Into The Phantom
~1~
スコラ学院の四階会議室にて、救世軍大隊の救世主たちと、その指揮隊長の総員が集結していた。学舎四階の総面積のおよそ三割は占めているであろう広大な一室の中央に、総勢720名の救世主が座し、その周囲を各隊長が囲うように凛と立っていた。正面では第2中隊D小隊指揮隊長のウィルが、漆黒の甲冑で覆われた面持ちを険しくして、救世主たちを見渡していた。
「今回、こうして諸君に集まってもらったのは
ウィルの声音が、いつにも増して室内に響き渡るようだった。
「諸君が捕縛したクラウドに対する尋問において、どの個体も同様の返答・証言をしたことから、我々の入手した情報の信憑性が高いと判断され、こうして諸君に開示する決定がされたのだ」
場の全ての視線が、ウィルに集約された。彼が息を継ぐ間は、誰かが固唾を飲むのがありありと聞こえた。
「まず、敵勢力の内部構成が判明した。周知の通りクラウドは、クラウズが人間を殺害し、クラウンと呼ばれる敵の首領と思しき存在に名前を与えられることで、存在的に進化を遂げた者たちで構成されている。その組織内では、かつてクラウズであった時に殺害した人間の地位によって、ある種の
平凡な一般人を殺害したクラウドは【
グレイは刹那、ウィルが自分と眼を合わせた気がした。彼の鋭くも善良な眼光が、黒い兜の下から窺えたのだ。
「――救世主を殺害したクラウドは、最高位である【
グレイの脳裏に浮かんだのは、メシアの顔だった。紅蓮の烈火を纏う大剣を操り、強者との闘争を望んで止まない狂気の殺戮者――イーヴァスを殺した張本人である。
つまりは、メシアこそがレジェンドだ。言い換えれば現状、メシアだけが、レジェンド。階級で言えば、即ちメシアが最高位というわけだ。彼を討てば、クラウド全体の戦力も格段に減退することは容易に想像がつく。
メシアは真の救世主たるイーヴァスを倒し、その能力を取り込んだのだ。その実力の程は計り知れない。
だが、かつて彼と戦った際、彼は『救世主の魂から奪取した能力を使いこなせていない』と言っていた。完全に力を制御する前に打ち倒すことが出来れば、勝利は救世軍のものとなるだろう。
逆に、このまま戦いが長期戦へと持ち込まれれば、戦況は救世軍が不利となる可能性が高い。メシアが救世主の力を用いて戦うかもしれない。加えて、万が一クラウズが救世主を倒すようなことが起きれば、クラウドの最高位レジェンドが増え、更なる脅威となり得る。
今、各国の正規軍の戦線投入は、減少はしたが皆無ではない。メシアとの一件以来、救世軍大隊の内、クラウズと戦うのは
差し当たって敵の戦力の全容が定かでないのだ。メシアが救世主の力を扱えないと思われる今の内に、早急に終戦を迎えたいというのが切実だ。
「第2中隊は今後、この
第1中隊はこれまで通り、決して戦死することなく、常に油断せずクラウズを掃討するように。タンクや他の大型クラウズの出現頻度が以前より高くなっていることもある。戦い慣れた相手と言えど、気をつけろ」
全体へ向け、ウィルは厳格に告げた。グレイたち救世主もそれを受け、改めて留意を怠らない気構えをした。
「次に、第2中隊の諸君が、クラウドの捕獲と同時に回収した装置についてだ。支援部隊研究科のメンバーが一連の装置を解析したところ、幾つかの事実が判明した。
まず、諸君が回収した装置は全て、同じ種類のものだ。あの装置は、どうやらポルタの機能を模倣して開発されている。だが本物ではない。あれらの装置は、一つとして実用することを目的に作られていないことが分かっている。いわばダミーだ。
なぜ複数のダミーを製作し、それを我々の世界の各地に点在させたかについては、あの装置を所有していたクラウドに尋問した結果、全員が同様の理由を供述した。
ポルタの機能を有する本物の装置がどこかにあるからだ。ダミーは、その所在が特定されることを避けるための
また、これまで諸君が捕獲したクラウドは全員ノービスであり、奴らは上官であるルーキーの指示に従っていたとのことだ。そして、そのルーキー階級のクラウドが本物の装置を守っているようだ」
ウィルが言葉を切った刹那を逃さず、スリートが高々と手を挙げた。それを認めたウィルが『何か質問か?』と訊くと、スリートは頷いた後に立ち上がった。
「報告を聞いていると、捕虜たちは全員、ダミーについても本物の装置についても、それぞれ同じ情報を明かしたということのようですが」
「ああ、そうだ。矛盾の生じる支離滅裂でデタラメな供述をした者もいたが、最終的には全員が同様の証言をした」
「――口裏を合わせている可能性はないのですか?」
「……実のところ、まだ捨て切れないな」
ウィルは少し思案した後、そう答えた。
「100パーセントの安全は保証しかねる。だが、これは好機と見ていいだろう。これまで我々は、クラウズ・クラウド共に決定的な打撃を与えられる情報を得たことがない。
そんな中、今回は敵の侵入経路であるポルタと密接に関わる重要な情報を得られた。たとえ何かしらの思惑が絡んでいるとしても、ある程度の危険性は、俺たちは十分考慮した。その末に、諸君には公式に有益であると認定した情報を開示している。
一定のリスクを省みて退却することは、救世主として相応しくない」
スリートはしばらくウィルの眼を直視したまま黙っていると、やがて『分かりました』と言って座った。
「では続けよう――この装置を回収・解析すれば、ポルタの機能の全容が判明し、ポルタの向こう側を調査することも可能になると、研究科の面々は考えている」
室内がざわめいた。救世主は各々、隣の仲間とポルタの隔たりの先に待つものに関して議論し、あるいは事が実現した場合に何が起こるのか危惧する声も細やかに挙がった。
グレイもウィルが告げた未来図に驚愕したが、辺りを見回すと、中には全く動揺の色を窺わせない面持ちを保つ救世主がいることに気が向いた。近くではネルシスが、まるでこの事実を前から知っていたかのような、そんな含みを思わせる得意気な微笑を浮かべているのだ。
「俺は前から知ってたぞ! これ知ってたぞ!」
