みんなでお出かけ 物資科・運搬科 編

~資~


 実動部隊の救世主たちは、分厚い書類の束を抱えて右往左往する人々の行き来が慌ただしい一室に訪れていた。救世軍支援部隊物資科、並びに運搬科の見学をするためである。そこにはブルート、チルド、グロウの姿もある。

 まずは物資科の活動の模様を見学すべく、彼女らはここに集ったのだ。


「これが俺たちの仕事だよ。必要な物資の調達依頼を受注して用意する、それだけだ。こんな仕事、兵隊さんに見てもらうようなもんでもねえけどなあ」


 作業服を着た男性が、ぶっきらぼうに言った。彼は今回の見学会で、物資科の案内役を任された救世主――エレコールである。


「ったく、参っちゃうぜ。俺は元の世界じゃろくでもねえボンクラだったが、この世界に送られて救世主とかいう大層な肩書きを仰せつかったもんだから、これを機に心を入れ替えて善行を重ね、あわよくば死後に御仏みほとけにでもなれたら結構だと思っていたところだったのによ。まさかこんな、狭い事務所で人様の注文を承って、四角いくそったれに大量の物資をしこたまぶち込み、それを運搬科に回す仕事に就くことになるとはよ。考えもしなかったぜ。

 おまけにこの世界に来た拍子に、俺の魂が記憶を永続させる能力なんてものを刻んちまって、仕事に関しちゃこれ以上に良い能力はねえってほど役に立つが、そのせいで、ただでさえ面倒極まりねえ仕事場の統括重役とやらに任命されちまうときたもんだ。

 これも元の世界で犯した罪に見合う罰だと言われちゃあぐうの音も出ねえが、それにしたってこれはねえよなあ……」


 何やら独り言をブツブツ宣うエレコールだった。彼の吐露する人生観のあれやこれやに、なるほど自らも似通った道程や心情を経てきたものだと共感する者は決して少なくなかったが、しかし大半の救世主は微塵の興味も理解も示さず、この男が果たして何を呟いているのか皆目見当もつかないというのが現実であった。

 沁々と感傷に浸るような表情のエレコール。これまでの生涯を見つめ直し、他の誰にも共通し得ぬ思いを馳せているのだろう。だがエレコールは、実動部隊の救世主たちが自身を注視しているのに気がつくと、ハッと我に返ったように頭を振った。


「てやんでえ、べらぼうめぇ! ともかく俺は忙しいんだ! 本当ならご同業の救世主様に、この粗末な職場の有り様を頭のてっぺんから爪先まで紹介してやりてえところだがよ、生憎と俺たちに休暇なんてあってないようなもんだからな。あの奥の倉庫に、今まで扱った依頼や注文された物資の記録表があっからよ。適当に見てって、とっとと帰んな」


 エレコールは目頭を僅かに潤ませて怒鳴ると、小脇に抱えた書類の山を持ち直し、足音の喧騒と幾度もあちこちを往復する人々の群れに消えていった。辛うじて救世主の身分を象徴するマントが発見を助けるかと思われたが、しかし見つけ出したとしても、それはエレコールではない他の救世主だった。

 実動部隊の救世主たちはしばらく立ち尽くした後、誰かが最後にエレコールの指し示した部屋の方へ向かうのを皮切りに、バラバラな足取りで歩き始めた。

 ブルートは苛立たしさに溜め息をつくと、沈んだ顔のチルドが自分の裾を引っ張るのに気がついた。


「ねーねー……なんでさっきの人あんなに怒ってたの? チルドたち、何かわるいことしちゃったかなあ?」

「気にしちゃダメよ、チルド。ああいう歳食ったおっさんはね、気難しい顔してガミガミお説教するのが好きなの。思いの丈をブチまけて、若い人にストレスを発散して、自分だけ束の間の気持ちよさに浸りたいのよ。真面目に受け止めるフリして聞き流すのが一番」

