THE NIGHTMARE AFTER DEFEAT

~1~


 気がつくと、スノウは真っ暗な廊下に横たわっていた。起き上がって、仲間たちが周囲にいないことが分かると、スノウは途端に不安になった。

 そこは先ほどまでいた宿の地下ではなかった。別の建物だ。廊下の突き当たりで仄かに点灯している非常口の標識、廊下の両側に並ぶ幾つもの部屋、何かしらの手続きをするためのカウンター、そして暗がりでも清潔に保たれていると分かる内装――病院だ。

 元の世界でも何度となく眼にしてきた施設と同系の景色であるため、それと分かるのに時間は掛からなかった。あるいは、最近レインと共に支援部隊衛生科を訪れたことも、この場所の正体に気づく手助けになったのかもしれなかった。

 そしてスノウは、傍らに丸まった毛布が落ちていることに気がついた。見下ろすと、その毛布は何かを包んでいるようであることも分かる。

 スノウはその毛布に見覚えがあった。宿の客室で目覚めた時、レインが赤ん坊となったチルドに被せたものだった。以降は、ブルートが毛布にくるまったチルドを抱いて――。

 スノウは毛布を慎重に持ち上げた。ずっしりとした重みは、やはり彼女が想定した通りだった。スノウは恐る恐る毛布の中を覗いた。

 チルドだ。小さな体を縮こまらせ、すやすやと眠っている。スノウは安堵すると同時に不安に襲われた。この暗闇に侵食された空間で一人きりでないのは心強いが、しかし今のところ自分とチルド以外の仲間の姿は見当たらない。現状、無力なチルドを守れるのは自分だけなのだ。

 果たして、この子を守りきれるだろうか? 自分独りの力で。合流するまでとはいえ、いつジャムダの妨害に遭うかも分からない。普段から非力な自分に、赤ん坊を守るなんてことが、本当に出来るのか?

 ……そういえば、あのクラウドは『自分が一番望む時代の姿になる』薬を盛ったために起こった現象であると言っていたが……。


「チルドちゃん……赤ちゃんに戻りたかったのかな……?」


 スノウは独り、呟いた。周囲に誰もいないという状況は、スノウに背筋が震えんばかりの恐怖を与えると同時に、彼女を饒舌にさせていた。人前では恥ずかしがりな気性からまともに会話もままならないスノウだが、今はとても言葉が理解できそうにない赤ん坊のチルドしかいない。声は小さいままだが、発語の途切れる頻度は格段に少ない。

 そして、スノウは新たに思い至る。自分は、こんな姿の自分を望んでいたのか。前髪を短くし、人に素顔を晒すような自分になることを。到底信じられない。

 しかし、ブルートが胸の成長した大人に変化したことを考えると、クラウドの言も嘘とは断定できない。グロウが何も変化していないことも納得がいく。彼女は自分に対する望みとか、そういったことは考えないだろう。レインに変化がないこともそうだ。彼女は、今の自分が好きなのだ。それは、友達であるスノウなら分かることだった。

 レインは恋をしているのだ。スノウには分かっていた。レインは恋をしている。そして、恋をしている自分を誇っている。スノウは、はっきり分かっているのだった――自分も同じだから――。

 こんな姿の自分を望んだということが信じられない。それは確実にそうなのだが、同程度に合点もいっていた。

 レインは恋をしている自分、即ち今の自分のままでありたいと願っている。一方でスノウは、恋をしているから変わりたいと願っているのだ。

 自分が変われば、振り向いてくれるかもしれない。お客さん、ではなく、一人の女の子として見てくれるかもしれない。そんな淡い期待の産物が、この姿を願望した自分だったのだろう。

 言葉にならない、胸が苦しくなるような想いに儚くなると、スノウは静寂の院内に、何かを引きずるような音を聞いた。ずる……ずる……と、水を吸わせて絞らずにいる雑巾のような、湿り気や粘着性を孕んでいるかのような音だ。

 スノウはチルドを大事に抱き締めると、ゆっくり立ち上がった。この子を守れるのは自分だけだ。いつ何が起きても対処できるようにしておかなければ……。

 スノウは音がする廊下の角を見た。ところどころに設置された頼りない灯りが、暗黒の病院を照らす唯一の光だ。スノウはそれを頼りに、突き当たりの右側に警戒を向ける。

 心臓が跳ね回っているようだ。鼓動の一回一回が、まるでしゃっくりをしている時のように激しく、彼女の呼吸を不自由にさせた。深呼吸をしようとすると、腹部から胸部が妙に気持ち悪くなった。

 そして、廊下の角より現れたのは、黒々としたナメクジのようなものだった。それは我が身を引きずり、スノウたちの方を向いた。

 全身が漆黒に覆われているため、どこが顔でどこに眼がついているかはなどは全く分からない。ナメクジという形容も、足もなく滑るように移動している様からそれを連想できたというだけで、実際には触覚すらも見当たらない。

 それでもスノウが、その暗黒の塊がこちらを向いたことに気づいたのは、彼女の本能が危機を察したからだ。その身、チルドの身に差し迫る危険――影に潜み忍び寄るかのような脅威を、感知したからに他ならなかった。

 ずりゅ、と。黒いものは角を曲がり終え、スノウのいる廊下の延長線上に入ると、ピタッと動きを止めた。あの不快な音も消え、院内は嫌な沈黙に支配される。

 スノウは震えていた。怖かった。自分を守るものは、この場にない。どころか自分が守らなければならない。この、今はか弱い赤ん坊となってしまったチルドを。己が身一つで、スノウは自分とチルドの双方を守らなければならないのだ。


「い……いや……」


 頭の中が渦を巻いているかのように混乱していると、黒いものは動き出した。先ほどよりも速く、スノウたちとの距離を詰めていく。

 スノウは全速力で逃げた。非常灯が点々と明滅している以外に頼れる標はない。しかし、スノウには迷いもなかった。逃げる他にない。あれに捕まったら、一体どうなるか――考えたくもないことだ。

 だが、スノウは元来、足が遅かった。しかも今は、その両腕にチルドを抱えている。彼女が走るより、黒いものが迫り来る方が速かった。まだ両者の距離は開いているが、追いつかれるのは時間の問題だった。

 非常口の扉を開け、別の空間へ逃げ込むことも考えたが、両手が塞がっている今、即座に扉を開けることは困難に思えた。何より、スノウはこの状況において立ち止まることなどまるで考えていなかった。

 黒いものが着実に近づいてくるのを感じると、スノウは焦燥に駆られた。何としても逃げ延びなければ……そのためには、もっと速く走らねば……。そんな切実な思いが、まるでスノウを急かしているようだった。