「ヘイルさん! それは秘匿しておくよう言われたでしょう!」
その直後、大声で自慢するヘイルを、スリートが周囲を気にしながら制止する光景が見えた。グレイは三人の共通項として、最近、支援部隊の見学にて研究科を訪れる機会があったことに思い至った。
なるほど、おおよそはそういう
「なんか、いよいよ進展してきた感がするな」
「ああ……そうだな……」
「どうした? 不安か?」
クロムは、グレイが落ち着きのない様子に気づくと、案じるように訊いた。
「いいや、違うよ……ポルタの向こうに敵の基地があるなら、俺は真っ先に借りを返さなくちゃいけない奴がいるんだ」
「……なるほど」
そういうことか、と。クロムはにやつくと、グレイを勇気づけるように肩の後ろをドンと叩いた。グレイはやられると、仕返しとばかりに肋骨の辺りを肘で突いた。その表情にも、また笑みが浮かんでいた。
「――今度は手伝えるからな」
「え?」
クロムは突かれた脇腹を擦りながら、フッと素になって言った。
「あの時みたいに、蚊帳の外で探し回るだけじゃない。見つけた時には遅くて、全部終わってたなんてことにはならない」
「……ああ」
「お前やレインが傷ついてるのに、何も出来ない俺にはならない――今度は、俺も一緒に戦うからな」
「――ああ」
あの事件が起こった時、クロムはスリートと学院に取り残され、ウィルや他の隊長の指示を待ち、ひたすらにグレイたちを探し奔走することしか出来なかった。死闘が繰り広げられる中、自分が事態を把握することもなく駆けずり回る他になかったことを、クロムは悔いていた。
それがクロム自身の口から吐露されることはなかったが、グレイは内心、彼の思いを察していた。自分も、同じ気持ちを抱えて悩んだことがあるからだ。何も出来ず、そして何かを失って、無力だった自分を嘆く経験――これは、痛切に感じた者しか分からない心情だった。
感じた者同士なら、解り合える心情だった。
「頼りにしてる」
グレイが差し出した拳に、クロムは自らの拳をぶつけて応えた。その傍らでは、レインがその模様を横目に見て、幸福な笑みを零していた。
「静粛に!」
救世主たちの喋る声が大きくなった頃合いに、ウィルは怒鳴った。その一声で、会議室は途端に静まり返った。
「この装置の回収は、現時点における救世軍の最重要任務ということになる。明日、装置の所在と思われる地に分隊を出撃させる。
この任務に就くのは、第2中隊D小隊α分隊だ。αD2の救世主は、解散したあとも残っていてくれ。より詳しい情報と、明日の作戦について話す」
グレイはクロム、そしてレインと交互に顔を見合わせた。
「むっ! 俺たちか! 俺たちに白羽の矢が立ったわけだな! おお、鳴る! 腕が!」
「ただでさえうるさいのに、あまつさえ腕まで鬱陶しさが極まるんですか」
勘弁してください、と伏し目がちに呟くスリート。しかしヘイルはそれを気にするでもなく、がっはっはと豪快に笑った。
グレイたちは気づいていた。スリートは、何もヘイルが喧しいという理由だけで毒づいたのではない――彼が配慮したのは、周囲の反応である。
グレイたちの周辺――否、会議室に集った救世主の多くが、グレイたちに密やかな、それでいて辛辣な視線を向けていた。その眼差しには、未だ潰えぬ怨嗟、憎悪、あるいは嫉妬の類いが歪に混在しているようだった。
グレイは――レインやクロムらも――その理由については、痛々しいほど分かっていた。グレイは、かつて最初のクラウドであるメシアと対峙し、敗北した過去がある。それが救世軍に及ぼした影響というのは計り知れない。
そんなグレイが、今度は全ての救世主に認知された、最重要とまで称される任務に携わるのだ。これを快く思わない救世主が大半を占めているのは、言ってしまえば紛れもない事実である。
肩身が狭いのは今に始まったことではないが、本来それを一身に背負うべき自分が、仲間をも巻き込んでしまっている実情が、グレイの心魂を深々と抉るかのようだった。
「がんばろう!」
数多、鋭い針のような瞳に射られながらも、レインは微笑み、両の拳をぎゅっと握って意気込んだ。グレイは、クロムがそれを見て『ああ』と頷くのが分かった。
そして振り返ると、クロムが自らの拳を差し出していた――ちょうど、先ほどグレイがしていたように。
「頼りにしてる――俺もな」
半ば、本心と冗談とが入り交じったような口角の傾き具合だった。
「わっ……私、も……」
グレイがクロムの拳に、拳で以て応えようと片手を握り、それを構えたところで背後からスノウが身を乗り出し、か細い声音を吐き出した。
「が、がんばり……ます……だから……」
「……はい、ありがとうございます」
グレイが振り向いて笑ってみせると、スノウは顔を真っ赤にし、床のただ一点を凝視しながら席に着いた。
「――任せろ」
グレイは再びクロムと向き合うと、自身の拳を突き出した。
~2~
翌日――スコラ学院正門にて。
「作戦は昨日伝えた通りだ」
灰色のローブを羽織って並び立つ十名に、ウィルは厳かな佇まいで相対していた。
「クラウドの証言によると、装置はとある個人経営の宿に隠されている。隠密科の救世主が客を装って宿に連絡を取ったが、既にクラウドが店主と入れ替わっている可能性が高い。今回の敵はルーキーであると思われる。前回の任務と同じようにはいかないだろう。十分注意しろ」
「はい」
十人は口々に応えると、振り返って、開かれたヴァントの方へ歩き始めた。
「αD2、任務を開始する」
クロムが言うと、グレイたちはヴァントを通り抜けた。スコラ学院から彼らの姿は消え、同時に別の町の正規軍拠点に現れた。連結した別のヴァントの元へ瞬時に移動したのだ。
「救世主様! 任務、お疲れ様でございます!」
すると、そのすぐ傍に予め立っていたのか、一人の兵士が敬礼して、長方形に折り畳まれた一枚の紙を懐から取り出した。
「町の地図です! 今回の作戦に役立つことと存じます!」
「あ……ありがとうございます。でも俺たち、もう町の全体図を頭に入れているので、大丈夫です。お気遣い、感謝します」