「へー……チルド、そういうのよくわかんない」

「あんたはまだ分かんなくていいのよ」

「でもチルドね、チルドがおじさんの言うこときいて、おじさんがきもちよくなるなら、そういうのもガマンできるよ?」

「もう、チルド……またそんなこと言って……」

「大丈夫だよ! みんながわるいもの『はっさん』させてきもちよくなったら、きっともっといい人になるもん! だからチルド、みんなのお役に立つの好き!」

「――ああ、あんたってば良い子ね」

「えへへぇ」


 ブルートが愛しい娘を見るような眼差しで頭を撫でると、チルドはアイスクリームが溶けるように破顔した。

 健気な少女の無垢に心洗われていたブルートは、ふと倉庫へ向かう一団に置いていかれている一人を見つけた――グロウだ。先ほどエレコールの話を聞いた位置から半歩も動かずして、立ったまま微睡まどろみに身を任せたといったところか。


「ちょっと、グロウ! こんなとこで寝てんじゃないわよ! 早く起きて! 邪魔になるでしょ! ていうか凄いわね、あんた!」


 ブルートはチルドの手を引いてグロウに駆け寄った。グロウはブルートに肩を叩かれるも一向に目覚める兆候も見せず、樹の根でも生やしているかの如く不動の下半身に支えられ、上体がゆらゆらと揺れるだけであった。

 彼女は立ちながら、完全に眠ってしまっている。


「あー、起きなさいよ! もー! 人様に迷惑かけないの!」


 ブルートはグロウの両肩を掴み、その直立不動ならぬ直立微動の身体をぐらんぐらんと揺すった。するとグロウは、鼻提灯でも割られたような顔で寝ぼけ眼を開いた。


「あー……うー……なにさ?」


 グロウは眼前で自分の両肩を掴んでいるブルートに、非難がましい視線をやった。


「なにさじゃないわよ! 見学会よ、見学会! こんなアウェーでよくもまあそんな寝てられるわね! 立ったまま!」


 ブルートに怒号を飛ばされ、グロウは不快そうに唸ると、両手の人差し指で耳を塞いだ。


「なによそれ! あたしだって好き好んでこんなことしてるんじゃないのに! ていうか年長者! こんな年端もいかない小娘に好き勝手に怒鳴り散らされていいわけ!? ないわけ!? プライドとか!」

「うぅ……『おばさん』へのカウントダウンが始まろうとしている歳頃を、もはや小娘とは呼べない……」

「ぎゃー!」


 ブルートは人目も憚らず咆哮をあげると、グロウの背後に回って彼女を羽交い締め、そのまま倉庫の方へ引きずっていった。その傍らでは、二人が何か愉快なことをしているとでも勘違いしているのか、チルドが満面の笑みを浮かべてぴょんぴょん跳び跳ねていた。


「なに笑っちゃってんのあんた! あんたも手伝いなさいよ!」

「はーい!」


 チルドは言われると、ずるずると引きずられるがままのグロウを『えいさ、えいさ』と押した。三十代に差し掛かった女性を、二人の年下の少女が押している、何とも奇々怪々な光景を、七名の救世主を含む物資科の職員が鬱陶しそうに一瞥していった。

 痛切な恥辱に心を焼かれながら、ブルートはチルドの後押しもあって、苦辛の末に実動部隊の一団に追いつくことが出来た。

 そこでブルートは振り向き、気づくことになる。倉庫の中へ順々に入っていく救世主の列が、滞っているのだ。爪先を伸ばしてみると、どうやら先頭付近の、倉庫の手前にいる救世主らが、その内部へ進むのを憚っているようだった。


「なによ、もう」


 ブルートはグロウをその場に立たせながら口を尖らせた。名店の前から続く行列よろしく、一団は僅かずつ倉庫へ進入していった。

 列が進むにつれ、ブルートは倉庫の直前に差し掛かる救世主がどのような反応を示すのか、次第に窺うことが出来た。やはり内部への進入を、最初は拒んでいるらしい。

 またも立ち尽くしたまま眠りに就こうとするグロウを叩き起こしたりしていると、やがて最後尾のブルートたちが倉庫に入る番となった。今回この場を訪れた実動部隊の救世主の総員は数十名ばかりで、倉庫へ進む順番を待つ時間も、ものの三分と掛かっていないのだが、ブルートの体感では、およそ五分以上も待たされたようだった。

