THE NIGHTMARE BEFORE VICTORY

~1~


 グレイが飛び去るのを見届け、クロムとレインは夢の住人たちと戦い始めた。三人の記憶を元に創り出された夢の世界は現実に忠実で、デパート内は夥しい数の客で埋め尽くされている。その全てが敵だ。

 銃やゴルフクラブ、果てはボウリング球などで武装した夢の住人たちは、一斉に二人の元へ押し寄せた。クロムはモノを連射し、レインはニアから多彩な魔法を放って、ジャムダが模倣した一般人を撃退していく。

 だが、いくらクロムとレインに実力があろうとも、圧倒的な物量差は否めない。質と量、どちらが優るかという恒久的疑問に対する解答は一概に導き出せないが、クロムたちはものの数分で夢の住人たちに取り囲まれてしまった。

 二人は背中合わせになり、視界のほとんどを占拠した夢の住人を蹴散らしていく。弾丸が、火炎が、心魂が、烈風が続々と放たれ、個々の戦力で劣る夢の住人たちは瞬く間に倒れていった。

 しかし、いくら倒しても夢の住人たちの総数は減らない。むしろ倒した数以上の人の模倣が加わり、包囲網を拡大していく。

 互いの背中を守り合う陣形は、徐々に維持が困難となり、次第に二人の距離は離れていった。


「レイン!」


 クロムはレインと合流しようと躍起になったが、夢の住人の軍勢によって阻まれていた。レインも自分の身を守るので精一杯らしく、クロムの声は届いていないようだった。

 雪崩のように夢の住人が押し寄せてくる。クロムは奥歯を噛み締め、頻繁にレインを振り返った。だが、まるで人の波に流されるように、やがて彼女が視界に入らない場所まで追いやられてしまった。

 クロムは、この窮地を打破する作戦として、本屋での籠城戦を思いついた。このまま、あの場所で戦い続けてもキリがない。レインとの距離が空いた今なら、いっそ別離して敵も分散させた方が効率がいい。二人で二万人を相手取るより、一人一万人ずつ相手取る方がマシなのだ。

 レインを一人にするのは心配だが、今は一人一人が自分の身の安全を確保することが、結果的に全員の生存に帰結する。

 苦渋の決断ではあったが、心配するよりレインを信じる気持ちの方が強いクロムだった――グレイも、信頼するが故に自分たち二人を残したのだろうから。

 クロムは近くの書店へ駆け込み、最奥の本棚に身を潜めた。幸い、中に予め人はいなかった。敵は銃も携帯している。遮蔽物のない、開けた場所で戦うのは得策ではない。レインも、遠からず遮蔽物の充実した場所へ逃げ込むだろう。

 クロムは息を殺した。何十人もの夢の住人が入ってくる足音が聞こえる。この場で一気に数を減らせば、事が簡単になる。

 ジャムダの操り人形と言えど一定の知能は有しているらしく、音を聞くと、夢の住人がクロムと同様、そこかしこに隠れたのが分かった。


「……よし」


 いつまでも同じ場所にいるつもりは毛頭ない。場が静寂に包まれると、クロムは魂を弾丸とした一発をモノから放った。鋭い銃声が轟くと、夢の住人たちが一斉に動き出した。クロムもまた、銃を撃った場所から音を立てぬよう移動した。

 そこら中で足音が聞こえる。クロムにとっては、夢の住人が自らの居場所を知らせているのと同義だった。クロムは近い一人の足音に狙いをつけ、集中して聞く。動作、傾向、警戒の度合い――足音から推察可能な観点を総合し、攻撃のタイミングを窺う。

 クロムは音を立てずに走った。夢の住人は本棚から顔を出し、もう無人となった最奥の本棚の様子を探っている。しかし、もう手遅れだ。クロムは夢の住人の背後を取ると、その後頭部に魂の弾丸を撃ち込んだ。銃声が鳴り、夢の住人は倒れて動かなくなった。

 すると、再び夢の住人たちの慌ただしい足音が、書店の至るところから聞こえ始める。これがクロムの策略である。

 銃声を囮に夢の住人が移動するよう誘い出し、足音を頼りに各個撃破、その際の銃声を更に囮とし、この一連の手順を延々と繰り返していく。

 夢の住人がジャムダの操り人形に過ぎないのであれば、自分とレインを始末するという単純明快な目的に則る行動をするはずだ。であれば、陽動作戦に対策を立てるまでの知能は有していないはずなのである。

 クロムは次の標的を選別し、最も近い一人に狙いをつけた。隠密に移動し、敵の動向を把握し、そして本棚から身を乗り出したその時に、背後から一撃で仕留める。さながら暗殺者アサシンめいた手際である――もっとも真の暗殺者であるなら、そもそも音を立ててはならないのだが。

 しかし、今回は銃声を発することこそ鍵だった。全ては順調だ。クロムは着実に夢の住人たちを倒していった。クロムも確かな手応えを感じた。戦術は間違っていない。この調子なら早くにレインと合流できるだろう。

 ところが、異変はクロムが十数人目の夢の住人を倒した辺りから起こった。クロムは手はず通り夢の住人に弾丸を撃ち、次いでバラバラな足音が聞こえてくるであろうことを想定し、別の場所への移動を開始した。

 だが、足音はしなかった。無音を心がけ移動していたクロムも、異様な静寂の中で走る自分の足音が、妙に大きく聞こえた。


「なんだ!?」


 クロムは慌てて近くの本棚に隠れた。身を潜めようと前もって定めた本棚とは違ったが、そんなことを気にしている場合ではなくなった。

 何かがおかしい。先ほどまでとは違う。クロムは自分の息する音さえ大きく聞こえ、苦しくなるまで呼吸を止めた。

 静かだ。恐ろしいほどの静寂。クロムは悟った。気づかれたのだ。銃声を囮として状況を操っている。夢の住人たちはクロムの作戦を見抜き、対策を立てたのだ。

 しまった。読み間違えた。クロムの額に汗が滲んだ。甘く見ていた。夢の住人の知能は予想以上なのだ。敵の作戦を推測し、それに対抗するだけの知能を有している。銃声を用いた陽動作戦は、もう使えない。

 クロムは焦った。となると、最後の銃声は夢の住人からすれば、クロムが自ら位置を知らせたようなもの――立場が逆転したのだ。おおよその位置は既に知られてしまっている。しかし、この静寂の中で動けばたちどころにバレてしまうだろう。

 クロムは考えた。どうすればいい。この状況を打開する策は。何か……。

 すると突如、なんの合図も前触れもなしに、一斉に四方八方から銃声が鳴り響いた。クロムは咄嗟に屈んだ。先ほど夢の住人を倒した辺りが集中砲火され、本棚は無惨に破壊されていく。クロムが隠れる本棚にも、何発か流れ弾が直撃した。