グレイは、僅かの間に選び抜いた言葉で以て断った。兵士は慌てて地図を引っ込めると『こ、これは大変失礼いたしました! では、いってらっしゃいませ!』と再び敬礼した。
メシアとの一件、そして前回のクラウドの捕獲作戦で、任務を開始する前に現地の地形を完全に把握していることが、目的の完遂と生存とをより確固たるものにするという教訓を得たのだ。
そんなグレイたちは前夜、全体の会議が終わった後でウィルから告げられた任務情報を元に、現地の地理を記憶したのだった。
「おい、グレイ。どういうことだ。なぜ突っぱねた。俺は町の地図など丸っきり覚えていないのだぞ!」
「あなただけです」
ヘイルが傍で敬礼したまま不動を保つ兵士に歩み寄り、先ほどの地図を渡すよう要求すると、スリートは彼の首根っこを掴んで制止した。
「恥を知りなさい、恥を。皆さんは寮に帰った後も、食事や入浴の合間を縫って、町の構造を覚えていたんです。ネルシスさんですら覚えたというのに、あなたときたら……」
「なんだ! なんだなんだ、そのバカを見るような目つきは!」
「自覚があるようで何よりです」
スリートは呆れたように眼鏡をくいっと上げた。
「……に、にしても、珍しいじゃない? あんたが任務に真剣になるなんて」
ブルートは挑発するような口調で言いながら、ネルシスの眼前に立った。身長の関係で、ブルートは下からネルシスを見上げる構図だ。
「どういう風の吹き回しよ? もしかして、やっと救世主としての責任感ってやつが――」
「どうやらこの町には踊り子を雇っている宿が多いらしくてな。どこにどんな店が建っているか、引いてはどこにどんな女がいるのかを調べていたってわけだ。俺が女のことに関して余念がないのは至ご――ぐっ!」
ブルートは最後まで待たず、ネルシスの顔面に頭突きした。
「うちも覚えてないから地図ほしーな~」
グロウが、ふわぁと欠伸を掻きながら、ひらりと手を挙げた。その手を、チルドが跳んで無理やり下げた。
「大丈夫だよ! チルド昨日、いっしょうけんめい覚えたもん! グロウが分からないことあったら、チルドが教えてあげる!」
「あ~、そーかあ。頼もしそう~」
グロウが頭をぐわしと撫でると、嬉しいのかチルドは満面の笑みを浮かべた。
「あ、あはははは……じゃ、そろそろ行こっか」
レインが苦笑して言った。彼女の隣では、スノウがおどおどしながら、微かに頷いている。
「そうだ。ぐずぐずしてる暇はない。早く装置を回収して、任務を終わらせよう」
クロムは施設の出口の方へ歩いていった。それを見やると、ヘイルやネルシスらも、やがて彼の後を追った。
グレイは、先陣を切るかのようなクロムの後ろ姿に、何か言い知れぬ感情を向けている自分に気がついた。その正体が判然としない内に――判明しない内に――グレイは懸念を振り払うかのように、早足で彼らに続いた。
グレイたちは頭に叩き込んだ地図を標に、町の中を進んでいった。ローブの効果により、民間人が十人の正体に勘づくことはない。よほど察知能力の高いクラウドが介入しない限りは、少なくとも現地に到達するまでは容易に事が運ぶと思われた。
「ねー、グロウ。お水飲んでいい? のどかわいちゃった」
施設を出発してからしばらく経った頃、チルドは道沿いの公園に水飲み場を見つけると、歩きながら微睡んでいるグロウの裾を摘まんだ。
グロウは半開きの瞼を僅かに持ち上げ、チルドが指す方に目を向けた。
「……あ~。ありゃあダメ」
「えー、なんでなんでー?」
「
「はぁい……」
チルドは不満げに頬を膨らませながらも、諦めて足下の小石を爪先で蹴った。すると、脇からネルシスがチルドの行く手に立ち塞がった。
「おいおい、なんだか聞き捨てならない会話がふとされたもんだから、慌てて飛びついちゃったけれども、水の魔法を使うこの俺を差し置いて、水飲み場が何だって?」
ネルシスは屈んでチルドの間近に迫った。グレイは、その光景に何か良からぬ気配を感じ、歩調を緩めて様子を窺った。
「グロウがお水飲んじゃダメって」
「どうしてだ?」
「えーせー的に問題があるって」
ネルシスはチルドが指した水飲み場へ近寄った。蛇口を捻って水を出し、それを両手ですくった。ネルシスは幾らも経たない内に水を捨て、濡れた手を振りながら戻ってきた。
「確かに、あれはダメだな。えーせー的に、問題ありだ」
「そっかー……」
「代わりに、ほら」
ネルシスはチルドに掌を差し出した。その中心から、水が湧いて出てきた。彼の
「天然のミネラルウォーターだ。安心しろ」
「わーい! ありがとー!」
チルドは舞い上がらんばかりに歓喜し、ネルシスの掌に唇を当てた。口をすぼめ、じゅるじゅると彼の水を吸うように飲んでいる。
グレイは、いよいよ事態が極まってきた感を覚え、クロムが先導する一団を離れ、三人に近寄った。
「……どうして気づいた?」
すると、チルドが夢中になって掌にしがみついているのを見計らって、ネルシスは真剣な面持ちでグロウに視線を移した。
「地面はうちのトモダチ。だから色々教えてくれるし、うちも色々と分かることがあるんだ~」
「そうか……」
ネルシスは、公園の水飲み場を見つめた――何かあったのだろうか。グレイは訊ねようとしたが、チルドが顔を上げたのと同時に、ネルシスは先ほどまでの弛緩しきった笑みを浮かべた。
「このお水、おいしー!」
「当然だ。俺のお水だからな。ほら、たんとお飲み」
「うん!」
チルドは再びネルシスの掌に唇をつけた。単に水を飲んでいるだけの現場なのだが、その模様は端から見れば、チルドがさながら飼い犬のようにネルシスの掌に口づけをし、吸いつき、舐めているかのようだった。
「何をしている貴様ー!」
どこからともなく怒号が轟いた。ブルートの声だ。その後のネルシスが辿った末路は、言うに及ばないだろう。
そうしてグレイたちは、これといったハプニングに遭遇することもなく、とある宿に辿り着いた。
「この宿はな、主にバストが豊満な踊り子を雇っているんだ。つまり平坦な女などお呼びではないということさ。この世界においても、需要供給曲線の絶対的黄金比率の法則は発見されているわけだな」
「あんた、今度はそのお口も