 スノウは廊下を駆け、幾度も角を折れ続けた末に、気づいたことがあった。通り過ぎる病室の番号、非常灯の数、どこまでも果てしなく伸びる見慣れた廊下――スノウは同じところを延々と回っていた。

 意図してのことではない。スノウは無我夢中で逃げていた。曲がった角も、その一瞬の直観が選んだものであり、てんで不規則だ。

 この病院はジャムダが造った夢の世界――空間そのものに、手が加えられているのだ。決して醒めない悪夢を謳ったジャムダの支配領域は、つまるところ永劫回帰の無限行路となっているのだった。

 スノウがそれを空間の歪みと理解することはなかったが、しかしこの場の特異性は、息を切らしていながらも気づくことが出来た。終わらないのだ……この逃避行は。この狂った空間と同じく、永遠に続く。

 いずれにせよ、今のスノウにとって、取るべき行動はただ一つだ。走るのみ。出口の見えない暗闇だろうと、遮二無二ひた走り、チルドを守り抜くのだ。

 走って、走って、走って、走って、走って、走って――走り続けて、会いたい人がいるのだ。その人に――彼に会うために。走って、走って、走って――。

 どれだけ経ったろう。スノウの体力も決して高くはない。直に底を突くのは明白だった。呼吸は乱れ、動悸は激しく、目眩さえ覚え始めた頃。スノウの足がもつれた。スノウは転倒してしまった。

 スノウは咄嗟に毛布をチルドの頭部に被せ、更に彼女の小さな身体を強く抱き締めた。床に全身を打ちつけたスノウはチルドの安否を確かめたが、転倒の衝撃で目覚めかけている以外は、先ほどとまるで変わっていない。幸い、怪我などはしていないようだった。

 しかし、スノウは慌てて後ろを振り返った。あの黒いものが、ずるずると近寄ってきたのだ。もう逃げられない――スノウは悟ると、チルドを庇うように俯せになった。

 眼を固く閉じたスノウの眼前には、あの黒いものよりも深い闇が広がる。そこへ、自分の両肩に、何かがベタッと触れた。その感触が黒いものであることは容易に分かった。スノウはより強く、チルドの身体を抱き寄せた。

 すると、黒いものがスノウの身体を仰向けにひっくり返した。黒いものは、スノウの顔面に覆い被さると、彼女の口を強引に開け放してその中へ入った。


「おご……!? がっ……あぇ……」


 スノウは予想外の事態にじたばた暴れるが、流動体の黒いものを退けることは叶わず、抵抗も虚しく黒いものが体内に侵入するのを許してしまった。 スノウは視界の端でチルドを捉えていたが、彼女の腕と毛布とが黒いものの侵食を防いでいるらしかった。

 無味無臭の黒いゼリー状のものが、スノウの口内を満たし、気管を通過し、瞬く間に胃にまで到達した。例えるなら、生卵の白身を無理矢理飲まされているような、スノウの体感としてはそんな具合だった。

 スノウは息苦しかったが、黒いものは絶え間なくその口内に流し込まれていたため、彼女は鼻で息をすることはおろか、咳き込むことすら出来ない。

 黒いものが体内に取り込まれると、スノウは気味の悪い寒気を覚えた。が、同時に耐え難い睡魔に身を委ねる時に似た、ある種の快感も覚えていた。襲いかかる微睡みを受け入れ、頭の中を空にして眼を閉じ、眠りの深淵へ落ちていく、あの快感を。息苦しさも相まって、スノウの意識は緩やかに遠のいた。

 やがて呼吸のままならない苦痛さえどうでもよくなり、スノウの思考は呆けていく。悪夢の中で更に眠りについたら、どうなるのだろう……あまつさえ、そんなことを考える始末だった。

 瞼が重い。視界を覆い尽くす暗闇が、どこか心地いい。スノウをついに暴れるのをやめてしまった。そして、黒いものは勢いよく、その全身をスノウの体内へ潜り込ませようと飛びついた。

 ――その時。


「……うえーん!」


 赤ん坊の泣き声が院内に轟いた。チルドだ。スノウの腕の中で、チルドが泣いている。その甲高い声音が、スノウの鼓膜を力強く叩いた。

 スノウは手放しかけた意識を慌てて引き戻した。口の中が、喉が、お腹の中が冷たい……見ると、黒いものが完全にスノウの内部へ侵入する寸前で凍りついていた。


「……チルド……ちゃん……?」


 スノウはチルドを見下ろした。チルドは涙を流しながら、何かを訴えるように泣き続けている。チルドの氷魔法プリーズ・フリーズが発動したのだった。

 チルドが助けてくれた――スノウは赤ん坊の無垢な泣き顔から、それが分かった気がした。チルドは自分がしたことに気づきすらしない様子で、『うえーん! うえーん!』と叫んでいた。

 スノウは氷塊となった黒いものを引きずり出し、チルドを抱き抱えて立ち上がった。この幼い女の子に、スノウは勇気をもらったのだ。諦めてはいけない。諦めない強さが、何も出来ない自分の弱さを変革することが出来る。その面持ちは、先ほどまでの不安に塗り潰されたものとは異なっていた。

 一方で、取り出した氷塊の中では、凍結されたはずの黒いものが歪に蠢いていた。肥大しているのか、あるいは増殖しているのか。チルドの魔法に封じられたはずのそれは、その牢獄から脱しようとしているようだ。

 侵略域を広げていく黒いものに、氷魔法はいずれ砕かれてしまうだろう。スノウは予感すると、すぐに走り出した。もう倒れない。挫けない。止まらない。この両手いっぱいに抱えた命を守るために。

 間もなく、氷柱の割れる鋭い音がしたのと同時に、先ほどより数倍は大きい――否、おびただしい、ずるずると滑る音が聞こえた。氷の緊縛より解き放たれた黒いものが、増大した姿で再びスノウたちをつけ狙うのだ。

 スノウは振り返らなかった。同じ過ちを繰り返さない彼女の賢明さは正しい。恐怖のあまり振り返るより、恐怖を堪えてひたすらに行く手を見据えた方が、いくらかマシである。

 暗闇を疾走するスノウの足音と、水気の多分な黒いものの這い寄る音のみが、障害物の疎らな病院の廊下に反響する。

 しかし、スノウは希望を見ていた。振り返らないのは、絶望を無視しようという現実逃避の目的からではない。スノウは逃げている最中、希望がその先にあることを知っていたのだ。

 自分の弱さに直面しても。自分の愚かさを痛感しても。それを受け入れ、乗り越えた末に待つ希望を、自分の目先で見出だした彼のことを思い出す度、スノウは自らの胸中に希望が熱を灯すのを密かに感じていた。