 ピタリと銃声が止み、次いでガシャガシャと金属音が無数に聞こえた。クロムはそれがリロード装填の音だとすぐに分かった。その音に紛れ、クロムは一先ず今しがた集中砲火された本棚より数メートル離れた。別の本棚に飛び込み、夢の住人たちの動向を探る。

 していると、今度は隣の本棚が一斉に射撃された。その弾幕はクロムの方へ近づいた。夢の住人たちは、シラミ潰しに目星をつけた場所を攻め込もうとしているのだ。一見、苦し紛れの自棄やけっぱちと思われるが、これはクロムには手痛い戦法だ。

 銃弾は周囲から、鼠一匹割り込む隙間もなく張り巡らされている。クロムが今いる場所の周辺は完全に包囲されていると見ていい。そして、その包囲網は厳重のようだ。逃走は不可能に等しいだろう。かといって、このまま何もしなければ追い込まれ、やがては蜂の巣にされてしまう。


「くそ……何かないのか……」


 クロムは急場を切り抜ける手段を模索したが、そうしている間にまたも静寂が訪れ、かと思えば銃に次の弾が込められる音がし、また別の本棚が無数の銃口の的となった。

 横殴りの弾丸の雨は、刻一刻とクロムの方へ迫っていた。いよいよクロムにも余裕がなくなってくる。どうすればいい。

 ここで反撃すれば居場所が知られ、ものの数分と保つまい。それにここで銃を撃ったところで、敵の姿が見えない上に、その身体は本棚に隠れている。致命傷すら負わせられないことも考えられる。

 万事休すか――。


「仕方、ないな」


 クロムは眼前の本棚が木っ端微塵になっていく様を見ると、決断した。他に手はない。かなり危険な賭けではあるが、どの道ここでやらなければ、待つのは眠りの中での死だ。

 クロムは策を考えている最中も、ずっと銃弾が飛び交う方向や、銃声がする方向を把握していた。敵もまた、自らの位置を知られまいと動かずにいる。クロムは敵が潜む場所を網羅しているのだ。

 クロムはポケットの弾薬パッケージから一発の弾丸を取り出し、一番近いところに隠れ潜む夢の住人の方へ、忍びやかに転がした。弾丸は巧い具合に本棚の方へ行った。


「頼む……」


 クロムは意識を集中した。彼は、空間魔法を使おうとしているのだ。だが、クロムはまだ空間魔法を完璧に扱いこなせてはいない。銃術学講師からの修得課程を終えていないのだ。

 空間魔法は本来、自分の身体などを別の場所へ意のままに転移する技術である。しかしこれを修得していないクロムは、弾丸の位置と自分の位置とを『交換』することで、擬似的に同様の効果をもたらそうとしているのだ。

 なんの目印もない場所へ――言うなれば『無』へ――自分の存在を割り込ませるより、既存の物体に意識を集中し、その位置と自分の位置を入れ換えることの方が、技術的にかなり容易だ。

 これは最終的に空間魔法を修得するまでに使う、いわば訓練用の応急手段である。だが、失敗すれば空間と空間の狭間で取り残され、永久に出ることは出来ない。空間の転移とは、それほど危険かつ高等な魔法なのだ。

 けれども、今のクロムには他に方法がない。やるしかないのだ。


「……頼む」


 クロムはこれまで学んだ空間魔法の用法を反芻はんすうし、最後に祈るように呟くと、空間魔法を使った。そこには既にクロムの姿はなかった。

 同時にクロムの視界が一転し、眼の前に夢の住人がいた。客観視すると、クロムは弾丸を投げたその瞬間、消えたと同時に現れた――成功したのだ。虚を突かれ硬直する夢の住人の額に、クロムはモノの一発を放った。

 銃声に反応し、夢の住人たちがクロムの方へ銃を乱射する。もはや転がすなど、緩慢な動作では間に合わない。クロムはポケットの中のパッケージを握り潰した。弾丸がポケットの中に無秩序にバラ撒かれ、クロムはその中の一つを掴み取った。

 クロムは手中の弾丸を宙へ投げ、空間魔法を使った。次の瞬間、クロムは宙を舞っていた。視界に入った数人の夢の住人を、片方のモノで撃ち抜いていく。

 クロムはよろめきながらも着地し、再び左手をポケットに突っ込み、弾丸を一発掴む。それを脳内で作成した、敵の配置を表す図に則り、最適な場所へ投げる。空間魔法を使うと、クロムは放られた弾丸の位置へ転移し、眼に映る敵の全てを排除した。

 弾丸を投げ、空間魔法を使い、そして撃つ――決して一ヶ所に長居せず、流れるような目まぐるしい挙動で各所を転々とし、敵に状況を認識させる間も与えず仕留めていく――クロムが今まで見せたことのない、非常にトリッキーな戦法だ。

 現れては消えを繰り返し、夢の住人の包囲網は急速に衰退していった。この場は、もはやクロムが主導権を握る箱庭だった。


「――そうか」


 クロムは連続した動作の中で、敵を蹂躙しながら思い出す。


『学んでおいて損はない』


 空間魔法を絡めた銃撃で、戦闘の幅は格段に広がる――銃術学講師の言だ。今のクロムには、その言葉の意味することが身に沁みて理解できた。


~2~


 レインは大勢の夢の住人に追い詰められていた。背中合わせであったクロムはいつの間にか姿を消している。

 なんとか夢の住人に八方を包囲されるという最悪の状況は免れたものの、眼前には視界を覆い尽くさんばかりの、人、人、人――その全てが倒すべき敵であるという絶望的な事実を、レインは戦うことで頭から振り払っていた。

 商品が陳列されているテーブルに登り、まずは地の利を得るレイン。すると、遠くでクロムが夢の住人にどこかへ追いやられていくのが見えた。クロムと自分が、夢の住人の勢力によって分断されてしまったのだと、レインは気づいた。


「クロム!」


 レインは叫んだが、その前にクロムは店の角へ消えてしまった。彼の姿を懸命に追っている間に、レインの服を弾丸がかすめた。

 敵は銃を持っている。レインはテーブルの上に立つことが、地の利を得るどころか格好の的となってしまうと悟ると、すぐさま降りた。

 しかし、このまま広間で戦い続けても消耗するばかりだ。夢の中の人間はレインたちの元の世界と同様、凄まじい数いる。倒しても倒しても、キリがないのだ。

 レインは考えた。クロムのことは心配だが、今は自分が生き延びることのみに集中するべきなのだ。ここで自分が力尽きれば、クロムは自分を追い詰めている夢の住人の軍団に加え、ここにいる夢の住人たちをも同時に相手取らなければならなくなる。

