かった。

「んとね、みんながやってるみたいに看板出したいんだけどさ」

 そう言って如月さんはエクスフォンを押し付けてきた。受け取る時に如月さんの指がちょこんと触れてしまい八雲の心臓がドキリと跳ねる。

「か、看板ですか」

「あの頭の上に浮いてるやつ」

 如月さんは自分の頭の上をくるくると指さして言った。

「あっ、吹き出しですね。分かりました。まずですね、左のメニュータブからこの『発言』を引っ張りだしてですね、えっと、定型文じゃない時は一番上の『フリー』のとこをそのままタップして」

「うんうん」

 小さな鼻を鳴らすように頷いた如月さんが、八雲が持つエクスフォンの画面を覗きこんできた。側頭部からふわっと零れ落ちた黒髪を、如月さんはさらっと描きあげる。その艶っぽいしぐさに圧倒された八雲は思わず後ずさった。

「あ、ごめん、画面見るの邪魔しちゃった?」

「ダイジョブですっ! えっと…………あの、そ、それでボックスが出てくるので、ここに喋りたい文章を入力して、横の発言ボタンを押すんです。あっ、あと、吹き出しを固定して看板みたいにする時は、このFアイコンにチェックを入れて下さい」

 たどたどしい口調で説明してから、八雲はアイコンを押して見せた。

「あんがとねー。さすが大神くんは頼りになる!」

 如月さんはなぜか自慢気に言ってエクスフォンを受け取った。

「いえ、それじゃ、あっ?!」

 そそくさと退散しようとした八雲だったが、如月さんの入力画面をふと見てしまい、その内容に思わず驚きの声を上げた。

「どしたの?! あたし、なんか変なことしちゃった?」

 怪訝そうな表情を浮かべた如月さんが、恐る恐るエクスフォンの画面を見せてきた。

「いえ、その……」

 画面の中で女性剣士が『ジャックさん! 出てきて下さい!』と発言していた。八雲は混乱した頭で言葉を探した。

「如月さんは、じゃ、ジャックのこと知ってるんですか?」

 自分でも驚くほど声が震えていた。

「えっ! 大神くん、ジャックのこと知ってるの? もしかして知り合い?」

 如月さんが驚きの表情で同じような質問を返してきた。

「い、いえ、ジャックはXFWの有名人だから、ちょっと気になって……如月さんはXFW初めてみたいなのに、なんでって……」

「智代から聞いてたから。すっごい上手いプレイヤーがいるって」

「は、はぁ、でもなんで、そのジャックに呼びかけたりしてるんですか?」

 八雲は早鐘を打つ心臓を抑えるように胸に手を当てていた。

「ジャックのせいで友達がトラブルに巻き込まれちゃってるの!」

 如月さんが綺麗な顔を怒りに歪ませる。豹が牙を剥くような迫力があって少し怖い。

「で、でも、ジャックはそんなに悪い奴じゃないって……噂だけど……」

 敵意むき出しの如月さんを前に、いまさら自分がそのジャックだと名乗り出る勇気なんてなかった。

「智代もそう言ってたけど、そんなの絶対にウソ! だって、あいつと知り合ってから智代の様子すっごい変なんだもん!」

 お昼に立ち聞きしていた電話は、こういう理由だったのかと、八雲は内心で納得した。如月さんがあの庭園に来たのは、XFWの掲示板に接続するためだったようだ。

「でも、勘違いとかじゃ……例えばジャックの偽物に騙されてるとか……」

「偽物ってそんなわけないじゃん。あいつは絶対に悪いやつなんだから!」

 如月さんはすっぱりと言い切った。

「直接会ったことがあるんですか?」

「ない! けど、ちょっと調べたら、すっごい悪い事してるって分かったんだから! おびき出して、あたしが捕まえる!」

 ネットに書かれている悪事は、間違いなく偽ジャックの仕業なのだけれど、これほど猛っている如月さんにいくら説明しても分かってくれそうにない。

「そうですか……」

 曖昧な相づちを打ちながら、八雲は内心で頭を抱え悶絶していた。

「大神くんもエクワやってるんだよね。もしジャックとか智代について何か知ってたら教えて! どんな小さなこととでも良いから!」

 如月さんの切々とした訴えに八雲の心が揺れる。

 思い切って自分がジャックだと名乗り出て、事情を説明したほうが良いのだろうか。

(でも、如月さんも信じてくれないかも……)

 記憶の奥底で大鍋に閉じ込められている暗い気持ちが、八雲の声を縛っていた。

「あ……えっと……」

 八雲が動悸に抗い言葉を迷っていると、二人のもとに近づく人影があった。

「掲示板見たんだけど、あんたがジャック探してる人?」

 二人組の若い男たちだ。声をかけてきたのは、黒髪の男で二十代後半ぐらい。身長は180センチぐらいあって八雲から顔を確認するには、少し見上げなければならない。ガッシリとした身体つきが、黒いバンドTシャツの上からでも分かる。右手に持っているエクスフォンで如月さんの発言を確認したのだろう。

「ひゅ~、まさかの美人ちゃんだな」

 もう一人の金髪の男が茶化すように言った。身長は170センチに届かないぐらい。年齢はもう一人より若く見えるので、二十代前半の大学生ぐらいだろう。両手をポケットに手を突っ込んで、首をコキコキ鳴らしていた。

 待ち構えていた如月さんは一瞬だけ口端に笑み浮かべて、二人の男たちに向き合った。

「そうだけど、どっちがジャックなの?」

 警戒心を露わにした如月さんは、男たちの顔と容姿を記憶に刻むようにしっかりと見つめた。

「俺たちはジャックじゃない。あいつの仲間だよ」

 黒髪の男は用意していた台詞でも言うように答えた。もちろん、八雲はこの二人の事なんて何も知らない。

(ぼくに仲間なんていないから!)

 緊迫した雰囲気に気圧され、その一言が喉から出てこない。

「あたしが用事があるのは、ジャックだけなんだけど」

「ん? 知らないのか。ジャックには懸賞金がかかってる。だから余計なトラブルに巻き込まれないように、初めての相手とは直接連絡をとったりしない」

 用心深いなと納得しそうになったけれど、違和感があった。よく考えなくても、自分がそのジャックだった。

(いま目の前にいるんだけど……)

 心のなかでだけ呟いて、もう発言は諦めることにした。下手に会話に割り込んで混乱させるよりも、この偶然を活かす方がいい。

 仲間だと名乗ったのだから、男たちは『偽ジャック』について何か知っているようだ。今まで雲を掴むような状態だった『偽ジャック』の情報を得るまたとない好機だ。

「ふーん。それでどうすれば会えるの?」

「俺たちが報告して、ジャックが対応を決める。どんな用件でジャックに会いたいのか言え。その様子じゃ、助けてなんてのは嘘なんだろ」

 あっさりと別の思惑があることを見ぬかれてしまったけれど、如月さんに動揺した様子はない。むしろ挑みかかるような視線で男を睨みつけた

「葛西智代のことであんたと直接話しがしたいって伝えて」

「分かった。用件は伝えよう」

 黒髪の男が目配せすると、金髪の男が頷く。金髪の男は先程からずっとエクスフォンを弄っていた。通話アプリかメールで逐一、偽ジャックに連絡をしていたのだろう。

「少し待ちな」

 金髪の男の答えに沈黙が訪れる。心なしか道行く人が増えてきているようだ。四人を包む重苦しい空気とは関係なしに、人の声と足音が混ざり合った雑音が高まっている気がした。

 そんな空隙にしびれを切らしたのは如月さんだった。

「ねえ、あんたたちは知ってるんでしょ。智代が今どこにいて、どうしてるのか」

「さあな、智代なんて女のことは知らないな。ジャックは仲間だが、親しいお友達じゃない。ビジネスパートナーみたいなもんだ」

 黒髪の男の言葉を強調するように、金髪の男のエクスフォンが鳴った。メールが届いたようだ。すぐさま内容を確認した金髪の男はニヤニヤ笑いを浮かべながら、その画面を黒髪の男にも見せた。

「……そうか、分かった。ジャックから許可がでた今から案内してやる。ついてこい」

 歩き出す黒髪の男の後ろに如月さんが続く。さらにその後から八雲もついていこうとしたが、金髪の男が割ってはいってきた。

「おっと、お前はダメだぜ」

「え、なんで……僕もジャックに会いたいんですけど……噂について話したいことが……」

 思い切って声を出した八雲に対して、金髪の男は邪魔者を追い払うように手を振った。

「ダ~メダメ、ジャックと会えるのは一人だけなんだよ」

 無下に断られてしまった八雲は口ごもった。

「いいじゃん、一人ぐらい増えたって問題ないでしょ」

 如月さんが助け舟を出してくれるが、今度は振り向いた黒髪の男が厳しい顔をする。

「駄目だ。余計な奴が付いてくるというなら、お前もジャックには会わせられないぞ」

「う、それは困る……ごめんね、大神くん。でも、あたしがなんとかするから、ねっ」

 そう言って如月さんは八雲にだけウインクしてみせた。彼女は本当にジャックを『捕まえてとっちめる』つもりらしい。

「ま、そういうわけだから、関係ない奴はついくんなっての」

 金髪の男がガムでも吐き捨てるように言った。

「……分かりました」

 八雲はおとなしく引き下がった。駄々をこねても如月さんの迷惑になるだけだ。

「話は決まったな。行くぞ」

 黒髪の男が前を向いて歩き出す。

「さっきはありがとね、大神くん。じゃまた明日、学校でね」

 如月さんは歩幅の大きな黒髪の男に遅れないよう急ぎ足でついていく。

 金髪の男はその場に残り、依然としてこちらを睨みつけてくる。ついてこないように見張っているのだ。八雲は如月さんと黒髪の男の行方を目で追っていたけれど、やがて人混みに紛れ見えなくなってしまった。それでも金髪の男は監視を続けていたので、八雲はその場を動けなかった。

「変なこと考えんじゃねえぞ」

 そう念を押した金髪の男は、先に行った二人とは別の方角に進み、これまた混み合う地下街へと姿を消した。どこかで合流するのだろう。手慣れた様子と異常な警戒の仕方に、八雲は得体のしれない不安を感じた。

(でも、諦めるのって苦手だから)

 八雲はすぐさまエクスフォンを取り出す。XFWは起動したままになっていた。パネルのタブ引っ張りだして装備を変更する。黒装束に叢雲の鉢金、武器は忍刀烈華。素早さのパラメーターと移動用スキルに特化した忍者装束だ。

 パネルをタップして《霞駆け》を発動する。画面内のヤクモの姿がゆらりと揺れ白い靄に包まれた。移動速度アップ状態になり、さらに隠密効果で他のプレイヤーやモンスターからは姿が見えづらくなっている。

 3Dモデルで形作られた月濱駅のフィールドをヤクモは駆け抜ける。向かうのは如月さんと黒髪の男が消えた駅ビルの通路だ。

(如月さんが初期設定のままなら……)

 アパレルショップやおしゃれ雑貨店、スイーツショップが並ぶ通路を、ヤクモは現実には不可能な速度で進んでいく。XFWをプレイするPCの姿もあるけれど、中心街を離れれば、リアルと違い人影は疎らになっていた。

 駅ビルを抜けた所で道は三つに分かれていた。右は地下道に入り、中央と左は繁華街へ繋がっている。速度アップの効果を最大限に発揮して、左から順番に調べていく。パチンコ屋や飲み屋が並ぶ道には発見できなかった。脇道から中央の道に切り替えて、さらに繁華街の中心へと進んだ。

(……いた!)

 ドラッグストアの前を、如月さんのPCである女剣士、面倒なのでキサラギさんと呼ぶことにする、がてくてくと歩いていた。その頭の上にはジャックを探していますの吹き出しがそのまま残っていた。

(やっぱり如月さんは初期設定を変えてなかった)

 如月さんがエクスフォンをポケットにしまう時に、XFWを終了していない事を八雲は確認していた。初期設定のままだと、オートモードに切り替わりPCがプレイヤーと同じ位置情報で冒険を続けるようになっている。操作できない仕事中などにレベル上げや、アイテム入手に使う機能だ。普通は身バレしないように、自動切り替えは切っておくのだけれど、如月さんはそれを知らなかったようだ。

(これなら後を追える)

 画面の中でヤクモを操作しつつ、現実の八雲自身も如月さんの後を追った。XFWの経験値はひとより高いほうだ。画面を見ながらの小走りはお手の物で、混み合う通路でもぶつからずに進めた。

(駅から離れてってるみたいだけど、どこに向かってるんだろう?)

 繁華街を進んだキサラギさんは、量販店の前の分かれ道で動きを止めた。目的地に着いたのかと思ったら違った。正面に出現(ポップ)した一角熊に向かって剣を向けた。オートモードなので、モンスターが索敵範囲に入ったら自動的に戦闘を始めてしまうのだ。

 PCが勝利すればそのまま如月さんの現在位置に向かって移動してくれるけれど、負けてしまえばその場から消えてしまう。そうなったらもう追いかける方法はない。そして一角熊はXFWを始めたばかりのPCが、オートモードで倒せる敵ではない。

(これ、マズイな)

 ヤクモは一直線にキサラギさんのもとへ向かった。しかし、戦いが始まってしまう。

 キサラギさんは振りかぶった剣で斬りつけた。一角熊に363のダメージを与えた。

 一角熊はその丸太のような豪腕を振るった。キサラギさんに430のダメージを与えた。一撃で瀕死の重傷だった。

(間に合え!!)

 ヤクモは《爆裂クナイ》を有効射程ギリギリの距離で発動した。鈍色のクナイが呪札をはためかせ飛翔、一角熊の右肩に突き刺さる。梵字が浮かび上がり、爆炎が一角熊の茶褐色の体毛を燃え上がらせた。弱点属性を突いたことで2504の大ダメージ。

 倒れ込み怯んだ一角熊にキサラギさんが剣を振り下ろす。幸運にも一角熊の額から突き出した乳白色の角を粉砕する。これが会心の一撃となり517のダメージ。HPを失った一角熊が仰向けに倒れた。

 キサラギさんの身体がキラリと光り輝いた。一角熊の経験値でジョブレベルが1上がったのだ。選択ジョブが剣士なら固有スキルの《ジャンプ攻撃》を覚えたはずだけれど、きっと如月さん本人はこの成長に気づいていないだろう。

 LVアップでの回復はないので、ヤクモがポーションを使ってキサラギさんの傷を全快させた。如月さんが定型文を設定していないので、『ありがとう』の一言は無しだった。何事も無かったようにキサラギさんは、またてくてくと歩き出した。ヤクモもモンスターの気配に注意をはらいながら進んでいく。

 ジョブLVがアップしたとはいっても、HPが劇的に上がったわけではない。油断したらキサラギさんはすぐに倒れてしまい、ゲームオーバーだ。

 しかも、こんな時に限ってLVの高いレアモンスターが襲ってくるから困りものだ。やたらと攻撃力の高いエメラルド鳥、物理攻撃無効のスモーキングシェル、クエスト中ボスに頻出するキラーチャリオット。どれもこれもヤクモ一人なら問題なく倒せるモンスターだけれど、これは護衛ミッションだ。自ら盾になってキサラギさんを守ったりと、難易度が3倍ぐらいになっていた。

 それでもヤクモはキサラギさんを守り続け、ついにその場所にたどり着いた。小走りに追いかけた八雲自身も、すぐその場所に近づいていた。

 繁華街を抜け、裏路地を入ったところにある雑居ビルの前でキサラギさんは足を止めた。周囲にモンスターはいない。

 周囲を警戒しながら角を曲がった八雲は、不審者注意の立て看板に身を隠し裏路地の様子を伺った。雑居ビルの前には如月さんと黒髪の男、いつの間にか合流した金髪の男がいた。

「この下だ」

 黒髪の男の声が聞こえる。XFWの画面で確認するとどうやら雑居ビルの地下へと続く階段を示しているようだ。

「呼んできてよ。外で話すからさ」

 如月さんは一歩後ずさった。その動きを見た金髪の男も横に半歩重心を移す。

「駄目だ、ジャックはひと目を嫌う」

 黒髪の男は首を横に振ってきっぱりと言った。しかし、如月さんも譲らない。

「いや、ここに呼んできて。もしダメだって言うなら、今すぐに警察を呼ぶから。友達が怪しい男たちに監禁されてるって。間違いで警察に怒られるのなんて怖くないんだから!」

 如月さんはエクスフォンを威勢よくつき出してみせた。金髪の男が何か動こうとするが、黒髪の男がそれを手で制した。

「言っておくが、その行動に意味は無いぞ。ジャックはまだ来てない。お前が待ち合わせ場所に入ったのを確認して、俺たちが連絡をしないと姿を表さない。あいつは少々ヤバい橋を渡ってるからな。もし警察を呼んだりしたら、それこそ二度とお前はジャックに会えないぞ。それでも良いのか?」

 黒髪の男も引かなかった。掲示板やネット上の書き込みで度々みかける『偽ジャック』の暗い噂は本当なのだろうか。男の口ぶりは真に迫っていた。

「…………分かった、言うとおりにする」

 悩んだ末に如月さんは悔しそうに言って、エクスフォンをポケットにしまった。黒髪の男は満足気に頷くと、如月さんを地下へと繋がる階段へ導いた。最後に残った金髪の男は辺りを見回してから二人の後に続き、階段の入り口に鎖を渡す。鎖にはクローズドのプレートがかかっていた。

(ここにいたら如月さんたちの様子が分からないし、もうちょっと近づこう)

 しばらく待ってから地下への階段を覗き込む。レンガの階段が急カーブを描いて地下へと続いている。耳を澄ましても、遠くを走る車の音しか聞こえてこない。

 慎重に通行止めの鎖を乗り越え、足音に細心の注意を払って階段を下っていく。骸骨兵に隠れながら薄暗い地下墓所へと侵入していくような気分だ。実際はすぐに行き止まりに突き当たる。木枠の格子にガラスが嵌め込まれた扉に『Bar Velvet Room』と書かれている。小さな窓から中を覗こうとするが、磨りガラスになっていて無理だった。

(消火器が置いてあるだけで、隠れられる場所はないか。ここで待ってたら偽ジャックと鉢合わせになっちゃうな)

 偽ジャックの正体を知りたいけれど、如月さんの邪魔になるような行動はとりたくない。男たちと偽ジャックは連絡を取り合っているようだから、後をつけていた事を知られたら用心深い偽ジャックは如月さんと会わないだろう。

(でも、偽ジャックがすでにこの中にいるって可能性もあるか。そもそも、あの男の人達が喋ったこと全部が嘘ってことも……)

 湧き上がる猜疑心に、今まで立っていた足場が崩れたような不安に襲われた。その焦りが八雲の思考を普段とは少し違う方向に傾けていた。

(気づかれずに中へ入れないかな?)

