みんなでお出かけ 衛生科 編

~衛~


 レインとスノウは、世界でも随一の医療技術を誇るウルプスの国立病院に構えられた、救世軍衛生科の施設に訪れていた。

 当然、病院に休みはない。救世軍実動部隊の面々が見学に赴く日であっても、平常通り入院患者が生活をし、担当医師や看護師が治療を施している。およそ60名のよそよそしい集団が院内をうろつけば、運営に支障が生じる可能性も十分考えられる。よってレインたちは、薬品や機材の搬入がされる裏手の倉庫から直接、患者のいない上層へ向かうこととなった。

 純白かつシンプルな内装の細い廊下を従業員に随伴していると、この場所のいかに厳正であるかが窺えるようだった。救世主たちは遠慮がちな小声ながらも、見知った仲間と高揚の隠せない様を述べ合った。

 粛々と救世主たちを先導していた従業員が、ふと茶色の扉の前で立ち止まり、戸を三度叩いた。何割かの救世主たちが頭上を見上げ、『会議室』と表記された掛札を目にする。


「どうぞ」


 若いながらもしゃがれたような声に許可されると、従業員は扉を押し開け、救世主たちを中へ入るよう促した。そこは広大な一室で、右手には横長のテーブルと、テーブルに沿って置かれた椅子とが一律に並べられている。そして左側には、壁際のホワイトボードの傍で、不健康そうな青白い顔で笑みを浮かべる男性が立っていた――彼の背中には、レインたちと同質のマントが纏われている――。


「皆さん、ようこそお越しくださいました。まずは、どうぞお座りください」


 男性は片方の手で、テーブルと椅子の無数にある空間を指した。同時に従業員が一礼して去っていくのを見ると、男性はその背中に『ごくろうさま!』と慌てたように言った。

 ややあって全員が座すると、男性は救世主たちを見渡してから『では』と切り出した。


「本日は、皆さんに支援部隊衛生科の活動を見学していただくという主旨の元、ここに集まっていただきました。僕からは今回の見学会の流れと、それから衛生科のチームの一つを解説させていただきます。僕は病症部のモルブスです。皆さんと同じ救世主の一人でもあります。どうぞよろしくお願いします」


 男性が腰を屈めると、レインたちも頭を下げた。


「それでは、最初に衛生科のチームの分類と概要から説明しましょう。皆さんご存知かと思いますが、医療と言っても様々な分野があります。皆さん一人一人が違った戦い方をされるように、患者さんにも様々な症例がある。怪我をした人もいれば、感染症にかかった人もいる。その中で、我々も分野ごとにプロフェッショナルを集め、対処する必要があるのです」


 男性は、胸ポケットからレインたちの元の世界のものと似通ったペンを取り出し、ホワイトボードに七つの円を描いた。


「チームは七つあります。肉体や臓器の損傷を治療する『傷痍しょうい部』。四肢の欠損や壊死した肉体の処置を担当する『再生部』。被害に遭ったことで精神的な病を抱えてしまった患者さん、魂が薄弱して会得した武器や魔法の使用が困難となってしまった患者さんの治療をする『心理部』。傷痍部や再生部とは別に、脳などの人間において最重要の部位に与えられたダメージの分析・治癒に特化した『中枢器官部』。長期の入院や重篤な病状などの理由で、患者の著しく衰退した身体機能を回復させる『身体訓練部』。キュアドリンクのような万能薬や、我々が手術や治療に扱う薬の開発・管理を担当している『医薬部』。そして僕が在籍する『病症部』は、患部からバイ菌が入るなどで起こる感染症の治療を生業なりわいとしているのです。

 また各部署の勤務地と受け持つ患者さんは階ごとに分けられているので、今回の見学会では、皆さんはひたすら下降していくことになります」


 モルブスがホワイトボードの円に文字を書いていく。レインとスノウの眼には日本の言葉が映ったが、他の救世主たち、そして書き手たるモルブス自身の眼には、それぞれ別の言語が見えているのだろう。