 おそらくこの戦いは、二人とも生き残るか、二人とも死ぬかのどちらかだ。二人とも生き残るには、まず自分が死んではならない。自分が、生き延びなければならない。

 レインはクロムのことは一切、一時的に頭から追い出し、自分の生存をだけ気にするようにした。クロムを信じることが、戦いの勝利へ通ずる一つの鍵なのだ。

 レインは考えた。生き残るには、どうすればいい。この見晴らしのいい広間にいても、多勢に無勢だ。圧倒的な物量差で、いつかはこの攻防が決壊する。銃弾がいつ身体を貫くかも知れない。

 遮蔽物の充実した、なるたけ入り組んでいる場所へ移動しなければ。レインは戦闘で乱雑になる思考で、必死に該当する場所を探した。

 レインは思いついた――地下駐車場だ。これだけ客がいるなら、あそこは車がたくさん駐車されているだろう。この夢の世界が、自分たちの記憶に忠実なら、駐車場の混み具合が客の数と比例関係にあることも同じはずだ。

 レインは数多の夢の住人に魔法を放ちつつ、後退すると見せかけ、目的の地下駐車場へ向かった。停止したエスカレーターを後ろ向きで降りると、上から夢の住人たちが狭い階段へ雪崩れ込んだ。

 レインは段を踏み外さぬよう注意しながら、上方の敵へ絶え間なく魔法を射った。地下階に降り立ち、エスカレーターが夢の住人たちでいっぱいになったところで、レインはエスカレーターの中腹めがけ、それまで出し惜しんできた全力を、その魔法に乗せた。


「カスタム・ファイア!」


 強力な炎がエスカレーターを焼き払った。夢の住人はたちまち燃え上がり、更にエスカレーターは魔法に破壊され、そこに乗る夢の住人共々落下した。

 レインはエスカレーターに乗れずにいた1階の敵へ魔法を射ちながら、駐車場の方へ飛び出した。


「エコロジー・デビル!」


 レインが駐車場でまず放ったのは、毒の魔法だった。緑の閃光が煙となり、地下駐車場へ散布されていく。これで長期戦となっても、いずれ敵が自滅してくれる。

 すると、中から夥しい数の足音が聞こえてきた。もうこちらへ押し寄せて来るようだ。想定より遥かに早い。レインは慌てはしたが、尚且つ落ち着き払っていた。

 レインは少し離れた場所にバンを見つけ、そのトランクの後ろに隠れた。直後に、夢の住人たちが駐車場のそこら中へ散らばるのが分かった。


「カスタム・ファイア!」


 レインは大きなバンを盾にしながら、同じく車の後ろに隠れる夢の住人へ炎の魔法を放った。車が炎上し、その煙に紛れて夢の住人が逃走を図っているのが見えた。


「ウィンド・ブレード!」


 別の車の方へ走る夢の住人の足元に狙いをつけ、レインは続いて風の魔法を射つ。鋭利な風の刃に踵を切り裂かれ、夢の住人は転倒した。転倒の衝撃で銃を手放した夢の住人は、武器を取り戻そうと無様に這いつくばった。

 その隙を見て、レインは盾の代わりにしていた車から離れ、走り出した。あの炎上している車が爆発するまで、どのくらい猶予があるのか定かでない。更に同じ場所に長く留まるのも得策でないことは、これまで学んだ戦術や実際の経験からも明らかだ。早々に去るに越したことはない。

 すると、レインが移動を開始する瞬間を待っていたのか、レインが車体の影から出てくるのと同時に、乾いた銃声が駐車場に反響した。レインは傍で火花が散るのを見、金属と金属とが衝突する鈍い音を聞いた。通りすがった車のボンネットに、ピンポン玉ほどの弾痕があるのをレインは目撃した。

 銃声は四方から、連続的に発せられた。レインは車と車の間を縫うように走った。車の出入りする通り道に出ると、必然的に遮蔽物の何もない場所を横断しなければならなくなる。その時、レインは敵が発砲するより先に、最速で魔法を放った。


「ホイール・ダッシュ!」


 右から現れた夢の住人に、レインは棘のついた車輪を魔弓から射った。夢の住人は銃を構えこそしたが、引き金を引く間もなく壁へ吹っ飛ばされた。

 だがそうしている内に、レインは左から何発かの弾丸が撃たれる音を聞いた。幸い、彼女には1発も当たらなかった。

 レインはホイール・ダッシュを放つと同時に振り返る。二人の夢の住人が、銃口をレインの上体に向けていた。レインは弓の先を二人の方へ向け、弦を限界まで引き絞ると放した。


「ロック・アート!」


 張力に従って元に戻る弦の音が、何十倍にも増幅された。人間の鼓膜を破るほどの爆音が、地下の駐車場に轟いた。もちろん、使用者のレインに害はない。彼女には増幅された音は、至って普通の音に聞こえた。

 音の魔法は更に夢の住人の三半規管にまでダメージを与え、平衡感覚を狂わせた。夢の住人の狙いは大きく逸れ、二人の銃弾はあらぬ方向へ撃ち込まれた。

 レインは、フラフラとよろめく夢の住人たちの包囲網を抜け、比較的大きいワゴン車の後ろに隠れた。その直後、先ほどまでいた場所の辺りから、爆発音と共に炎が巻き上がり、車が高々と飛び、天井へ激しく打ちつけられた。これで第二陣、第三陣の内、何人かは倒せたはずだ。

 しかし、レインは気づいていた。敵の数は一向に減らず、どころか増すばかりでらちが明かない。クロムとも合流できていない。夢の住人も個々なら難なく倒せるが、先ほどのように一度に複数を相手取る時は、時折危うい局面に立たされる。

 駐車場へ辿り着いた当初は優勢だったが、それも覆されつつある。敵は大勢で、たった一人の自分を狙っている。この半閉鎖的な空間で孤独に魔法を連射していて、夢の住人たちも自分の居場所はおおよそ分かっているだろう。

 証拠に、夢の住人と遭遇する間隔は短くなっている。包囲網が既に自分を追い込む形に完成されつつあるのだ。状況は広間で戦っていた時とほとんど変わらない――力尽きるのは、時間の問題だった。

 心を一抹の諦念が遮った瞬間、それを見計らったかのように、車体の上から突如として夢の住人が飛びかかった。不意を突かれたレインはニアを構えこそしたが、魔法を放てずに弾かれてしまった。重い衝撃が身体にのしかかり、レインは仰向けに倒れた。夢の住人はレインに馬乗りになっていた。