 周辺を見渡しても監視カメラや警備会社のマークは見えない。

(こういうお店ってドアの内側にベルがついてたりするんじゃないかな)

 ゲームだと酒場に入るとベルのSEが鳴ったりする。現実の良いところは、ドアをゆっくり開けられるところだ。

(……その前に保険かけとこう)

 八雲は接続したままだったエクスフォンに指を走らせる。アイテム一覧からバジリスクの毒を選択。本来なら調合や弱点属性モンスターに用いるアイテムだけれど、これを自らに使用した。自分に使用する場合は発動率100%なので、失敗なくヤクモの姿が灰色の石像へと変わった。現れた選択肢の『はい』をタップし、文章を入力した。

(これでオッケーかな。連絡するのが警察じゃなければ良いんだよね)

 身をかがめた八雲は、小さく深呼吸してからドアノブを握りゆっくりと押し下げる。鍵はかかっていなかった。ジャックが後から来るからだろうか。

 少しだけ開いた隙間から、見上げるようにして中の様子を伺う。幸い扉の内側も外側も薄暗いので、光で目立つようなことはなかった。すぐに如月さんの声が聞こえてきた。

「ジャックはまだ来ないの?」

 刺々しい言い方に如月さんが苛立っているのがはっきりと分かった。

「連絡はした。もうすぐ来るから座って待ってろ」

 答えた黒髪の男の声からして、店の奥の方にいるようだ。

「まあ、これでも飲んでゆっくりしなよ」

 金髪の男の声は二人より近く、右の方から聞こえてきた。

 三人ともこちらには気づいていないようだ。八雲は開いた隙間を徐々に広げ、身体を滑り込ませようとしていた。

「これお酒? そんなのいらないから」

 嫌悪感たっぷりの如月さんの声を聞きながら、八雲はドアの隙間から身を滑り込ませる。勢い良くドアが閉まって、頭上のベルが鳴らないように背中で扉を抑え続けた。

「男が女にバーで酒以外を奢るなんてルール違反だよ。あ、もしかして、そういう経験ないの? だったら俺が美味しいカクテルを教えてあげるかさら」

「いらないって言ってるじゃんっ!」

 顔を見なくて如月さんがキレているのが分かる怒声だった。

「つれないな~。少しぐらい仲良くしようよ」

「いやっ!」

 強い否定の言葉に続いて、ガラスの割れる音が響いた。突然の大きな音に八雲は反射的に身体をビクつかせるようにして背筋を伸ばしてしまった。ドアに掛かっていた体重がなくなり、僅かにベルが揺れた。

(鳴らないで!)

 願いも全ての慎重さは無意味となり、ベルが八雲の迂闊さを告げるようにチリンと小さく鳴った。小さくともBGMの無いバーにはその音は大きすぎた。

「なんだ?」

 黒髪の男が声の反射を反応を確かめるようにはっきりと言った。その声に肝を冷やしながら、八雲は這いつくばって右にあるバーカウンターの隅に隠れた。

「ジャックがきたの?」

 如月さんの動く気配があった。

「そんなわけねえだろ。空調で揺れたんだよ」

 嘲るように金髪の男が言った。

「そんなわけって、どういう意味?」

 険のある如月さんの声に、室内の空気が変わる。たいして効いていなかった空調が全力を出したかのように、室温が下がったように感じた。

「はー、バカ野郎、ネタばらしが早いんだよ」

 ため息を吐いた黒髪の男が呆れ気味に口調を崩した。

「……あなたたち、本当にジャックを知ってるの?」

 それが最後通牒でもあるかのように、如月さんの声は冷たく硬質になっていた。ベルの音から注意が逸れたので、八雲はバーカウンターの隅からそっと顔を出し、バーの奥の方をのぞき見た。小さな丸テーブルを挟んで向かい合う如月さんと金髪の男が見えた。

「そうとも。ジャックは仲の良い友達さ」

 椅子から立ち上がった金髪の男がにたにたと笑っていた。

「もういい、ジャックが来ないなら。あたし、帰るから!」

 怒った如月さんが出口に向かって歩き出すと、金髪の男がその行く手を露骨に阻んだ。

「まあ、待てって。ジャックが来るまで俺たちと、楽しいことしようぜ。今まで感じたことのない、サイコーの気持ち良さってのを味あわせてやるよ」

 金髪の男は下卑た欲望が声に混じるのを隠そうともしなかった。

(これってまずいよね! ど、どうしよう! とりあえず警察に連絡しないと!)

 如月さんの迷惑になるなんて、もう考えていられない。バーカウンターの裏に身を隠すと、起動したままのXFWから電話アプリに切り替える。そこまではスムーズにできたのに、焦りから頭のなかが真っ白になってしまう。

(えっと、ヒャク、なんだっけヒャクジュウ、じゃなくてヒャクトウバンだ!)

 震える手で『1』『1』、焦ってさらに『1』を押してしまう。慌てて一文字を削除、今度は『0』をちゃんとタップする。

「おっと、ゴキブリがいるな」

 冷たい声とともに、首がとれてしまうかと思うほど強い衝撃が八雲の背中を襲った。手にしていたエクスフォンが手から飛び出し、床を滑っていった。

「うげぇはっ!」

 背中の肋骨が肺を圧迫するかのような痛みに八雲は倒れこみ悶絶した。倒れ込みながら見上げた先には、黒髪の男の鋭い視線があった。バーカウンターを回りこんだこの男に、後ろから蹴られたのだ。

「きっちり撒いたんじゃなかったのか? ガキがついてきてるぞ」

「げほっ、げほっ、うぅう……く、首、くるし……」

 黒髪の男は呼吸もままならず苦しんでいる八雲の襟首を掴むと、旅行かばんでも引きずるようにして強引にバーカウンターの裏から放り出した。

「まあ、別にいいだろ。カス一匹ぐらい」

 金髪の男は悪びれた様子もなく言った。

「大神くん?!」

 こちらに気づいた如月さんが、驚きと心配の混じった声をあげた。

「ご、ごめん。ついてきちゃった」

 捕まってしまったことが申し訳なくて、八雲は心の底から如月さんに謝った。

「ハッ、助けがこんなしょぼいカスで残念だったな。ホントにカスがよぉ、無駄なこと考えなければ、痛い目を見ずに済んだのになっ!」

 そう言って嘲る金髪の男を、如月さんが鋭く睨みつける。

「ひとの勇気を笑うなっ! それに、大神くんが来てくれたのは、ぜっんぜん無駄じゃないんだからね!」

 男たちの意識がこちらに逸れた隙に、如月さんは右手に円筒形の物体を握っていた。

「ジュース?」

 間の抜けた金髪の男の質問を、今度は如月さんが鼻で笑う番だった。

「何の準備もなしにこんな怪しいとこまでついてくるわけないじゃん!」

 如月さんは右手を突き出すと、円筒形の缶についているトリガーを引いた。ぷっしゅと軽い音がしたと思った直後、金髪の男が顔面を押さえて喚きだした。如月さんが手にしていたのは催涙スプレーだのだ。

「あぎゃぁああああっ! 目がぁあああ! いだいぃいい! みず! みずぅうううぅうう!」

 悶絶しながら水を求めた金髪の男は、椅子に引っかかってバーカウンターに激突。勢いそのままカウンターに乗り上げ、頭から裏側へと落ちていく。

「ひぃっ!」

 見事な一回転を決めてしまい、男の下半身が並んだ酒瓶をなぎ倒してしまった。盛大な音を立ててガラスが砕け散り、高そうな酒瓶が十本単位で床へとぶち撒けられた。

「いだぃいいいいっ! しみ、し、染みるぅううううう! ひぃっ! ガラス刺さっだぁっ!」

 動かなければガラスも刺さらないだろうが、頭のなかは目を洗うことでいっぱいなのだろう。悲鳴とガラスの破片がさらに割れる細かい音がカウンターの裏から聞こえ続けた。

「あんたも大神くんから離れなさい!」

 如月さんは威勢よく言って、催涙スプレーを黒髪の男に向ける。刑事ドラマのワンシーンのような格好良さに、八雲は一瞬見とれてしまった。

「ふん、やってみろよ」

 催涙スプレーの絶大な威力を目にしながらも、虚勢なのか黒髪の男は余裕の表情を浮かべている。その手にはスプレーに対抗するかのように、白いエクスフォンが握られていた。

「カメラでゴーグル代わりにするつもり? そんなんで、この超強力辛子スプレーに勝てるわけないじゃん!」

 勝利を確信した如月さんが躊躇なくスプレーのトリガーを引こうとするが、先に黒髪の男が動いていた。

「エクステンド、《ワールウィンド》」

 八雲は確かにスプレー缶が小さな噴出音を出したのを聞いた。その直後だ、八雲は横殴りの突風に身体を転がされた。

「うわぁああっ!」

「きゃっ!」

 風を食らったのは、八雲だけではない。如月さんや周囲の椅子がなぎ倒され、棚に乗っていた酒瓶がことごとく壁や地面に叩きつけられていた。室内ではあり得ない旋風が男を中心に渦巻いたのだ。

(なんだ今の? 《ワールウィンド》って、XFWの魔法そのままじゃないか……)

 飛んできた椅子に強かに打ち据えられた右肩を抑え立ち上がった、八雲は自分のエクスフォンを探していた。頭のなかは混乱しているけれど、自分がすべき事だけは分かっていた。

「その驚いた様子、裏アプリの事は本当に知らなかったみたいだな」

 黒髪の男はガラスと倒れた椅子で荒れた店内を悠然と歩き、如月さんに近づいていた。如月さんはバーカウンターの下に転がったスプレー缶を拾おうとしていた。謎の突風のせいで距離ができていたので、如月さんは確実に缶を拾える。そんな八雲の希望を黒髪の男の声が遮った。

「《パラライズ・ニードル》」

 黒髪の男がすっと振り下ろした手から、何かが飛びだした。青白い光の軌跡は直進し、ちょうどスプレー缶を拾い上げた如月さんの脇腹に突き刺さる。

「えっ?」

 痛みはないのか驚きの声を上げた如月さんが、ダーツのように見える凶器に手を伸ばす。ダーツは長い指から逃れるように、彼女の身体に吸い込まれていった。

「ヒッ!」

 しゃっくりのような声を漏らし、如月さんが身体をヒクヒクと震わせる。痙攣に耐えられなくなった指先からスプレー缶が落ち、彼女自身も脱力したかのように床へと崩れ落ちた。

(今度はシーカーの固有スキルだ!)

 現実とは思えないけれど、今は現実的に考えて納得するしか無かった。今しなければならないのは助けを呼ぶことだ。床に落したエクスフォンは目と鼻の先で、椅子の下敷きになっていた。

「お、おい、こっちも、早く助けてくれよっ! うっ、いでぇえ、目が潰れちまう!」

 金髪の男の怒鳴り声が聞こえた。

「ちっ、分かったよ。アイテム《目薬》」

 男たちがごたごたしている間に、八雲は倒れた椅子の下からエクスフォンを引っ張りだす。さすが象が踏んでも壊れないという謳い文句のKONGOU製だけあって、傷一つ着いていなかった。しかし、電話アプリが終了されXFWの画面になっていた。

「ふー、助かったぜ。念の為に俺も、エクステンド、っと」

 金髪の男が落ち着いたのを傍目に、八雲は通知で埋まっていた画面をタップする。『地下のバーで待っています』と書かれていたメッセージを消去、代わりに『助けて バーの中 警察呼んで』と入力して石像になっているヤクモに看板を掲げさせた。

「さ~て、お楽しみのこいつを使わしてもらうかな。出てこい、アイテム《ホーニィスネークの興奮剤》」

 芝居がかった仕草で金髪の男が右手を広げると、その手のひらにルビー色の液体で満たされた古風な瓶が現れた。八雲もよく知っているXFWの汎用ポーション瓶の形をしていた。ゲーム内での《ホーニィスネークの興奮剤》の効果は魅了とバーサク効果だが……。

 金髪の男は瓶を手に如月さんに近づいていく。如月さんは立ち上がろうと身体に力を入れたが、うめき声が漏れるだけだった。黒髪の男はその様子に満足したのか、八雲の方に足を向けようとしてた。

「や、やめろっ!」

 八雲は緊張と恐怖で裏返った声で叫ぶと、エクスフォンのカメラを当てずっぽうで男たちに向けて、起動したままのXFWのスクリーンショット機能を使った。場違いなほど軽いシャッター音が地下バーに鳴り響く。

「チッ、余計なことばかり起こりやがる」

 忌々しげに吐き捨てた黒髪の男は、写真をとられたというのにまるで動じていなかった。

「如月さんから、は、離れろ!」

「お前ひとりで何ができるってんだ? いい加減、自分の無力さを理解しろ」

 駄々をこねる子供に苛つくかのように言った黒髪の男は、転がっていた椅子を蹴り飛ばす。派手な音に金髪の男も何事かと振り向いた。二人の注意がこちらに向いた所で、男たちをさらに苛つかせようとスクリーンショットを連写した。

「ひとりじゃないから! さっきXFWの救援システムを使って、他のプレイヤーを呼んだから! もう近くまで来て、メッセージ通知も来てるから!」

 モンスターにやられてしまった場合、XFWは他のプレイヤーに救援を求めることが出来る。何度も倒れてリスタートまでの時間が長くなった時、それでもクエストを諦めないための救済措置だ。石化中はリスタート時間のカウントが停止するので、八雲はそれを利用したのだ。

「はっ、バレバレの嘘つくなよ、カス。わざわざこんな駅から離れたポータルに人が来るもんか」

 金髪の男が馬鹿にしたように言う。

「落としたくない超高レベルクエストだから、助けてくれた人に抽選で天翔龍剣(あまかけるりゅうのつるぎ)をあげるってメッセージをつけたからね。通知が一〇〇件きてるし、そのうち十人ぐらいはもうこのビルにたどり着いてるんじゃないかな」

 レア度42のアイテムの名前を出したことで、男たちの顔色が変わる。天翔龍剣は戦士系なら絶対に欲しい高性能の超激レア武器だ。カウンター系スキルの《超神速斬り》の扱いは難しいけれど、使いこなせれば一対一の戦いで絶大な効果を発揮する。入手に苦労したけれど、リアルの安全のためなら惜しくはない。

「言ってることはよく分かんないけど、やるじゃん大神くん」

 壁に身を預けるようにして立ち上がった如月さんが褒めてくれた。そのエール効果は絶大で、胸の奥から熱いものが湧き上がり、ドラゴンにも挑める勇気が八雲の身を包んだ。

「逃げられないから!」

 八雲は威勢よく言ってエクスフォンを突き出した。その時、やたらめったら撮りまくったスクリーンショットが目に入った。今まで画面を見ずにボタンを押していたので気付かなかったが、男たちがファンタジーな格好で映っていたのだ。黒髪の男がシーフ風の軽装で、金髪の男が魔法使い風のローブ姿だ。現実ではTシャツなのに、カメラを通すことでゲーム内のPCに一致しているかのように見えていた。しかし、男たちがエクスフォンを操作している様子はない。

 疑問が浮かんだけれど、深く考えている暇はなかった。男たちの視線が交差し怒鳴り合いを始めた。

「お、おい、どうすんだよ! ヘタうったことがジャックに知られたら、何されるかわかんねえぞ。今のうちにバックれちまった方が良いんじゃねえか」

 金髪の男が捨て鉢に叫んだ。偽ジャックが恐ろしいのか、焦りの汗が顔を濡らしていた。

「裏アプリを見せちまったんだ。それこそ逃がすわけにはいかない」

「だったら、どうするってんだよ!」

「あっちに連れ込んじまえばいいんだよ!」

 黒髪の男は青筋を立てて言い返した。

 揉める二人をよそに八雲は倒れた椅子とテーブルを回りこみ、如月さんのところへ近づいていた。こちらの動きに気づいた如月さんが無理して動こうとしていたけれど、八雲は大丈夫だからと手で制した。

「オレたちだけで? ヤバいんじゃないか?」

 何を恐れているのか金髪の男は及び腰になっていた。

「向こう側に入るだけなら大丈夫だろ。それに、さっき連絡したんだからジャックがすぐに来てくれる。こっちで問題を広げるよりマシだろ」

「あ、ああ、そうだよな。ジャックだって分かってくれるよな」

 男たちがなんらかの合意に達し、八雲が如月さんのところにたどり着いたその時、バーのドアをノックする音が聞こえた。

「誰かいますかー。メッセージみてきたんですけど、大丈夫ですか?」

 バーの中にいた全員がドアの方を向いていた。すりガラス越しに人影が確認できた。人影は慎重に中の様子を伺っているようだが、中に入ってくるのは時間の問題だろう。八雲と如月さんは顔を見合わせ、互いに安堵と喜びの笑みを浮かべた。

 その一方で二人の男たちは、切羽詰まった様子でエクスフォンを弄っていた。悪あがきに偽ジャックへ連絡しているのかと思ったけれど、少し様子が違った。

「クエストは受注した。そいつらを早くっ!」

 黒髪の男が恫喝するように叫んだ。それを聞いた金髪の男がうなずき、八雲と如月さんがいる方に近づいてきた。自棄になったのかと、八雲が身構えていると金髪の男は立ち止まり、エクスフォンのカメラをこちらに向けシャッターを切った。

「そら選択してやったぜ!」

「よし、ポータルを開くぞ!」

 二人はのんきにXFWの話をしているようには見えない鬼気迫った様子だった。

「如月さん、逃げよう!」

 嫌な予感に八雲はまだ動けない如月さんの手を掴み、無理にでもその場を離れようとする。バーのドアノブがゆっくりと慎重に回り始めていた。返事がないことを不審に思った外の人たちが、中に入ってこようとしているのだ。

「もう、遅えよ。続きはあっちでお楽しみだ!」

 黒髪の男が勝利を確信したように笑みを浮かべるが、ドアに取り付けられたベルが涼やかな音を立てた。

 その直後だ、異変が八雲を襲った。唐突に足元の感覚が消失し、光の中に放り出されたのだ。

「きゃっ!」「ひわぁっ!」

 横隔膜を押し上げられながら、脇腹を触られたような感覚にしゃっくりみたいな悲鳴が漏れた。粒子状の光がまとわりついていて、まるで光の滝を滑り落ちていくようだ。

「な、なにこれ……」

 一緒に落下している如月さんが不安そうに呟いた。答えを持たない八雲は口を紡ぐしかなかったけれど、とにかく繋いだこの手だけは絶対に離してはいけないと思った。右手にぐっと力を込めると、如月さんが弱々しく握り返してきた。お互いの手が緊張で汗ばんでいて、張り付くようにピタリと合わさった。

 もう一方の手で持つエクスフォンが見知らぬ画面を表示していた。

「こんな時にバグった? あ、ちがう、何かインストールしてる……」

 進捗状況を表す黄色いバーとパーセンテージが表示されていた。キャンセルボタンも無ければ、左の親指で画面をタップしても反応しない。ゆっくりと伸びていくバーをじれったく思っていると、どこからともなく声が聞こえてきた。

『変わらない日常、変わらない時間の流れ、変わらない世界』

「ぶはっ、どうしたの大神くん、いききなりポエムなんて、あははは」

 いきなり吹き出した如月さんが、八雲の顔を見て笑った。

「ぼくじゃないですよ。これXFWのプロローグです。インストールしてる時に流れるやつです!」

 まるで自分が笑われているかのように感じて、恥ずかしくなった八雲は必至で説明した。

「そうなの? メンドーで読んでなかった」

 二人がそんな呑気なやり取りをしている間にも、謎の声は続いていた。

『それはあたなの脳に依存している宇宙にすぎない。

 薄膜を剥げばその裏側には多様な世界が存在している』

 XFWにはほとんどストリートと呼べるものは存在していない。この恥ずかしいポエム(チュートリアル)が唯一明示されている公式設定だ。他にはアイテム説明やクエスト説明、ダンジョン内のメッセージなどで意味深な文言はあったりするが、公式に説明されたとは一度もない。一部のプレイヤーは、その断片情報を繋ぎあわせてストーリーや裏設定を考察していたりする。例えばAG社の過去作との繋がりも指摘されているけれど、単なるモンスターやアイテムの使い回しだろう。