 そうしてブルート、チルド、グロウの三人は、過去の記録が保管される倉庫の中へ入った。

 そこは掃除の行き届いていないのが明らかな、埃だらけの一室だった。壁沿いに棚がずらりと並び、それを大量のファイルが埋め尽くしている。置き場に困ったのか棚の上にまでファイルの山が築かれており、いつぞや崩れたらしく足の踏み場さえ侵略している有り様だった。


「うわ……」


 ブルートは自分が引いていることに気がついた。救世主が奥へ歩を進める度に、足下に沈殿する埃が舞い、誰かが咳き込んだ。

 すると突如、ブルートは自分の傍で何かが倒れる音を聞いた。ぼとぼと、がらがらと。立て続けに何かしらが棚より落下し、あまつさえ棚自体も傾倒しかけているような、不吉極まりない音である。

 ブルートは振り向くと同時に、咄嗟の判断でその場から飛び退いた。今しがた自分が立っていた場所に、大量のファイルの雪崩が押し寄せた。

 何事か見てみると、グロウが棚の下敷きになっていた。にも関わらず、彼女自身は瞼を閉じ、緊張感をつゆほども窺わせることのない寝息を掻いている。

 寝ているのだ。またしても、彼女は己の意識を侵食する睡魔に敗北し、混濁する微睡みに堕ちてしまったのだ。

 その結果が、今まさにブルートが直面した惨状である。倉庫は最早、堆積された粉塵が気管支や肺を刺激するねずみ色の濃霧めいて大気を舞い上がり、救世主たちの咳嗽がいそうを誘発させる汚染空間と化していた。


「いやーーーーーーーーーー!」


 チルドは甲高い悲鳴をあげると氷魔法プリーズ・フリーズを発動し、倉庫の内部を冷凍室よろしく凍結させた。埃は地層に埋もれた輝石のように鈍い煌めきを帯びた。その弊害は救世主たちにも表れ、急激に低下した温度に身を震わせていた。恒温動物には甚だ耐え難い環境である。


「ち、ちょっ、チチチチルドッ……なに、してんのっ……」


 極寒の冷気を肌身に感じ、歯をガチガチと鳴らしながらブルートが言った。傍では未だ棚の下敷きとなったままのグロウが、起きる素振りもなく寝ている。彼女の求めた安息は、なるほど冬眠という手段で以て得られたようだった。

 冬眠どころか凍死していやしないか、ブルートは気が気でならなかった。


「だ、だってぇ……む、むしが……」


 チルドは眼の端に涙を滲ませて答えた。その涙は瞬時に凍り、小さな宝珠の欠片のように凝固した。


「む、むむむ虫……?」

「うん……そこ……」


 チルドが指したのは、ブルートの顔の横だった。ブルートの肌が、冷気とはまた異なる要因で立った。恐怖、あるいは嫌悪である。ブルートは虫が大嫌いなのだ。

 グロウが棚を倒した拍子に、この不衛生な一室の片隅に潜んでいたものが、ひょっとしたら出てきたのかもしれない。チルドは基本的に蝶々やカブトムシなどに耐性があるらしいので、少なくともそれらに類するものでは、この場合ないのだろう。

 チルドが凍りつかせるまでの虫――ブルートは見たくなかった。しかし、この身体をも氷結し兼ねない極寒の倉庫において、それを排除しないことにはチルドも魔法を解けない。いやさ解かせない。

 チルドが指すの位置は一点だ。つまり、彼女の魔法の効力で虫は今、凍りついて動かないということ。魔法を解けば、飛行している最中の虫が、果たしてどこへ向かうのかという破滅的思考がブルートの脳を占拠した。

 排除しないことには、チルドに魔法を解かせようにも、解かせない。今の状況下で彼女に魔法を解除させる如何なる要因も、ブルートは抹殺する心境だった。

 ブルートは、ギチギチと軋む首をひねり、チルドが指す場所を見た――そこには、数えるのも憚られるほど大量の個眼を有する複眼を、四つ持った顔があった。それは黒光りする胴体で羽を羽ばたかせ、つい先ほどまでこちらへ向かって飛来していたであろうことを示唆している。