ブルートは快活な笑みながら、黒々とした声音でネルシスを脅した。その、怒りや憎しみを心理的抑制で完璧に内包することを可能としている笑みから、彼女は先ほどの公園での一件で、何かしらを超越したのかもしれない。
また、少し離れたところでは、スノウがネルシスを前髪の下から睨んでいた。いつもは伏し気味な顔も、やや前傾した上体も、この時ばかりは若さに満ち満ちた、紛うことなき直線を描いた。グレイは、これほどまで誰かに憤怒の情を抱くスノウを、かつて見たことがなかった。ネルシスの無慈悲な発言が、よほど許せないのだろう。
「茶番はいい。中へ入ろう」
「お、おい」
急いているような足取りで宿へ近づくクロムを、グレイは慌てて引き止めた。
「民間人の客もいるはずだ。このまま突っ込むのか?」
「客として紛れ込んで様子を窺う。店主を装う奴がいたら取っちめる」
「相手はルーキーだ。バレないか?」
「大きく出て客を人質に取られでもしたら厄介だ。時機を見て一気に畳み掛ける」
「――分かった」
グレイはクロムを放し、二人で宿の中へ向かった。レインやスノウも二人に続き、残る六人は時間差で入っていく。
一挙に十人もの客が入れば、少なからぬ注意を引いてしまう。二組ないし三組に別れ、それぞれが異なる角度から敵の出方を探るというのは、この場合、隠密的に定石と言えるだろう。
中は食堂になっており、幾つもの円卓を宿泊客が囲んで食事をしている。この世界の宿は、基本的に食堂も兼ねて経営されるため、扉を開けて最初に目にするのは食堂であり、また宿泊の受付も注文と一緒にカウンターで行われる。この食堂を利用するのは、何も宿泊客だけではないのだ。ここの料理が気に入れば、宿に泊まらずとも食事することが出来る。
酒や肉、
グレイは、通常の宿であっても同様であるはずのそれらが、ここはどこか差異があるように思った。
「いらっしゃい! 宿かい? 食事かい?」
カウンターから望める厨房から、男性が何やら調理をしながら、腹部から発せられる声でグレイたちに訊ねた。
「食事です!」
「何名様だい?」
「……四人!」
グレイは振り返り、自分とクロムと同じ一団の面々を確認し、答えた。
「はい四名様いらっしゃい!」
男性が大声を張り上げると、他の従業員も唱和した。グレイたちは椅子やテーブル、食事を運ぶ従業員を避けながら、四つ空席のある適当な場所を探し、座った。
グレイは一息ついて、仲間の行方を追った。六人はヘイルとスリートとネルシス、ブルートとチルドとグロウという二組に別れ、それぞれまとまって店内を探れる位置に落ち着いていた。
「こちらαD2。目標の宿に潜入。索敵を開始している」
『了解。くれぐれも慎重にな』
クロムが通信するのが、グレイたちにも聞こえた。ウィルの返答を聞くと、レインが『はいっ!』と威勢よく応えた。
「いらっしゃいませ!」
若い男性の従業員がグレイたちのテーブルを訪れ、各々に水の入ったコップを配った。
「ダブルデートですか? いいですねえ!」
男性が次に放った一言だった。これにはグレイたちも言葉を失い、気まずい沈黙が周囲のあらゆる雑音を掻き消した。
グレイは雰囲気に耐え切れず、視線をよそに移した。すると、ちょうどヘイルの一団とブルートの一団とを同時に窺える地点に目がいった。ネルシスが、食堂の一角で艶美に舞う踊り子に手招きして誘っているのを、ブルートが遠くで憎々しげに見つめていた。
従業員の方も、その沈黙から彼なりに察した様子で、額から僅かに汗を滲ませて『ご注文は?』と話題を変えた。
クロムは、そんな男性に顔をずいと寄せ、隣に座るグレイにさえ聞こえるか否かという、微かな声で言った。
「俺たちは救世主だ。この店に敵が紛れているという情報を掴んでいる」
すると、従業員は急にハッと目を見開いた。
「救世主様!? 本当に!?」
「しっ!」
尋常ではない反応を見せる男性に、クロムは咎めるように口元で人差し指を立てた。グレイはそれとなくローブを払う素振りで、慌てふためく男性に救世主の証たるマントを見せる。
「ああ、救世主様……ああ、救世主様ぁ……」
ありがてえ、ありがてえ、と。男性は膝から崩折れそうになるとテーブルにしがみつき、震える足を懸命に制していた。
「状況を詳しく教えてくれないか?」
「ああ……ああ! もちろんです! もちろんですとも!」
男性は徐々に平静を取り戻していき、やがてクロムの問いに答えた。
「数週間前です――おやっさんが、どういうわけか俺たちの知らねえ輩に宿を譲るってんで、この宿の一切の権利を奴に譲渡しちまったんです。おやっさんは、この宿をこよなく愛してる。そんな真似するわけがねえんです! あん時のおやっさんの様子も、とても正気と呼べるもんじゃあなかった。
で、それからは奴が宿のあらゆる指揮を執った。営業自体はおやっさんの介入もあって以前と変わらなかったけど、やっぱりおやっさんの態度はいつもと何か違っていた。そしてあの野郎、おやっさんや俺たちに何も言わずに、この宿の工事をしやがった」
「工事? どういう工事ですか?」
グレイは気になって訊ねた。
「俺も何をしていたかまでは知りませんです。なにせ、奴は工事をする間、宿の営業を停止し、俺たちやおやっさんの出入りさえも禁じてしまった。俺たちは黙っちゃいなかったが、奴に反発するとおやっさんは決まって俺たちを叱った。あんなのおやっさんじゃねえ……あんなのおやっさんじゃねえよ……」
「そいつの特徴は? 出来るだけ正確に頼む」
クロムは食堂全体を警戒しつつ問うた。今のところ不審な様子はないが、油断ならない状況に変わりはない。
「赤い目……何よりもまず、あの赤い目です! 真っ赤な目……血のように赤い、まるでポルタの……」
グレイたちは顔を見合わせた。間違いない。それはクラウドの特徴と重なる。メシアや、前回の任務で捕獲した男、他のいかなるクラウドにも共通するものだった。
「ありがとうございます。直に俺たちは行動を開始します。その時になったら、お客さんを避難させてください。それまでは敵に気取られないよう、いつも通りに勤務してください」
「頼みます……おやっさんを助けてくれ! 頼みます……頼みます……」