『拡張者たちよ、この被覆宇宙に紛れ込んでくるモンスターを倒せ。

 ポータルより試練に挑み新たな力を手に入れろ。

 世界の行く末は君たちにかかっている』

「いや、いきなり色々言われても意味分かんないんですけど」

 如月さんの文句がちょうど途切れた所で、インストールが完了し、『UPDATED』の文字が表示される。光の粒が霧散すると、慣れ始めていた浮遊感が唐突に終わり脚が地面の感覚を思い出す。衝撃はなかったけれど、驚いて転んでしまう。手を握ったままだった如月さんも道連れにしてしまう。

「うわっ!」

「きゃぁっ、もういい加減にして……って、ここどこ?」

 左右を見回した如月さんの目が点になっていた。それもそのはず、さっきまで地下のバーに居たはずなのに周りを青々とした木々に囲まれていたからだ。

 どこともしれない森の広場だ。それほど広くはないけれど、座るのにちょうど良さそうな切り株があって、オカリナを吹いたら小動物たちが集まってきそうな雰囲気がある。散歩でもしたら気持ちよさそうな場所だけれど、少し離れた場所にあの二人の男たちもいる。危機は去っていないのだ。

「ここなら色々とゆっくりできるな」

 黒髪の男たちはこの森についてなにか知っているのか、特に慌てた様子はなかった。

「変なコスプレして、なに余裕ぶってんの」

 如月さんが怪訝な表情をするのを、男たちは憐れむように鼻で笑った。

 男たちは八雲が脅しでスクリーンショットに撮った時に写った、あの格好をしていた。黒髪の男は革の胸当てに革の手甲、革のブーツ、右手にレイピアを握っている。シーカーの初期装備そのものだ。

 一方、金髪の男は緑色のローブを持ち、右腕にタリスマンを持っている。こちらは魔法使い系の初期装備、たぶん錬金術士だ。

「余計な連中は、だ~れも追ってこれないぜ!」

 金髪の男が邪悪な笑みを浮かべながら近づいてきた。その昂ぶる下心を反映するかのように、右手に下げていたタリスマンが光を放ち始めた。

「さあ、パーティーの続きをしよ――」

 粘っこい言葉を遮り茂みから黒い影が飛び出し、金髪の男の腹部に襲いかかった。

「ぶへぇっ?」

 影の正体は体長3メートルはあろうかという大きな狼だ。血のように赤い瞳を輝かせたその狼が、金髪の男の腹に拷問器具のような顎で噛み付いていた。

「いだぁぁあっ! はなっ、はなせえぇ! ひぃっ、やめろ! ないぞうがぁあ! いぎゃぁあああああああ!」

 パニックに陥いりながらも、食い込んだ牙を引き剥がそうとした金髪の男だったが、狼の強靭な顎はびくともしない。むしろ狼は抵抗に怒ったのか、唸り声をあげて暴れると金髪の身体を玩具のごとく左右に振り回した。

「し、じぬぅうううう! た、だ、ずげぇ、げほっ!」

 狼の牙は肺も傷つけていたのか金髪が血を吹き出す。傷口から滲んだと血と吹き出した血で、緑のローブが赤茶けた色に染まっていった。

「くそっ! 《パラライズ・ニードル》」

 動きまわる狼にようやく狙いをつけた黒髪の男が、あの針を打ち出すが、狼は横っ飛びにこれを避けた。そして、着地の反動に狼は顎に力を込めてしまった。軋んでいた骨が限界を迎え、肉が引きちぎれる嫌な水音が響く。金髪の男の胴体が左胸から腰まで無残に抉れた。

「あがぁぁ、アイテ、ム、ポー、お、しょ…………」

 力なく地面に倒れた金髪の男の首を、狼は慈悲とばかりに噛み砕く。男が完全に動かなくなると、狼はその血は食前酒だとでも言いたげに黒髪の男の方を向いた。狼の脚からは逃げられないと判断したのか、黒髪の男はレイピアを構えた。狼と黒髪の男、どちらが勝者になるにせよ。次の標的は決まっている。

「如月さん、歩ける?」

 八雲は如月さんが立ち上がるのに手を貸した。

「まだ痺れてるけど……んっ、なんとか右足だけなら」

 そう言う如月さんだが、立ち上がると時に苦労したぐらいで、その右足も上手くは動かせていない。鬱蒼と茂った森の中を二人で進むのは無理そうだ。

「あの木の影に隠れよう」

 狼とは反対方向に見える大樹を指差した。人間を隠すには十分なほど幹が太い。如月さんの痺れが治るまであそこに隠れてやり過ごすぐらいしか、方法が浮かばなかった。

 如月さんに右肩を貸した八雲は、大樹を目指して歩き出した。その歩みはカメのように遅いが、そのぶん八雲には背後を確認する余裕があった。いつ黒髪の男と狼の戦いが決着がついても良いように、その動向を監視し続けた。

 牙とレイピアを向け睨み合っていた両者だが、先に痺れを切らしたのは狼の方だった。地面が削れるほどの力強さで後ろ足を蹴立て、黒髪の男に跳びかかった。

 黒髪の男はその動きに合わせて、追い払うようにレイピアを振るう。鉄の刃と鋭い爪が激しく接触し、硬い音を響かせた。どちらの攻撃も相手を捉えることはなかったけれど、黒髪の男はすれ違うようにして狼の腹側に回りこんだ。

「《千枚通し》!」

 危険を察知した狼が横っ飛びに避けようとするが、勢い良く突き出した剣先からさらに、質感の違う光の刃が伸びていた。狼が地面に着地するよりも早く、錐のように尖った光の刃が、狼の脇から前足の付け根にかけて斜めに貫いた。

 狼は胸が締め付けられるような断末魔の悲鳴を上げると、慣性のまま頭から地面に激突し動かなくなった。

「はぁ、はぁ……テルの仇だ……くそ……」

 吐き捨てるように言った黒髪の男が、下ろそうとしてい剣を再び構える。左右の茂みが揺れ、新たな狼が二匹も飛び出してきた。最後の鳴き声に呼び寄せられたのだ。

「このクソ犬どもめ、吹き飛べ《ワールウィンド》!」

 黒髪の男の振りぬいた腕にあわせて緑の風が渦巻く。右から飛びかかってきた狼は弾き飛ばされるが、もう一匹は時間差で緑の風を越え黒髪の男に襲いかかった。黒髪の男はレイピアで斬りつけるが、覆いかぶさるような狼の突進を止められなかった。

「ぐぅっ! 死にやがれ《千枚通し》!」

 押し倒された黒髪の男が必至にレイピアを突き出すが、振り下ろされた狼の爪に狙いを逸らされてしまう。伸びた剣先は、狼の横腹から背中にかけて貫いたが致命傷には至らなかった。狼は怒りの咆哮をあげると、黒髪の男の頭に牙を向ける。

「やめろやめろやめろぉおおお!」

 黒髪の男がレイピアを振るうが、無茶苦茶な動きでは狼の毛皮を切り裂けなかった。無常にも狼の顎が黒髪の男の頭を挟み込んだ。

「いぎゃぁああああああああああ!」

 断末魔ごと男の頭部が落したスイカのように砕かれ、狼の口から脳髄と眼球がぼとりと落ちた。さらにもう一匹の狼も加わり、絶命した男の身体を弄れるように噛みちぎった。

「いったいなんなの、あの狼……」

 絶叫にたまらず後ろを振り向いた如月さんが呟いた。

「たぶんブラッドアイ・ウルフです……」

「大神くん、知ってるの?」

 驚きの混じった声を上げた如月さんが、こちらを見つめてくる。八雲は如月さんの身体を引っ張り、前に進みながら答えた。

「XFWにいるんです。どこのフィールドにも出て来る無属性のビースト系モンスターです」

 ブラッドアイ・ウルフは、ほとんどのプレイヤーが最初のクエストで出会うことになるモンスターだ。敵の強さはクエスト難易度に依存するので、上級者になっても戦うことはある。ドロップアイテムはコモン・レアともに様々な用途があるので長くお世話になるモンスターだが、現実に出会いたくはなかった。

「……ねえ、あいつらこっち見てない?」

 解体を終わらせた狼たちは、鮮血の滴る鼻先をこちらに向けている。新たなが玩具を見つけたかのように、肉片のこびり付いた牙を見せつけてきた。

「少し急ぎます」

 身長が高い如月さんを背負うぐらいの勢いで引っ張り、無理にでも進んでいく。如月さんも片足を必至に動かすけれど、それでも子供が歩くぐらいの速度しか無い。

 二頭、八本の足が地面を蹴立てる乾いた音が背後から迫ってくる。その軽快なリズムに追い立てられ、八雲と如月さんは歯を食いしばって歩く。しかし、その距離が急速に縮まっているのが、何も言わずとも二人は分かっていた。

「もういいから……、大神くんだけでも逃げて! あたしが食べられちゃってる間に!」

 そう言うと如月さんは八雲の腕を振り払った。

「に、にげないからっ! ぼくはもうゲームで逃げたくないんだっ!」

 彼女の気持ちは分かるけど、そんなことは絶対にしたくない。

(考えろ考えろ考えろ考えろっ! これはゲームなんだ! ルールが、あいつらみたいに戦う力があるはずなんだ!)

 無残に散った男たちが、何と言っていたか思い出す。

「え、エクステンドッ!」

 裏返った声で叫ぶけれど八雲の身には何も起こらなかった。超人的な力の高ぶりもなければ、魔法のきらめきも感じない。ただ、エクスフォンの画面だけが光りを放っていた。

 狼たちは牙を剥き迫っている。たった1つの願いを胸に、八雲は祈るようにエクスフォンの画面に触れた。エクスフォンから光の粒が溢れだし、八雲の身体を包み込んだ。

「なにっ?! どうしたの大神くん?!」

 光の粒は八雲の身体にまとわり付くように急速に収縮し、新たな形を成していった。

 右手に集まった光は鈍色のショートソードとなり、胴体を包む光は革の胸当てに、そして頭部は大きな橙色のカボチャに変わった。八雲はこの格好を知っていた。

(きた! パンプキンナイトの初期装備だ! これで戦え……る? どうやって?!)

 剣道の心得もなければ、生まれ持っての運動能力もない。一般的な高校生より体格に恵まれていないし、かと言って俊敏さがあるわけでもない。体育の授業はもっぱら最下位付近を這いずりまわってる。

 そんな八雲の動揺を見透かしたかのように、先行する狼が一匹、飛びかかってきた。

「あぶない!」

 自らの身体を盾にしようと前に出た八雲だったが、狼の突進頭突きを食らい如月さんと一緒に突き飛ばされてしまう。

「きゃぁっ!」

 二人はもつれ合うようにして地面を転がった。幸い狼の巨体に抑えこまれはしなかったが、すでに相手の間合いに入っていた。

 すぐさま体勢を立て直した狼が右の爪を振るう。八雲は無我夢中で腕ごとショートソードをつき出した。机から落ちた消しゴムをキャッチするような、偶然と直感が合わさり鉄の刃が狼の爪を受け止めた。

「防げた!?」

 八雲自身が驚きの声をあげる。狼の腕の力と八雲がそれを押し返す力が拮抗していた。相手は3メートルはあろうかという大型の狼だ。普通に考えたら太刀打ちなんて出来るはずがない。《エクステンド》とやらを行ったことで、筋力や運動能力、反射神経、そして剣を扱う能力などに対して不思議な作用が働いているようだ。

「これが、XFWと同じならっ!」

 踏ん張った八雲が狼の攻撃を弾き返す。すると、その直後に狼が左の爪を振るった。この二連撃を知っていた八雲はすでに狼の右側へとステップし避けていた。ゲームの中で数百回と戦ったブラッドアイ・ウルフの攻撃パターンぐらい熟知していた。

 すり抜けざまにショートソードを斬り上げるように振るった。斬撃は狼の毛皮の薄い腹を狙った。柔らかい皮膚を裂き筋肉を斬る感触が伝わってくるが、浅い。狼は悲鳴を上げながらも、飛び退る余裕を見せた。

(マズイ、逃がしちゃった)

 ゲームと同じなら手負いのブラッドアイ・ウルフは攻撃力が上がる。実際、血の色をした瞳が怒りに染まり、憎々しげに犬歯を剥いていた。

(中距離戦じゃ、あの素早さにはついていけない)

 八雲は自ら踏み出し狼との距離を詰めようとした。その時だ、もう一匹の狼が意識できていなかった視界の端から襲いかかってきた。

「このぉおっ!」

 とっさにショートソードを振るうが、目測を誤り空を切った。狼の急襲を阻むことは出来たけれど、今度は無防備になってしまう。その隙に戻ってきた手負いの狼が、再び飛びかかってきた。

「うわぁああああ!」

 八雲は無我夢中でショートソードを突き出した。狙いも何もない突発的な攻撃だったが、それは手負いの狼も同じだった。

 思わず目をつぶってしまったけれど、剣先にたしかな手応えがあった。肉を突き刺す感覚と狼の重さが剣から腕に伝わってくる。取り落としそうになった剣の柄を両手で支えた。

 左肩に痛覚を貫かれたような鋭い痛みが走った。狼が最後の力を振り絞り、八雲の左肩から二の腕にかけて噛みついたのだ。

「いぎゃあぁぁあっ!」

 痛みに柄を握る手が緩んでしまう。狼の体重を支えきれず、そのまま押し倒されてしまった。その衝撃でショートソードに内臓をねじ切られ、ついに狼は絶命した。肩に食い込んだ牙の万力が緩むが、巨体の下敷きになり八雲は身動きがとれなかった。

 そこに無傷の狼が、仲間の仇とばかりに襲いかかってきた。

(あ、死んだ)

 シューティングゲームで、ちょっとしたミスで呆気無く序盤の敵に倒された時のような感想しかなかったけれど、心の底から死を覚悟した。

 その時だ、力強い声が聞こえた。

「エクステンド!」

 一陣の風が駆けたように八雲には思えた。目の前に飛び出した影が、上段に構えた剣を力いっぱい振り抜いた。その斬撃がちょうど跳びかかっていた狼を捉えた。狼の鼻先から眉間、そして胴体へと狼の身体を縦一文字に切り裂いた。空中で真っ二つにされた狼の半身は左右に割れ、勢いそのままに八雲の両側に落ち地面をずるりと滑った。

 逆光の中、影は振り向くと腰を抜かしたかのように、その場にへたり込んだ。

「はぁはぁ、よ、よかった~、大神くん死んじゃうかと思ったんだからっ!」

 女剣士の格好の如月さんが、涙を浮かべながら安堵の息を吐き出した。

「えっと……、ぼくもこれでゲームオーバーかと思いました」

 そう答えた八雲が身体に覆いかぶさった狼を退かそうとすると、急に重さがなくなった。そのまま手に触れる感覚もなくなり、ついには狼の身体は光の粒へと変わり霧散していった。

「あ、消えちゃった」

 掴もうとして消えていくホタルのような光の粒を見送りながら、如月さんが呟いた。

「ゲームと一緒です」

「あれは消えないみたいだね」

 立ち上がった如月さんが遠目にも分かる血まみれの死体を指差した。

「はい……、ゲームと違います。XFWならHPがゼロになっても、しばらくして復活するんですけど……」

 そんな気配は微塵もなかった。

「えっと、あたしたちゲームの中に入っちゃったってこと?」

 混乱した様子で尋ねる如月さんを、安心させたかったけれど八雲は曖昧に首をふることしか出来なかった。

「分かりません。悪夢を見てるだけだと思いたいです」

「ははっ、それ同感だよ」

 如月さんが吹っ切れたような笑顔を見せてくれたのが救いだった。緊張感が少しだけ緩んだ八雲は、お礼がまだだったことを思い出した。

「さっきは助けてくれてありがとうございます。身体はもう大丈夫なんですか?」

「うん、元気元気。あの狼の体当たりで吹っ飛ばされたら、なんか毒が抜けたみたいに楽になっちゃった。っていうか、なんかいつもより身体が軽いぐらい」

 そう言って如月さんはその場で鉄のロングソードをくるりと回してみせた。

 ダメージ判定を受けたことで麻痺が解除されるのはXFWと同じだ。身体が軽いというのは、やはり彼女もゲーム的なステータス補正を受けているのだろうか。

「大神くんの方こそ平気なの? それ、すっごく痛そうじゃん」

 如月さんは自分の左肩をトントンと指先で叩いてみせた。狼に噛みつかれた傷のことを思い出して、八雲は顔をしかめた。

「あっ、痛いです。でも、見た目ほどは酷くないと思います」

 流れ出した血で革鎧の肩口が赤く染まっているけれど、それほど痛くはなかった。ただ、じくじくと熱を持っているような感じがしていた。

「あはっ、なんで他人事みたいなの」

 何がおかしいのか、如月さんは小さく吹き出した。

「とりあえず腕は動くんで問題はないと思います。それより、この後どうしましょうか」

「それ、あたしに聞くぅ? 大神君の方がゲーム詳しいんでしょ。むしろ色々と教えてくれないと困っちゃう」

 どういうわけか如月さんに全幅の信頼を寄せられてしまい八雲は当惑した。

「そう言われても……、とりあえずあの人たちがエクスフォンを操作していたので、これが鍵なのは間違いないと思います」

 地面に落としていたエクスフォンを拾い上げた。如月さんも自分のエクスフォンを見る。

「なんかいろんなアイコンが並んでるね」

 画面には武具やアイテムなど9つのアイコンがリングコマンド状に並んでいた。アイコンの形はXFWと同じなので、その役割はすぐに分かった。

「XFWと同じアイコンですね。なら、『各種設定』の中にヘルプがあるはずだけど……」

 歯車のアイコンをタップして設定メニューを開く。『操作設定』『オプション設定』『引き継ぎ』などの項目から『ヘルプ』を選択する。

 画面に表示されたのは、見覚えのあるXFWの説明項目だった。試しに『スキル・魔法』の項目を表示してみると、ゲームとは内容が少し違っていた。

「ちゃんとスキルの使い方が書いてあります。ショートカットに登録して、あの人達がやっていたみたいにスキル名を宣言するか、画面に表示されるパネルをタップするみたいです」

「スキルってなに? 専門用語?」

 如月さんはXFWだけでなく、ゲームはあまりやらないようだ。

「必殺技です。如月さんを痺れさせた針とか、あの黒髪の人が狼を倒すときに剣の先っぽを伸ばしたやつです」

「へー、バーで風を起こしたのも、スキルってやつ?」

「あれは魔法です」

「何が違うの?」

 如月さんはちょこんと首を傾げた。

「スキルは発動が早く連発できるんですが、戦闘中に表示されるスキルパネルに登録しないと使えません。魔法は中級以上になると発動まで少し時間がかかります。あと魔法は登録していなくても、画面に紋章を描くことでも使えます。ただ判定が少しシビアなので、暴発したり失敗のペナルティがあったりします。あ、そもそもですね、XFWは装備にもスキルや魔法がついていて、戦闘中に装備セットを切り替えることができるんですが、スキルは素のステータスに依存する割合が高くて、魔法は装備補正が乗りやすいのでこういう仕様になってるんです」