「今回の見学会では、僕が皆さんを各階の部署にご案内し、それぞれのチームに在籍する救世主に、チームの詳しい活動を説明してもらうという形式が採られます。兵士や民間人を治療する様子を間近に見ていただくことで、より僕たちの目的意識の共有がされることを願っています――では、早速移動しましょう。この階に医薬部のプロジェクトが展開されているので、まずはそちらへ参りましょう」


 モルブスが扉の方へ歩き出すのを見ると、実動部隊の救世主が立ち上がった。モルブスが開け留める扉を、レインたちが通過していく。全員が退室し終えるとモルブスも廊下へ出、『こちらです』と行く手を指して自身に追従するよう言った。


~薬~


 しばらく潔白な廊下を進むと、モルブスがある一室の前でレインたちを振り返り、『この部屋です』と言って、ノックをしてからドアを開けた。


「失礼します」


 モルブスが言うのと同時に、レインとスノウの眼に、部屋の内部が露呈した。元の世界でいう顕微鏡に似た機械を丹念に覗き込む人物や、液体の入ったフラスコのような瓶を慎重に揺らしている人物などが見えた。隅のテーブルや棚には、使い古されたのかページの端が折れ曲がった書物が幾つも乱雑に放られている。

 モルブスは部屋の最奥へ進んでいった。他の職員は、彼やレインたちに見向きもせず、各々の職務に勤しんでいる。レインたちは些か居心地の悪い感を抱いた。

 若干の心細さを補うようにモルブスに着いていくと、部屋全体を一度に見渡せる位置のデスクに、マントを羽織った男性がいた。膨大な数の資料の束を順に読み、億劫そうに眼鏡を外して目頭を揉んでいる。モルブスが近づいてくるのに気づくと、男性は書類の山を脇にどけ、眼鏡を掛け直して笑んだ。


「モルブス! ……ということは! ああ、君たちが実動部隊の!」


 手垢だらけのレンズ越しに、男性の瞳がありありと輝いた。さながら、本当に『救世主』を待ちわびていたかのように。


「やあ、ヘルバ。元気――では、なさそうだね」

「まったくだ。僕だって実験や試薬の検証をしたいのに、与えられる仕事といえば書類に判子を押すばかりときた。これでも研究者の端くれだい! それをこんな綺麗事を並べて繕った紙の山で埋めやがって――」

「ああ、分かった。その話は今度、じっくり聞くからさ。今日はお客さんも来てるんだし……」


 モルブスに背中を叩かれ、男性は我に返ったようにレインたちに視線を移した。男性は『ああ……そうだったな……』と項垂れると、転じて朗らかな笑みを救世主たちに向け、椅子から立った。


「初めまして。僕はヘルバ。ここ医薬部の製品開発に携わる救世主だ。仕事は怪我をした人や病気になってしまった人の治療に役立つ医薬品――と言いたいところだが、見ての通り大半が書類の監査さ」


 ヘルバは自虐的に言うや否や、再び項垂れて溜め息を吐いた。そんなヘルバを、モルブスは彼の脇腹を小突いて戒めた。


「……現在は、研究科の医療部門チームと連携して新たな治療薬の開発を目指しています。あちらさんの行動理念と目標は、僕たちのチームと非常に似通ってますから、とてもいいプロジェクトとなっていると思います」

「どんな薬の研究を進めているんですか?」


 誰かが訊ねると、ヘルバはよくぞ聞いてくれた、とでも言いたげに質問者を指した。


「今ちょうど試験薬のサンプルが量産できたところなので、早速その効果を皆さんにご覧いただきましょうか」


 ヘルバは忙しない歩調で、隣室への扉を開けた。当惑した様子の救世主たちを、モルブスは苦笑混じりに誘導した。

 その部屋には小動物を収容したケースが山積みにされ、中では野生生物の鳴き声が耳をつんざくばかりに響いていた。ヘルバは一匹の小動物を摘まんでケースから持ち出すと、モルブスやレインたちを押し退けるようにして先ほどの部屋へ戻った。慌ただしい彼の動きに、救世主たちは殊更困窮した。