 レインはすかさず、どこかへ弾かれたニアを手元に出現させたが、弦に指をかける前に両腕を抑えられてしまった。


「はっ、放して……!」


 要求が聞き入られるわけもなく、周囲から夢の住人が続々と拘束されたレインに迫った。十余人の夢の住人がレインの身体へ飛びつき、四肢や胴体を過剰なまでに押さえつけた。


「うっ……い、いや!」


 レインは振り解こうと暴れたが、いくら救世主とはいえ一介の女子高生が、十人以上の大人から逃れるなど出来なかった。

 レインはじたばたしていると、頭上の車の屋根に、夢の住人が一人、こちらを見下ろして乗っているのが見えた。四肢や胴体と共に顔まで固定されているので、眼球だけ動かして敵の動向を窺う。

 車上の夢の住人は、何やら右肘に野球で使われる肘当てエルボーガードを装着していた。夢の住人はその強度・硬度を確かめるように、右肘を膝小僧に軽く打ちつけている。

 まさか――レインの脳裏に、甚だ恐ろしい予感が浮かぶ。そして、その予感は的中していた。夢の住人は、今から車上より飛び降り、その付属物により強化・硬化された右肘を、レスラーよろしくレインの顔面に叩きつけようとしているのだ。

 たとえ敵であっても、常人であれば女性に対しては憚って然るべきであろう、許すまじき暴挙である。しかし、倫理や道徳の観念を度外視した容赦ない試みは、ジャムダの傀儡とされてしまったが故に実行可能な、悪鬼による奈落への誘いなのかもしれなかった。

 夢の住人は、恐怖と必死の抵抗で強張った顔をするレインと眼を合わせながら、彼女を虫けらでも見るかのような眼つきで見下し、車の上から跳び上がった。

 車体が軋むと同時に、夢の住人は天井すれすれの高さまで跳躍し、頭と脚とを反転させ、レインの顔面に肘当ての狙いをつけた。重力に従い、夢の住人の体重と高度とが生み出す力が、その右肘の一点に集中する。

 その一撃を顔面に喰らうなど、女性であれば誰もが恐怖し慄いて当然である。レインも、自らの双眸そうぼうから雫が滲み出るのが分かった。

 だがレインは唇をキュッと閉じた。悲鳴をあげてなるものか。弱音を吐いてなるものか。たとえこの一撃を喰らい、人目に見せられない容姿となってしまっても――彼と顔を合わせられなくなってしまっても――決して屈伏しないという断固たる決意の表れである。

 諦観かもしれない。自暴自棄かもしれない。しかし、魂が断じて敗北することのないよう、レインは最後まで戦う信念を絶やさずにいた。

 レインは、痛みに耐えるためにと、その眼さえも固く閉じてしまった……。

 ――その時だった。バンという鋭い発砲音が轟いた。レインは次の瞬間に眼を開けたが、頭上には夢の住人の姿はなかった。次いで、連続して銃声が鳴り響き、レインを拘束する夢の住人の一団が、立て続けに吹っ飛ばされていった。

 自由になったレインは、何よりも先にニアを構え、弦に指をかけて辺りを見回した。視界の端を何かが横切った。小さい、丸みを帯びた円錐形の……それは弾丸だった。

 レインはその行方を反射的に追った。すると突然、何もなかったはずの空間に、パッとクロムが現れた。


「レイン! 大丈夫か!?」

「わっ! クロム!? ど、どうして……今までいなかったのに……」

「博打に出たらこうなった」


 飛び上がらんばかりに驚くレインに、クロムは言葉少なに話した。彼はレインが襲われているところに遭遇したばかりだ。あと少し遅ければ、今頃レインは――クロムも彼女と同様、余裕があるわけではなかった。


「さすがにキツくなってきたからな。そろそろケリをつけないと、俺たち保たないぞ……」

「うん……ねえ、クロム」

「ん?」

「ちょっとだけ時間をちょうだい。詠唱している間、私は無防備になるから援護してほしいの」

「それは構わないけど、何か策があるのか?」

「ちょっとね――」


 何やら含みのあるレインに、クロムは『了解』と言ってモノを構えた。周囲では未だ夢の住人が二人を包囲するのが聞こえる。レインの窮地を救っただけで、状況は根本から何も変わっていないのだ。

 レインはニアの弦を引き、ブツブツと何かを唱え始めた。彼女の周りに光の粒子が現れる。クロムはこの現象を知っていた――召喚魔法だ。クロムは、レインの目論みを理解した。

 となれば、目下の任務はレインを守り抜くことだ。クロムは神経を研ぎ澄ませ、敵の接近・襲来を逃さず感知する態勢となった。

 足音が聞こえ、クロムはその方向へ銃口を向けた。カートを押す夢の住人が、全速力で二人の方へ迫ってきた。すかさず引き金を引き、魂の弾丸を放った。強力な一撃が夢の住人の胸部に当たり、後方へ吹っ飛ばした。

 安堵したのも束の間、クロムは足下に、コツンと固いものが当たる感触を覚えた。見下ろすと、自分の右足に手榴弾が寄り添っていた。安全装置は外れている。


「嘘だろおい!?」


 クロムは咄嗟にポケットをまさぐり、銃弾を1発掴んだ。一瞬で辺りを見渡し、20メートルほど遠くに敵の一団が見える方へそれを投げた。

 小さな銃弾が彼方へ飛び、放物線を描いて降下したのを見ると、クロムは屈んで手榴弾に触れた。今しがた投げた銃弾と、手元の手榴弾に意識を集中させると、次の瞬間、クロムの触れている手榴弾が銃弾に換わった。同時に遠くの方で、コロンコロンと手榴弾が落下する音がした。

 クロムが用いる擬似的な空間魔法は、自分以外のもの同士の位置を交換することも出来るのだ。これが完全な空間魔法に昇華すれば、何も触れず好きなものを好きな場所へ移動・設置することさえ可能となる。空間魔法の真骨頂だ。無論、今のクロムはまだその境地に達していないが――。

 クロムは手榴弾の爆風を懸念し、レインを振り返った。すると、彼女の背後の車両の上に、大きな裁ち鋏を持った夢の住人が立っていた。チョキチョキと小気味良く鳴る音が、レインの命を狙う猟奇性の表れのようだった。