「分かりました。分かりましたから……」
しばらくグレイに宥められると、男性は本来の職務に戻った。するとグレイは、すぐさま通信魔法で全員に呼び掛けた。
「こちらグレイ。どうやらクラウドが潜伏してるのは確からしい。多分、洗脳とかの魔法を使える。店主は無事でこそいるけど、敵の支配下にある。店員さんに、いざって時の対応を任せてあるから、とりあえずは戦闘になっても大丈夫だと思う」
『それはいいが、出されたものは絶対に飲み食いするなよ』
「え?」
珍しくもネルシスがいの一番に告げたのは、忠告であった。
「なにかあるのか?」
『さっき訳あって、ある公園の水質を調べる機会があってな。正体は分からないが、何か不純物が混じっている。ここの水も同様だ。間違っても摂取するな』
「不純物? 毒か!?」
『知らん。ともかく危ない。飲むな。日本みたいに安心して水道水を飲めると思ったら大間違いなんだよ、クソったれが』
「なんで怒るんだ……」
瞬間。グレイは唐突な目眩に襲われた。視界が歪み、思考が朦朧とする。
「な、なん……」
その身に起こった異変を訴えんと周りを見ると、どうやら三人も同様の現象に苛まれているらしく、フラフラと頭を揺らしていた。
すると、食堂の喧騒に紛れ、微かに鈍い音がしたのをグレイは聞いた。重い何かが床に倒れ伏す音――人間が倒れる音だ。視野が霞がかる中、辛うじて分かったのは、先ほどまでいたはずの六人が『いない』ことだった。
倒れたのは、紛れもなくグレイの仲間たちだ。
「どう……なっ……て……」
呟きながら、グレイは意識を保とうと必死だ。だがレインやスノウ、クロムまでも続けざまに椅子から落ち、昏倒してしまった。残るはグレイただ一人である。
「残念だったなぁ、救世主ぅ……」
グレイが凄まじい睡魔と脱力感に抗っていると、邪悪な声音が近づいてきた。現時点で九人もの人間が突如として昏倒したにも関わらず、依然変わらぬ賑わいを見せる店内。その雑踏で不自然なまでに浮き彫りとなる足音と共に、声はグレイに迫ってくるのだ。
「グフッ……なんたる愚か! 救世主ってやつは不用心なんだなぁ! 面白かったぜぇ……その体たらく。滑稽だぁ……分かってんのかぁ? お前ら、ここで死ぬんだぜぇ?」
苦痛に呻くグレイの顔を、鼻の高い不気味な男が覗き込んだ。その人物の赤い瞳と目が合うと、グレイは僅かに残った力でヤーグを出現させた。
「やるってのかぁ? やめておけよ。何人を相手取るつもりなんだぁ?」
クラウドが嘲笑すると、途端に食堂の喧騒が止んだ。グレイは周囲を見回した。先ほどまで談笑していた客たちが、その客に食事を運んでいた従業員たちが、全員こちらを向いていた。
「こ……これはっ……」
グレイは男を睨んだ。何かおかしい。この場はとうの昔に掌握されていたのだ。クラウドの隣で、今しがたグレイたちに助けを求めたはずの男性従業員が、無感情に虚空を見つめて突っ立っているのが、その証明に見えた。
「まだ気づかないのかぁ? 本当に愚かだなぁ、救世主ぅ……愚か過ぎて哀れだから、冥土の土産に教えてやるとしよう。
グフッ……俺が殺した人間は毒薬の知識があってな。その技術で俺は飲んだ者を意のままに操ることが出来る毒薬を作り、この町の水道に流し込んだんだ。つまりこの町は、今や俺の庭も同然ということになる。外部から不審な動きがあれば、直ちに俺に伝わる仕組みだ。
まあ、今回のお前らの訪問は想定外だった。認めよう。お前らがいつ、どうやって俺の情報を掴み、町に潜入したのか、全く分からねえ。だがそんなことはどうでもいい。後でじっくりといたぶりながら聞き出してやる。グフッ……。
そんな不測の事態にも即座に対応できる俺は、愚かしいお前らに毒薬を盛った。コップの水に、心肺を停止させる即効性の毒薬をな。残念ながらお前らがそれに口をつけることはなかったらしいが、それでもお前らは必ずこうなると決まっていた……この宿に入った時からな。
この宿には、俺が水道に流し込んだ毒薬を摂取していない者のみに効く睡眠薬が散布されている。部外者が侵入したら、遠からずそれを感知できる完璧なシステムを、俺は既に構築していたんだよ」
グレイは、もはやクラウドの言葉が彼方から聞こえているものと錯覚していた。意識が遠のく。睡魔が感覚を侵す。いよいよ深い混濁に飲まれようとしているグレイの思考力は、しかし何とか一つの真実を、与えられた情報から導き出すことが出来た。
この宿に入った時から感じていた、あの妙な煙たさ――あれが、グレイたちの窮地を招いた元凶なのだ。
「さてぇ、これがお前の知る最後の真実だ……楽しかったかぁ、人生ぃ? それは何よりだ。お前ら人間は徹頭徹尾、愚かしい存在だったぜぇ……グフッ、グフフフフッ!」
そこでグレイの意識は途絶えた。
~3~
グレイは目覚めると、すぐに眠りに落ちる直前の記憶を探り当て、飛び起きた。足下には柔らかい感触があり、投げ出された右手は誰かの身体に乗っていた。見下ろすと太ももの辺りに枕が置かれ、また
どうやら宿の客室のようだ。辺りを窺うと、四人の人影が横たわっているのが見えた。グレイの右手の行方は、ヘイルの腹部だった。
しかし、グレイはそれを知覚した瞬間、胸に栓でもされたかのような違和感を覚えた。何かが違う。いつもと同じ面々が、いつもと同じではない――グレイたちの分隊に、老人などいはしない。
立ち上がって、グレイは四人の状態を調べた。灯りも窓もない暗い個室ではあったが、各人の判別くらいは出来た。
ヘイルはこれまでと変わらない容姿だが、どこか身体がより筋肉質になっている感がある。腹筋は更に深々と割れ、体格もより頑強そうな外見となっている。肩幅や上腕などは、一層太さを増しているようだ。
ネルシスは顔に僅かにシワが刻まれ、やや歳を食ったようだ。しかし渋みを帯びた顎髭や、数センチ伸びた頭髪から見て、今までより格段に男の魅力を備えているように思えた。この格好でさえいれば、なるほど女性にはモテるだろう。