 あの感覚は幻ではない。終わりのない悪夢の渦中にいようとも、その感覚と、それを忘れ得ない記憶とがスノウにはある。スノウは独りではない。彼女には、共に魂を燃やして生きる仲間がいるのだ。


「……あ……あれ……」


 ――どれほど走ったろう。どれほど、長い時が経ったろう。スノウは躓かなかった。両腕に小さな温もりを抱き締めながら走り続けたスノウは、無限に続く廊下の一直線上に、光の扉が佇んでいるのが見えた。

 眩い光だ。この、宇宙より星が一つ残らず消え去った後のような暗黒の中で、その光を見過ごしようはなかった。

 スノウは最後の力を振り絞り、光の方へ走った。既に彼女の体力は限界である。足は疲れ、腿が痛み、胸が締めつけられている。そんな中走り続けたスノウの努力は、ここに実ろうとしていた。

 しかし、そのすぐ後ろには、もう黒いものが迫っている。黒いものがスノウたちを捕らえるか、スノウが光の扉に辿り着くか、どちらが先になるかは定かでない。スノウの位置は、ちょうど黒いものと光の扉との中点なのだ。

 スノウは走った。光はすぐそこだ。だが黒いものの方が速い。光には僅かに届かず、無念の内に黒いものに喰らわれる残酷な未来が、スノウの脳裏を掠めた。

 スノウは左手でチルドを強く抱き寄せ、そして右手を光へ伸ばした。掴むんだ。この手で光を。生きる未来を。また彼女の背後では、黒いものもその一部を細長く変形させ、スノウの無防備な背中に襲いかかっていた。

 その時。黒いものの伸べた一部が、さながら浄化されるかのように消失した。初めて黒いものが、痛みのあまり叫ぶかのような声をあげた。

 スノウはそのまま、チルドと共に光の中へ飛び込んだ。


~2~


 ヘイルとスリートは森の中を歩いていた。厳密には歩いているのはヘイルのみで、スリートの方は老体故に彼に背負われている。


「どこなんだ、ここは?」

「見たこともない植物ですのう……」


 二人は口々に呟いた。それが会話なのか各々の独言なのかは知れない。密林に生い茂る草木は、およそ二人の知るものとは違っていた。巨大な葉や枝を有するそれらは、彼らの想定する『現代』にあるまじき様相だ。

 しかも時折、二人は上空や草むらから聞いたこともない生物の咆哮や唸り声に気づくことがあった。野性味が溢れんばかりの森の生態系は、まるで二人の運命を暗示するかのように、静寂と喧騒を不規則に繰り返していた。


「おい、お爺ちゃん。ここがどこか分からないのか?」

「分かってるなら苦労はしませんぞ」


 ヘイルが背を振り返って言うと、スリートは眼鏡をくいっと上げた。持ち上げられたその手は、しかし小刻みに震えている。


「しっかし、あのジャムダとかいう野郎はどういうわけか『自分が一番望む時代の姿になる』薬を俺たちに摂取させたらしいが、どうしてスリートはそんな面倒くさそうな姿を望んだんだ?」

「面倒くさそうって……面倒くさそうな身体でも儂は生きてるんですぞ。そういう失礼で尚且つ不謹慎な発言は控えて然るべきですぞ。ヘイルさんにはもう少し常識を考慮した言動を心がけてほしいものですぞ」

「……今まではあまり気にならなかったが、スリートの口調は意外と鬱陶しさがあるな」


 ヘイルは微妙な顔をして言った。


「……儂は知識を追い求めていた。もちろん今もですけれども。儂にとって、知識とは憧憬の対象であり到達点じゃった。儂がなりたい自分とは、もしかすると、生涯で最も多くの知識を有した自分じゃったのかも知れないですぞ……その成れの果てがこれと言われてしまうと、何とも滑稽というか、自虐的な気分に打ちひしがれますぞ……」

「生涯で最も多くの知識を有した自分……」

「知識とは学問を通して得られるのは当然ですが、そうしなくとも生きていれば自然と得られもするものですぞ――知識量は生きた年月に比例するのですぞ」

「……つまりお爺ちゃん、死にかけなのか?」

「じゃからもう少し言動に気をつけなさいと言うたのですぞ。本当にクソ野郎ですな」

「歳を取るとそんな汚い言葉遣いまで覚えてしまうのか」


 話している間、二人は周囲から聞こえる野生の声を気にせずにいられた。


「ヘイルさんは? どうしてそんな暑苦しそうな姿に?」

「無理に反撃をしようとしなくてもいいぞ、お爺ちゃん。このマッスルボディにまで憧憬の念を抱いたら、知識と体力とを総合して一番優れた時代の自分という、多分めちゃくちゃ中途半端な姿になってしまうぞ」

「いや別に筋肉に対する憧れなんてものは微塵もありませんけれども」

「強がるな強がるな! 聞かせてやろうじゃないか! 俺の崇高な意志を! この強靭な肉体の内に秘めた、燃え上がるようなソウルを!」


 ヘイルが吼えた時だった。二人が夢の世界で目覚めてから聞いた、如何なる声よりも大きく荒々しい怒号にも似た咆哮が轟いた。

 二人は――否、ヘイルは立ち止まって、声のした方を振り向いた。スリートも、彼の広い背中にしがみついて森林の向こうを見やった。

 遠方で、木々が次々になぎ倒されている。それと同時に、足場が歪むかのような凄まじい地響きがする。巨木が倒れゆくのと、地響きがするのとは、全く同じ間隔・タイミングで起こった。

 二人はその異様な光景から、甚だ現実味に欠ける結論を想起した――近づいている。元の世界における象やキリンといった地上最大級の生物より、何倍も大きいものが近づいてきているのだ。

 緑の深い熱帯植物が蹂躙されていくにつれ、徐々にその正体が露見された。未曾有の事態に当惑し、恐れ慄き、立ち尽くす他になかった二人が眼にしたのは、想像だにし得ないものだった。

 は虫類のような皮膚。前後に伸びる楕円形の頭と、その先端に生え並ぶ鋭い牙。圧倒的な体躯と、それを支える後ろ脚、そしてそれらに見合わぬ短小な前脚――誰もが一度は見た、かつて地上最強の生物として君臨し、繁栄を極めたものの突如として姿を消した生物だ。


「恐竜だあああああああああああああああああ!」

「恐竜じゃああああああああああああああああ!」


 ヘイルは踵を返し、全速力で走り出した。スリートを背負った状態の彼だが、その肉体は現在、彼の一生の中で最も屈強な姿へと変貌を遂げている。老人一人を担いで逃げるなど、今のヘイルには造作もない。むしろ、元の姿のヘイルが万全の状態で走る最高速度より、スリートを背負って走る今のヘイルの方が速いほどだ。恐るべき身体能力である。