「クソ!」


 クロムは銃を構えたが、間に合わなかった。夢の住人は車上から飛び降り、レインの首筋めがけ裁ち鋏を振り下ろした。

 クロムは発砲したが、そこへ手榴弾の爆発音が轟いた。凄まじい威力の熱風と破片が駐車場に拡散する。クロムの撃った銃弾は、爆風によって狙いが逸れてしまった……。

 クロムは一瞬が止まっているように見えた。弾が外れた瞬間、落下中の夢の住人は空中で停止していた。背筋が凍りそうなほどの寒気を覚えた。

 だが、幸い爆風は夢の住人をも吹き飛ばした。裁ち鋏の刃先がレインの肉体に到達する寸前に、夢の住人は1台後ろの車のボンネットに激突した。

 クロムは後ろを振り向いた。運のいいことに、クロムの背後にはトラックが駐車されていた。これご盾の役割をし、被害が最小限に抑えられたのだ。

 レインも、周囲を車や柱で囲まれた場所で、姿勢を低くしていたのが功を奏し、無傷のようだ。夢の住人は優位に立とうと高度を重視したため、手榴弾の爆発の弊害を一身に受けたようだ。


「クロム!」


 レインが開眼し、クロムに目配せした。詠唱が完了したらしい――レインの召喚魔法が発動するのだ。


「【シヴァ】!」


 レインが極限まで引き絞った弦を放すと、ニアの中央部に青い魔法陣が展開された。魔法陣からは冷気が溢れ、地下駐車場を瞬く間に極寒の地へ変貌させた。車のボディや窓ガラス、天井を支える柱や夢の住人の体表に霜が形成されるが、クロムは体感温度は至って平常だった。

 レインの魔弓から漂う冷気は、空中の一点に集約されていき、やがて人の形を創り出していった。気体が固体となり、無機物が有機物となり、ついに一人の生命体となった。それは美しい女性だ。

 血の気が薄く青白い肌の女性は、氷の世界の中心で悠然と誕生した。既にレインが対象としたもの――即ち彼女とその仲間の敵である夢の住人は皆、一様に生きたまま凍結していた。

 女性は神秘的な雰囲気を醸し、黙っている。そしておもむろに厚い唇を開け、すぅ……と息を吸うと、それを静かに吐いた。

 すると至るところで、パリンと何か割れる音が連続して鳴った。凍りついた夢の住人の肉体が砕けているのだ。

 全ての夢の住人が肉体的破滅を迎えると、自然と駐車場を支配する冷気は消失していった。そしてレインが召喚した神秘的な女性も、初めの白い冷気となり、文字通り雲散霧消した。


「すごい……」


 クロムは独り呟いた。あれだけ大勢いた夢の住人たちが、跡形もなく全滅している。たった一つの魔法によって、だ。


「えへへ……詠唱が長いのがネックだけどね。みんながいないと、発動することも出来ないもん」


 レインはニアを見つめ、照れるような素振りで言った。


「ありがとう、クロム。おかげで助かったよ」

「いや、いいんだ、そんなことは……それより、早いとこグレイと合流しよう。どうにも嫌な予感がする……」

「嫌な予感?」

「ああ……ともかく急ごう」


 レインとクロムは、単独でジャムダを追跡しているグレイを探すため、デパートの外へ向かった。


~3~


 その頃、グレイはジャムダを追跡していた。夢の世界の支配特権を用い、空を飛行するジャムダ。だがその速度は、二刀のヤーグより噴出される炎を使い、同じく飛行するグレイには劣っていた。

 雲の上で、およそ5メートルまで距離を詰めた時、グレイは勝利を予感した。あと僅かに接近し、剣を振るいさえすれば、この戦いは終わるのだ。

 しかし、事はそう容易くなかった。ジャムダは夢の世界を自在に操ることが出来る。ジャムダはその能力を使い、近辺を飛んでいたカラスの群れをけしかけ、グレイを襲わせた。

 黒い狩人の大群が、飛行するグレイに群がった。視界は漆黒に遮られ、鋭いくちばしでヤーグを握る手元をつつかれた。

 グレイは殺生を意味する行いに躊躇ためらったが、やむを得ないと判断すると、ヤーグの炎を瞬間的に飛行から転じて攻撃に使用した。グレイの後ろに真っ直ぐ伸びていた炎の平行線は、暗黒の翼を焼き払う盾と化した。

 瞬く間に燃やされていくカラスたちは、力尽きて落下していった。文字通り黒焦げとなったカラスの大群が地上に叩きつけられることはなく、それらは一定の高度を過ぎると超自然的に分解され、塵となって消えた。


「救世主ぅ! 世界を救うために罪もない生き物を殺すのかぁ!? むごいぜぇ……残虐だぁ! その調子で俺を倒すと宣い、また何かしらを犠牲にしながら任務を遂行していくのかよぉ! 果たして本当の悪はどっちだぁ!?」


 炎に焼かれた黒い翼が舞う中、ジャムダはグレイを振り返って叫んだ。それが最初から用意されていた挑発なのか、あるいは秘策を打ち砕かれた焦燥を隠すための虚勢なのか、グレイにはどちらか知れなかった。

 だが、はっきり分かったことがある。グレイは逆手に持ったヤーグの炎を、再び飛行するための推進力として働かせながら、先のジャムダの一手から確信したことを思った。

 この夢の世界において、生物は本来の価値を持たない。人もカラスも、おそらくは他の如何なる存在も、所詮は記憶を元に造られた模倣――まやかしに過ぎない。

 そこへいくと、グレイは少しでも攻撃を迷った自分を恥じた。何も遠慮なんていらない。懸念など抱く必要はない。自分の知る『世界』は、こことは次元を隔てる別の時空で、今も平穏無事に過ごしている。自分たちが、異なる世界を救うため戦っていることなど露知らず。

 それか分かれば話は簡単だった。行く手を阻む敵は倒す。単純明快な、いつもの任務と同じやり方だ。グレイの心に、もはや曇りはなかった。グレイは炎の出力を上げ、ジャムダとの距離を一気に詰めた。

 ジャムダは恐怖で顔を引きつらせたが、もう手遅れだった。グレイが片方のヤーグを薙ぐと、秘術・【業火】によって強化された刃と、秘技・【炎天】の炎とが同時にジャムダの右足に振り下ろされた。

 ジャムダは身体を回転させてこれを回避し、右足を斬り裂かれることは免れたが、代わりにズボンの裾に炎が燃え移った。その身を生きたまま焼かれる恐怖に怯え、ジャムダは自身の飛行の制御を失い、じたばたもがきながら落下した。

 グレイはヤーグの刀身を上方へ向けた。炎の推進力の方向が変わり、グレイも彼を追って下降していった。頭を下にし、全身を真っ直ぐに伸ばすことで、下降スピードは更に増した。

 尚も追跡を続けるグレイを、ジャムダは憎々しげに睨んだ。かと思えば、遥か下方の地上を脇見すると、何やら不敵に笑んだ。


「忘れたのか!? バカめ! 俺はこの夢の世界の支配者だと言ったはずだぁ! つまり夢の中での俺の権力は絶対的! 物理法則すらも意のままということなんだよぉ!