 反対側の隣室へ向かったヘルバの後を追い、モルブスはレインたちを引き連れる。ヘルバは中で、スタンドライトとガラス張りのケースが置かれたデスクに近寄っていた。ケースの蓋を開け、そこへ小動物を放ると、ヘルバはスタンドライトを点灯した。


「どうしたの? ほら、もっと近くで見て!」


 無邪気な笑顔で、ヘルバはやや距離を置いたままのレインたちを手招いた。その言葉に、レインは救世主たちの最前列に位置していたため、半ば必然的に最も間近で小動物を見ることになった。スノウも、試験薬の実験を見ようと雪崩のように列を崩し、そして再編する人混みにやや出遅れ、群れを潜り抜けるようにして何とかレインの背後辺りに落ち着いた。


「このシャオは目星をつけた異性への求愛に失敗して生存意欲が欠落し、自ら食糧を確保する活動を一切しなくなってしまったんだ。僕たちが栄養を補給していなければ、数日もすれば死んでしまう」


 ケースに入れられた小動物――シャオは見たところ哺乳類のようだ。長い尻尾と耳を持ち、前歯が口からはみ出しスタンドライトの灯りを受けて微かに煌めいている。掌に乗ってしまう体躯で、ネズミとモグラを足して割ったような外見だ。

 ヘルバはポケットから食べ物を取り出し、包装を外した上でケースの中に落とした。眼と鼻の先にポトリと落ちた食べ物に、シャオは全く反応を見せない。


「このシャオが最後に食事をしたのは、今から八時間前だ。それも少量のね」


 レインは、シャオが地に伏したままピクリとも動かないことに気がついた。ヘルバにケースの中へ入れられた直後の態勢のまま、微動だにしない。レインは最前列となったことに後悔した。生きる活力のない、放って置かれればそれだけで死んでしまう儚い生き物を目にすることが、心的に辛かったのだ。

 ふと、何かが肩をかすめるようなこそばゆい感触に、レインは振り返った。スノウが背後で、苦悶の表情で項垂れていた。彼女の長い前髪が、レインの肩に垂れていたのだ。額には汗が見え、息づかいも心なしか荒いように思われた。


「スノウ……大丈夫?」


 レインが訊ねると、スノウはゆっくりと顔を上げ、僅かに頷いた。彼女もまた、か弱い命を前に心が痛んだのだろう。


「このシャオに、今からキュアドリンクに改良を加えた薬品を投与してみましょう」


 ヘルバは懐から、一見してキュアドリンクと分かる液体の入った小瓶を取り出し、シャオを仰向けにして、中の液体をシャオの口に流し込んだ。最初は注がれた液体がそのまま口の端から零れたが、やがてシャオは液体を飲み下し始めた。

 液体の四分の一ほどが消費された時点で、シャオは勢いよく起き上がり、眼前の食べ物に飛びついた。何人かが感嘆の声を上げ、レインもシャオが活力を取り戻したのを見て胸を撫で下ろす。振り返ると、スノウも安堵した様子で微笑み、深く息を吐いていた。


「従来のキュアドリンクは肉体の損傷を回復するのみだった。しかし、この新薬には精神安定効果が付加されている。負傷したことで戦意を喪失したり、戦うことそのものに恐れを抱いた者の心理に働きかけ、以前と遜色ない戦力を発揮できるんだ。

 このシャオも、新薬の効果で疲弊した精神に余裕が生まれ、生きる意欲を取り戻したというわけさ。この新薬の実用化が、僕たち医薬部と、研究科の医療部門チームの目下の課題なんだ。製品となった暁には、必ず君たちの助けとなるはずだよ」


 今やケースの中をひっきりなしに駆けずり回るシャオを横目に、ヘルバは満足そうに解説した。


「――さて、君たちも時間が押してるだろうし、今回の医薬部の見学は、このくらいにしておこうか。本当の驚きは、製品版を使った時にしてほしいからね。今日はどうもありがとう。また会える機会を楽しみにしてますよ」