「もっと簡単に説明して」

 八雲の要点を得ない説明に、如月さんはムムムって顔になっていた。

「えっと…………、初心者のうちはあまり気にせず、同じように使えば良いと思います」

 複雑なシステムはとりあえず必要ないので、八雲は詳しい説明を諦めた。

「なんだ、それなら最初からそう言ってよ~。受験勉強みたいに覚えることいっぱいだと焦っちゃうじゃん」

 如月さんはホッと胸をなでおろし笑顔を見せた。

「でも、魔法が使えるなんて凄いよね」

 そう言って如月さんも自分のエクスフォンをいじり始める。「ん~」や「あっ」など気になる独り言が聞こえてくるが、八雲もヘルプを一つずつ確認していった。

 用語や操作方法など基本的な内容は、すでに八雲が知っているものと直感的に分かるものが多かった。最も必要としている、この場所のことや帰還方法については何も書かれていない。

「……だいたいXFWと同じみたいですね。それこそゲームの中に入ってしまったみたいな、って、えっ! えええっ!」

 画面から顔を上げた八雲は驚きのあまり大声を上げてしまった。

「どしたの、大神くん?」

「どうしたのじゃないですよ、如月さん! な、なんで服を脱いじゃってるんですか?!」

 下着に甲手とブーツというマニアックな姿の如月さんを前にして、八雲は狼と対峙した時よりも狼狽していた。慌てて顔を逸らしたれれど、如月さんの豊かな胸と、それを包み込む薄ピンクのブラジャー、さらに腰のくびれから、縦に割れたおへそのお腹まで一瞬で網膜に焼き付いてしまっていた。

「ん~、弄ってたらなんか脱げちゃった」

 如月さんはまるで恥ずかしがっていなかった。それどころか、あっけらかんとこちらに近づいてくる。

「し、下着! み、見えちゃってます! 気をつけて!」

 八雲はガチガチに緊張しながら、首が痛くなるほど顔をし斜め下に向けた。

「大神くんに見られたって、あたしは別に気にしないから。撮影で水着とか着るし、ショーの時なんかみんな急いで着替えるから、ぽろんぽろんしてるの普通だよ」

「ぽ、ぽろんぽろん?」

 声の魔力に負けてしまったかのように、八雲は聞き返してしまった。

「そ、おっぱいがいっぱーいみたいな。巨乳アイドルの娘とか、マジスゴっ!てなるよ。って、まあ今は仕事スイッチ入ってないから変な感じだし、露出趣味とか無いから直したいんだけど、これどうやるの?」

 そう言って如月さんは、エクスフォンを八雲の目の前に突き出してきた。どうやら操作して欲しいようだ。

「は、はい、直します! 今すぐに!」

 エクスフォンを受け取るときに顔を向けると、如月さんの見るからにふにっとした胸の丘陵と谷間が目に入ってしまう。邪な心に抗い目線を逸らしていると、指と指が触れ合ってしまう。静電気でも走ったのかと思えるほど、八雲は身体をビクつかせた。

「落とさないでよねー」

 如月さんは気軽に言うと、八雲の手を包み込むようにしてエクスフォンを渡した。それだけで八雲は自分の手のひらにじっとりと汗をかいてしまったのが分かった。

 緊張に震える手で如月さんのエクスフォンを操作した。道具画面だったのを装備画面に切り替え、鎧の項目を選択する。

「あれ、なにも無い?」

 『装備なし』の項目しか表示されない。原因はすぐに思い当たった。初心者がやってしまうアレかなと、思って辺りを見回す。やはり如月さんの背後に麻袋が二つ落ちていた。

「道具のところから、間違って地面に捨てちゃったみたいです。後ろの袋を拾ってもらえますか」

 慣れていないと指がアイテムに触れたまま画面をスワイプして、地面に捨ててしまうことがある。

「後ろの袋? あ、これ」

 如月さんがくるりと回転したので、際どい胸の谷間は離れたけれど、今度は形の良いお尻がこちらを向いた。さらに如月さんは麻袋を拾い上げるようと前屈したので、お尻をぐっと突き出す形になってしまう。八雲は見てはいけないと思いつつも、その上下運動から目が離せなかった。

「あれ消えちゃった」

 如月さんの指先が触れると、麻袋は光の粒になり彼女のエクスフォンに吸い込まれていった。慌ててお尻から目を離し、画面を確認すると『革の鎧』の項目が出現していた。

「ちゃんと拾えてます。もう一つの袋もお願いします」

「は~い」

 公園で遊んでいた園児みたいに元気よく手を上げてから如月さんは袋を拾った。項目に『布のズボン』が現れたので、さっそく革の鎧と合わせて如月さんの装備を整えた。

「お、直った直った~」

 下着からもとの剣士姿に戻り、如月さんは落ち着いたようだ。ようやく八雲も後ろめたさはなくなったけれど、下着姿がまだ脳裏に残っていて如月さんの顔をまともに見れなかった。

「えっと、装備セットは5つまで登録できます。いま表示されているリングコマンドの画面を横にスワイプして、バトルモードの画面にするとそこから簡単に切り替えられるみたいです」

 こびり付いた動揺の残滓を振り払おうと、八雲は装備について説明した。

「すっごいよね! 血の跡とかも消えてるし、これあったらメイクとか着替えとか超楽じゃん!」

 テンション高めの如月さんは、モデルウォークで二、三歩あるいてくるりと一回転してみせた。魔法の話よりも食いつきが良いのは、それだけ真剣にモデルをしているからだろう。

 八雲のショートソードや胸当てに付着した狼の血もいつの間にか消えていた。この辺りのことはゲームっぽいのに、男たちの死体と血は依然として残っているアンバランスさは気味が悪かった。

「あんがとね、大神くん」

「い、いえ、こちらこそ」

 ありがとうございます、なんて続けそうになって八雲は慌てて口をつぐんだ。

「それで、脱出手段とか分かった? あたしで協力できることがあったらなんでもするよ!」

「とりあえず、基本的なヘルプを読んでみた限りでは、何も分かりませんでした。エクスフォンのアプリもXFWに固定されていて切り替わらないので、外とも連絡はつかないです」

 本来ならXFWのネット掲示板に接続できるのだけれど、その項目も見つからなかった。

「助けを待つしかないのかな。でも、そんなに都合よく誰か来ると思う?」

「あてにはできませんね……」

 八雲も長くこのゲームを遊んでいるけれど、こんな不思議な話は聞いたことがない。もっともXFWのコミュニティに所属していないので、そういう噂が耳に入ってこないだけかもしれない。

「ゲームならこういう時ってどうするの? 電源切っちゃえば終わり?」

 如月さんがエクスフォンの電源ボタンを押していたけれど、電源が落ちるどころかスリープ画面にもならなかった。

「電源を切っても接続していたサーバー上で動き続けるので駄目です。クエストを中止するか、クリアすればダンジョンから抜けだせるんですけど……」

「なんだ、もう分かってるじゃん! 早く中止しちゃおうよ!」

「それが中止はできないみたいなんです」

 すでにクエスト画面を開いているが、『クエストを中止する』の項目は存在しなかった。

「なら、クリアするしかないね」

 如月さん簡単に言うけれど、八雲は乗り気ではなかった。

「あくまでゲームならという話です。それにこれがXFWなら、先に進めばあの狼みたいな危険があるはずです」

「大丈夫だって! 大神くんがいればなんとかなるよ。あたしだって戦っちゃんだからね!」

 自信満々に言って如月さんはロングソードを振ってみせた。

「……そうですね、ここに居続けても安全という保証はありませんし、なにより事態は解決しませんね」

 頷く八雲だったが、如月さんほどには自信が持てなかった。

「それでどうすればクリアになるの?」

「達成条件はこれです。よくある移動系クエストなんですけど……」

 クエスト画面を表示して如月さんにエクスフォンを返した。


『ダンジョン深奥に作られた、邪教の祭壇に到達せよ。

 クリア報酬 青水晶×3 傷薬×5 なめし革×5 麻ひも×5 鉄鉱石×5 レア度3装備×2

 アイテム制限なし』


 内容を確認した如月さんが嬉しそうな顔になった。

「どっかに行けばいいんだよね? 簡単そうじゃん。それになんかアイテムがいっぱい貰えるってすごくない」

「難易度が5なので、そんなに簡単かどうかは……」

 希望を持ったところに水を差すのは心苦しいけれど、危険がある以上は八雲としても楽観的な事を言うわけにはいかなかった。

「何がマズイの? 5って少なくない?」

「だいたいジョブレベルが目安になっています。5は確かに少ないんですけど、ぼくたちはレベル1なんです」

 ステータス画面にはレベル1と書かれ、一桁二桁のステータスがずらりと並んでいた。

「それってヤバいの?」

「けっこうヤバいです」

 XFWのクエスト難易度は参加パーティの平均レベルで決まる。ガチ初心者が挑むクエストの適正レベルは、+3までと言われている。

 またクエスト中に登場するモンスターは、パーティーの人数で補正がかかる。なので、あの二人の男がいた事で実質的な難易度を底上げしている可能性があった。もちろん別の職業で経験を積んでいたり、強力な装備を持っていたり、高レベルの協力者がいる場合はこの限りではないが、二人にはそのどれも無かった。

「でも、大神くんってこのゲームすごいんだよね?」

「えっと……多少はやりこんでます」

 この状況では自信があると言い切れないけれど、完全に否定できないほどの時間はXFWや他のゲームにつぎ込んでいる。

「なら大丈夫だよ! 大神くんならできるできる!」

「……頑張ります」

 無理やり顔を上げてみたけれど、何か根拠があるわけではない。それにしても、なぜここまで如月さんが自分を信じてくれるのか、八雲には疑問でしか無かった。

「さて、ここにいても仕方ないし、とにかく進もうよ! って……どっちに?」

 一歩踏み出してから如月さんはバツの悪そうな顔をして、前後に続く道を交互に指差した。

「クエストマップがあるので、この矢印通りに進めばオーケーです」

 八雲はエクスフォンの画面をスワイプして、周囲のマップを表示してみせた。

「ほら、こうやってすぐ解決できたじゃん!」

 如月さんは力強く言ってくれたけれど、こんな簡単なことで褒められても釈然としない八雲だった。

「それじゃあ、あらためてしゅっぱ――」

「あ、ちょっと待って下さい」

 歩き出そうとする如月さんを今度は八雲が引き止めた。

「もう、まだ何か心配なの?」

 不満そうに言って如月さんは腰に手を当て頬をぷくっと膨らませた。

「ドロップしたアイテム拾っていきましょう」

 男たちとモンスターが倒れていた傍らに麻袋と彼らの使っていたエクスフォンが落ちていた。

「血とか変なのついてない?」

 如月さんは眉を寄せて、少し嫌そうな顔をした。

「大丈夫だと思います」

 二人は手分けして麻袋とエクスフォンを回収した。

「こういうのも強盗になるのかな?」

「それを考えるのやめましょう」

 エクスフォンの方は電源が切れていて、スイッチや画面を押しても何も反応がなかった。

「アイテムはなにが拾えました?」

「んとね、狼は小さな緋石ってやつで、金髪くんの方がチェニックとズボン、それと時魔法のタリスマンって、あ、あと薬みたいのが二種類かな。そっちはすんごいお宝あった?」

 如月さんが何を期待していたのか分からないけれど、こんな低レベル帯で凄いレアアイテムは万に一つも手に入らないことを八雲は実体験として知っていた。

「こっちも小さな緋石と革の装備一式、それにレイピアと革の盾でした。どれもレア度1でたいしたものじゃないです」

「ふ~ん」

 あからさまにがっかりする如月さんだった。

「ちなみに、その二種類の薬の名前はなんですか?」

「えっと……あ、画面触ると説明出てきた。薬はね、《ホーニィスネークの興奮剤》と《傷薬》だって。回復ってことはこれで、大神くんの傷なおせるんじゃない! 」

 新たな物理法則でも発見したかのように、如月さんは目を輝かせて八雲に詰め寄った。

「一個しか無いから、いま使っちゃうのはもったいな――」

「あ、出てきた」

 八雲が話している間に、如月さんはエクスフォンをタップして緑の液体で満たされた瓶を手にしてしまった。

「間違えて出した時は、エクスフォンに近づければしまえるみたいです」

 アイテム画面からヘルプに飛んで八雲は操作方法を確認した。

「間違ってないから。バイキンとかあるし、怪我したままだと良くないじゃん」

「でも、それは如月さんが危険な時にでも」

「だ~め! 大神くんが頼りなんだから! あ、しみたらごめんね」

 八雲は止めようとしたけれど、如月さんに強引に腕を引っ張られ、肩の傷口にポーションを垂らされてしまった。

「うっ」

 緑色の液体はひやりと冷たく感じ少し傷にしみた。液体が傷口に吸い込まれるとその痛みはなくなり、時間を逆回しにするように傷口が治っていった。傷口が完全に閉じると、狼の牙が開けた服の穴も同じように消えてなくなった。

「うわ~、すごい。ホントに治っちゃたね!」

「えっと、ありがとうございます」

 貴重かもしれないポーションを自分に使ってしまったのは少し惜しかったけれど、如月さんが安心してくれたのでこれで良かったのだろう。

「大神くんだって、ずっとあたしのこと助けてくれてたじゃん。だから、これでおあいこにしよ」

「はい」

 如月さんが気軽に言ってくれたので、彼女の優しさと気遣いを八雲は素直に受け取ることができた。

「それでさ、残ってるホーニィなんたらって薬はどうする? これも使っちゃおっか」

「あっ、それはえっと、ど、毒です! 毒は色々とマズイので絶対に使わないで下さい!」

 問答無用で使用してしまいそうな如月さんを、八雲は慌てて止めた。ホーニィスネークの興奮剤は魅了+バーサクという効果だ。どう作用するか分からないので、毒というのも嘘ではないはずだ。

「そなの? ならしまっとくね」

 納得してもらえた八雲は安堵して肩の力を抜いた。

「そうだ、手に入れた時魔法のタリスマンを譲って貰えませんか?」

「えーーー、なんでなんで! あたしも魔法つかいたいんだけど~」

 予想外の強い反対にあい八雲はたじろいだ。

「そう言われても……、如月さんは剣士なのでタリスマンは装備できないと思います」

「うそっ! …………あ、ほんとだ」

 八雲が教えた通りに画面を操作したけれど、装備に失敗した如月さんが落胆し肩を落とした。それでも諦めきれないのか、ジトっとした目線を向けてきた。

「でも、なんで大神君が持つの? おんなじ剣士じゃん」

「あ、ぼくのジョブは剣士じゃないです。パンプキンナイトっていうちょっと変わったジョブなんで、装備制限がほとんど無いんです」

 ステータス画面で確認済みだった。XFWの職業がそのまま引き継がれているようだ。ただ、ゲームとまったく同じ性能かどうかは分からないので試したかった。

「ズルいっ!」

「その代わりステータス低いし、ジョブ固有のスキルが無いんで弱いんです。それに、これがゲームと同じなら如月さんも他のジョブに転職すれば使えるようになります」

「どうやって転職するの?」

「基本職ならポータルに接続してメニューから転職できるんですけど、クエスト中は無理なんです」

「なら駄目じゃん。む~……もう、しょうがないな。大切に使ってよね」

 未練ありそうな如月さんだったけれど、時魔法のタリスマンを渡してくれた。

「ありがとうございます。代わりにこれを使って下さい」

 そう言って八雲は黒髪の男から手に入れたレイピアと盾を差し出した。

「レイピアは攻撃力が下がりますが、攻撃速度が少し上がります」

「攻撃力さがっちゃうの? だったらこのままがいいかな」

 ロングソードと見比べた如月さんにすげなく断られてしまった。

「なら革の盾だけでも受け取って下さい。こっちは防御力が上がるだけなのでお得です」

「はーい了解です、せんせぇ」

 茶化すように言ったけれど、如月さんはきちんと革の盾を装備した。

「他になにか心配事はありますでしょうか、せんせぇ」

 変な呼び方が気に入ったのか如月さんは楽しそうだった。

「もうないので、その先生って呼ぶのはお願いですからやめて下さい」

「アハハッ、それじゃ冒険に出発シンコー!」

 八雲はマップを確認すると、如月さんが剣先を向けたのとは反対方向に歩き出した。

「こっちです」

「あっ、ちょっと待ってよー」

 装備の留め具をカチャカチャと鳴らしながら走ってきた如月さんは隣に並ぶと、一度だけ八雲の方を見て、それから一緒に歩き出した。

 林道は木立の間を折れ曲がりながら続いている。足元には乾いた地面が見えているけれど、少し道からズレると苔むした深い森が続いていた。木々の蒸散作用か煙っていて遠くまでは見通せない。その靄の中を時折、青や緑の柔らかい光がホタルのようにふわふわと飛んでいた。直進すれば近そうだろうけれど、何が潜んでいるのか分からない森に足を踏み入れる勇気はなかった。

 肌に感じる冷たい湿気や、土と草木の青臭い匂い、時折聞こえる獣だろう遠吠えが、嫌になるほど現実感を突きつけてくる。その緊張感に八雲はもちろん、如月さんも無言になっていた。

 二人は用心のために抜身の剣を持っていた。剣なんて鉄の塊だから2、3キロ以上あるはずなのに、ほとんど負担がなかった。ずっしりとした重さは感じるのだけれど、身体感覚としては木の棒か雨傘を持っているぐらいだ。それは他の装備も同じだ。剣道の胴すら身につけたことがないけれど、革の鎧は普段着と変わらない。

 道の左右に生えた二本の木が互いに枝を絡ませアーチ状になった場所に差し掛かった時だ、頭上の枝葉が大きく揺れた。揃って身構えた二人の正面にボトボトと5つの塊が落ちてきた。

「っ!?」

 息を呑み剣を向けた先では、30センチほどの楕円体が5つ、落下の衝撃にもぞもぞ動いている。こんがりと狐色に焼けたロールパンのような見た目をしていて、くりくりっとした黒い目と、二本に別れた尻尾を持っていた。

「わっ、なにこれ! リス? ネコ? すっごいかわいいですけど!」

 愛らしい見た目に緊張を奪われた如月さんが、興奮気味に言った。

「気をつけて下さい、こいつらもモンスターです」

 油断なく剣を構えたまま八雲が注意を促した。

「こんなに可愛いのに敵なの」

 如月さんは不満そうだけれど、こればかりは仕方がない。

「はい、フォックっていうXFWのモンスターです。見た目が可愛いので、マスコットキャラとして使われたりしてますが、プレイヤーを攻撃してきます」

「あ、そういえばストラップとかでも見たことあるかも。こんな色だったっけ? 毛の感じとかも違うかも」

 フォックのキャラクターグッズは、ゲームセンターやコンビニのくじの景品になっていたりする。縁のなさそうな如月さんが、どこかで見かけていたとしても不思議はない。

「派生種が沢山いるので、如月さんが見たのはその一つかも知れません。とりあえず、目の前のやつは一番弱いノーマルなので、さくっと倒したいところです」

 八雲はショートソードの柄を握りなおした。特殊な条件がない限りはXFWの中で最弱モンスターだ。こいつに苦戦しているようでは先が思いやられる。

「ええ! 倒すって! こんなに可愛いの斬っちゃうの!?」

「モンスターですから。それにここを通らないと、先に進めません」

 5匹のフォックは道を塞ぐように陣取っていた。マップ上に迂回ルートは無いので、もっと危険そうな森の中を進むことになる。

「でもでも! 別に危ないことなんて――」

 言いかけた所でフォックの顔が縦に裂け、鮫のような歯をぐわっと剥いて飛びかかってきた。

「あ、やっぱかわいくないっ!」

 すぐさま反応した如月さんが、野球のバッターのようにロングソードを振り回す。空中でその斬撃を受けたフォックが、弾き飛ばされ木に激突した。巾着が破けたように白濁した体液がベチャッと樹の幹に広がった。