 あの固いアスファルトとやらに叩きつけられ、臓物を撒き散らすのはお前だけだぁ! 今から俺は『俺にかかる重力をゼロ』にし、且つ『お前にかかる重力を倍増』させる法則を造り出した! 沈めぇ! 救世主ぅ!」


 ジャムダが吠えると、その身体は空中で静止した。一方それを追うグレイは、逆にそれまでの倍以上の速度で落下していき、慌ててヤーグの向きを反転させた。

 上昇しようと炎の出力を上げるが、夢の世界の重力が強力で、徐々にしか高度を稼げない。またグレイの肉体にかかる重力加速度が凄まじく、負担も相当のものとなっていた。


「グフフッ……やはり救世主は地べたを這いつくばっているのがお似合いだぜぇ……そのまま地面に激突し、グチャグチャの肉塊に成り下がるのを、ここで見物させてもらうことにするぜぇ――文字通り高みの見物ってやつだぁ!」


 君臨者の如き佇まいで空中に『立つ』ジャムダ。彼が見下ろす先には、星の力に抵抗するグレイの姿があった。しかし、二本の剣より噴き出す炎のみで、その圧倒的な力を押し戻し、且つ彼の全体重を持ち上げるのは、甚だ困難であった。

 だが、グレイは諦めていなかった。否、むしろ余裕をさえ感じていた。グレイはまだ十二分に余力を残している。修行を経て更なる力を身につけたグレイが、ここで敗北する訳はなかった。

 ヤーグは、炎や熱を操る剣だ。その炎や熱は戦う際、常に攻防に用いられる。グレイは基本的に秘術・【業火】と秘技・【炎天】を使う戦法であり、また通常これらで使用される炎や熱は失われることはない。

 ところが、グレイが前回――修行から帰還して最初の任務に当たった時――放った【インパルス】は、この炎熱を『消費』して発動される。現在ヤーグが消費できる炎熱を100パーセントとして、【インパルス】は30パーセントの炎熱を消費し発動するのだ。

 このように炎熱を消費して戦い、最終的に100パーセント全ての炎熱を使い切った時、ヤーグはオーバーヒート過熱してしまう。そうなった時、グレイは秘術・【業火】や秘技・【炎天】を使うことすらままならなくなってしまう。戦闘能力の著しい減退を招くのだ。

 これは何としても避けなければならない。そのため、これまでグレイは秘術・【業火】と秘技・【炎天】の出力を抑えて戦っていた。

 【業火】と【炎天】で使った炎熱は失われないが、使っている最中は消費されているのと同義だ。闇雲に使えば、下手をするとオーバーヒートを早めかねない。それ故の対策だった。

 しかし、今の出力では、とても重力に抗い切れない。押し負けて落下することはないが、代わりに上昇することもない。加えてジャムダに嘲笑われるままの状況が続くとなると、グレイには選択の余地がないように思えた。

 灰色の刃から突如、より勢いを増した炎が吐き出され、グレイは猛烈に上昇した。


「なっ、なにぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!?」


 ジャムダは、星の力に逆らい迫ってくるグレイに畏怖を覚えたのか、臆した様子で飛び去った。グレイはその姿を捉えて離さず、後を追った。


「クソッ! クソクソクソクソッ、クソオオオオオオオオオオオオ!」


 やがて、ジャムダが緩やかに姿勢を傾け、下降する態勢となった。どこかへ向かっているようだ。追跡を続けていると、グレイは雲を突き抜け、地上の町が見える高度まで下がった。その時、グレイは背筋が凍るのを感じた。

 グレイとジャムダが飛んでいるのは、グレイの元いた町の上空だ。それはデパートからここまで来た道程で分かっていたが――ジャムダが下降する先には、グレイとクロムの高校があった。


「あいつ、まさか……」


 グレイは予感が正しいと思った。ジャムダは高校へ乗り込み、グレイの知人を盾にするつもりだ。そんな冒涜行為はさせまいと、グレイは更に炎の出力を上げ、ジャムダに接近した。

 それを察知したジャムダは、懐から薬品の入った瓶を取り出し、グレイに投げつけた。グレイはそれを避けたが、薬品はグレイのすぐ後ろで爆発した。瓶の中身は引火性の強い薬品であった。ヤーグの炎熱に反応したのだ。

 爆風であらぬ方向へ吹き飛ばされるグレイ。すぐに態勢を立て直してジャムダを見つけたが、距離はかなり離されていた。


「間に合え……!」


 グレイはジャムダが飛ぶ高校の方へ突っ込んでいった。その様相はもはや飛行ではなく落下の域に達している。グレイは姿勢の制御を度外視し、ただ加速のみを重視して炎を噴出していた。

 遥か遠方の山々と同等の高さまで来た。ジャムダはまだまだ先だ。高層ビルの屋上を過ぎ、遊園地の観覧車の頂上を過ぎ、デパートの屋上を過ぎ――。

 ジャムダが窓から校舎へ侵入を図った、その時。グレイはついにジャムダに追いついた。落下の勢いのまま体当たりし、ジャムダもろとも窓を突っ切って校舎の壁に激突した。

 廊下に伏したジャムダは、手元に転がるガラス片を握り、グレイに襲いかかった。グレイは鋭利な先端をかわし、左の拳でジャムダの肘を殴った。ジャムダが激痛に呻く。当たった感触からして、骨を折ったようだ。

 次の瞬間、グレイは攻勢に出たジャムダの蹴りを腹に喰らい、尻餅をついた。その隙にジャムダは助走をつけ、廊下を低空飛行して逃げた。


「……待て!」


 ジャムダの逃げる方向は、やはりグレイが想定した最悪のケースの通りだ。グレイは即座にヤーグの刃から炎を発し、床を蹴って飛び立った。

 角を曲がると、逃走するジャムダの姿が見えた。そう遠くはない。グレイは両側の壁を交互に蹴ることで、自らの飛行速度を水増しした。微々たる加速だが、その甲斐あってジャムダとの距離を一気に詰めることが出来た。

 グレイはヤーグを振るい、燃え盛る刃でジャムダの背中を斬りつけた。


「ぐぎゃあああああああああああああああ!」


 ジャムダは喚きながらも失速せず、左手の階段を上がる。


「マズい!」


 グレイも右側の壁を蹴り、一気に階段を登った――この階段を登りきってすぐ右に、グレイとクロムのクラスがあるのだ。ジャムダの狙いは、グレイの級友を人質に取ること。それだけは、何がなんでも阻止しなければ。