 今、チルドが魔法を解いたら――ブルートの全身で起立した体毛が凍り、彼女の肌はさながらハリネズミのようになった。


「いやあああああああああああああああああああああああ!」


 おぞましい生命体を間近に見たブルートは、その未曾有の恐怖と生理的嫌悪から本能的に変身魔法タロン・タスクを発動し、その身体を熊の形態に変貌させた。毛深く強靭な肉体は、チルドの魔法による凍結効果の影響を受けなかった。

 ブルートは衝動的に虫を払いのけた。しかし、人間ではなく熊のものとなった彼女の手は、虫を払うどころか粉砕し、その勢いのままに後方の壁を破壊した。

 人間の手と熊の手では当然、長さが異なる。腕力も異なる。半ばヒステリーを起こしていたブルートは、その辺りを失念していたのだ。

 チルドやブルートの悲鳴、そして事務所の一室が破壊される音を聞きつけ、物資科のスタッフが駆けつける。そこには現行犯である熊が腕を振り抜き、壁に穴を空けたことが明白な態勢で呆然としていた。

 ブルートは慌てて人間の姿に戻った。エレコールが人混みを掻き分け、彼女の前に現れる。


「何してんだお前ら……」


 ブルートは身体中が熱くなるのを感じた。


~運~


 実動部隊の救世主たちは、続いて運搬科の救世主が勤める施設へ赴いた。騒動の後、彼ら彼女らはエレコールや他の物資科の救世主・スタッフ陣にしこたま叱られた。またブルートとチルド、グロウは道中、同じ救世軍の面々に白い眼で見られるという、何とも散々な仕打ちに遭っていた。

 ブルートは特にチルドのことを案じていた。純情可憐な幼い少女が、大勢に責め立てられて平気でいられるわけはなかった。天真爛漫な陽気の決して欠くことがなかったチルドが、今は沈んだ面持ちで顔を伏し、気落ちしているのがありありと見てとれた。


「大丈夫よ、チルド。全部グロウが悪いんだから」


 ブルートはチルドの頭を撫で、語調をやや強めて言った。傍では歩きながらうとうとしていた様子のグロウが『むぁ?』と呆けた声をあげた。


「ううん……チルド、平気だよ?」


 俯きながら応えるチルドであったが、しかしその調子は普段とは異なっていた。数十人の冷ややかな視線を一挙に受けて尚、挫けない心の強さを保つ無垢な少女に、ブルートは落涙し兼ねない心境だった。


「それに、グロウのせいじゃないんだよ? チルドがいけないの。チルドが慌てて魔法つかっちゃったから、お部屋が凍っちゃって、みんな寒くなっちゃって……ごめんなさい……」

「あんた……もう、そんなに良いじゃなくていいじゃないのよ」

「良いコじゃないんだよ? チルド、もっとみんなとたのしいことしたいし、やさしくなりたい。だから、もっとお行儀よくしないとダメなの」

「チルド……」


 とても齢十二の少女とは思えぬ言に、ブルートは感涙必至の健気さを覚えた。ブルートは己が衝動に任せ、チルドを抱き締めた。彼女の両腕の中で、チルドは驚いたように「わー! わー!」と叫んだ。

 ところが、その声は彼女らとグロウ、三人以外の耳に届くことはなかった。彼女らが訪れた運搬科の施設は、野生的な騒音で満ち満ちていた。巨大な畜舎のような、草の積もった檻の敷き詰められた施設には、エクゥスアヴィスの鳴き声が響いていた。

 数百、もしくはそれ以上の檻の中で、エクゥスアヴィスが一頭ずつ飼育されているようだった。


「すいませーん!」


 エクゥスアヴィスの大群の鳴き声とは違う、人間の声が僅かに聞こえた。施設の奥の方から、男性が走ってくるのが見られた。男性はエレコールと似た作業服を着ているが、泥を被っているのが彼との決定的な違いだった。