 仲間をやられたフォックたちは、隠していた獰猛さ発揮し次々に襲ってきた。

「しかも意外と凶暴っ!」

 如月さんが剣を振りぬくと一匹が真っ二つになり、地面に転がった。その隙を突いて飛びかかってきた一匹を八雲が突き刺した。

「うえ、白い変な汁が手についちゃった」

 嫌そうにしながらも如月さんは、更に一匹を斬り伏せた。残った一匹も果敢に挑んできたけれど、八雲がショートソードを振るい、胴体を斬り裂いた。

「ふ~、見た目がゆるふわ系でも危険がハチャメチャだね」

 如月さんが一息つくと、それを待っていたかのようにエクスフォンの画面が光り輝き、軽快なファンファーレを鳴り響かせた。

「ファッ!? なにこれ? 壊れちゃったの?!」

 軽いパニックになった如月さんが、手にしたエクスフォンをこちらに突き出してきた。

「あ、それジョブレベルが上がったんです」

「ジョブレベル? 大神くんは?」

「僕も上がってますよ。SEとか切ってあるんで、音がならなかっただけです。ステータスが上がってるかもしれませんし、見てみましょう」

 二人してエクスフォンを突き合わせ、ステータス画面を確認した。力や体力など、各種ステータスが上がっていた。

「なんかスキルってとこが増えてるね」

「剣士の固有スキルの魔迅剣ですね。あと革の盾のスキルも引き出せるようになってると思います。スキルパネルにショートカット登録しておきましょう」

「おっけー、ってどうやるの? 大神くんやっみせてよ」

 受け取った如月さんのエクスフォンの画面をスワイプし、スキルパネルの画面に切り替える。八雲は説明しながら、実際に空いている場所にスキルパネルを設置してみせた。

「この画面が表示されている時に、スキル名を宣言するか、パネルタップで発動するみたいです」

「おっけー、《魔迅剣》って言えば、ふわっ!」

 注意する暇もなく如月さんがスキルが発動させてしまう。いきなり振り抜いたロングソードから、円弧状の波動がシュバッという音ともに飛びだした。

「おわぁっ!」

 間一髪で八雲が避けた波動は、背後に生えていた木を直撃。直径2メートルはあろうかという木の幹が半ば以上まで切り込みが入り、メキメキと音を立てて倒れた。

「ふぉっ、すごい! 強い!」

 初めて使うスキルの威力に目を輝かせる如月さんを、地面に転んだまま八雲は見上げた。

「危険なので人に向けてスキルを使わないで下さい」

 立ち上がった八雲はバクバク跳ねている胸を押さえながら言った。

「ご、ごめんなさい! こんな風に身体が勝手に動いちゃう感じだとは思わなかったから……、怪我とかしてない?」

 心配してくれた如月さんの表情が少し気落ちしているように見えたので、八雲は頬を綻ばせた。

「慌てて転んじゃっただけです。スキル発動は会話より優先度が高いみたいなので気をつけましょう」

 スキルが発動する優先順位は色々と調べておいたほうが良いかもしれない。

「それはそうと、MPを消費してませんか?」

「MPって?」

「画面の端っこに出てる青いゲージです」

 スキルパネルの画面には見慣れたMPのゲージが表示されている。

「あ、ちょっと減ってる」

「それが無くなるとスキルも魔法も使えなくなります」

「ええ! そういうことは早く言ってよ! もったいないことしちゃったな……」

 言う暇もなかったので、如月さんに責められるのはちょっと理不尽な気がした。

「でもMPは時間経過でわりとすぐに回復しますよ。固有スキルは威力とMP消費の効率が、とても良いので使って大丈夫です」

「ふぅ~、よかったー」

「それに熟練度が上がると、派生技を憶えたりしますので、使ったほうがお得です」

「オッケー、そういうことならバンバン使っちゃうね!」

 言ったそばから如月さんは剣を振って意気込んでいた。

 フォックがドロップしたアイテムはふわふわ毛皮と小さな牙だった。毛皮はクラフトでブーツと組み合わせると、氷属性の防御力を+1することが出来るはずだ。この場所から脱出することができたら試してみたい。

「いちいちポケットからエクフォ取り出すの面倒だからさ、大神くん持っててよ」

 拾ったアイテムを確認し終わった如月さんが、唐突にそんなことを言い出した。革の盾は裏側にバンドが平行に二本ついている。一本で腕部分に固定し、もう一本を手で握り保持する形になっている。ある程度、手の自由は効くようだけれど、ズボンのポケットからエクスフォンを取り出すときには盾自体が邪魔になっていた。

「さすがにぼくが持つのは問題あるんじゃ……」

 エクスフォンには指紋認証による本人確認が搭載されている。一定時間、登録者が操作しないと別の人間の入力を受け付けなくなってしまう。

「細かいことは気にしないからさ、ね、ね♪」

「ちょ、ちょっと待って下さい! ヘルプにエクスフォンの取り扱いについての項目があったので確認してみます」

 八雲は如月さんのエクスフォンは受け取らず、自分の画面でヘルプを開いた。ずらりと並んだ項目を探していく。

「えっと……、受け渡しについては何も……あ、でもエクスフォンを好きな場所に固定する方法が書いてあります。これを試してみましょう」

 ショートソードを地面に降ろした八雲は、エクスフォンを右手に持ち替えた。そのエクスフォンを左腕の外側、手首と肘の間に当てて、位置を調整した。

「こうして、《マウント》」

 宣言するとエクスフォンが革のケースに包まれ、甲手のように固定された。

「お、便利じゃん。それじゃ、あたしも《マウント》っと」

 如月さんは盾があるので、左腕の内側にエクスフォンを固定した。

「外すときはエクスフォンに触れながらアンマウントって言ってください。他にもシステム的なショートカットがいくつかあるみたいです。すぐに役立ちそうなのは、落ちているアイテムをすぐに使う方法ですね。《ユーズ》と宣言しながら拾うみたいです。装備の場合は《イクイップ》で、現在装備しているものと交換されるみたいです。あとは通知をマナーモードにするとかですね……」

「……たぶん忘れちゃうから、必要な時は大神くんが教えてよ」

 どうやら如月さんはゲームの攻略サイトは見ない派のようだ。分かりましたと答えて、二人は先へ進んだ。

 クエストマップは単純だったので、矢印通りに進めば森の中で迷うことはなかった。道中に何度かブラッドアイ・ウルフやフォックと遭遇したけれど、すでに戦い方は分かっている。如月さんのスキルもあり、危なげなく勝利することができた。周囲への警戒こそ怠らなかったが、心の余裕ができてきた。

「こっちの道を行きましょう」

 分かれ道に差し掛かった所でマップを確認した八雲が、右に続く広い道を選んだ。左に進んだほうが近そうだけれど、視界が良い方を優先した。

「ねえ、ずっと気になってたんだけど、大神くんはなんでそんな他人ギョーギなの?」

 別の意味で油断していた所を如月さんに強襲され、八雲はひどく狼狽えた。

「え、あの、その……だ、だって……ほとんど話したことないから……」

 最後の方はちゃんと如月さんの鼓膜に届いたか怪しいぐらい小声になってしまった。緊張するとか色々な理由があったけれど、明確な言葉にすることが出来なかった。

「え? 小学校の頃は普通に話してたじゃん」

「ショウガッコウ?」

 如月さんの口から飛び出した思わぬ単語に八雲は一瞬パニックになった。そんな八雲の様子に如月さんがパッチリした目をさらに見開いて大声を上げた。

「ええっ! まさか気づいてなかったのっ!?」

「す、すみません!」

 確かめろと言わんばかりに寄せられた如月さんの顔の迫力に八雲はたじろぎ、全力で頭を下げた。

「ショック~~、5、6年生と同じクラスだったし、席が隣りだったことあるんだよ!」

「……思い出せないです」

 申し訳ない気持ちに八雲は、吐きそうなほどの息苦しさを感じた。

「そっか……、ま、しょうがないか。あたしは6年生の一学期始まってすぐに転校しちゃったし、自分で言うのもアレだけど結構フーンイキ変わっちゃったもんね」

 如月さんは少しガッカリしているように見えた。

(一学期に転校……あ、だから如月さんは『あの事件』のこと知らないのか)

 如月さんにあの事と、それから続く中学時代を知られていと分かり、八雲は呼吸が少し楽になった。

 そんな風に八雲が胸をなでおろしているなんて知らない如月さんは、二の矢を継ぐ。

「でも、あたしはすぐに大神くんってわかったけどなー。なんか話しかけて欲しく無さそうだったから、あんまし触れなかったけど。大神くんはホントにあたしのこと、気づいてなかったの?」

「本当にすみません……」

 八雲はただひたすら謝る以外の方法を知らなかった。

「もう謝ってどうすんのさ。ま、忘れられちゃったんならしたかないじゃん。あたしが見違えるほど成長したってことで許してあげる」

 如月さんはそう言うと腰に手を当ててモデルポーズをとって笑った。でも、本当に言葉の通り許してくれたのか八雲には分からなかった。

「あー、すっきりしたら、色々思い出してきた。大神くんって、佐倉くんのグループにいたよね。いっつも大勢で集まって、ゲームしてたじゃん。なんていうかクラスの中心だったよね」

「……そう、だったかも知れません」

 八雲は生唾を飲み込みながら小さく頷いた。なにかおかしいと気づいたのか、如月さんは怪訝そうな顔をしていた。

「もしかして地雷踏んじゃった?」

 如月さんが気遣わしげに言ってくれるのが、また申し訳なかった。

「いえ、大丈夫です。そ、それより、如月さんは葛西さんとすごく仲良いんですね。昔からの知り合いですか?」

 耐えられなくなった八雲は、とにかく思いついた話題を口にした。

「昔っていうか中学校から。でも一緒にいた時間なんて関係ないぐらい一番の友達。だからどんなトラブルに巻き込まれてても絶対に助けるの」

 如月さんは剣に宣言するように、力強く腕を突き出した。

「それでジャックを追っていたんですよね」

「うん、今まではそれしか手がかりがなかったから。あの男たちがジャックの仲間なら、元の世界に戻ってこのエクスフォンを調べれば何かわかるはず」

 如月さんが腰のベルトについた小袋をポンと叩いた。その中には黒髪の男たちから回収したエクスフォンが入っている。エクスフォンはゲーム内に存在しないからか、アイテム扱いにはならなかったので八雲と如月さんが1つずつ手分けして持っていた。

(やっぱり、ぼくが本当のジャックだって、名乗りでた方が良いのかな……。でも如月さんが全部信じてくれるとは限らないし……)

 葛西さんの事になると如月さんはとても感情的になってしまうようだ。いま変なことを言ってしまうと、余計に話がこじれてしまうかもしれない。そもそも、男たちはジャックの仲間だと名乗ったのに、葛西さんのことを知らなかったのだ。

(偽ジャックが関わってるなんて、如月さんの思い込みなら良いんだけど……)

 そう思うことで、八雲はこうして和やかに会話してくれている彼女に嫌われることから逃げた。一度タイミングを逃すと、また一歩を踏み出すには弾みが必要だった。

 マップに従って進むと、切り立った岩肌に開いた洞窟が見えてきた。両脇に石柱が立っていて、数人が並んで入れる間口を持っている。何か飛び出してきやしないかと警戒しながら近づくと、階段が地下へと続いていた。ルートを示す矢印はその薄暗い石段の先を示している。

「ここって地下街の入り口だよね」

 辺りを見回していた如月さんが唐突に言った。

「地下街ってどういうことですか?」

「うん、ここまで通ってきた真っ直ぐな道ってさ、ドラッグストアとかおっきい電気屋さんがある通りと一緒なんだよね」

「あっ、確かにXFWのダンジョンって、実際の町並みを利用する形だから、あり得る話ですね」

 地図アプリを開けば比較できるのだけれど、エクスフォンは相変わらずXFWに固定されたままだった。

「あり得るとかじゃなくて、ゼッタイだって! あいつらに案内されてる時、超頑張って道順おぼえたんだからね」

 疑われたのが心外だと、如月さんは自信満々に胸を張った。

「洞窟の中にハッピードーナツでもあればいいのに。そしたら、チョコレートオールドスタイルのセットにホイップクリームとベリー・ベリー頼んじゃうな」

 如月さんがぼやく内容の半分も理解することが出来なかった。きっと自分はゲーム用語を聞いている時の如月さんと同じ顔をしていることだろう。

「確かに少しお腹が減りましたね」

 戦闘と歩きの疲れはないけれど、多少の空腹感を覚え始めていた。

「そーだよ、このまま帰れなかったら、あたしたち餓死しちゃうよ、急ご!」

 そう言って如月さんは躊躇なく洞窟内に足を踏み入れていく。

「あっ、気をつけて下さい。洞窟内は厄介なモンスターがいたりしますので」

 ずんずん進んでいく如月さんの後に続き、八雲も階段を下っていった。

 二人のブーツの裏(ソール)が階段を打つ不揃いの音が、洞窟を満たすように反射していく。壁には松明が掛かっているけれど、その光源以上に周囲が明るく感じた。ゲームと同じなら暗視力が強化されているのかもしれない。下って行くに連れてカビ臭いが強まったけれど、それもすぐに慣れてしまった。

 階段を下りきると、坑道のような広い通路が奥に向かって伸びていた。湿った冷気が漂っていて、気温が2、3度下がったように感じた。

「ひぁっ! なんかぬるぬる踏んだ!」

 短い悲鳴を上げた如月さんが、飛び退りたたらを踏んだ。

 如月さんに踏まれた粘液状の物体が周囲から寄せ集まっていき、すぐに直径50センチほどの半球になった。ゼリーのような質感で薄い青色をしていて、内部には気泡とぼんやりと光る小さな球体がいくつか浮いている。その球体が目玉のように如月さんのいる方に集まった。

「スライムです!」

「三角形の可愛いやつじゃないじゃん!」

 伸びた半透明の触手を切り落としながら、如月さんが苦情を言った。

「それはたぶん著作権的な問題です! それと、光っている所を攻撃しないと、ダメージが通りません!」

 注意した八雲がスライムの方に剣を向けた時だ、通路の奥の方から耳障りなキーキーという鳴き声が迫ってきた。洞窟内に張り付く影が実体化したかのように黒く大きな蝙蝠だ。

「オオコウモリです! こっちは任せて下さい!」

 スライムは如月さんに任せて、八雲は飛びかかってきたオオコウモリに向かって剣を振るう。しかし、虚しい空振り音だけが響いた。薄暗さとオオコウモリのスピードに惑わされたのだ。

 返す刃で振り上げるがオオコウモリの方が速かった。薄い皮膜のような羽が八雲の視界を覆い、下肢の鋭い爪が胸元を襲った。革製鎧の表面を引っ掻くようにして切られ、爪の先は鋭い痛みとともに八雲の皮膚に届いていた。

「このっ!」

 八雲は左手で暴れるオオコウモリの胴体を掴むと、無理やり引き剥がし地面に叩きつけた。衝撃でオオコウモリの一瞬動きが止まった所を、右のショートソードで一突きにした。オオコウモリは鼓膜が痛くなるような断末魔の悲鳴を上げ動かなくなった。

「もう、こいつキモいっ! 《魔迅剣》!」

 如月さんが振りぬいた刃から円弧の波動が走り、スライムを一文字に切り裂く。しかし、コアの部分は無傷だった。すぐに再生を始めようとするスライムに向かって、さらなる波動が殺到する。

「《魔迅剣》《魔迅剣》《魔迅剣》《魔迅剣》《魔迅剣》《まじんけぇん》《まじぃんけぇえええええん》」

 乱打された光の刃がスライムをところてんのように切り刻んだ。コアを砕いてもさらに連発し続けたので、ついにはMPが尽きて何も出なくなっていた。

「ふぅー、なんとか倒せたね」

 全てを出し切った如月さんは額の汗を拭った。心なしかいい笑顔だ。

「……如月さんはエリクサーとか種とか使っちゃうタイプですね」

「え、なに? どういうこと?」

「思い切りが良いってことです。ぼくは最後まで取っておいて、結局は使わないタイプなので羨ましいです」

「ふふ~ん、智代にもよく言われる」

 如月さんは得意気な笑みを浮かべていた。

 ドロップアイテムを回収して洞窟を先に進むと、すぐに分かれ道になっていた。矢印は左方向を指していたけれど、左通路のすぐ突き当りに何か箱が置かれているのが目についた。

「あれってもしかして宝箱??」

 目を輝かせた如月さんが左のほうを指差した。鉄の金具で補強された木箱で、かまぼこ型の蓋を持つよく知ったXFWの宝箱だった。

「そうみたいですね」

「これぞ冒険って感じだね。何が入ってるのかな~♪」

 如月さんはうきうきと軽い足取りで宝箱の方へと近づいていってしまう。

「あっ、如月さん! 待って! 罠が!」

 10メートルも無かったので、八雲が止めるよりも早く如月さんは宝箱のところにたどり着いてしまった。

「変なスイッチ踏んだりしてないから大丈夫。岩とか転がってこないし、針も飛び出してこないよ。大神くん、ちょっと心配しすぎだから」

 そう言いながら、如月さんはおもむろに宝箱に手をかけ、蓋を開けてしまった。

「あっ! だから罠がっ!」

 丁番の立てる金属の悲鳴に八雲は背筋が凍る思いがした。身構えていたけれど、特に何も起きない。どうやら罠は仕掛けられていなかったようだ。例え仕掛けられていても盗賊ではないので解除できなかったけれど……。

「ほら大丈夫じゃん」

「罠がなくても、凶暴なミミックの可能性も――」

「なにこれっ! 強そう!」

 心配から少し咎めるような言葉を口にした八雲を遮り、如月さんの興奮した声が辺りにこだました。気になった八雲は忠告も忘れて、横から宝箱を覗き込んだ。

 宝箱の中には、刃渡り80センチほどの一振りの剣が入っていた。肉厚で幅広の両刃で、楕円形の鍔は小さい。柄頭の部分に紅い石が埋め込まれていた。

「グラディウスですね。リーチはロングソードより少しだけ短いですが、攻撃力が高い武器です」

「大神くんいる?」

 如月さんが譲ってくれたけれど、八雲は戦力を考えて首を横に振った。

「いえ、ぼくはタリスマンがあるので如月さんが装備してください。魔石が付いているということは、何かプラスの効果があるので、現状なら如月さんが装備している鉄のロングソードの上位互換と考えていいです」