 しかし、そんなヘイルでも恐竜の追跡を振り切ることは出来ない。恐竜とヘイルたちとの距離は、みるみる詰められていく。


「ヘイルさん……儂のことは捨て置いてくだされ……このままでは二人ともやられてしまいますぞ……」

「何をバカなことを言っているんだ、お爺ちゃん! 老若男女を問わず、常に全力で助けるのが漢! 見捨てはしない! 諦めもしない! 大丈夫だ! 俺が何とかする!」

「し、しかし……相手は恐竜ですぞ……速力云々ではなく、そもそも歩幅の差でヘイルさんが絶望的に劣っております……逃げ切ることは……」

「逃げないぞ!」


 ヘイルは次の瞬間、老化に伴って小さくなったスリートの身体を思いきり投げた。次いでトリプルスピアを出現させるや否や、それを宙を舞うスリート目掛けて投擲する。トリプルスピアは空中で回転するスリートの服を貫き、そのまま遠くの巨木の幹に突き刺さった。

 ヘイルがトリプルスピアを再び手元に出現させたのと同時に、スリートは地上に落下する。起き上がって眼鏡をかけ直したスリートは、猛烈な速度で迫り来る恐竜へ真っ向から挑まんと身構えるヘイルの姿を認めた。


「何をしているのです!?」

「あいつと戦う! 今のうちに逃げるんだ!」

「バカな! 相手は恐竜ですぞ! 己の力を過信し過ぎですぞ! あんな巨大生物と戦えば、あなたは一撃で粉々になってしまいますぞ!」

「大丈夫だ! 俺は強いからな!」

「あなたは一体どこまで――」

「心配するな! ここは夢の世界なんだろ! だったらここで死んでも現実では死なない!」

「――あなたは一体どこまでバカなのです!?」


 スリートはしゃがれた声を最大限に張り上げた。


「あのクラウドは儂らを殺すためにこの夢の世界へ送り込んだのですぞ!? 死んでも現実で死なないなんてルールが適用される世界なわけがないですぞ!」

「……さすがはスリートの一番知識が多い時代だ。いつもより察しが良いんじゃないか?」


 ヘイルは振り返り、ニカッと笑ってみせた。


「大丈夫だ……冗談はこれでおしまい。俺たちは必ず生きて帰るんだ!」


 ヘイルは得意気にトリプルスピアを振り回し、自らも恐竜へと接近していった。スリートの制止も虚しく、ヘイルは無謀な挑戦に臨んだのだ。

 恐竜は攻撃圏内に入ったヘイルに、大口を開けて食らいついた。木々の間から射し込む斜陽が、キラリと恐竜の牙を照らした。

 ヘイルはその頭を避け、恐竜の顔の側面にトリプルスピアを突き刺す。恐竜は悲鳴をあげ、頭を狂ったように振るう。恐竜の唾液が雨のように降り注いだ。

 ヘイルはその隙を逃さず、恐竜の懐に潜り込んだ。恐竜はよろめいていたので、その脚に踏み潰されないよう十二分に注意しなければならなかった。先ほどの牙の襲撃と同様、これも油断すれば一瞬で終わりだ。

 ヘイルは二本の脚を掻い潜り、今度は恐竜の尾にトリプルスピアを突き刺した。恐竜は痛みのあまり、その尾を縦横無尽に振り回す。ヘイルは槍を深々と食い込ませ、振り落とされぬよう持ちこたえる。スピアの柄を握る彼の手は、にわかに汗ばんだ。

 ヘイルはタイミングを窺ってトリプルスピアを手放し、上手く恐竜の背中に着地した。その手にトリプルスピアを出現させると、栓を失った恐竜の尾から大量の血が噴出した。

 更に暴れる恐竜に、ヘイルはその胴体に渾身の力を込めてトリプルスピアを突き立てる。ぐらりぐらりと、恐竜は激しくよろめいた。恐竜はバランスを取るのが困難だ。だから重心の安定する前傾姿勢を止め、大きく上体を揺り動かしている今、恐竜は痛みと共に自らの体重と苦闘している最中なのだ。

 その弊害は当然、ヘイルにも及ぶ。突き刺した手応えからして、トリプルスピアが抜ける可能性は皆無に等しいと思われたが、問題はヘイルの方だった。

 ヘイルが堪え切れずにトリプルスピアを手放してしまったら、いつどこに恐竜の脚が下ろされるかも分からない地上へ落ちてしまう。そうなれば十中八九、ぺしゃんこになってしまう。ヘイルがトリプルスピアの柄を固く握り締めた。

 だが、限界だった。荒ぶる恐竜の身体に突き刺されたトリプルスピアは、自然とその傷口を抉り、拡げてしまっていた。それが致命的な誤算だった。

 ヘイルは決して柄を放さなかったが、トリプルスピアの方が恐竜の肉体より外れてしまったのだ。恐竜が荒れ狂う勢いのままに、ヘイルは空中へ放り出された。そこへ追い打ちをかけるように、反転した恐竜の尾が襲いかかった。

 ヘイルは尾の一撃を喰らい、吹っ飛んだ。その直後には、ヘイルは先ほどスリートを避難させるのに使われた巨木の上方に激突していた。およそ30メートルの高さから地面に落下したヘイルに、スリートが慌てて駆け寄った。


「ヘイルさん!」


 幸いヘイルは生きていた。この生涯を通して最も肉体を鍛練された姿でなければ、今ごろ死んでいただろう。皮肉にもジャムダの失敗作の毒薬が、ヘイルの命を救う結果となった。


「ぐおっ……さすがは恐竜だぜ……強い」


 一命を取り留めたとはいえ、ヘイルの受けた傷は尋常ではない。尾が直撃した腹部は紫色に変色し、ヘイル自身も臓器が幾らか潰れてしまっているのが分かった。背中も木に激突した衝撃で損傷が著しい。とてもまともに戦える状態ではなかった。