「すいません、お待たせしちゃって!」


 三十代半ばほどの男性が、息を切らしながら頭を下げた。実動部隊の救世主たちは彼が案内役と悟ると、何を言われるでもなく一ヶ所に集まった。ブルートもチルドを放し、その手を繋いで (もう片方の手ではグロウを引きずって) 彼の元へ寄った。


「どうも、みなさんこんにちは。僕はエンポロス。この運搬科でエクゥスアヴィスの飼育を担当している救世主です」

「救世主?」


 ブルートは呟いた。彼女のみならず、幾人かの救世主たちも同様の疑問を口にした。彼――エンポロスは救世主のマントを羽織っていないのだ。

 エンポロスは眼前の救世主らが自分の背中辺りに視線を集中させているのを認めると、『ああ!』と思い至ったように微笑んだ。


「マントね! 確かに、アレがないと分からないよね! いやあ、マントを着るとあいつらが噛んじゃうからさ! 何回か死にかけたから、あいつらの世話をする時に着るのはやめたんだ!」


 エンポロスは背後のエクゥスアヴィスを指し、愉快そうに笑った。

 そんな彼に変人の気質を感じ、ブルートは呆れ気味になっていた。その時、ブルートは自分の腕をポンポンと叩き、『ねえねえ』と呼ぶチルドの声を聞いた。


「死んじゃいそうになったのに、どうしてあんなに楽しそうなの!?」


 眼を見開き、信じられないものを見たような表情で訊ねるチルドに、ブルートは返答に困るばかりだった。


「この科では人員の八割が、物資科から届いた注文を各地に運送するんだけど、残りの二割の人員が、こうして運送用のエクゥスアヴィスの飼育係をするんです。今ここにいるのは、全体のほんの一握りなんですよ」


 エクゥスアヴィスたちが発する鳴き声は、救世主たちに半ば喧しくも感じさせていた。


「運送はヴァントを使って、更にエクゥスアヴィスでの長距離移動になることが多いですから、見学会って言っても、運送自体の見学は現実的に不可能で。ここにいるエクゥスアヴィスたちも、つい先日運送から帰ってきたばかりで、今は休暇扱いなんです」

「にしてはやたら元気ね……」


 ブルートは耳を塞ぎたいのを堪えながら、口角を引きつらせて呟いた。後ろを振り返ると、グロウでさえも睡魔が払拭されたのか、不機嫌そうな顔をしながらも、かつてないほどに瞼をパッチリ開いていた。


「なので、今回は休暇中のエクゥスアヴィスを、皆さんに飼育してもらいたいと思います!」


 『イェイ!』と、エンポロスは自ら拍手した。やたら上機嫌である。一律に無反応な救世主ではあったが、チルドただ一人だけが嬉々として呼応した。ブルートがそれを間髪入れず制すると、チルドは「なんでー?」と不満そうに口を尖らせた。


あぶれる心配は皆無です! どころか、皆さん二頭ずつ世話してもらっても余裕ですから! さあさあ、どうぞこちらへ!」


 何やら益々高揚している感のあるエンポロスだった。気圧され気味な救世主たちは、遠慮がちな足取りでぞろぞろと進んでいった。一人が一頭ずつと向き合う形で整列し、エンポロスは満足げに列の中腹で全員を見渡した。


「じゃあ、今日は餌をあげてみましょう! 皆さんの足下に草の入ったバケツがあるでしょう。エクゥスアヴィスは草食なので、栄養のある草や一般的な野菜が主食になります――あ、野菜と言っても、僕たちの世界のものとは若干違いますけどね」


 ブルートは右足の傍に置かれたバケツを拾い上げた。中には緑色の食物しょくもつがどっさり入っており、片手では持てそうもないほどの重量だ。右隣を見ると、その重さにチルドが苦戦していた。


「大丈夫?」


 ブルートはバケツを抱えるチルドの両手を支え、一緒に胸の高さまで持ち上げた。


「ありがとう、ブルート!」


 チルドはにっこり笑って言うと、自分の担当するエクゥスアヴィスを見つめた。


「こんにちは、エクゥスアヴィスさん! チルドとなかよくしてね!」

「……あんた、動物好き?」

「うん、大好き! ネコちゃんも、ウサギさんも、カメさんも、メダカちゃんも、ワンちゃんも、ヤモリさんも、カタツムリさんも、ペンギンさんも、アホロートルさんも、ネッシーさんも、エクゥスアヴィスさんも、だーいすき!」