そしてクロムだが――彼の変貌ぶりには、グレイも驚愕のあまり、時が止まった刹那を体験した気になった。クロムの姿が、およそ中学生ほどのそれへと変化していた。今よりも幼げの残る少年の顔は、しかしグレイが確かに見覚えのあるものだった。
しかし一行の最たる異変は、クロムではなかった。残る一人の老人を見ると、彼は眼鏡を掛けていた。この面々から、彼がスリートであると思われた。だが、それをほぼほぼ揺るぎない真実と認識したところで、グレイにはにわかに信じがたかった。
何が起こったのだ。グレイはさっぱり分からなかった。クラウドの狡猾な策に陥れられ、こうして捕らわれてしまったのは分かる。が、それがどうして仲間の退行や成長及び老化へ繋がったのか。甚だ理解し難い現象である。
加えて、グレイは気づく――自分の視点が、心なしか低くなっている。グレイは真っ先に自身の掌を見た。さほど変わらないように見えるが、ほんの僅かに小さくなっているように思う。肌の色や質感も、想定する今の自分より若々しく (?) 感じられる。
「……お、おい! みんな! 起きろ! おいって!」
グレイは不安感が頂点に達すると、何かに駆り立てられるように四人に呼び掛けた。叫ぶ自分の声音も、やはり現在の年齢より幼く聞こえた。
「――おい、大丈夫か!? クラウドは!? ここはどこだ!?」
クロムはいち早く目を覚まし、グレイに問うた。彼の声もまた若返っており、本人もそれにすぐ気づいた様子だった。
「あれ? なんだ、声が……ああああああああああああああああああああ!」
クロムはモノを出現させ、鈍い銀色に煌めく銃の表面に映し出された自分の顔を見ると、普段の彼からは考えられない悲鳴をあげた。
「な、なんだこれ!? ちっちゃく……ちっちゃくなってる! グ、グレイ……グレイ! 見ろ! 俺、ちっちゃくなっちゃ……ああああああああああああああああああああ!」
クロムはグレイに生じた変化を目の当たりにすると、亡霊や怪物でも目撃したかの如く絶叫した。
「うるさいぞ、ガキ共め……」
ネルシスが眠たそうに言った。欠伸を掻きながら後頭部を揉む姿は、いつもの彼からは想像もつかないダンディーさ加減である。
「そうですぞ……今、我々は敵地にいるんですぞ……そんな大声を出しては、すぐに駆けつけて来ますぞ……」
スリート――と思しき老人が、よろよろと手を持ち上げ、眼鏡を掛け直した。その弱々しい挙動には言葉を失うが、紛れもなくスリートの仕草だ。
「……え? すみません、お爺ちゃん。どちら様ですか?」
ヘイルが訊ねた。
「何を言っておるのです……ついに脳みそまで筋肉になってしもうたのですか……儂はスリート――はええええええええええええええええええええ!?」
スリートは、目測される年齢からは到底不可能と思われる反応を示した。具体的には、天井に頭を打ちつけるほど跳び上がった。木製の部屋の天井とスリートの頭が激突し、鈍い音が響いた。
そのまま落下してしばらく動かないスリートに、しかしヘイルは豪快に笑った。
「ふっ……ふはははは! スリート!? スリートなのか!? どうしたんだ、その姿は! ……ぶくっ! ふはははは!」
「喧しいですぞ……」
大事には至らなかったようで、スリートは涙目で頭部を押さえながら、ふらふらと立ち上がった。
「いや、こんな騒いでる場合じゃ――」
グレイは言葉を切った。下から階段を上るような足音が聞こえたのだ。グレイは四人に声や音を出さないよう指示した。
「……いやぁ、何でもない。何やら声が聞こえたと思ったが、どうやら聞き間違いのようだ。俺の睡眠薬は絶対的だぁ。俺が起きろと言うまでは目覚めない、つまりあいつらは永遠に目覚めることはない。どんな不測の事態にも即座に対応できる俺は、同時にあらゆる任務を抜かりなく徹底的にこなす俺でもあるんだからよぉ」
あのクラウドの声だ。グレイは背後から肩を叩かれ、振り向いた。クロムだ。
「どうする? 一息にやるか?」
「いや、まだレインたちの居場所も分からない。下手に動いてみんなが危険な目にでも遭ったら……」
男女が分断されている状況である。人質に取られるか、さもなくば――このまま行動を起こしても、劣勢を覆せる見込みは薄いだろう。
「だよな……分かった。一先ず様子を窺おう」
クロムの言に、グレイは頷いた。狭い個室に押し込められた五人。その誰もが神経を研ぎ澄まし、緊張から生唾を飲み込んだ。
扉に最も近いグレイは、クラウドの発言を聞き漏らすまいと耳をそばだてた。
「あぁ、もうすぐ準備は完了だぁ……当初の目的とは違ったが、まぁいい。あいつらを送り込んでクラウズ共に殺させ、俺たちの勢力を更に拡大させる……グフッ、マジで完璧な計画だぁ……だが、男の方は問答無用で即刻処刑するにしても、女共の方はまだ利用価値はあるよなぁ。グフッ! 『利用価値』……グフフッ! 物は言い様だなぁ! グフフッ、グフフフフッ!」
グレイは胸中で禍々しい炎が燃え盛るのを感じた。それを理性で抑えつけることはまだ可能であったが、隣を見やると、クロムは既に二丁のモノを取り出し、その形相に彼の憤怒の念が露となっていた。グレイは外のやり取りに集中しつつ、クロムに手をかざして早まらぬよう制した。
「分かってる、分かってるぜぇ……俺は何も畜生ってわけじゃねぇ。ちゃぁんと待っててやるさ。だが、遅れるなよ……イイ女ばっかりだぁ。俺はお楽しみを延々と待っていられるほど、辛抱強い質でもねぇぞぉ……グフッ、グフフフフフフフフフフッ!」
グレイは衝動的にヤーグを出現させた。半ば無意識での行動で、本人からすれば、気がつくと両手に剣を握っていたという具合だ。
グレイは隣から視線を感じ、振り返った。クロムが、もはや我慢ならないと言わんばかりに身を震わせ、モノの引き金に指をかけていた。
双方とも、今にも噴火しかねない感情の濁流を、理性とこれまでの修行で培った強靭な精神とで御していたが、言葉にせずとも、互いに同じもどかしさを内に秘めているのは容易に分かった――もう、長くは待っていられない。
更に、グレイの脇からはネルシスが、二人に劣らぬ激しい憤りに顔を赤らめ、両手を自由にして身構えていた。彼もまた、早急にあのクラウドを殲滅することを望んでいるものと思われたが、グレイとクロムと比べれば幾分か平静だった。