「キュアドリンクは……」


 スリートは懐を探ったが、目当ての回復薬はなかった。ヘイルも、持ってはいないと身振りで示した。

 二人の背後には、闘志を取り戻した恐竜が再び迫ってきていた。猶予はない。一人は戦闘不能で、もう一人はろくに歩けもしない老人――破滅的な状況だった。


「……二つほど、聞きたいことがありますぞ」


 スリートは言った。その後ろで恐竜が殺意と食欲とを滾らせ接近しているのを知って尚、その口調と表情は心なしか穏やかだ。


「まだ、儂を背負って走れますかの?」

「あ……ああ……こんな様だが、それくらいならお安い御用だ……」

「分かりましたぞ……では、もう一つ」


 その時。ヘイルは、シワの刻まれた瞼が隠した瞳を見た。眼鏡の奥で、スリートの瞳には今も昔も――今も未来も変わらない輝きが灯っているのを。


「僕を信じてくれますか?」

「もちろんだ!」


 ヘイルは躊躇いなく答えた。スリートは顔を綻ばせると、ヘイルの背中に乗った。


「儂の指示通りに走ってくだされ!」

「おう!」


 ヘイルは走り出した。傷だらけの身体を酷使し、その背に老人を担いで。右へ、左へ、スリートはヘイルに明確な指示を出した。ヘイルはスリートの指示を疑うことなく従い、またスリートもヘイルの身を案じている様子はなかった。二人の強い信頼が成す業だった。

 スリートはヘイルの背にしがみつきつつ、リコイルトンファーを出現させ、最適な瞬間と地点を選び、的確にソウルランチャーを発射した。一発ずつ、狙った時間と場所に設置していく。

 ソウルランチャーは同時に四発しか存在できず、加えて個々の速度も遅い。制約が多く、単独での効力は望み薄だが、緻密な計略と正確性が合わされば――化ける。

 ヘイルはスリートの指示を忠実に守り、走ること十数分。スリートは先々まで考慮し張り巡らした作戦の元、一瞬一瞬を待ちわびること十数分。相互の信頼関係が可能とした一手が、いよいよ発動の時を迎えた。

 一瞬の出来事だった。スリートが十数分をかけて設置した四発のソウルランチャー。それぞれが緩慢な速度で浮遊し、やがて恐竜の片脚が踏み込む一点に、一挙に集結したのだ。

 恐竜はバランスを取るのが困難だ――ソウルランチャーの炸裂が片脚に重点的に与えられ、恐竜は態勢を崩して横転した。恐竜は転んだら二度と起き上がれないのだ。

 同時にヘイルは倒れた。仲間を信じ、命を懸けて走り抜いたヘイルと、その背で常に思考を絶やさず、冷静な対処をし続けたスリートの、消耗し切った身体が地面に投げ出された。


「勝ったぞ……俺たちっ、恐竜に勝ったぞー!」

「いや、あなたはこてんぱんにやられたんですがの……まず生き残ったことが奇跡ですぞ」


 ぜぇぜぇ、と荒い呼吸を整えながら、二人はやや湿った土と草の上に横たわり、空を見上げた。決して心地のいい環境ではないが、生の実感を全身で受けている二人には、この森は、空は、世界は色鮮やかに見えた。

 すると、またどこからともなく野生の咆哮が密林に響き渡った。二人は疲れ果て、呆れ果てたような面持ちで顔を見合わせた。


「マジか……」

「儂はもう、こんなの懲り懲りですぞ……」


 そんな二人の視界の端に、何やら眩しい光が映った。斜陽が放つ光にしては強く、そして近い。別の何かだ。二人は首だけ動かし、その正体を追った。

 それは輝く扉だった。希望の光――二人は不思議と、その正体を悟ることが出来た。諦念から脱却したいが故の妄想か、あるいは悪夢からの覚醒を促す天啓かは知れないが。


「あれは……」

「まさか……出口、ですかの……」


 ヘイルとスリートは、衰弱し切った身体を引きずるようにして、光の元へ向かった。古代生物との死闘などは、もう御免であった。


~3~


 ネルシス、ブルート、グロウの三人は、夜の遊園地にいた。


「――って何でよ!」


 ブルートが何やら独りでに叫んだ。


「あたしたち一体全体どうして遊園地にいるわけ!?」

「知るか。夢の中なんだから思いきり楽しめってことなんだろうさ、きっと」


 ネルシスはメリーゴーランドの馬に寄りかかって言った。ブルートは腑に落ちない様子で、この得体の知れない施設を見回す。

 遊園地と言うだけあって、周囲にはメリーゴーランドの他に、コーヒーカップ、ゴーカート、お化け屋敷、観覧車、劇場、そしてジェットコースター、更には露店やレストラン、土産屋等々――遊園地を謳う上では必需なアトラクションが完備されていた。


「あ~、うち知ってる~。コーヒーカップって子供向けとか言って侮られがちだけど、大人になってからガチで回したら、割りと最高級に面白いんだよね~」

「な、何であんたが遊園地を語るのよ」


 ブルートはフラフラと一台のコーヒーカップへ近寄り、座席に腰かけるとそのまま眠ってしまった。


「遊園地で寝るとか……」


 ブルートは呟いている自分に気づいて、ハッとした。そもそも遊園地とか言っている場合ではない。今は敵の術中、言うなれば非常事態だ。呑気に寝てなどいられない。ましてやアトラクションになど構ってはいられない。

 ブルートはグロウがうたた寝するコーヒーカップへ駆け寄り、彼女の身体を強引に揺すった。


「ほら、起きなさい! 起きなさいよ、もー! こんなことしてる暇ないんだってば!」

「そうムキになるな。カッカして遊園地とか、不相応にも程があるぞ」

「うっさい! あんたはそうやって馬と戯れてるのがお似合いだわ!」


 ネルシスはいつの間にか稼働していたメリーゴーランドに乗っていた。回りながら、揺れながら、自分の優雅を気取っているような様が腹立たしい。

 だが、ブルートはほんの僅かながらも見惚れてしまった。蓄えられた顎髭、カールの利いた頭髪、渋みを増して大人の魅力を備えた容姿。今のネルシスは、ブルートにとっては悪くない印象の男性だった。

 ブルートは我に返ると、途端に顔を真っ赤にした。一瞬でもネルシスに見惚れたことが、悔しくもあり恥ずかしかった。ブルートは半ば八つ当たり気味に、一層強い態度でグロウを起こしにかかった。


「こらっ! いい加減にしなさいよ! 早く起きないと回しちゃうわよ! あんたが言う、大人になってからガチで回す最高級の面白さを、無理やり体感させちゃうんだからね!」

「うぅ~……ぅうるさいぃ~!」


 グロウは苛立たしげに唸ると、駄々をこねる子供のように腕を振るい、ハンドルに突っ伏した。彼女の腕に軽くはたかれたブルートは、不意を突かれて倒れるように席に着いた。

 すると、グロウはうとうとしながら、ゆっくりとハンドルを回し始めた。コーヒーカップが稼働し、容器と共に二人は回転し出した。


「え、ちょ……グロウ! あんたねぇ……」


 ブルートは立ち上がって叱ろうとしたが、コーヒーカップが回る遠心力で思うように立てなかった。よろけてグロウの隣に座る形となったブルート。その拍子に彼女は、グロウが浅く瞼を閉じて寝息を掻いているのに気づく。