 ヘルバが言い終えると、モルブスはレインたちに、自分に着いてくるよう告げて部屋から出た。何十名もの救世主を連れ立ち、再び一面が純白の廊下を渡る。


「次は一つ下の階へ降りて、心理部の活動を覗いてみましょう」


 モルブスは歩きながら、救世主たちを振り返った。角を曲がると、壁と同色の扉があった。一見するだけではそれとは分かり辛いが、見上げれば扉の上部に扉がある旨を表す標識があった。扉を開け、モルブスはレインたちと共に階下へ下った。踊り場を過ぎ、折り返しの階段を降りきったところで現れた扉を、モルブスは開いた。


~心~


 レインたちの眼にはまたも純白の風景が飛び込んだが、先頃いた階層とは雰囲気がやや異なっていた。先ほどの階にはなかった広い空間があり、傍には受付のカウンターと、そこで番をする数名の看護師がいる。またちょっとした広間にはテーブルと椅子が備えつけられ、壁面には魔晶台、棚には何冊かの本が置かれていた。そこではチラホラと、当院の患者と思しき人物たちが、魔晶台で放映されている番組を観たり、本を読み耽ったりといこっている。

 モルブスの『こっちですよ』という一声に、救世主たちは慌てて彼の後を追った。レインとスノウは、自身も知らない内に彼ら・彼女らに好奇の眼を向けてしまっていた者が少なくなかったのを目撃していた。

 モルブスはカウンターの看護師の一人に何か伝えると、許しを得て中へ入った。救世主たちもぞろぞろと彼に続く。カウンターの奥の一室に、更に数名の人物が見えた。その内の一人は、マントを纏っている。

 モルブスが戸を叩くと中の数名が反応し、直後にマントの人物が微笑みをたたえて一行を招き入れた。


「こんにちは、モルブス。そして実動部隊の皆さん。私はメンス。この心理部の一員として患者さんの治療に携わる救世主よ」


 中性的な顔立ちの女性だ。


「この階に入院する患者さんは、みんなクラウズと相対し、心的に重大な傷跡を抱えた人たちよ。患者さんの心の奥底に芽生えたトラウマを、主に自発的な告白から把握して、そこから根元的な原因の解明と治療を行っていくわ。私は魂に人の気持ちを読み解く能力が備わっているから、患者さんが私に何を伝えたくないのか、何を知られたくないのか、そういったことを汲み取って、患者さんにとって苦にならない治療を模索するの」

「……人の気持ちが、分かるんですか?」


 レインが訊ねた。彼女自身、無意識下での問いかけだった。独りでに、口から突いて出た一言だったのだ。


「そうよ。にわかには信じられないでしょうけれどね」


 メンスは優しく笑んだ。


「本当なら、これから私たち心理部が患者さんに施す治療の一環をご覧いただくところなのだろうけれど、残念ながら部の特性上、患者さんのプライバシーは厳守しなければならないの。だから実際に治療を行って見せる、という手法を採るのは難しいのね。

 だから今回は、過去に資料として残すために録画したビデオ――じゃなかった、魔晶台の映像をご覧いただくわ。素顔と声が判別できないよう編集されたものだから、そこら辺は安心してね。記録のされた患者さん本人に許可ももらってあるわ。あなたたちに、クラウズと戦って敗北した者の末路を教訓としてもらいたいという意向でお許しをいただいたのよ。あなたたちに――世界の命運を懸けて戦う救世主に、何としても勝利してほしいのね」


 何人かが生唾を飲むのが聞こえた。救世主としての使命と重責は、如何なる時もレインたちに痛烈な実感をもたらす。


「じゃあ行きましょう。これから資料が保管されている別室へ向かいます」

「分かった。じゃあ皆さん、僕とメンスさんに着いてきて」


 メンスに続いて、モルブスとレインたちもカウンターの外へ出、関係者以外の入室を禁ずる旨が書かれた部屋に入った。部屋は救世主たちの身の丈よりも高い棚が敷き詰められ、そのいずれにも山のように置かれた書類で体積の大半を占められている。