「落ち着け! 落・ち・着・け!」
ただならぬ雰囲気に、ヘイルが力強く囁いた。
「誰からにするぅ? メニューは充実してるぜぇ……グフッ! ちょうど円熟しかかっている具合のメロン……酸味のキツそうなグレープフルーツ……爽やかリンゴに、しっとりブドウ……オマケにちっちゃなちっちゃなサクランボッ! グフッ! グフフフフフフフフフフフフフフフフッ!」
クラウドが陰湿に高笑いした、その時。それよりも甲高い、轟くような爆音が宿の一角を占領した。赤ん坊の泣き声である。声の方向からして、グレイたちがいる部屋の向かいだ。
「うるせぇ! 誰だぁ、赤ん坊を連れて来たのはぁ!馬鹿の一つ覚えみてぇに喚きやがってぇ! 許さねぇ! 二度と泣き叫べないようにしてやるぅ!」
クラウドが癇癪を起こしたように地団駄を踏んだ。いよいよ、ただひたすらに時機を待っている猶予はない。レインたちの居場所が分からなくとも、赤ん坊を見捨てるわけにはいかない。
救世主としての使命に駆られ、グレイは扉を蹴破った。
「辛抱強い質じゃないんだって?」
覚醒している五人を前に、クラウドは呆けた面で立ち尽くすばかりだった。
「俺もだ」
グレイはヤーグを振るった。クラウドはその一閃を間一髪で避け、その反動でよろめいた。
「なんで……どうしてぇ……!?」
続いてクロムが銃撃する。実弾ではなく、クロムの魂が弾丸となって放たれる。クラウドはそれを腹の中心でモロに受け、階段から転げ落ちた。
「なんでなんだよぉ!?」
クラウドが走り去っていくのが聞こえた。クロムがそれを追って階下へ降りていく。
「ヘイル! クロムを追ってくれ!」
グレイが言うと、ヘイルは『おっしゃあ!』と吼えて廊下の角を曲がった。
グレイは向かいの部屋の扉を開けた。そこにはレインたちの姿があった。しかし、その様子はグレイら男性陣と同様、随所に以前と異なる点が見られた。
スノウは前髪が著しく短くなり、その素顔が露となっていた。普段は漆黒の頭髪に覆われて窺えない彼女の可愛らしい素顔を、グレイ以外は初めて見ることになった。もっとも、そんな彼女は自らに起こった変化に気づいているらしく、いつにも増して頭を垂らし、なるべくその素顔が見られないようにしているが。あるいは自身を守る帳を失って、落胆しているのかもしれない。
ブルートはやや背が伸び、また胸部が豊満になっている。彼女が抱える赤ん坊が、その双頭に何かを求めているようだった。本人は、この変化を受けて満更でもない様子である。
レインとグロウについては、変化は見られなかった。
「えっ……グ、グレイ!? グレイが中学生になっちゃった!?」
レインが口を掌で押さえて叫んだ。グレイは初めて自分の変化の程度を把握することが出来たが、それよりレインの、更にはスノウの食い入るような熱烈な視線が気になって畏縮した。
変化のないレインと、14歳から成長したスノウ――現時点に限れば、グレイは二人より歳下なのだった。
「おお、ブルートか。ちょっと見ない間に大きくなったな。良かったじゃあないか。これなら俺も少しくらい気にかけてやってもいいぞ」
「何様のつもりだ変態ー!」
ブルートは顔を真っ赤にして、ネルシスの顔面を平手で叩く。
「ということは……ひょっとして、その赤ん坊がチルドさんですかの?」
スリートのしゃがれ声に、赤ん坊は応えるように呻いた。
「……おじいちゃんさぁ、だぁれ?」
グロウが寝ぼけ眼を擦りながら訊ねると、スリートは寂しそうに俯いた。グレイには彼の眼鏡がキラリと光ったように見えたが、それが虚か実かは定かでなかった。
「え、うそ!? スリートなわけ!?」
そこへブルートが追い討ちをかける。
「いや悠長にしてる場合じゃないって! クロムとヘイルがクラウドを追ってる! 俺たちも急ごう!」
「うん!」
「はっ……はいっ……!」
グレイの一声に、レインとスノウが応じた。三人は立ち上がって、すぐさま廊下へ出、階下へと向かった。
「しゃーない。俺たちも行くか」
「当たり前でしょうが」
気だるげなネルシスを、ブルートはチルドをあやしながら一瞥する。
「はぁい……じゃ、レッツゴ~」
グロウが両腕をだらりと垂らし、飲んだくれのような足取りで歩き始めた。
「ちょっ……待ってください……」
ぜぇぜぇ、と。息を荒げてスリートが言った。グロウは意にも介さず階段の方へ歩いていくが、ネルシスとブルートは立ち止まって振り返った。
「儂は走れません……申し訳ありませぬが、誰か背負っていってくれませぬか……」
スリートは壁に寄りかかり、慈悲を求める眼差しを二人に送る。一方、二人は顔を見合わせた。その厄介事を押しつけ合うかのような眼光の交点は、しかしネルシスの方へ傾いていた。
「……俺か?」
「他に誰がいるのよ。チルドを抱っこしながらなんて無理だし、そもそも女に任せる? こういうの」
「いや、俺は男女平等を支持してるぞ」
「男としてどうかって言ってんのよ」
やがてネルシスは根負けしたように溜め息をつき、スリートを背負った。スリートはネルシスの背中で『ありがとうございます……すみません……』と、延々呟いた。
~4~
グレイたち三人は、階下へ降りると食堂の一角に辿り着いた。どうやら、この宿は一階が食堂、二階が客室という構造となっているようだ。
三人は、クラウドの支配下に置かれた従業員や客たちが、一様にある一ヶ所を目指してのろのろ歩いているところに遭遇した。人混みの隙間から、カウンターの床下に、地下へと続く通路が隠されているのが見えた。
「あそこだ!」
グレイは人の群れを掻き分けてカウンターへ向かった。レインとスノウも、男性の従業員や客を押し退けるのに苦戦こそしたが、さして妨害されることなく、グレイの後を追って地下へと進んでいった。
地下の通路にも人混みがあり、三人はそれを掻い潜って更に奥へと進んだ。内部は最低限の通路の確保と、落盤を防ぐための諸々の処置がされているだけで、壁は土のままで、灯りも豆電球が疎らに備え付けられているだけという、なんとも粗末な有り様だ。
「工事をしていたって、ひょっとしてここのことかな?」