「まさか……あんた……」


 ブルートの不安は的中していた。グロウは眠ってしまっている。グロウは寝ぼけてハンドルを回しているに過ぎないのだ。

 即ち、このコーヒーカップは今、グロウの寝相の悪さにより回っている。


「い……いやぁ……」


 何故かコーヒーカップの回転速度はどんどん増していく。グロウの寝相が、どんどん悪くなっていく。


「ゃ……やめ……てぇ……」


 視界には、もはや光と色彩の乱雑した有り様しか映っていない。ブルートは、まるで世界のスピードに置いていかれるような錯覚をさえした。

 端から見ているネルシスからすれば、二人とコーヒーカップは、さながら独楽コマの如き高速回転をしていた。


「やめてぇ……おねがいぃ……とめてぇ……」


 大人が回すコーヒーカップは恐ろしい――そんな教訓を学べる一件なのかもしれなかった。その最中、ネルシスはそれを面白おかしく傍観し、どこぞの国の王子にでもなった気分を満喫していた。

 やっとグロウの手がハンドルから離れ、コーヒーカップが回転を止めた頃には、ブルートは泥酔しているかのような、否が応でも千鳥足で蛇行せずには歩けない状態となっていた。


「もう……一生、コーヒーカップになんか……の、乗らない……どころか……コーヒーだって……飲んで、やらないんだから……」


 ブルートは、自分が眠っている間に何が起きたかも知らず、寝ぼけ眼を擦るグロウの肩を借りてコーヒーカップから降りる羽目になった。それを嘲笑するネルシスを殴り飛ばしたいのも山々だったが、今の自分には出来ないのがこの上なく歯痒いブルートだった。

 そこへ、何やら陽気な音楽が聞こえてきた。音のする方を見ると、野外劇場のスピーカーを通して流れている音楽らしいことが分かった。

 ブルートは何とか自分で歩けるまで体調が回復していたので、覚束ない足取りながら劇場の方へ向かった。ネルシスと、未だに眠たげなグロウも、不本意そうながらも彼女に続いていく。


ジャTAジャDAーー!!」


 劇場の幕が開き、劇団員のような服装の男たちが舞台でパフォーマンスしているのが露となった。


「何なのよ、あの人たち……」


 ブルートは目眩で呻きながら、いつでも魔法が使えるよう身構えた。劇団員たちは舞台から跳び降りると、三人の方へ向かっていた。道化の化粧がされた顔は、敵意に満ちた表情で歪んでいる。


「どうやら、このピエロ共は俺たちの敵らしい」

「もう……ほんっと、どうなってんのよ!」


 ネルシスは掌に水流を生じさせ、ブルートは両手足を毛深い虎模様に変化させ、劇場の方へ走り出した。グロウも数秒遅れ、『うぅ~……』と気だるげに呻きながらトボトボと歩き出した。

 三人は劇団員たちを相手に、魔法を駆使して応戦していく。団員一人一人の戦闘能力は低く、三人が独力で一度に数名を相手取り、また即座に倒すことは造作もなかった。

 しかし、劇団員たちの真骨頂は、言うなれば質ではなく量であった。三人が次々に劇団員を払いのけ、投げ飛ばし、組み伏せている最中にも、戦闘に加わらんと夥しい数の団員が舞台袖より現れ、三人に襲いかかった。

 いくら力量の差があるとはいえ、さすがのネルシスたちもたった三人で数十、数百と増えていく団員を変わらぬ調子で撃退していくことは困難となり、結果としてバラバラに別離してしまった。

 ネルシスは観覧車の中にいた。その一室で、高層ビルの建ち並ぶ街並みを背景に、水魔法クラッシュ・スプラッシュで劇団員たちを溺れさせた。

 窓から下を見ると、劇団員たちは番の巡ってきた箱に乗れるだけの人員を投入し、ぎゅうぎゅう詰めになってネルシスの背後に迫っている。更には観覧車を直接よじ登って、執拗にネルシスを追いかける団員も少なくない。しかも、観覧車は一周回転すれば終了してしまう。そのタイムリミットを突く算段なのか、地上でネルシスのいる箱を見上げながら、じっと待機している一団もあった。

 後続の箱では、窓が立て続けに割られ、詰め込まれた劇団員たちがそこから顔を出し、ただ黙ってネルシスを睨みつけていた。


「気色の悪いピエロ共だ」


 零しながら、ネルシスは考えた。一見すると烏合の衆である彼らだが、この局面に関しては一杯食わされた感が否めない。

 観覧車――ネルシスは密室に閉じ込められた上に、周辺を完全に包囲されてしまった自らの失態を認めざるを得なかった。

 この窮地を脱するには、何かしら策を練らなければならない。状況は芳しくない。時間が経てば自ずと劇団員たちの前に出ていくこととなってしまう。蹴散らすのは容易いが、しかし今も尚、敵は劇場の袖から現れている。全てを相手に戦い続けるのは厳しい。

 何よりネルシスは、一刻も早く二人と合流したかった。下心や邪な情念によるものではない。この時は純粋に、この劇団員たちと長時間対峙し続けるのは、女性にとっては精神的に中々辛いものと思われたのだ。

 ネルシスは、観覧車が回転する方向に視線を移した。前方では、空の箱が幾つも先行している。劇団員たちは、ネルシスが乗った後に回ってきた箱にしか乗っていないのだ。


「――天才の閃きを得たぞ」


 ネルシスは得意顔で言うと、肘で箱の窓を割った。掌を窓の外へかざし、そこから前方の箱へ向け、水流を凄まじい勢いで発射した。狙った箱の窓が割られ、その中は瞬時に水で満たされていく。

 ネルシスはその次の箱にも、更に次の箱にも、同様に水流をぶつけた。水でいっぱいになった箱が増えると、観覧車の回転する速度も徐々に増していった。

 ネルシスの目論みは達されようとしていた。観覧車そのものが速度、重量に耐えきれず、次第に部品が壊れ、アトラクションを支える要たる中央の柱が、みるみるひび割れていった。

 ネルシスが窓から屋根へ登り、地上から噴水の足場を作り出して脱出した瞬間、観覧車はついに崩壊の時を迎えた。支柱が折れ、先ほどネルシスが入っていた箱や劇団員たちが乗っている箱が落下していく。予め地上で待機していた劇団員は勿論、箱に入らず直接よじ登っていた者も、倒れた観覧車の下敷きとなってしまった。