「やった! さっそく装備しちゃうね……えっと、なんて言うんだっけ? 《リップスティック》じゃないよね?」

「イクイップです」

「そう、それ! 《イクイップ》!」

 宣言した如月さんがグラディウスを握ると、宝箱に立てかけてあったロングソードが光の粒となりエクスフォンに吸い込まれていった。

「おお、ちゃんと装備できてる! ん? なんかこの剣のアイコンのとこ枠の色が違ってるよ! もしかして呪い的なやつ?!」

 エクスフォンで装備を確認していた如月さんが、手首を向けて画面を見せてきた。

「修正が付いてるからですね。赤枠は炎の効果です。斬撃や突き属性とは別に、炎属性の攻撃ダメージが追加されます」

「もしかして、超すごい剣なんじゃない!」

「超ではないですけど、低レベル帯ではけっこう良い武器です」

「うんうん、ラッキーだね。日頃の行いが良いからかな」

 如月さんがキラキラと目を輝かせていたので、八雲は少し心が痛んだ。良い武器というのは嘘ではないけれど、希少価値があるわけではない。グラディウスは鍛冶で簡単に作れるし、炎属性を付加している魔石もランクの低いものだ。ただし、現状で役に立つことは間違いなかった。

 少し引き返し、右のルートを進むとまたオオコウモリが三匹襲いかかってきた。ここは任せてと、如月さんがスキル《魔迅剣》で三匹をまとめて倒した。その際に切られたオオコウモリたちに炎がまとわり付き、二人は感嘆の声を上げた。それで終われば良かったのだけれど、燃え上がったオオコウモリの異臭が酷くて如月さんが誰にともなく文句を言っていた。

 坑道を進んでいくと、オオコウモリやスライムの他にケイブアント、岩ムカデなどの小型モンスターが襲ってきた。ここでもグラディウスの炎属性が効果的に働き、難なく倒すことができた。マップ上に目的地のポータルアイコンが表示される頃には、二人のレベルは3に上がっていた。

「ゴールが近いですね」

「ほら、あたしの言った通りなんとかなったじゃん。っていうか、ラクショーだったね」

 傷一つ負うことなくここまでたどり着いた如月さんは、すでにクエストを攻略した気になっているようだった。

「あの二人が、その、死んだことで、クエストのランクが内部的に下がったのかもしれません。でも、安心はまだ早いです。この先ってマップが広くなってますよね。多分、ボスがいます」

 ポータルのアイコンが表示されている場所は、広間のような場所だった。XFWのクエスト経験から言えば、十中八九ボスとの戦闘が待ち構えている。

「ボスって、やっぱり強いの?」

「難易度5なのでボスのレベルは5~7ぐらいだから、だいたい強いはずです。慎重に行きましょう」

「おっけー、匍匐前進する?」

「そういうのは要らないです」

 二人は通路の端に身体を寄せると、足音がしないようにそろそろと進んだ。広場まであと少しというところで、なにやらゴブゴブというくぐもった声が聞こえてきた。二人は通路の角に張り付くと、広場を覗きこんだ。

「なんか不細工が踊ってるんですけど、なにアレ?」

 広場は天井の高いドーム状になっていて、中央に石積みの不格好な祭壇らしきものが作られていた。祭壇は縦横10メートルほどの正方形で、三段からなる階段状ピラミッドだ。祭壇とその周りには大きな壺が多数配置されていて、そのいくつかは油壺なのだろうか燃え上がっている。祭壇の下には二十数体の緑色の化け物たちがいた。尖った耳にぼってりとした鼻、歪に突き出した下顎の牙、理性より凶暴さを感じる異様に血走った目、それらが深い皺の刻まれた頭部にバランス悪く配置されている。身長は160センチぐらいだろうが、腰が曲がっていて短躯に見えた。

「ゴブリンですね。あいつらを全滅させれば、ポータルが出現すると思います」

「強いの?」

「一匹、二匹なら簡単に倒せるのですが、これだけ数がいると正面突破は正直、難しいかと……」

「待ってたら疲れて寝ちゃったりしない?」

「ぼくたちが空腹と喉の渇きで動けなくなるのが先だと思います」

「うーん、何か良い方法ない? 裏ワザで簡単に倒せちゃうとかさ」

 如月さんは考えることが面倒になったのか投げやりに言った。

「えっと、作戦はあります。でも、如月さんにも危険な事をしてもらわないといけないので……」

「なんだ、そんなこと気にしてたの? 遠慮せずに言ってよね、も~」

 そう言って如月さんは、なぜか不満そうに口をとがらせた。

「す、すみません……」

 遠慮しないなんて無理なので、八雲は素直に謝った。

「またそうやってすぐ謝るー。ま、いいや、それで作戦って?」

「祭壇の上に一匹だけ格好の違うゴブリンがいますよね。杖を持ってるやつです」

 居並ぶゴブリンたちを祭壇の上から見下ろす、頭に羽飾りをつけ首から髑髏を下げたゴブリンが一匹がいた。

「あー、いるね。あいつがどうしたの?」

「ゴブリンシャーマンっていう少し強いモンスターで、奴らのリーダーです。ゴブリンは集団で戦っている時はステータスの補正を受けていて侮れない敵なのですが、リーダーを倒されると一気に弱体化して逃げ出します」

「ってことは、あのゴブリンシャーマンって奴を倒せば」

「はい、実質的にクエストクリアです」

 逃げ惑うゴブリンを倒す必要があるのか分からないけれど、心理的な抵抗さえ考えなければ、たいして難しいことではない。

「な~んだ、ちゃんと方法があるじゃん」

「肝心の作戦なんですが、ぼくが囮になってゴブリンたちの注意を引きつけます。その間に如月さんが祭壇に近づいて、ゴブリンシャーマンを倒すのが良いと思います」

 八雲の説明に如月さんが眉を顰める。

「囮って大神くんが危ないんじゃない? 強い武器持ってるし、あたしが囮した方がよくない?」

「いえ、この分担じゃないと駄目です。装備を抜きにしてもパンプキンナイトのぼくは攻撃力が低いので、ゴブリンシャーマンにあまりダメージを与えられないと思います。その点、炎付きのグラディウスを装備した戦士の如月さんなら十分です。この作戦の肝はとにかくゴブリンシャーマンを早く倒すことですから」

 簡単な説明だったけれど、如月さんは頷いてくれた。役割を逆にしても成立しないことはないけれど、やはり如月さんが安全な方が良いと思った。

 どちらの方向に敵をおびき寄せるのか、そして如月さんが飛び出すタイミングを手早く打ち合わせた。

「おっけー、任せて! シュバッと行ってあっという間に倒しちゃうんだから!」

「よろしくお願いします。それじゃあ、移動速度アップの補助魔法をかけますね」

 装備セットを切り替え左手に時のタリスマンを出現させる。時魔法のタリスマンに初期から付いている2つの魔法のうち、《ランアップ》の呪文を詠唱した。一人ずつしか強化できないので、詠唱時間が二倍かかってしまう。

「やっぱし剣も魔法も使えるって便利だよねー」

 手持ち無沙汰な待ち時間を紛らわすように如月さんが言った。

「たしかに最初はそれほど差がありませんが、高レベル帯になれば確実に他の職業に性能負けします。ただ補助系の魔法は影響が少ないので、その分野ではアドバンテージがとれるかもしれません」

「ふ~ん、ってことは大神くんは、一緒に遊ぶ人を助けるためにその職業を選んだの? もしかして恋人だったりするぅ~?」

 如月さんは興味津々といった様子で穿った見方をしているけれど、八雲は呪文を詠唱するついでに否定した。

「《ランアップ》。いえ、そういう他人のためとかじゃないです。一人プレイならほとんど全ての装備が使えるって利点が大きいからです」

「え~、でも補助が優秀なんだよね。なんで、長所を活かそうとしないの? 誰かと一緒に遊べば良いのに」

「ぼく、友達いませんから」

「そっかー、ならしょうがないね」

 如月さんがあっさりしていたので、それ以上は説明する必要がなかった。ちょうど呪文が発動して、如月さんの周囲にオーラ状のエフェクトが表示された。

「これで速度がアップしました。効果は5分間なので急ぎましょう」

「作戦開始だね!」

 弾む声に背中を押され、まずは八雲が広場へと足を踏み入れた。

「お、おい、このゴブリンッ!」

 緊張で少し裏返った声が洞窟に広がり壁に反響する。戻ってきた声に合わせるようにして、ゴブリンたちが一斉にこちらを向いた。闖入者の出現にゴブゴブという声が、怒気をはらんだものになっていく。ある者は不格好な斧を、ある者は刃の欠けた短剣を握る腕に力を込めた。

 壇上にいたゴブリンシャーマンが持っていた杖の先で地面を叩いた。その乾いた音を合図に、ゴブリンたちが奇声を上げ、わらわらとこちらに向かってくる。我先にと争う統率なんてまるで取れていない様は野盗団のようだ。

 ゴブリンたちがある程度の距離まで近づいて来たところで、八雲は祭壇を中心にして反時計回りに走りだす。これだと武器を装備していない左半身をゴブリンの方に向けることになってしまうが、もとより積極的に戦うつもりがないので問題はない。

 動き出した八雲に合わせて、ゴブリンたちも進行方向を変える。しかし誰かが指示をしているわけではないので、最初はある程度揃っていた隊列が縦に伸びていく。広場を四分の一周する頃には、足の早いグループと遅いグループに別れ、その中でもかなりバラけていた。

 広場の入口の方を見ると、作戦通り如月さんが時計回りに走りだしていた。ゴブリンたちとゴブリンシャーマンはこちらを向いているので、その背後をつくように如月さんが回りこむのがこの作戦だ。幸い八雲の他にその動きに気づいているものはいなかった。

 敵集団が十分にバラけたところで八雲は足を止めた。集団からあまり距離をとり過ぎると、回りこむような動きをとられるかと思ったからだ。

 一匹だけ突出していたゴブリンが、不格好な木の棍棒を手に襲いかかってきた。動きは狼ほど素早くないので、躱すのは簡単だった。棍棒が空振り無防備になった脇腹を、すり抜けざまにショートソードで斬りつける。硬い肉の感触に刃が深く通らない。ゴブリンはHPが比較的高めに設定されている。一撃で倒すほどには八雲の攻撃力が足りていなかったのだ。

 緑のゴブリンは腹の傷などまるで気にせず、再び棍棒を振るった。回避ステップが間に合わず、右手の甲を強かに打ちつけられてしまう。

「いぎぐぅっ! このぉっ!」

 鈍痛に耐え剣を握り直すと八雲は踏み込みながら、ショートソードを突き出した。とどめとばかりに棍棒を振り上げていたゴブリンの喉元を鋭い剣先が貫いた。濁った断末魔の悲鳴を上げたゴブリンの手から棍棒が落ちていく。ショートソード引き抜くと、ゴブリンはその場に倒れ動かなくなった。

(弱点をつけば、ぼくでも一撃で倒せるけど……)

 振り返るとすでに第二陣とでも言うべき三匹のゴブリンがすぐそこに迫っていた。たった一匹倒すのにこれだけ苦戦していたのだから、三匹を同時に相手にしては、弱点を狙うどころではない。

(とにかく、逃げて時間稼ぎだ。如月さんの方は大丈夫かな)

 広場の奥に向かって逃げ出しながら、八雲は祭壇の方向を確認した。如月さんがちょうど祭壇の下まで到着し、ゴブリンシャーマンと対峙したところだった。数匹の足の遅いゴブリンたちがその動きに気づき、祭壇へ戻ろうとしているが間に合わないだろう。八雲は逃げながら横目で、如月さんとボスであるゴブリンシャーマンの決戦の行方を見守っていた。

「《魔迅剣》!」

 如月さんが振りぬいた剣先から放たれた波動が、ゴブリンシャーマンめがけて祭壇を駆け上る。狙いに狂いはなく直撃かと思われたその時、ゴブリンシャーマンは身を翻し祭壇から飛び降りた。祭壇を直撃した波動は石積みを砕き、細かい破片を辺りに撒き散らせた。

 降下しながらゴブリンシャーマンは握っていた杖を如月さんに向かって振り下ろす。如月さんはとっさに右手の革の盾をつき出し、これを弾き飛ばす。

「もう一回魔迅剣!!」

 ゴブリンシャーマンの着地際に向けて、波動が駆け抜ける。直撃だ。斬撃属性の攻撃を食らったゴブリンシャーマンの肩から胸にかけて、斬撃の傷跡が開いた。大きなダメージとなったが、致命傷ではない。ゴブリンシャーマンは憎々しげに杖を振り上げると、甲高い奇声を発した。すると周囲に魔法陣が4つ浮かび上がり、それぞれから筍でも生えてくるようにヌッと大柄のゴブリンが姿を表した。八雲を追ってきているものよりも筋肉質で見るからに強うなそれは、ホブゴブリンだった。

(召喚系! まずい、ただの魔法使いじゃなかった!)

 見た目から土属性の魔法を使う通常のゴブリンシャーマンかと思っていたが、召喚魔法も持つレア種だった。如月さんに魔法への対処法は教えてあるけれど、ホブゴブリンのことは何も伝えていなかった。

 如月さんは予定外の事態に一瞬迷った素振りを見せたが、すぐに気を取り直し立ちふさがるホブゴブリンに果敢にも挑んでいった。

 状況は確実に悪化していた。祭壇でも戦いが始まったことに多くのゴブリンたちにバレてしまい、ふた手に分かれ始めた。如月さんはホブゴブリンと戦うので手一杯で、後ろからゴブリンたちが向かっていることに気づいていない。さらにゴブリンシャーマンは少し距離を取り、何やら呪文の詠唱に入っていた。

(このままじゃジリ貧、如月さんからやられちゃう! どうにかしないと……)

 正面から助けに向かっても、八雲の攻撃力ではホブゴブリン一匹どころか、二、三匹ののゴブリンすら相手にできない。かといって囮の効果も薄れているので、このまま逃げ続けるわけにもいかない。

(如月さんと合流して……いや、その前にあれを利用すれば!)

 祭壇を注視した八雲の網膜に、赤々と炎を吐き出し続ける油壺が焼き付いた。

 八雲はすぐに転進すると、追いかけてきていたゴブリンの群れに自ら飛び込んでいった。立ち向かうゴブリンたちは手に持った武器で八雲に襲い掛かってくる。

 ここまで逃げまわったおかげで、敵は十分に散っていた。八雲は振り回される棍棒を躱し、突き出された錆びた剣を弾き一直線に祭壇に向かった。身体ごとぶつかるように斧を叩きつけてきたゴブリンを飛び越え、投げつけられた槍を前転でなんとかやり過ごす。そのまま立ち上がりざまに剣を振るって、目の前のゴブリンの膝を切り裂き道を開ける。どうにかゴブリンの集団を突破し、飛びつくように祭壇に足をかけたところで速度アップの効果が切れてしまった。

 重さを思い出した身体を無理やり引き上げるようにして八雲は祭壇を駆け上った。すぐ後ろから追ってきたゴブリンたちも、手足を石段にかけてよじ登ってくる。このまま、ゴブリンたちを引き連れて如月さんと合流するわけにはいかない。

「このぉおおっ!」

 祭壇に置かれ炎を燃え上がらせる油壷に肩を当て、全力で突き倒した。炎の雨が先頭のゴブリンたちに降り注ぐ。どぷっという水音とジュワッという焼ける音、そしてゴブリンたちの悲鳴が響き渡る。全身を炎に巻かれたゴブリンたちが、火山弾のように転げ落ちていった。阿鼻叫喚の地獄絵図を見て、後から続こうとしていたゴブリンたちが二の足を踏む。その間に、八雲は祭壇を最上段まで登り切り、如月さんとゴブリンシャーマンたちが戦う側へと回りこんでいった。

「《魔迅剣》……ってでない! MPなくなっちゃったじゃない!」

 如月さんは当たり散らすように、残っていた一匹のホブゴブリンに斬りかかっていく。ホブゴブリンはボロボロの盾でその斬撃を受け止めようとした。鉄の塊が木を打ち砕く軽い音が響き、盾の破片が燃え上がった。そのまま刃はホブゴブリンの太い腕に食い込んだ。如月さんはさらに力を込めるが、斬り落とすまでには至らない。逆にホブゴブリンが如月さんめがけてメイスを振り下ろした。如月さんは剣を離さず、左手の革の盾で防御する。豪腕の一撃に防御ごと如月さんの身体が弾き飛ばされてしまった。

(距離がはなれた! 今だ!)

 八雲は祭壇の最上段に配置されていた壺を、ホブゴブリン目掛けて押し倒した。陶製の壺は見事にホブゴブリンの頭を直撃する。錆びた鉄兜に守られたホブゴブリンにダメージはなかったが、大量の油が周囲に撒き散らされた。何事かと見上げたゴブリンシャーマンの頭上にも、さらに別の油壷を落としてやる。羽飾りしか装備していないゴブリンシャーマンは、顔面に壺を食らい陶片と油だらけの石段に倒れこむ。

「如月さん! 炎をおねがいします!」

 残っている油壷を集まってきていたゴブリンたちに向かって突き落としながら、八雲は叫んだ。

「オッケー! やっちゃうよっ!」

 意図を察した如月さんがマッチを擦るように、油の垂れる石段をグラディウスの剣先で弾いた。キンッという硬い音が響き、炎が巻き上がった。炎属性の追加ダメージが判定され、油に火がついたのだ。

 炎の波は一気に油全体に広がり、祭壇とゴブリンたちを飲み込んでいった。頭から油まみれになっていたゴブリンたちはもちろんひとたまりもない。炎に全身を包まれたゴブリンは混乱し、めちゃくちゃに走り回り炎を広げた。さらに八雲が油壷を落とし続けていたので、周囲にいたゴブリンたちのほとんどが大なり小なり油に濡れていた。結果、ほとんどのゴブリンが炎に巻かれることとなった。

「はやく、大神くんもおりないと燃えちゃうよっ!」

 如月さんが急かすように大声を上げた。彼女は一足早く燃え上がる祭壇から離れ、無傷だったゴブリンの残党を倒している。

「はい、すぐに――」

 言い終わらないうちに、突如として祭壇を囲むように魔法陣が展開され、グラグラと揺れだした。何事かと注意深く周囲を探ると、燃え上がるゴブリン達の悲鳴に混じって呪文の詠唱が聞こえた。炎の中で倒れ伏しながらも、杖を握るゴブリンシャーマンの姿があった。

「こんな、HPが見えないから!」

 八雲は意を決して炎に包まれた下の段へと飛び降りた。チリチリと顔面を炙られるような痛みと熱さに耐え、虫の息だったゴブリンシャーマンの胸をショートソードで貫いた。確かな手応えだけを証拠に、八雲はジャンプして燃え盛る祭壇を飛び出した。そのまま硬い地面に身体を投げ出し、ごろごろ転がって身体についた火の粉を振り落とした。

「大神くん!」

 駆け寄ってきた如月さんが心配そうに見下ろしていた。

「はぁ、はぁ……大丈夫です。すこし髪が焦げちゃいましたけど」

 そう言って八雲は前髪をつまんでみせた。顔や手など素肌が露出している所はヒリヒリと痛んだけれど、重傷ではなかった。革装備は防御力は低いけれど、属性耐性が意外と高いので、そのお陰だろう。

「あんまり無茶しないでよね!」

 如月さんは少し怒っているようだった。

「すみません、でも今はあの魔法陣に注意しましょう」

 ゴブリンシャーマンを倒したが、詠唱は完成していた。周囲で倒れたゴブリンたちから白い魂のようなものが抜け出し、魔法陣に吸い込まれていく。祭壇の揺れがさらに激しくなり、ついに噴火のような爆発を起こした。

「なになに? なにが起こっちゃうの!?」

 舞い上がる煙の中からくすんだ青色の塊が二本、ヌッと伸びてきた。煙をかき分けるようにして左右に大きく開いたそれは、二本の巨大な腕だった。ライオンの鳴き声をさらに低くしたような、咆哮が洞窟をビリビリと震わせた。煙が徐々に晴れその巨体が姿を現した。