 今にも雪崩れかねないバランスで成り立つ資料の山に肝を冷やしながら、レインたちはメンスとモルブスの先導に従い、部屋の奥へ進んでいった。

 やがて魔晶台の設置された、比較的綺麗な空間に辿り着き、メンスは机に置かれたMDを再生機に入れた。


「あ、そうだ。これは完全に私個人からのお願いなのだけれど、研究科か開発科の救世主に会う機会があったら、『早くブルーレイ・ディスクを造ってくれ』って言っておいてもらえるかしら?」


 機材が魔晶を読み込んでいる間、メンスはそんなことを言った。救世主たちが微妙な面持ちでいると、魔晶台に映像が映し出された。画面ではメンスと、厚いガラスで素顔を隠された人物が向き合うように座っている。


『これより診察を始めます。まず、あなたがここに入院した経緯を話していただけますか?』

「彼はジョンさん――もちろん仮名だけどね――26歳、男性。今は退院して、職場復帰しようとしているところよ」


 自分の声に被せ、メンスは映像の患者を指した。


『はい――自分はウルプス正規軍の一兵卒です。ある日、管轄内でポルタが開門されたとの情報が寄せられ、出撃しました。大都市ではポルタは短時間しか開かないので、クラウズの勢力も決して大きくはないと思われました……実際、その通りでした。ですので、その戦いは新兵の実戦訓練とする決定が下され、新米の自分も前線へ繰り出すことになりました。

 自分は一体のクラウズと相対しました。緊張していました……同時にかなり集中していました。自分はその瞬間のために訓練を重ね、身体を鍛えてきたのですから。知り合いや友人の家族を殺した敵です。世界を脅かす害悪。自分は今まで生きてきた理由の全てを懸けて戦いました。

 ――そして、負けました。自分はクラウズに頭部を強打されて倒れました。耳の上から血が流れ出ているのが分かりました……。クラウズは目の前で、自分に武器を振り上げました。自分は……死を予感しました。恐ろしかったのです。しかし、死ぬ気など毛頭ありません。魔法で反撃しようとしましたが、魔法は放てませんでした――。上官が自分を助けてくれましたが、以来、戦場に立つと足が震え、武器を出すことも魔法を操ることもままならなくなってしまいました――』


 レインは映像を観ながら唇を噛み締めていた。

 似ていた。かつてのグレイと、彼は同じだったのだ。戦いへの恐怖、死への恐怖――誰でも、負けてしまう可能性を秘めているのだ。


「本当は、ここまで自分の内面を打ち明けられるようになるにも相応の月日が必要なのだけれどね。彼は軍人さんだったからまだ分からないけれど、民間の患者さんの治療となると年単位での慎重なケアが不可欠よ」


 メンスはそう付け加えた。

 それから幾つかの問答が交わされ、画面上でメンスがカルテに何やら書き記していく。


『――これで私からの質問は終わりになりますが、最後に、何か言っておきたいことはありますか?』


 およそ一時間をかけての診察がされた後、メンスに訊ねられると、男性は『はい』と答えてから姿勢を一度改め、そして言った。


『……この診察が、いつか他の救世主様の眼に触れるんですよね?』

『ええ、その通りです』

『で、では、これを観ているかもしれない方々へ――自分は、弱い人間です。何も守れず、何も成し得ませんでした。ですが、きっと皆様は、紛れもなく世界を救う存在なのでしょう。人々を救うべくして救う、選ばれた存在なのでしょう。ですから、どうか忘れないでください。力を持たない者たちにとっても、皆様の勝利は悲願であると。我々の勝利は、皆様が約束してくださっていると、信じていることを――不躾ぶしつけな発言、申し訳ありません。以上です』