 ネルシスは噴水の勢いを弱めていき、ゆったりと着地した。ネルシスは観覧車の残骸をしたり顔で一瞥すると、二人の行方を追った。

 一方、ブルートはお化け屋敷にいた。


「なんでぇ……なんで選りに選ったのよぉ……」


 ひゅーどろどろ、といかにも恐ろしげな音楽がどこかから流れてくる。暗い廊下に棺桶、青い光の点った和室に、何故かある霊安室。ありがちな安い演出の数々であったが、ブルートは至極堪えた――ネルシスの予想は的中したようだ。


「あたしユーレイ無理なのにぃ……怖いのとか、無理なのにぃ……」


 ガタガタと震えながら歩くブルート。残念ながら彼女の手に灯りはない。ブルートは恐怖と絶望の巣食う暗闇を、何の頼りもなしに彷徨う羽目になっているのだ。

 ブルートは眼を凝らしながら廊下を進んでいく。両手を祈るように組み、歯をガチガチと鳴らしながら。

 すると、その行く手に突如として何人もの人影が立ち塞がった。長い廊下の遥か前方、曲がり角から現れたのは、白い顔と赤く裂けた唇の劇団員だった。


「いやああああああああああああああああ!」


 だが、この暗がりでその正体を確認することは出来ず、ブルートはそれが何かも分からぬまま、本能の命ずるままに来た道を全速力で引き返した。

 ブルートはチーターになった。空前絶後の恐怖の対象より逃れる術を欲したブルートは、無意識に変身魔法タロン・タスクを使っていた。そして、速さを求めた彼女はチーターになったのだ。

 ブルートは涙を滲ませて逃げた。その速度はハーレーも顔負けである。ブルートは恐怖のあまり、周りはおろか前すらろくに見ていなかった。見ているのは彼方だ。魔の巣窟から脱出するための光を微かでも逃がすまいと、暗闇の中の一切に眼もくれなかった。

 そのため、ブルートは気づかなかった。廊下を折れて現れた一人に。


「おーい、ブルート! グロウ! いたら返事をしろー! いないなら返事をするなー! ……まったく、一体全体どこにいるん――ダァッ!?」


 何やら大声を張り上げている男性に、ブルートは気づかなかった。男性は速度の少しも緩まないブルートの疾走に衝突し、どこかへ吹っ飛んでしまった。

 ブルートはそのまま壁に激突した。チーターと化したブルートの凄まじい体躯と脚力を前に、壁は豆腐めいて粉々に砕け、ブルートは待望の光に飛び出した。遊園地に点在する灯りが、ブルートの眼にキラキラと映った。

 だが、ブルートは止まらない。もはや光を見ただけでは心は休まらない。逃げよう。もっと遠くへ。この忌々しい場所から遠く、もっともっと遠くへ……ブルートは今しがた自分がいた何者かを振り返ることなく、夜の遊園地を駆けていった。

 同時刻、グロウはゴーカートでカーチェイスよろしく、劇団員たちと目まぐるしい追走劇を繰り広げていた。常に緩慢で怠惰なグロウからは想像だにしないほどに過激で、俊敏で、高度なドライブテクニックである。

 劇団員の操るカートを引き離し、先頭でコースを何度も周回している。稀に追いついて並走する優秀な団員がいたが、その精鋭もグロウはカートをぶつけ、一瞬にして無力化してしまった。

 無力化というか、グロウのタックルを受けた劇団員は、そのあまりの衝撃にコースアウトし、サーキットと外部とを隔てる壁に激突し、カート諸とも引っくり返って四散するという、何とも苛烈なクラッシュにより二度と姿を現さない結果となった。

 すると、グロウはサイドミラーに映る、後方から猛烈な速度で接近してくる四足歩行の何かを目にした。振り返ると、何やら虎のような生物が外壁を蹴散らし、サーキットに参入するのが見えた。

 高速で運転している最中に余所見をするのは危険だ。グロウは早々に視線を前方に戻すと、その生物に構わずコースを走った。

 間もなく謎の生物がグロウのカートと並んだが、この時グロウは気づいた。その生物は虎ではなくチーターであり、そしてそのチーターとは即ちブルートであると。ブルートが変身した姿がそれなのだと、ヘルメットのバイザー越しに認めるのだった。


「……レーサー志望?」

「どこをどう見たら開口一番がそうなるのよ! ……ってグロウ!?」


 がおお、とブルートは噛みつくように吠えた。


「お~、どーどー、吠えない吠えない。ネコ科のくせに吠えない」

「つまんないこと言ってんじゃないわよ! いいから早く止まって! ネルシスを探して、こんなとこさっさと抜け出すのよ!」

「えぇ~……でもまだレースだけど」

「ピタッと止まってササッと出れば無問題よ!」

「でもコースのど真ん中で止まると後ろのカートに轢かれちゃうかもだけど」

「だからササッと出ればいい話でしょ!」

「でも万が一当たったら痛いけど」

「……あーもー!」


 ブルートは苛立たしげに唸ると、方向転換して後続のカートへ突進していった。チーターの強烈な体当たりにカートが敵うわけもなく、劇団員は車体と共に彼方へ吹っ飛んだ。

 ブルートは粗方の劇団員を片付けると、その強靭な脚力でグロウに追いついた。


「もう轢かれないわよ。ほら、早く降りる」

「ちぇ~……ぶーぶー」

「あんた下手したらチルドより幼稚なんじゃないの? まあ、今のあの子は幼稚を通り越して乳幼児なんだけど……」


 言っていると、ブルートはチルドの安否が酷く心配になった。チルドだけではない。レイン、スノウ、グレイ、クロム、ヘイル、スリート――全員の無事を一刻も早く確認したいという、強い衝動に駆られる。