 雰囲気はクロサイに似ていた。ただし、そいつは二本足で直立していた。見るからに硬そうな皮膚に、重機を思わせる筋肉質の四肢、頭部から突き出した一本の角、そして顔の中央にある巨大な一つ目。

「サイクロプスだ……」

 巨体を前にした八雲は圧倒されながらも、ある種の感動のこもった声で言った。

「あ~、これならあたしにも分かる。大ピンチだよね」

 暢気な言い方とは裏腹に如月さんの緊張がひしひしと伝わってきた。

 サイクロプスは祭壇の残骸から、巨大な棍棒を塊を拾い上げる。

(ご丁寧に武器まで召喚されなくても良いのに)

 八雲が内心で文句を言っていると、それを察知したかのようにサイクロプスの一つ目がぎょろりとこちらを向いた。眼と眼が合うなんて生易しいものではない迫力に八雲と如月さんは揃って、後ろに一歩下がった。それを逃走の気配と思ったのか、サイクロプスは大きく踏み出した。

「き、きます!」

「どうするの?!」

「逃げます!」

 短いやり取りの間にもサイクロプスの一歩で、地面が揺れる。単眼ゆえだろうか、サイクロプスは狙いもめちゃくちゃに棍棒を振り下ろした。地面が砕け突風とともに礫が二人のところに飛んできた。二人は踵を返し逃げ出した。向かう先はもちろん、広間の入り口だ。

「はぁ、はぁ、はぁ、早く」

 移動速度アップの魔法を使っている暇はない。二人はこれでもかと全身の筋肉を躍動させ走った。

「あと少し!」

 先を行く如月さんが励ますように言った。30メートルもないだろう距離だ。二人ともが逃げきれると思ったその時だ、背後で気配がし頭上を影が通り過ぎていった。それは跳躍したサイクロプスだった。

「そんな……」

 巨体が広間の入り口と重なるのを見て、八雲は悲鳴になりきらない声を漏らした。如月さんも声にならない悔しさで、歯ぎしりしていた。

 そんな二人を見てサイクロプスは勝ち誇るように、棍棒を高々と振り上げた、その時だ。

「《ダークハウンド》」

 無機質な声が響いた。広間入り口の影が膨れ上がり、無数の闇の顎がサイクロプスに襲いかかった。影絵のような顎がサイクロプスの腹を食い破り、棍棒を握る腕を噛みちぎった。サイクロプスはその巨腕を振るい、強襲に抵抗を試みるが実態のない影を虚しく撫でるだけだった。闇の顎はハイエナが獲物に群がるように、瞬く間にサイクロプスの身体を覆い尽くし、太ももを、腕を、胸を、そして最後には巨大な眼球が据えられた頭部を食い尽くしていった。

 蹂躙されボロ布のようになったサイクロプスは、膝をつくことすらできずに崩折れた。

「大神くんがやったの?」

 突然の事態に呆然としていた如月さんが尋ねてきた。

「ぼくじゃないです。直前に魔法を宣言する声が聞こえました」

 誰かが闇系の中級魔法ダークハウンドを唱えたのだ。

「助けてくれったってこと? あたしたちの他に誰か――」

 如月さんの疑問へ答えたのは二つの足音だった。サイクロプスの亡骸の後ろから、洞窟の闇が揺れるようにして黒尽くめの二人が姿を現した。

 一人は黒絹のローブにとんがり帽子、影の錫杖という魔法使いらしい装備をしている。身長164センチの八雲よりも小柄だ。帽子のつばに隠れて顔は見えなけれど子供かもしれない。《ダークハウンド》を使ったのは、おそらくこの人物だ。

 もう一人は、イベント装備だろうか黒い燕尾服一揃いに、頭部は唇だけ描かれた真っ白い袋という、サイケなてるてる坊主のような格好をしている。手に武器は持っていないようだ。装備のセオリーから外れすぎていて具体的な職業(ジョブ)は分からない。とにかく周囲から浮いている恥ずかしさと、異質な気持ち悪さがあった。

「あ、助けていただいて、ありがとうございます」

 雰囲気に飲まれそうになっていた八雲だったが、どうにか最低限の礼節を思い出し頭を下げた。こんな時、真っ先に話しかけそうな如月さんが何も言わないので、不思議に思って横目で見ると、彼女は凍りついたような硬い表情で闖入者を見つめていた。

「智代……」

 初めて聞く精一杯絞り出したような如月さんの声に、八雲はハッとしてローブの人物の顔をよく見た。帽子のつばの下から、幼さを残した女の子の顔が覗いていた。学校で見かけた時を思い出すと、笑顔の印象が強く違和感があったけれど、確かに葛西智代さんだった。

 向こうからも如月さんだと分かっているはずだけれど、葛西さんは何も言わない。その代わりとばかりに、のっぺら坊が一歩前に進み出た。

「おやおや、これはこれは~。なんという僥倖でしょうか。今日のラッキーアイテムが無能な手下だったなんて、朝の占いでも当てることができるでしょうか。いや、できマイマイ♪」

 何が楽しいのか分からないが、やたらとテンションの高い様子でのっぺら坊はまくし立てた。変声期前のような少し高い声の感じは男性とも女性ともつかない。

 興奮するのっぺら坊とは対照的に、如月さんは眉をとがらせるような苦しい表情を浮かべていた。

「探したんだよ、智代! なんでこんなところにいるの! ねえっ!」

 剣を下ろした如月さんだったが、それ以上の迫力で問い詰めるようにして葛西さんの方に近づいていく。やっと会えた親友を前に感情が高ぶっているようだ。

 一方の葛西さんは依然として無表情のままだった。そして言葉を発する代わりに、如月さんに向けて杖をつき出した。

「《シェイドアロー》」

 地面に現れた三本の影の矢印が如月さんに向かって、Eを描くように伸びていく。驚愕に目を見開いた如月さんの反応が遅れた。

「如月さん!」

 八雲が腹の底から叫んだけれど、如月さんに正気を取り戻させるには遅かった。中央を進む矢印が水切りの石のように地面から飛び上がり、如月さんの太ももを斬り裂いた。

「ぐっ……」

 痛みに口元を歪ませながら踏みとどまった如月さんを、さらに左右から影の矢印が襲う。如月さんは盾を構え剣を振るうが、影の矢印はそれを避け脇腹と腕を斬り裂いた。

「ひィッ! イヤッ、痛っ! うぐぅっ……なんでなの……智代……なんでこんなことするの……」

 如月さんは今にも泣き出しそうなぐらい激しく動揺していた。そんな悲痛な表情を向けられてもなお、葛西さんは機械的に杖を向け続け、次の詠唱に入ろうとしていた。このままでは本当に大事故になると、八雲は如月さんの前に飛び出し的になるように両手を広げた。

「け、喧嘩はやめましょう! 何があったのか知りませんが、今はそういう場合じゃないと思います!」

 事情は分からないけれど、とにかく一旦落ち着く必要があると思った。八雲の呼びかけにのっぺら坊も、葛西さんを手で制した。

「そうだよ、喧嘩は良くない。ノーフレンド、ノーファイトだよ。あ、それじゃ逆かな、アハハハっ」

 何が楽しいのか、のっぺら坊は緊張感の欠片もなく笑っていた。その態度が気に障ったのか、如月さんが憎しみのこもった目でのっぺら坊を睨みつけた。

「あんたがジャックね」

 如月さんが断定するように言うと、のっぺら坊が笑うのをやめた。それから何か考えるように、顎のあたりを人差し指と中指で擦った。

「ん~……クエッション・ワン! ボクはジャックでしょうか? はい、回答権はそっちのキミにっ!」

 のっぺら坊はビシっと八雲のことを指差した。

「えっと……ち、ちがいます。あなたはジャックじゃない」

 八雲自身の口から、このわけの分からない人物をジャックと認めることは出来なかった。

「大神くん、何いってるの? 智代と一緒にいるんだから、状況的に考えてもこのふざけた奴がジャックじゃん!」

 まさか八雲が否定するとは思っていなかったのだろう、如月さんは正気を疑っているようだった。

「ふふ~ん、正解だね。ボクは偽物のジャックだよー」

「なにそれ、智代とあたしを騙してたってわけ! なんでそんなことしたのよ!」

 怒りと混乱をぶつけるように如月さんが吠える。

「別に君たちを騙したかったわけじゃないよ。お仕事の都合ってやつで、ちょっとばかり名前を拝借させてもらってたの。さてさて、ここでクエッション・トゥ~! 本物のジャックはどこにいるのでしょうか? 正解できたら伝説のお城に招待してあげようかな」

「知らない! そんなことどうでもいいから!」

「はい、ブッブー不正解。はい、次はキミだ。かぼちゃ頭のキミなら分かるんじゃない?」

 のっぺら坊は意味深にたった一つの顔パーツである唇を歪ませた。理由は見当もつかないけれど、こののっぺら坊は八雲の正体を知っているのだ。自分で言わないのなら、バラすぞと脅しているのだと分かった。

「じゃ、ジャックは……ジャックは……」

 言葉を探すように八雲は繰り返した。

「ジャックは? どうしたのかな? 手がぷるぷるんだよ?」

 煽るように言ってのっぺら坊が、自分の手をこれ見よがしに震わせていた。

「ぼ、ぼくだ! ぼくがパンプキンナイトのジャックだ!」

 ここで言わないと一生後悔すると思った。自分で自分を規定しないと駄目だと分かっていた。だから、八雲は声を震わせながらも名乗りでた。

「グッッレイト!」

「え、ええ、なんで今さら! っていうか、ホントに?!」

 のっぺら坊が満足気に親指を立てる対面で、如月さんがもう分けがわからないと叫んでいた。

「ほんとほんと、偽物のボクが、本物のジャックだって認めるから。ん? あれれ? じゃあ、ボクは誰? 誰なのかな~? クエッション・スリーはこれにしよう!」

 予定調和だとでも言いたげに、のっぺら坊は芝居がかった仕草で手を広げた。

「あんたが誰だって関係ないからっ!」

「うふふ~ん、質問には答えようよ。コール・アンド・レスポンス♪ じゃあ本物のジャックくんはどう? ボクのこと知ってる?」

 猛る如月さんを無視するように、のっぺら坊は八雲に尋ねた。

「えっと……分かりません」

 心当たりと呼べるほどの名前は浮かんでこなかった。

「おーけーおーけー、じゃあ自己紹介から始めよう。ボクのプレイヤーネームはノーフェイス、以後お見知り置きを」

 そう名乗ってノーフェイスは慇懃に腰を折った。さすが燕尾服なので、その仕草は似合っていた。装備とパーソナルアクションにこだわっているプレイヤーを、八雲は嫌いではなかった。

 八雲が感心しているすぐ横で、ブチ切れた如月さんが地面に靴を叩きつけるようにして前に踏み出した。

「いい加減そのふざけた態度をやめてっ! どれだけ、智代とあんたを探したと思ってんの! つまんない軽口に付き合うためじゃないのよ!」

「あ~~、なるほどなるほど、それは良かった。コングラチュレ~ション! 実はボクも予定通りにミッションを一つクリアしたところなんだ。お互い出会えて嬉しいよね」

 噛み合っているんだか、いないんだか分からない会話に、如月さんの堪忍袋が爆発する。

「このぉ、ひとを舐め腐って!」

「早まらないで如月さん!」

 握った剣で斬りかかろうとするのを、八雲は決死の思いで押し留めた。

「邪魔しないで大神くん、こいつに分からせてやるんだから!」

「おーコワイコワイ」

 茶化すように言うノーフェイスに、如月さんがさらに青筋を立てていた。

「二人ともやめて下さい。と、とにかく、落ち着いて、お互いに情報を共有しましょう。ノーフェイスさんは色々知っているみたいですが、ぼくたちは今の事態について何も事情を知りません。それから、葛西さんの件と、ジャックのなりすましの件について話し合いましょう」

「……わかった」

 一旦話を整理したことで多少落ち着いたのか、如月さんが剣を下ろした。

「共有ね~。ボクが知りたいことは特にないんだけどなー。そうだ、如月さんのスリーサイズ教えてよ」

「90-57-83」

 如月さんは当然のように即答した。からかうように言ったノーフェイスが、少し驚いたように言葉を詰まらせた。

「恥ずかしがったり怒ったりすると思った? 現役モデル舐めないでよね」

「……オーケー、第1ラウンドはボクの負けでいいよ。色々と説明した方が色々とやりやすいしね。って、言ってもボクもよくは知らないんだけどね」

 そう前置きしてから、ノーフェイスは説明を始めた。

「まずは疑問に思ってるだろうこの場所についてだ。ぶっちゃけよく分かってない。いきなりなに言ってんだこいつって思っただろ? でも仕方ない、知らないものは分からない。ただ、ゲームの設定そのままに『拡張幻想世界』って呼んでる。ボクたちの世界とはあのポータルを通して繋がってる」

 ノーフェイスが八雲たちの背後を指差す。振り向くと、崩れた祭壇の場所に光の粒が渦巻いていた。

「クエストを攻略し、出現するポータルを通れば無事に帰還できる。これもゲームと一緒。だから、ここはゲームの中の電脳世界かもしれないし、それこそ異世界かもしれない。宇宙論は専門外だね。ま、とにかく拡張幻想世界は確かに存在している。楽しく遊べれば、細かいことはどうでもいいよね。ゲーム機のCPUやプログラムについて詳しくなくても、ゲーム自体は楽しめるもんね」

 如月さんは長話に少しイライラしているようだったが、八雲はノーフェイスの言葉を出来る限り理解しようとしていた。もちろん先程までのふざけた態度からして、虚言や曲解を混ぜているかもしれないと疑ってもいる。二人の態度はノーフェイスにも伝わっているようで、わざと勿体つけるような話の進め方をしていた。

「遊び方は簡単! 裏アプリを起動し、光り輝くエクスフォンを掲げてエクステンド! 謎のキラキラパウワーで変身だ! 拡張幻想世界だけじゃなく、現実世界でもカッコイイ武具やアイテム、魔法やスキルが使えるぞ! さあ、今日からキミも拡張者(エクステンダー)だ!」

 玩具のCMみたいな説明をし終わったノーフェイスは、敬礼でもするように腕につけたエクスフォンを胸の前に掲げた。

「質問です」

 八雲が手を上げると、すぐさまノーフェイスが指を差してきた。

「はい、前の席の方どうぞ」

「あなたの話し方からすると、そのエクステンダーというのは、ぼくたち以外にも多数存在しているようですが?」

 ノーフェイスの言い方に影響され、なぜか記者会見風の質問になってしまった。

「イグザクトリー。ボクも君たちも大きなゲームに参加してるプレイヤーの一人だよ。ちなみに外でエクステンドしてると、エクステンダー同士なら恥ずかしい姿が分かっちゃうからね。そうじゃなくても、XFWのカメラを通して見られるとエクステンド姿がバレるから気をつけて。コスプレ会場ならそんな心配もないので、コミケとかおすすめだよ」

「その裏アプリをあなたは、どうやって手に入れたんですか?」

「貰った。正確には偶然この世界に入った時に、インストールされた。君たちもそうだろ?」

 八雲は答える代わりに頷いた。

「それであなたはここで何をしてるんですか?」

「おっと、意外とタフネゴシエーターだね。まあいいや、このまま話し合いといこう。とりあえず、なりすましの事は謝るよ。ごめんごめん。ん~、簡単に言うと色々と行き違いがあると思うんだ。言葉では足りない、行動ではやり過ぎるって経験、キミにもあるでしょ?」

「う、うん……」

 釈然としないけれど、ノーフェイスの言っていることが八雲には痛いほど分かってしまった。そんな八雲を如月さんがキッと睨みつける。

「ちょっと、大神くん! なに納得して許したみたいになってんの! こいつ悪い奴なんだから!」

「ボクが……悪い奴? 悪者、そうか悪者だったのか!」

 まるで自分の名前を思い出したかのように、ノーフェイスは手をポンと打った。

「はっ? なにふざけて誤魔化そうとしてんの? あんたにどんな事情があって、どんな人間だか知らないけど、あたしを超ムカつかせる悪者ってことに変わりないから」

 如月さんに徹底的に嫌われたノーフェイスだったが、まるで気にしていないか、むしろこの状況を楽しんでいるかのように虚ろな口を歪めた。

「一ついいかな? 悪者よりヴィランって呼ばれたいんだけど。その方がアメコミっぽくてカッコイイでしょ?」

「もうなんだっていいからっ! まともに話す気がないなら黙って智代を開放して! 拒否するって言うなら、覚悟しなさいよ」

 戯言には付き合いきれないと、如月さんは剣先をノーフェイスに向けた。

「彼女の意志で――」

「そんなわけないじゃん! どう考えたって智代の様子、おかしいもん!」

 一も二もなく如月さんは否定した。放たれた敵意は豹や虎が縄張りを侵した者に向けるそれだった。八雲なら反射的に謝ってしまいそうな迫力を前にしても、ノーフェイスのいい加減な態度は変わらない。

「……ま、そうなるよね。うんうん、分かった分かった。ボク、悪役(ヴィラン)だもん。悪いこと、だ~い好き! 女子供だって容赦しないよ~」

 ノーフェイスは親しげに葛西さんの肩に手を回すと、その頬をプニッと引っ張った。そんな扱いをされても葛西さんは嫌がるどころか眉一つ動かさなかった。他人の心を推し量るのが苦手な八雲が見ても、少し変だと分かった。

「汚い手で智代に触れないでっ!」

 挑発に耐え切れなくなった如月さんが、とうとうノーフェイスに斬りかかった。さすがに当てる気は無かったようだけれど、ノーフェイスは葛西さんを引っ張り大げさに避けてみせた。

「おっと危ない危ない。ほら、お友達も悲しんでるよー」

 ノーフェイスは葛西さんの背後にまわりこむと、両側の目尻に人差し指を当てクイッと下げてみせた。葛西さんを盾にされ、如月さんが剣の向けどころを失ってしまう。

「智代になにをしたのっ!」

「人間にもテイム系が効くかの実験さ。簡単に言うと洗脳だよ。色々と試させてもらったよ、色々と楽しいことをね」

「この変態っ!」

 如月さんはノーフェイスに掴みかかろうとするが、ひらりと躱されてしまう。さすがに葛西さんを抱えてというわけにはいかないようで、それ以上の悪戯は阻止することができた。

「智代、目を覚まして!」

 如月さんは葛西さんの肩を掴み、真正面から言葉をかける。しかし、葛西さんの虚ろな瞳に反応はない。

「洗脳って、どうせ変な魔法でしょ! 早く解きなさいよ、《魔迅剣》!」

 振りぬいた剣先から斬撃の波動がノーフェイスに向かって飛ぶ。ノーフェイスはその場でぴょんと飛び上がると、棒高跳びのようにその波動を躱した。

「危ないな~。この世界で死んだら、本当に死んじゃうって分かってる? 殺人だよ、殺人。おー怖い」

 ノーフェイスは自分で自分の首を絞めて戯けてみせた。

「その汚い手を切り落とすぐらいの覚悟ならあるんだからね!」

 啖呵を切った如月さんは剣を構えノーフェイスに駆け寄って行く。接近戦でないと攻撃が当たらないと判断したようだ。

「色々したって言っても、システム的なテストだけだよ。女の子に酷いことする趣味なんてないよ。ボクは紳士だからね」

 如月さんに追い掛け回されながら、ノーフェイスは燕尾服の襟をピッと直してみせた。

「おっ、おちょくってぇええ! もう、こいつどうにかするの手伝ってよ、大神くん!」

「え、あ、うん……」

 言われるままに八雲もノーフェイスを追いかけたが、捕まえるどころか指の先すら届かない。それならとふた手に別れて挟み撃ちにしようとしたけれど、掴みかかった八雲の脇をひらりと躱してまた追いかけっこに戻ってしまった。