「そう……」


 ブルートは言葉を詰まらせた。現状ネッシーという生物について下されている結論を、彼女に告げてよいものかどうか、判断がつかなかった。一瞬の葛藤の末、結局ブルートは真実を伏せておくことに決めた。


「あたしはなあ……」


 ブルートは眼の前にいるエクゥスアヴィスを見つめた。彼女だって、何も動物が嫌いなわけではない。むしろ動物は好きだ。しかし、それはあくまでペット、愛玩動物としての動物であって、それに生物的側面を見てしまうと、途端に幻滅してしまうというのが正直なところであった。

 元の世界のテレビ番組やCMなどで見られた動物は、どこか世俗と隔離された場所にいるような気がされて、それはさながら芸能人や歌手といった高嶺の花を、高嶺の花だからこそ追っていけるという感覚に近いものだった。

 言うなれば、とても手が届きそうにない場所にいる対象だからこそ、自分のいる世界の観念とは別の思想や価値を見出だせるということによって、それに神聖な憧れや期待を寄せられるという心理に似ている。

 ブルートが日常的に、しかしながら間接的に眼にした動物たちは皆、液晶越しで、つまりは自分と距離のあるものだった。空間的にも、テレビに出ているという点では次元的にも距離が保たれているような。それは他所の家庭のペットであったり、野良であったりも同様だ。

 だが、その動物をいざ間近に見てしまうと、やはり彼女には生物的側面が眼につき、そして幻滅してしまうのだった。

 最も分かりやすい例で言えば、排泄である。テレビに出ているような動物、もしくは他所の家庭で飼われているペットであっても、それが排泄する様を見る機会は決して多くはない。

 テレビの場合、仮に排泄の模様が映し出されたとしても、それは液晶の向こうで――空間的な距離、次元的な距離、時間的な距離の確保された場所で行われたことであって、やはりどこか自分とは一線を画するような存在であるので、許容できたのだが。

 それを現実で、自分の眼の前で行われるということに、ブルートは甚だ耐性がなかった。皆無である。故に、ペットを飼いたいと友人に吐露はしても、実際はペットを飼いたいという気持ちがあるというだけで、飼う気はさらさらなかったのである。

 今も、ブルートは眼と鼻の先にいるエクゥスアヴィスの吐息が顔にかかると、まさに鳥肌を立たせた。鼻先には鼻水が滴り、体臭も生物的で、思わず顔をしかめてしまう具合だ。

 幾度となく乗り、駆ったエクゥスアヴィスではあるが、乗り物としてではなく、一つの命ある生き物であるという認識が先行すると、この性分は露呈してしまうのである。


「どう? おいしい?」


 隣では、チルドがバケツから食物を掴み、掌に乗せてエクゥスアヴィスに差し出していた。エクゥスアヴィスはチルドの手にクチバシを近づけ、与えられた餌を貪欲に食らった。

 チルドはくすぐったそうに跳ね、同時にバケツを足下に置いてもう片方の手でエクゥスアヴィスの頭を撫でた。毛深い額に触れると、チルドはより一層楽しそうに笑った。エクゥスアヴィスも撫でられると、何かを表現するように鳴いてみせた。


「そっかー、おいしいかー! よかったね!」


 チルドが頭を撫でた手でバケツから食物をもう一掴み与えると、エクゥスアヴィスは嬉しそうに喉をゴロゴロ鳴らした。

 ブルートはその光景を見ると、再び自分と向き合うエクゥスアヴィスに視線を戻した。エクゥスアヴィスは、早く餌をくれ、とでも言いたげにブルートを直視している。その瞳が宿す光明もまた、ブルートが苦手とする生物的要素の一つだった。

 眼は嘘をつかない、というのは彼女の元の世界においては知れた理論だが、それは人間以外の動物も例に漏れず、ブルートを捉えて離さない瞳は、その本能を存分に訴えかけているようだった。