 確認して、安心したい。そのためにも、ブルートはますます夢の世界からの脱出を急ぐ。カートからようやく降りたグロウを背に乗せ、ブルートはネルシスを探すべく奔走した。

 二人はジェットコースターの乗り場でネルシスを見つけた。ブルートはグロウを降ろしてから変身を解き、彼に駆け寄った。


「ネルシス! どこにいたのよ、もー! やっと見つけたわ! ほら、さっさとこんなとこから抜け出すわよ!」


 呼ぶと振り返るネルシスだが、その顔はそこかしこが打撲しており、せっかくジャムダの毒薬の効果でマシになった甘いマスクが台無しとなっていた。


「ちょ、ネルシス!? どうしたのよ、それ!?」

「ああ……お前たちを探してお化け屋敷に入ったら、何かに思いきり体当たりされた。毛むくじゃらで図体のデカい、四足歩行の化け物だ」

「ウソ、そんなのいたの!? あたしも、さっきまでそこにいたから……」

「危なかったな。まかり間違えばお前も襲われていたかもしれなかったぞ」

「毛むくじゃらで図体のデカい四足歩行の化け物……なぁんかさっきのブルートみたい~」

「あんたそれはちょっと失礼でしょ!」


 欠伸を掻きながら言うグロウに、ブルートは心外だと言わんばかりに怒鳴った。


「そんなことより……どうだ、せっかくだし乗ってみないか?」

「何によ?」

「そんなの決まってるだろ?」


 ネルシスは顎でジェットコースターの方をしゃくった。


「その状況で何言ってんのよ!」

「いいだろう、別に。敵が見せてる夢だからって楽しんじゃいけないわけじゃない。な、グロウもそう思うだろ?」

「むにゃ……? う~ん……うちは今、座れる場所があるならなんだってい~……」


 グロウはフラフラと微睡みながら言った。三人がいるのは、通常ならジェットコースターに並ぶ人々が列を成す通路だ。そこには休憩のための椅子などはない。

 グロウはブルートの肩によりかかると『また変身してぇ~』と間延びした語調で懇願した。


「ほら、グロウもこう言ってるぞ」

「いや、グロウはあまつさえジェットコースターで寝るのが魂胆っぽいんだけど」


 ブルートは言いながら、『頼む!』と手を合わせるネルシスと、未だ肩にもたれて『お願いぃ~』と駄々をこねるグロウを交互に見た。


「……ああ、もう! 分かったわよ! 乗ればいいんでしょ、乗れば!」


 そして根負けした。座席は二人がけなので、先頭にブルートとネルシス、その後ろにグロウが一人だけ乗り込むという配置になった。

 従業員などの姿が一向に見られないにも関わらず、ジェットコースターは独りでに動き始めた。仄暗いトンネルめいたレールをしばらく直進すると、コースターはほぼ45度に傾き、上昇し出した。


「ウヒョー!」


 いつになくはしゃいでいる様子のネルシス。ブルートが、見ていられないとでも言いたげな表情で後ろを振り返ると、ブルートは既に瞼を緩く閉じ、夢の世界で更に眠りの中へ落ち込んでいた。

 ブルートは呆れ果てて、前方に待ち構える急傾斜の下りに視線を戻した。何をやっているんだ、自分たちは。


「ウヒョー! いよいよ! バンザイだ、バンザイ! 諸手を挙げろー!」


 ネルシスは子供じみて両手を掲げた。ブルートは『ほら、何やってる! ジェットコースターで手挙げないとかダメだろ!』と言われるがまま、米粒を巣へ運ぶ蟻の群れでも眺めるかのような無表情で、安全バーから両手を放した。

 三人を乗せたジェットコースターは、レールの頂点から急傾斜を真っ逆さまに降りていった。壮絶な速度で降下するコースターの行く手には、レール上に光の扉が開いている。

 三人はコースターごと、眩い輝きの中へ高速で入っていった。


~4~


 グレイ、レイン、クロムの三人は、人混みの行き交う巨大デパートにいた。


「あれ? ここって……」


 レインは辺りを見回して呟いた。


「なあ、クロム。ここ……」

「ああ……分かってる」


 グレイとクロムも、周囲に並ぶ店や建物の内装を見、何かを通じ合った。三人はこの場所に見覚えがあった。三人の家の近所では、最も大きい商業施設だ。


「どうしてクラウドが俺たちの世界を再現できるんだ……?」


 グレイは困惑した。360度、どこを見ても元の世界で見慣れたのと全く同じ光景である。たとえクラウズが殺害した人間の魂を吸収できるとしても、まだこの世界のことを知る人物は殺害されていないはずだ。

 救世軍の救世主たちは勿論、今のところ活動に参加できないとされている救世主『候補』だった人々も、パラティウムの厳重な設備の元で安住し、クラウズの脅威には晒されていないはずである。

 であれば、グレイたちの元の世界の再現など、通常では不可能であるはずなのだ。


「それは俺がお前らの記憶を覗いたからだぁ!」


 グレイたちは声がした吹き抜けの上方へ、素早く眼を向ける。ジャムダは天井のガラスに座っていた。つまりは建物の屋根の上に当たる場所である。陽光の射すガラス越しに、ジャムダは遥か下方のグレイたちを嘲笑うように見下していた。


「夢とは記憶で出来ている! これまでに経験・見聞してきたものが記憶だぁ! そしてそれがスープのようにごちゃ混ぜになって現出するのが夢! 俺はその夢を自在に操作・創造することが可能だと言ったはずだぜぇ! ということはお前らの記憶にも簡単に干渉できるんだよ!

 残念ながら記憶の改竄かいざんまではさすがに魔法の効果の範疇外だが、それでもこの能力の最強性は揺るがねぇ! なぜならお前らはこの空間においては無力にして無価値だからなぁ! この夢の世界の創造主たる俺の意のままに操ることの出来る空間! お前らは羽をもがれた鳥!

 せいぜい悪夢に抗えばいいぜぇ! そしてかつてはどこぞですれ違った同族のクズ共になぶり殺されるんだなぁ! 信じられねぇだろ!? お前らはこの実体を持たない幻によって確実に死を迎えるんだぁ! グフフフフフフフフフフフフフフフフフフフッ!」


 言い放つと、ジャムダは足下のガラスを蹴ってどこかへ飛翔した。ガラスが割れ、その破片がグレイたちの頭上へ落ちてくる。

 グレイたちはそれを避けたが、その時にはジャムダの姿はなかった。


「夢の中でなら飛べるってわけか?」


 グレイは開放された天井から見える空を眺めた。青く澄んだ空――それは、グレイの数多の記憶から掘り起こされるものと同じだった。


「……俺たちの記憶、あんな奴に踏みにじられてたまるか!」


 グレイはヤーグを出現させた。同時に二本の剣から、勢いよく炎が噴射される。グレイはその推進力を用いて飛び立とうとしたが、踏み留まった。

 見ると、周囲で買い物をしていた人々が、三人の方を見つめていた。その眼光には正気が認められず、じぃっとグレイたちにおぞましい覇気を帯びた視線を投げかけている。


「……この人たちも、ジャムダが操ってるってこと?」


 レインは悲しそうな表情を浮かべたが、意を決したようにニアを出現させ、すぐに弦を引き絞った。


「グレイ! お前はジャムダを追え! 俺たちもここを突破してから向かう!」


 クロムは双銃モノを構えながら言った。


「分かった!」


 グレイは再びヤーグの刀身に、秘技・炎天の赤火を灯す。両のヤーグを逆手に持ち、グレイの身体は上昇していった。

 炎の出力が増大し、グレイは飛鳥

ひちょう

が如き速度で、天窓から建物の外へ飛び出した。

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