 グレイは、ちょうど階段を登りきり、まさに右手の教室へ入ろうとするジャムダの背中に突っ込んだ。身体の中心に激突し、共に窓の外へ飛び出るかに思われたが、そうはならなかった。

 グレイの体当たりが命中する直前、ジャムダの姿はグレイの視界から消えた。当然、瞬時に停止できる速度でなかったグレイは、独り窓を割って校庭の上空に出た。

 宙で振り返ると、教室の扉を開けたジャムダが、勝ち誇った笑みを浮かべていた。


「バカがぁ! 『俺の残像が残る』よう世界の法則を変えた……俺の勝ちだぜぇ、救世主ぅ!」


 ジャムダは教室の中へ入った。グレイはそれを止めようと秘技・【炎天】を放ったが、ピシャリと閉じられた扉に阻まれてしまう。

 グレイは今しがた割った窓から校舎へ戻り、教室の扉を開けた。そこには、グレイを除くクラスの全員が、ジャムダを囲むようにして立っていた。中には当然、クロムや教員も含まれている。クロム以外にも、見知った親しい人物が複数いるクラスだった。


「見るがいぃ……救世主ぅ!」


 ジャムダが声高に叫ぶと、クラスの全員が窓の方へ虚ろに歩き出した。夢の世界のクロムたちは窓を開け放すと、そこから前のめりになって上体を外へ出した。ベランダに出、柵を越えて身を乗り出している者もいた。


「俺が一つ合図を出しただけで全員死ぬ! 全員だぁ! どうするぅ? 救世主ぅ! 自分以外の全てを犠牲にして俺を取り逃がすか、それとも夢の世界で無様に死に絶えるかだぁ!」


 グレイはその場から跳び上がった。左手のヤーグから噴き出す炎で高度を増し、一跳ひとっとびでジャムダの目の前に到達する。

 そして、グレイは右手のヤーグを順手に持ち替え、ジャムダを脳天から真っ二つに断ち斬った。ジャムダは驚愕した表情で、自身を下したグレイを見る。


「バカ……がぁ……」


 ジャムダが倒れ伏すと同時に、クラスの全員が飛び降りた。グレイは耳を塞いだが、地上で無数に何かが潰れる音が、どうしても聞こえてしまった。夢の世界の幻とはいえ、友人たちが自ら命を絶つ様を見るのは、耐え難い拷問だった。

 すると、グレイの眼前に眩い光が現れた。それは輝く光の門だ。ジャムダを倒したことにより、夢の世界から目覚めるための扉が開かれたのだと、グレイは分かった。

 グレイは悲しみの幻影を胸に抱え、光の中へ進み出た。


~4~


 レインは目覚めた。周りではスノウやブルート、クロムら仲間たちが夢から醒めかかっている――みんなの姿は、いつもの通りに戻っていた。


「みんな! 起きて! 大丈夫!?」


 レインの一声が、寝起きで曖昧だった仲間の思考を明瞭にした。


「レイン! 俺たち、一体……」

「うん。グレイを探してたら、光る門があって、それで……」


 クロムに訊かれ、レインは夢の世界での最後の記憶を思い起こす。


「……って、クロム! その姿……」

「ん? ……うおっ、元に戻ってる」


 レインに言われ、クロムはモノを出現させ、それを鏡の代わりにして自分の姿を見た。数年分の成長を遂げ、多感で盛んな17歳の少年がそこにいた。


「よかったね、クロム」

「あ、ああ……」


 レインの笑顔を見ると、クロムは照れくさそうにそっぽを向いた。


「ふわ~ぁ、奇遇~。うちらもピカピカの門にスィ~って入ったら、目が覚めたよ~。ジェットコースターで~……」


 グロウは欠伸を掻いて言った。やや不機嫌そうなのは、寝起き故か、あるいはまだ寝足りないからなのかもしれない。

 グロウはジャムダの毒薬の効果が作用していないので、当然いつもの姿だ。


「チッ、若返ったか……ま、俺はこの時代の姿でも十分ハンサムだからな。何も惜しむことはないぜ」

「あんた何を言っちゃってんの」


 したり顔で顎をさするネルシスを、ブルートが一蹴した。しかし彼女の顔は、僅かに紅潮している。

 ネルシスは顎髭や壮年の顔の老けが、またブルートは胸部の豊かさが失われ、当人に自分が元の姿に戻ったことを否応なしに痛感させた。


「俺たちもだぞ! 恐竜と一進一退の凄まじい死闘を繰り広げたところへだな、金色こんじきの門が現れ、おじいちゃんと共に――おおお!? スリートがおじいちゃんではなくなっている!? ということは……あああ!? 俺の洗練された肉体美が! おじゃんに! パアに!」

「夢の中では飽き足らず、起きた直後も喚き散らすものですから、全くどうしようもありませんね、ヘイルさんは……」

「うわあああ! 未来ー!」


 ヘイルが自身の身体のあちこちを触って落胆しているのを他所に、スリートは若々しさを取り戻した手で――いつもと変わらぬ所作で――眼鏡をくいっと上げた。

 ヘイルの肉体は依然、成人男性の水準を大きく上回る強靭な筋骨を有しているが、それでも全盛期らしい姿の時よりは劣っていた。スリートの変化は劇的で、腰は曲がっておらず、背も元の高さになり、極めつけは自力で立ち歩くことの出来る事実が、本人をこの上なく救った。


「チ、チルド……ちゃん……怪我、ない……?」


 スノウは心配そうな顔で――前髪が普段の長さに戻り、その表情を正確に窺い知ることは出来ないが――チルドに声をかけた。


「うん、大丈夫! チルドね、なんだか怖い夢を見てたの! 黒いベトベトが怖かったけど、お姉ちゃんが夢の中で守ってくれたから怖くなかったの! ありがと、お姉ちゃん!」


 チルドは花が咲くように笑い、スノウに抱きついた。今のチルドは喋り、歩くことが出来る。その感動が、スノウの胸に人知れず押し寄せた。

 スノウの背中に巻かれた手は、小さくも大きかった。


「どうやら、みんな無事みたい――」


 クロムは仲間を見回しながら言った。通路の方で、ジャムダに操られていた町民たちが倒れていたが、気を失っているだけのようだ。

 そんな平和的帰結に安堵した瞬間、クロムは気づいた――グレイの姿が見当たらない。


「グレイ!」


 レインが天井に向かって叫んだ。見ると、クロムたちの真上に、夢の世界に堕ちる前はなかった大穴が空いている。そこからは、橙色に染まる綺麗な空が見えた。


「行ってみよう!」


 クロムが言うと、レインは頷いて通路を駆け抜けた。クロムも後に続き、町民の安否を確かめながら地上を目指す。気乗りしない様子のグロウを引きずり、スノウやヘイルたちも遅れて外へ出た。