 素早さのパラメーターに絶対的な差があるとしか思えなかった。こうなったら移動速度アップの魔法を使うしかないと、八雲が装備を変えようとした時だ。追いかけっこに飽きたのかノーフェイスが足を止めた。

「ハハハッ、ダメダメ。全然届かない。素早さが足りてないよ! もっとレベルアップを頑張らないと、こんな攻撃一発でやられちゃうよ。それ《ヘル・メリーゴーランド》だ!」

 いつの間にか茨の鞭を装備していたノーフェイスがスキルを発動。振り回した茨の鞭が高速回転する赤い風車となって、ノーフェイスを中心とした円形範囲内にいた八雲と如月さんを襲った。

「キャッ!」「うわっ!」

 猛烈な大旋風に巻き込まれた岩の礫が、何度も何度もぶつかって来るような痛みだった。如月さんは回転方向に対して盾をつき出して耐えていたが、装備の劣る八雲は衝撃に耐え切れず吹き飛ばされてしまった。茨の鞭の嵐の中を散々に転げまわり、身につけていた服が破れ、胸当ても酷く破損してしまった。当然、体中が細かい傷だらけで、青タンが何箇所もできている。さらに転げまわったせいで、頭もくらくらしていた。

「お、そっちの戦士ちゃんは頑張るね。じゃあ、智代さん、あいつを叩きのめしてあげて」

 ノーフェイスは嵐を耐え切った如月さんを、指の拳銃で狙い定めた。その動きに合わせ葛西さんも杖を突き出し魔法陣を展開した。

「《ブラックボム》」

 バランスボールぐらいある黒い炎の塊が、如月さんの突き出した杖の先から発射される。

「《マジックガード》!」

 迫っていた炎を躱せないと判断した如月さんは、スキルを発動し盾を身体の前に構えた。革の盾が蒼白い光に包まれ、その周囲に盾の面積を三倍する光のシールドが広がった。移動不可できない代わりに、魔法防御力をアップする盾のスキルだ。ゴブリンシャーマンの魔法対策にセットしていたのを、如月さんがとっさに発動したのだった。

「智代っ!!!」

 構えた光のシールドに闇の火球が激突、如月さんの叫びを爆裂音がかき消した。砕け散った光の破片と共に、如月さんが吹き飛ばされる。どれほどのダメージだったのか、鎧や盾をぼろぼろに焦がした如月さん受け身すらとれずに地面を転がった。

「如月さん!」

 駆け寄ろうとする八雲の前にノーフェイスが立ちふさがる。

「おっと、仲間が倒れたからって油断はいけないよ」

 ヒュッという鋭い音を鳴らし伸びた茨の鞭が、握りの甘くなっていた八雲の剣を絡めとる。徒手空拳になった八雲はとっさに地面に手を伸ばし、落ちていた杖に手を伸ばした。

「《イクイップ》!」

 拾い上げたゴブリンの杖を即装備する。この杖に付いている魔法は分かっていた。魔法ならスキルパネルに登録していなくても発動できる。八雲は指先で紋様を描きながら、念の為に発声でも呪文を宣言した。

「《グレイブ》!」

 思った通り、発動成功の魔法陣エフェクトが出現し、その中央から円錐状の石が現れ、ノーフェイスに向かって放たれた。

「やるね。でも、その行動は分かってただよね。《リフレクト・ストーン》」

 ノーフェイスの正面に鏡のような魔法陣が出現する。石の礫はその魔法陣に触れると、湖に落ちた石のように波紋を走らせ吸い込まれてしまった。

(アンチ・マジック!)

 動揺が八雲の対応を遅らせた。

「そらお返しだよ」

 魔法陣の表面が揺らめき、吸収された礫がそっくりそのまま八雲めがけて戻ってきた。大きく横に飛んで避けようとするが、射出系魔法特有の若干の誘導が働き2つの礫が八雲の左肩と胸を直撃した。

「うっ、うぐっ……げほっ……うぅ……うえぇ……」

 なんとか踏みとどまった八雲だったが、筋肉に礫が食い込んだ痛みと鳩尾を痛打された苦しさに唾を垂らして喘いだ。

(あいつ、スペルブレイカーだ……)

 あまた存在するXFWの職業の中でも、非常にトリッキーで扱いづらい職業だ。固有魔法である各種アンチマジックを備えている。属性を打ち消したり、反射したりと、非常に強力な魔法だがもちろん弱点もある。詠唱が若干遅いことと、発動した以外の全属性の防御値が激減することだ。とはいえ、1対1の対人戦ならば最強クラスの職業であることは間違いない。

「おいおい、勇者オルカムってのはそんなものかい? 大神八雲くん♪」

 ノーフェイスは世間話でもするかのようにその言葉を発し、八雲の心の奥底を貫いた。

「はぁ、はぁ……な、何で知ってるの……うっ……げほっ……」

 猛吹雪の中に投げ出されたように全身の毛が逆立ち、鳩尾の痛みだけではない息苦しさに襲われた。空気を求め口をパクパクと動かすけれど、肺が上手く酸素を取り込めていないような、そんな恐怖じみた苦しさだった。

「ボクは悪役(ヴィラン)だからね、なんでも訳知り顔で語っちゃうよ! 真実を知りたかったら、ボクを倒さないと、キミは勇者なんだからね!」

 ノーフェイスが試すように言って、右手に握る茨の鞭を振るう。そんなスキルでも何でもない通常攻撃だが、動揺した八雲は反応することができなかった。

「大神くん、あぶない!」

 身を投げだした如月さんの右腕に茨の鞭が絡みつく。無数の棘が如月さんの肌を突き刺し、血が流れるが如月さんは歯を食いしばって悲鳴を耐えた。

「こっんな、痛みなんてぇえっ!」

 如月さんは自ら鞭を握り、ノーフェイスを手繰り寄せようとした。

「根性あるねー。いたぶる趣味はないんだけど、しょうがないよね、《エレクトリックサンダー》」

 そう言って、ノーフェイスはバスの降車ボタンを押すようにスキルを発動した。茨の鞭からスタンガンのように放電が起こり、電撃が如月さんを襲った。

「ヒィッ! やぁああああああああああああっ!」

 その悲鳴が八雲の心を縛る古びた鎖を断ち切った。

「やめろぉおおおおおおお!!」

 エクスフォンを操作して装備を変更。握ったレイピアで如月さんを苦しめる茨の鞭を断ち切った。

 気絶したのか如月さんはその場に倒れこむ。大丈夫だと信じて、八雲はノーフェイスに向かって踏み込み、細身の刃で斬りつけた。

「おっと、あぶないあぶない」

 大きく後ろに飛び退るノーフェイスを、八雲は返す刃で追いかけた。

「《千枚通し》!」

 レイピアから伸びた光の刃がノーフェイスの腹を捉えた。しかし、何かに阻まれる手応えがあった。僅か先端は刺さったけれど、それ以上のダメージには至らなかった。

「さすがプレイヤースキルは高いね。でも所詮は貧弱なパンプキンナイトだ。ぜんぜんまったく効かないよ」

 余裕の面持ちでノーフェイスは自らのエクスフォンに触れ、武器セットを変更した。切断された鞭が光の粒となりエクスフォンに戻っていき、代わりに手にしたのは波打つ刃を持つ赤く禍々しい片手剣ブラッドソードだ。攻撃力は低いが厄介なスキルをいくつか持っている武器だ。

(だったら、スキルを使わせなければっ!)

 八雲は畳み掛けるように突きを繰り出すが、ノーフェイスの軽いステップで躱される。しかし、確実に距離は詰まっていた。

「《千枚通し》!」

 通常攻撃をキャンセルするようにして、八雲は最後の突きからさらにスキルで射程を伸ばす。重心が後ろになっていたノーフェイスが、背中から反るように倒れ――。

「なんてね、当たら当たらない!」

 くるっとバク転しながら、ブラッドソードを跳ね上げた。しかし、八雲の攻撃も二段構えだった。左手に装備していたタリスマンを突き出し呪文を発動する。

「《スロウ》!」

 相手の行動速度を一時的に下げる魔法だ。時魔法のタリスマンに標準付与されているもう一つの魔法だった。巨大なシャボン玉のような透明の泡がノーフェイスに向かって飛んで行く。

「実に惜しいね、《レジスト》!」

 タリスマンを見られていたのだろうか、ノーフェイスは弱体化(デバフ)打ち消しの固有魔法を唱えた。しかし、発動までは僅かな時間差があった。

(いける!)

 八雲は踏み込みの勢いのまま、右手のレイピアを振り下ろす。しかし、ノーフェイスの左肩が動いていた。背後から振りぬいた左手には、ダガーが握られていた。

「《パリィ》だよ」

 あと少しでノーフェイスに届くはずだったレイピアが、ダガーに弾かれてしまう。

「残念、二刀流でした!」

 ノーフェイスがハズレくじでも読み上げるように言った。八雲はそれでも諦めず、引き戻したレイピアを突き出しスキルを使おうとした。

「千枚通しィッ! あっ……」

 しかし、スキルは発動しなかった。MPが尽きていたのだ。致命的な隙を晒してしまった八雲の懐にノーフェイスが飛び込む。

「さあ、お楽しみタイム」

 不吉な赤色の刃が八雲の腹を貫いた。

「あぁっ! ひぃっ、イィイッ!」

 体験したことのない激痛に、八雲は情けなく裏返った声でうめいた。皮膚を貫かれ筋繊維が無理やり断裂される。生命の危機に直結する痛みだと、本能が理解した。理解して、反撃しなくてはと分かっているけれど、痛みのショックで身体の動かし方を忘れてしまっていた。

「さあ、お楽しみの食事タイムだ。《ブラッド・ドレイン》発動っ!」

 子供がゲーム機のスイッチでも入れるように、ノーフェイスは喜々としてスキルを発動した。

 腹に刺さった刃がドクンと脈動し、内臓をかき回し貪るように血を吸い始めたのだ。とどまっていた痛みが開放されるように、八雲の全身が痙攣を始めた。

「アァアアアアアアアアアアアアアア!!!」

 限界を越えた痛みに人はただ、叫ぶことしかできないと八雲は知った。

「サイッコーに気持ちいいでしょッ! ねえッ! ねえッ! 答えてよ大神くんっ!」

 被った袋が触れるぐらいノーフェイスは顔を近づけて尋ねてきた。何も書いてないはずの顔面に、歓喜が浮かんでいるのがはっきりと分かった。

「アアア、アァア、ア、あぁ……あぁああ……」

 八雲の身体から急速に力が抜けていった。すでにレイピアは地面に落とし、手首からチェーンで繋がったタリスマンがゆらゆらと揺れていた。

「おっとっと、少し興奮しすぎたかな。いくら勇者でも、やり過ぎたら死んじゃうよね」

 急に冷静さを取り戻したノーフェイスは、八雲の腹からずぶりと剣を引きぬいた。傷口からは一滴の血も垂れず、むしろ皮膚が乾燥したようにボロボロになっていた。

「あ……ぁ……」

 支えを失った八雲はそのまま地面に崩折れた。全身の力は抜け、少しでも気が緩めば意識さえも持って行かれそうになっていた。

 すぐ横にノーフェイスは屈みこむと、八雲のエクスフォンを弄りだした。

「うんうん、初心者にしては頑張りました! でも、僕はもっともっと楽しみたいんだよね。だからさ、すこしレベルアップしてきてよ。それからもう一度、たのしく遊ぼうよ」

 エクスフォンを操作し終わったノーフェイスは、緑の液体が詰められた大型のポーション瓶を2つ八雲の横に置いた。体力が全回復する高級傷薬だとすぐに分かった。

「じゃあね~、僕は最高に楽しい舞台を用意しておくよ!」

 立ち上がったノーフェイスは、葛西さんを従えポータルを潜っていく。八雲はポーションに手を伸ばしながら、その後姿を見送ることしか出来なかった。




(大神くん、ちゃんと家に帰れたかな)

 自室に戻ったことでようやく心の余裕を取り戻した芹佳は、急に大神くんのことが心配になってしまった。月濱駅で別れた時、彼は酷く憔悴した顔をしていた。

(何も教えてくれなかったけど、あたしが気絶している間に、ノーフェイスの奴と何かあったんだよね……)

 芹佳が気絶から目を覚ますと、智代もノーフェイスも姿を消していた。二人の後を追おうとポータルの外に出ると、そこは月濱駅地下の噴水広場だった。

 突然その場に現れたのに、周りの人間は気にもとめなかった。それこそ魔法のような力が働いているのだろう。もう驚くほどのことではない。

 もちろん付近に智代やノーフェイスらしき人物もいなかった。すぐに智代に電話をかけてみたけれど繋がらなかった。メールも送ったけれど、返事は未だにない。

 ポータルを出た時点で、夜の九時をまわっていた。あの拡張幻想世界とかいう場所で過ごした体感時間は、そのまま現実世界でも流れているみたいだと、大神くんが言っていた。

 夜も遅くなっていたし、何より二人とも疲れていた。それでも芹佳はまだ話したいことがあったのだけれど、大神くんの調子がひどく悪そうだったので、家に帰ることにした。

(夢みたいなことだったけど、夢じゃないんだよね)

 エクスフォンのホーム画面には、見慣れないXを中心としたデザインのアイコンが一つ追加されていた。さっき試しに起動してみたら、あの世界で使っていたのと同じ画面が表示された。怖くてすぐにホームボタンを押して閉じてしまったけれど、ノーフェイスが裏アプリと呼んでいたものだ。

(大神くんなら、なにか分かるかな?)

 今日、何度も何度も大神くんに助けてもらった。彼がいなかったら、自分一人ではいまこうして家に帰ってなんて来れなかった。XFWについてほとんど何も知らない自分なんて、足手まといだったに違いない。大神くん一人の方がもっと色々と上手くやれたのだろうと思う。だけれど、大神くんは見捨てないで最後まで助けてくれた。いくら感謝してもしたりない。

(あ、そういえばこっちに戻ってきてから、お礼言ってなかった。明日、ちゃんと言わなきゃ。っていうか、アドレスぐらい交換しておけば良かった。そうすれば、家に帰れたかぐらい気軽に聞けたのに……)

 あんな大冒険の後だから気が回らなかったのはもちろんあるけれど、なんとなく大神くんはそういう話が嫌なのかと思った。芹佳自身はモデルの仕事先や学校はもちろん、街中でナンパされたりと、アドレス交換をして欲しいって良く頼まれる。もちろんほとんど断っている。いざこうして自分から相手の連絡先を欲しいとなると、どうして良いのか分からなかった。

(ちょっと恥ずかしい……かも……)

 高校に入学してすぐに彼が小学生の同級生、大神八雲だと分かった。身長が少し伸びて、顔とかは多少大人っぽくなっているけれど、見間違えるはずなんてなかった。

(だって、こっそりバレンタインデーのチョコレートあげたんだもん。忘れるわけないよ)

 あの頃、引っ込み思案だった芹佳は名前も書かずに大神くんの机にチョコレートを忍ばせた。それを見つけた彼が、誰にもバレないようにこっそりと自分の鞄にしまっているのを見て、それだけで満足した。だから、あのチョコレートの事を知っているのは自分だけだった。

 高校生になった大神くんは、見た目以上に雰囲気が変わっていた。小学校の頃は友達と一緒に遊んでいることが多かったのに、高校の教室にいる彼はいつも一人だった。いつも一人で静かに授業を受けていた。

(でも、やっぱり大神くんは大神くんだったね)

 半日一緒にいて分かった。少し控えめな所はあるけれど、いざという時の決断力も行動力。そしてなにより、優しくて面倒見が良い所。芹佳が覚えている大神くんのままだった。

(それなのに、どうしていつも一人でいるの? なんか変だよ。小学校の頃の話ふったら、ちょっと避けられたっぽいし……)

 小学6年生で芹佳が転校してから、卒業までの間になにかあったのだろうか。

(そういえば、ノーフェイスもなんでか大神くんの事を知ってたっぽいよね……オルカムの勇者だっけ? そんなようなこと言ってたけど、どういう意味なのかな?)

 ものは試しと『勇者オルカム』でネット検索してみると、意外と簡単に見つかった。一番上に出て来たページを開くと、ネットゲームの用語wikiだった。


『勇者オルカム(人物)

 サービス後期にランキングトップに君臨し続けた廃人プレイヤー。全ジョブをカンストさせ、8つの神器を揃えたと言われる。チーターとしてBANされなかったことから、ゲームを盛り上げるために開発スタッフが仕込んだ実質的なNPCではないかと噂もある。ただ一人、超難関クエスト【世界の真実】を攻略したとされることも、スタッフ説を裏付ける証拠とみなされている』


(大神くんがゲームの開発スタッフ?)

 起業する天才小学生みたいのはニュースで見たことがあるけれど、あの大神くんがそうとは思えなかった。

 リンクを遡るとサービスの提供が終了したネットゲームのページだと分かった。

 ゲームの名前は『エターナルクエスト』。かなり人気があったようで、wikiの項目は膨大な量になっていた。最新の更新日からも、いまだに記事を書いている人がいることが分かった。

 勇者オルカムの項目の編集履歴を覗いてみると、何度も書き直した形跡がある。どうやら勇者オルカムの正体については論争になっているようだ。軽く流し読みしてみたけれど、芹佳が求めているような情報はなさそうだった。

 今度は『エターナルクエスト』で検索をかけてみた。ウィキペディアの項目が引っかかったので、ちょうど良いとそれを開いた。

 書かれている内容はゲームの基本的な説明だった。ジャンルや対応するエクスフォンのヴァージョン、開発元や関わった主要スタッフのの名前。もちろんその中に大神くんの名前はない。

 つらつらと下へ読み進めていくけれど、ゲームの概要や世界観、リリース後に追加されたコンテンツ一覧など芹佳にはあまり興味のない話ばかりだった。

 ページも最後の方になった所で一つの項目が芹佳の目に止まった。


『ラスト・デイ・ショック

 2041年10月7日、エターナルクエストをプレイ中の日本人ユーザー1361人が同時多発的に意識障害を起こした事件。直後に稼働サーバー群が一斉に停止し、全てのデータが消失したことから、クラッカーによるサイバーテロではないかと調査されたが原因は今に至るまで不明。運営のAG社はデータの復旧は不可能だと判断、惜しまれつつもエターナルクエストはサービスを終了した』


(あたしが転校した後だ……もしかして、これに大神くんが巻き込まれたの?)

 『ラスト・デイショック』についても検索してみたけれど、具体的な被害者の名前はほとんど出てこなかった。1361人もいるし、当時小学生となれば当然のことだろう。

(これって6年生の頃の友達に聞いてみるしかないよね)

 芹佳はエクスフォンを操作して、アドレス帳を呼び出すと何年も連絡をとっていない元クラスメイトの名前を探した。

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