「かもな」
レインの言は正しいと思われた。急ごしらえの地下通路――造ったからには、何かしらの用途があるに違いない。その先で待つのは、おそらくクラウドが大事にして止まないものなのだろう。
グレイたちはやがて、さながらゾンビの如き緩慢にして鈍重な動きの人々の群れの先頭を追い越した。視界と通路は途端に開け、三人の眼前には質素な道が到達点へと真っ直ぐ伸びた。
進んでいくと、大きな木の板を並べて接いだだけの、かつて扉としての役割を果たしていたであろうものが倒されているところに行き着いた。その道は先の方で折れ曲がっており、角からは光明が漏れていた。この地下通路を進んできた道程と比べ、格段に明るい。
更に、その奥からは数人の男性が怒鳴っている声も聞こえた。
「行こう! 多分この先だ!」
グレイは二本のヤーグを刃同士で擦った。ヤーグは灰色の刀身に炎を纏い、それはグレイの臨戦態勢を整えると同時に、未だ視界の心もとない通路を照らす灯りの役目を担った。
グレイの背後では、レインがニアを出現させ、いつでも魔法を放てるよう弦に指をかけた。スノウもチェーンウィップを構え、彼女が走るのに合わせてジャラジャラと金属音が鳴った。
一本道を駆けていくと、グレイたちは見覚えのある巨大な装置がある広間に着いた。しかし装置はグレイたちがこれまで見たものと違い、ゴウン、ゴウン、と駆動しているような音を発していた。
更に頭上を見ると、装置の頭頂部から、ポルタやクラウドらの眼の色に似た赤の、霧状のものが噴出している。
そしてその装置の傍らでは、クロムとヘイルがクラウドと対峙していた。
「クロム! ヘイル!」
グレイはヤーグを握り直し、二人の元へ駆け寄った。クラウドは新たに三人が眼前に立ち塞がると、その面持ちを一層険しくした。
「おい、見ろ。5対1だ。お前に勝ち目はない。とっとと解毒薬を寄越して降伏するんだ。俺たちや客や従業員を、全員元に戻せ」
「断る! 誰がお前ら腐れ救世主に従うかぁ! 目障りなんだよぉ……お前らが降伏しやがれぇ!」
クロムの指示に耳も貸さず、クラウドは血走った眼をキョロキョロさせながら叫んだ。虚勢を張ってはいるが、この劣勢を軽く見ているわけでもないらしい。
「よく考えて喋るんだな。お前は最終的に10対1になる。たとえ薬で操っている人たちをけしかけても、あの人数と挙動なら、俺たちは数分と掛からず無力化できる。負けは見えてるんだ。今すぐ解毒剤を寄越して降参すれば、少なくともここで死ぬことはない」
グレイはヤーグの鋒をクラウドに向け、冷ややかに言った。
「自惚れるなよ救世主ぅ……ナメてんじゃねぇぞぉ! 俺を誰だと思ってるぅ!? いずれはレジェンドをも凌ぐ最強のクラウドとなり、この戦いにおける究極の勝利者になるジャムダ様だぁ! 英雄に敗北はねぇんだよぉ……負けんのはお前らだバカがぁ!」
クラウドは――ジャムダは壁際に背を預けて豪語した。どうやら忠告を受け入れる気は毛頭ないらしい。そうなると、グレイたちとしても取る手段は限られた。
そこへちょうど、残った五人も遅れて参入した。グロウは今にも眠りこけかねない危険な足取りで、ブルートは赤ん坊となってしまったチルドを抱いて、そしてネルシスは老人となってしまったスリートを背負って、続々とグレイたちの元へ合流した。
「おー、歩くこともままならないのか、お爺ちゃん?」
「まったく、はた迷惑な爺さんだぜ。俺まで腰痛にしようって魂胆らしい」
「…………」
ヘイルとネルシスがわざとらしく言うと、スリートはふてくされたようにそっぽを向いた。
「あんた! どうしてこんなとんちんかんなことしてんのよ! ホントぶっ殺すわよ!」
ブルートはチルドを右腕で抱え、空いた左手でジャムダを指差した。かつてないほど彼女の気性が荒くなっているように思われた。
「いいや違う……本当は俺だった……俺がお前らをぶっ殺すはずだったんだぁ! だが、殺した人間の能力がまだ魂に馴染んでいなかったらしい。お前らには昏睡状態になる毒を盛ったつもりだったんだが、どうやら間違えて『自分が一番望む時代の姿になる』毒を作っちまったようだ」
「あんた大言壮語も甚だしくない!? 勝利宣言とかするなら、もっと力を使いこなせてからにしなさいよ! 無駄にムカつくのよ!」
「このクソ女ぁ……あまり調子に乗るんじゃねぇぞぉ……俺が本気を出せばなぁ、お前を決して醒めない眠りの中へブチ込み、その肉体をこてんぱんにいたぶることだって出来るんだぁ……」
ジャムダは、その瞳に狂気を帯びていた。ブルートはその視線に射抜かれると身震いし、庇うようにチルドを抱き寄せた。
「どこまでも愚かだなぁ、救世主ぅ……まだ気づかねぇのかぁ?」
グフッ、と。ジャムダはあの不気味な笑みを浮かべた。
「今、お前らは全員、俺の目の前にいる! つまりぃ! お前らはまんまと俺の術中にハマったってことなんだよぉ!」
次の瞬間。グレイたちは激烈な睡魔に襲われる。先ほど味わったものとは異なり、今度は視界が歪み、捻れ、ぼやけていくその過程は認識できるものの、しかし意識は急速に失われていくのだ。
グレイたちはあまりに凄まじい思考力の低下に、片膝を着いてしまう。
「これが俺の本来の力! 『ファントム・アトラクト』! 薬学の知識と違って、俺自身が持つ固有の魂が宿したこの魔法の効果は、疑いの余地なく確実! お前らは永遠に醒めることのない夢の中を彷徨い、俺が支配する世界で為す術もなく無惨に死んでいくんだよぉ! 戦闘に特化した能力を持たない俺が代わりに得たのは、絶対的支配権を行使して仮想空間を構築し、愚かな虫けらが手も足も出せずにのたうち回るのを、圧倒的な力で叩き潰すことの出来る資格だったんだぁ! 死ねぇ! 救世主ぅ! お前らが最期の瞬間まで醜く足掻くのを、俺は高みで見物しておくことにするぜぇ! グフッ! グフフフフフフフフフフフフフフフフフフフッ!」
グレイたちは――今度こそ――底の知れない闇のような眠りに落ちた。
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