 ブルートはいよいよ観念し、バケツに手を入れた。草や野菜の感触が、この時ばかりは妙に生々しく思えた。乾燥した表面が、限りなく動物の体毛と触り心地が似通っていると思えたのだ (実際に動物を触った記憶はほとんどないが) 。

 ブルートは餌を掴むと、恐る恐る、ゆっくりとその手を伸べ、開いた。宙で震える彼女の手は、ついにエクゥスアヴィスの首が届く圏内へ入った。

 その瞬間、エクゥスアヴィスは欲求を爆発させ、ブルートが手にする餌に食らいついた。ブルートは最初こそ驚き、怯えてエクゥスアヴィスの食事を眺めることしか叶わなかったが、次第に彼女の胸中に芽生えてくるものがあるのだった。

 ブルートは気づいた。愛着である。ブルートは自分の心でにわかに胎動しているのが分かった。突如として表れた感情に従い、ブルートは先ほどチルドがしていたように、エクゥスアヴィスの頭を撫でた。するとエクゥスアヴィスは、気持ち良さそうに眼をつむり、自ら頭を差し出すのだった。


「わあ……」


 ブルートは経験したことのない、筆舌に尽くしがたい感動を覚えていた。しばらく放心していると、ふと我に返って、ブルートはエクゥスアヴィスの頭を撫でるのをやめた。

 エクゥスアヴィスは途端に開眼し、その頭をブルートに押しつけた。


「わっ! ええ!? め、めっちゃ懐かれてるー!?」


 たわしにも似た硬さと、毛筆のような柔らかさとが合わさったような体毛に頬を擦られ、ブルートはこそばゆそうに身を捩った。


「わ~、うちもめっちゃ懐かれてる~」


 気の抜ける声が聞こえ、ブルートが左を見ると、隣ではグロウが自身の担当するエクゥスアヴィスに髪の毛をついばまれていた。日頃から身嗜みに気を遣わない彼女の頭髪はボサボサで、バケツの中の餌と間違われたのかもしれなかった。

 ブルートは呆れて物も言えない様子でそれを見ていたが、その向こうではチルドが幸福そうな笑みを浮かべていた。


「すごーい! もうエクゥスアヴィスさんとそんなになかよくなれたの!?」

「いや、これは仲の良さとかじゃないわよ!?」


 そんなチルドを振り返って、ブルートは気づく。先ほどまで、幼いながら自責と落胆の念に苛まれていた彼女の表情に、喜びが溢れていた。エクゥスアヴィスとの交流を通して、チルドの心を濁らせていたものが晴れたのだ。

 そしてエクゥスアヴィスは、他ならぬブルートにも変化をもたらしていた。ブルート自身、それを認めざるを得ない実感を持っていた。生き物の素晴らしさを伝授するのは、生き物であるということだった。


「……よしよし」


 ブルートは物欲しげなエクゥスアヴィスの眼差しに応え、再びその頭を撫でるのだった。


「よし! 皆さん、そろそろだいぶエクゥスアヴィスに慣れてきたことと思います。どうです、可愛いでしょう、こいつら!」


 しばらく救世主たちを放任していたエンポロスが、全員へ向けて声を張り上げた。ブルートはエクゥスアヴィスの頬を掻きながら振り向いた。彼の言を否定できない自分を自覚すると、ブルートは顔を赤らめ、八つ当たり気味にエクゥスアヴィスの皮膚をつねった。


「じゃあ、次はエクゥスアヴィスの入浴を手伝ってもらいましょう! 水を浴びることで、こいつらの毛並みは更に艶を増すんですよ!」

「えっ……」


 ブルートはぎょっとして、エクゥスアヴィスを見た。その身体はエンポロスの作業服より遥かに汚れており、泥や土、そして湿り気を帯びていた (汗だろうか) 。

 隣を見れば、右ではチルドが『わーい! お風呂ー!』と踊らんばかりに歓喜し、左ではグロウが (まだ頭をくわえられている) 気乗りしない様子で呻いていた。

 いくら生き物に慣れたとはいえ、こればかりは勘弁してほしいブルートであった。

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