「クソがああああああああああああああああああ!」


 宿の前で、怒り狂ったジャムダが吠えていた。彼が睨む先には、二本のヤーグを構えるグレイの姿があった――その姿はクロムら同様、元の時代に戻っている。


「グレイ!」

「俺は大丈夫」


 不安げなレインに、グレイは頼もしく応えた。


「みんなは無事か?」

「ああ。みんな元の姿に戻って、町民も命に別状はない」

「そうか……」


 クロムの言葉に、グレイはホッとしたように一息ついた。


「なぁにが大丈夫だあああああああああ!」


 ジャムダは地団駄を踏んで叫んだ。とても正気には見えない眼光を、グレイただ一人に向けて歯軋りしている。


「ふざけるんじゃねぇ……ふざけるんじゃねぇぞぉ! バカがよぉ……夢の中で大量殺戮したバカ野郎がよぉ……なにが救世主だぁ! 目的のためなら手段を選ばない殺人鬼が、どのツラ下げて綺麗事を宣ってんだよぉ!」


 ジャムダはクロムを指した。当然クロムは、何のことを言っているのか分からない。


「あんな紛い物に俺は騙されない。お前が造った夢の世界は所詮、俺の記憶の真似に過ぎないんだ。まやかしを操って揺さぶりをかけようとしたんだろうけど、無駄だ。アンタは、俺の思い出を踏みにじった。たとえ夢の中でも、偽者でも、俺の友達を殺した。そのツケは払ってもらう」

「ふざけるなよぉ……」


 グレイの断固たる信念を前に、ジャムダはいよいよ追い詰められているようだったを


「無事では済まさねぇ……皆殺しだぁ! 俺の支配を逃れて、逃げ延びられるとでも思ってるのかよぉ! 片腹痛いぜぇ……お前らの記憶は全て見たぁ! 無価値な生き物めぇ……大人しく永遠に覚めない眠りに沈んで、夢の中で朽ち果ててろよぉ!」

「ふざけるな!」


 グレイが激昂すると、二本のヤーグから猛々しい炎が噴出される。


「夢が記憶の積み重ねで生まれるものなら、記憶は『過去』の積み重ねで出来るものだ――そして過去は、人が今まで懸命に生きてきたことの『証』なんだ。記憶を盗み見、夢を造り変えたとしても、誰も俺たちの過去を変えることは出来ない!」


 グレイは両の刃を左に向け、ジリと右足を出した。


「オーバーヒートは御免だ……50パーセントで終わらせてやる」


 グレイは大地を蹴った。炎の噴出する勢いに身を任せ、独楽のように回転しながらジャムダに迫っていく。ジャムダは懐をまさぐったが、どうやら毒薬を切らしたらしく、何も手立てがないと悟ると、絶望のあまり意味の分からないことを喚いた。


「――【メイルストロム】!」


 グレイは凄まじい速度で右回転しながら、ジャムダに迫っていく。ジャムダは成す術なく、火炎と高熱を纏う刃に切り刻まれた。

 グレイは一頻り激烈な連撃を与えると、回転をやめ、二刀のヤーグでジャムダの身体を斬り上げた。とどめの一撃を受け、宙を舞うジャムダ。もはや彼に意識はなかった。

 ぐしゃりと落下したジャムダを見て、九人はまだ息があるとは到底思えなかった。しかし、辺りの静寂も相まって、ジャムダの微かな呼吸ははっきり聞こえた。

 グレイは傍の生け垣に腰かけると、耳に手を当てた。


「こちらαD2、任務完了。対象のクラウドは瀕死の重傷を負わせましたが、まだ生きています」

『グレイ、大丈夫か? 一時通信が途絶えたが、何があった?』

「また通信が不可能な状況に陥りましたが、全員大事ありません」

『そうか……』

「はい。『また』ですね」

『そうだな。敵は諸君を孤立させるのが好きなようだ……ともあれ、ご苦労だった。今から回収班を向かわせる。装置の方は見つけたか?』

「はい。潜伏先の地下に隠されているのを発見しました。無傷です……それから、回収班と一緒に衛生班も派遣してもらえますか。町民が操られて、気を失っているんです。命に別状はないようですが」

『すぐに手配しよう。では回収班にクラウドと装置を預け次第、帰投せよ』

「了解」


 グレイは通信を終えると、レインたちの元へ歩み寄った。仲間の気が抜けた顔を見ると、グレイはようやく任務が完了したと、心から安堵できた。

 その隣に、レインとクロムが近寄った。


「レイン、大丈夫か?」

「うん。クロムが助けてくれたの。凄いんだよ! クロム、空間魔法を修得したんだって! どこでもワープして、弾の装填も自動で出来るって!」

「いや自動ではないし……それに、あれは未完成だ。まだ本物を使いこなせるわけじゃない」


 レインに褒められると、クロムは明後日の方を向いて、モノの手入れをし始めた。


「レインだって凄かった。召喚魔法で敵を一掃したんだ」

「イフリートか?」

「いや。シヴァ、だったか……氷を司る精霊だ。あの急場を切り抜けられたのは、レインのおかげだ」

「ち、ちょっと……もう、そういうのなし!」


 レインは両手でバツ印を作った。グレイは二人の話を聞いて、色々と思うところがあった。決して口にすることはない、秘めたる思いが。

 支援部隊研究科を見学した際、レッジから聞いた、レインの才覚のこと。昨日、ウィルから救世軍総員に情報の開示がされた場で、クロムが言っていたこと。それらが脳裏にチラついた。

 レインは複数の召喚魔法を宿し、クロムは新たに空間魔法の力を得た――自分以外にも修行を積む者が、身近に現れたのだ。

 それは喜ばしいことであった。当然だ。共に世界を救うための力を身につけ、悪と戦う意志を強固にしている何よりの証なのだから。

 だが、グレイは心のどこかで妬ましくも思っていた――否、恐れていた。このままでは、また遅れてしまうのではないか。置いていかれ、仲間を危険に晒してしまうのではないか。そんな懸念が頭にこびり付くようだった。

 それはレインやクロムへの恐れではなく、己自身への恐れだった。グレイは、そんな自身の影を振り払った。もう恐れない。恐れには負けないと決めたのだ。

 グレイの隣には、レインとクロム、そして心強い仲間たちがいた。それこそが、寝ても覚めても変わることのない、確かな現実だった。

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