『……はい。本日はありがとうございました』

『ありがとうございました……』


 そこで映像が一度途切れ、画面にまた別の患者が映し出されたのと同時に、メンスは魔晶台から記録媒体を取り出した。

 レインやスノウをはじめ、実動部隊の救世主は皆々、真剣な眼差しで映像を――映像に映る患者を直視していた。託された者として。あらゆる全てを救う使命を任された者として、彼の言は蔑ろにされる訳のないものだった。


「このあと、私は彼に治療を施し、ほどなくして退院させることが出来たわ。私たちが救世主として活動を始める以前は、そもそも患者さんが入院した原因である『過去の記憶』をする療法が最も効率的とされていたけれど、これは廃したの。確かに手っ取り早いかもしれないけれど、それは単なる一時凌ぎに過ぎないわ。その瞬間の記憶を抹消し、何事もなかったかのように誤魔化すことも出来るけれど、類似した状況に直面すると再び同様の症状に悩まされ、結局戻ってきてしまうわ。

 だから現在、私と心理部のスタッフが行っているのは『させる』療法。患者さんの魂が抱える問題に対して真っ向から向き合わせて、その問題への解決策を模索するのが一番良い療法なのよ。この療法なら、たとえ最終的に解決策を導き出せなくても、過去を忘れないことで教訓とし、自分の弱さを強さに変えることが出来る。恐れを乗り越えた患者さん、恐れを受け入れて且つ封じ込めた患者さんは、今までここへ戻ってきたことはないわ。

 医薬部がキュアドリンクの改良版を製造してくれたら、きっとこの療法もより確立されたものになるであろうと期待しているわ」


 メンスはMDを棚にしまうと、レインたち一人一人を順に見つめた。


「そして、あなたたちも忘れないで――誰しも満足のいく生き方が出来るとは限らない。誰しも望んだ未来を勝ち取れるとは限らない。あなたたちは自分の願いを叶えられない人たちの、揺るぎない希望だということを……忘れないであげて」


 彼女の言葉はレインの、スノウの、救世主たちの魂に沁み沁みと届くようだった。


~病~


 レインたちはメンスと別れ、モルブスの誘導に従って一つ下の階へ降った。


「次はいよいよお待ちかねの病症部ですよ、病症部! さあ、離れず着いてきて!」


 モルブスの瞳が、シャオの生体実験をしている時のヘルバに似た輝きを灯した。レインたちはそんなモルブスに半歩ほど身を引くようにしたが、間もなく彼の進路に続いた。

 この階の様子は先の心理部と似通っていた。カウンター、休憩室、開けた空間――思えば、医薬部という直接的に患者と関わる機会の希薄なチームこそが特異であり、故に拠点が置かれた階の様相も他と相違があるのかもしれなかった。


「僕たちのチームは他のところより担当が広義でね、名の通り色々な症状の病気を治療するんです」


 モルブスは両側に病室が幾つも並ぶ廊下を渡りながら、振り返らず救世主たちに言った。


「怪我をして、その傷口から細菌が侵入して重篤な感染症に罹った患者さん。流行り病を移らされた患者さん。後者の患者さんは症状の具合によって他所の施設へ移転していただくことがあるから、ここに入院しているのは前者の、それも負傷兵が多数ですね。厄介な類いの病だと、患部の周辺が壊死してしまったり……そうなると壊死部分は切断して、続いて再生部の人たちにお世話になるというケースも稀ではないです」


 レインとスノウ、何人かの救世主 (主に若い女性だ) たちが悲痛な表情をした。


「安心して。これは僕たちが配属されるまでの話だから。僕の魂に宿る力で、この問題は既におおよそ解決済み」


 朗らかな声が救世主たちに告げた。レインは横からチラとモルブスの表情を窺うことが出来たが、彼はどこか幸福そうであり、一方で切なそうでもあった。同居しているように思われるそれらに、レインは言い知れない違和感を覚えた。


「重度な症状ではないけれど、僕の治療が顕著になるような病に侵された患者さんが、先日ちょうど運ばれてきてね。許可も取ってあるから、今日はその患者さんの治療を実際にお見せしようと思います」


 モルブスはとある個室の前で立ち止まると、その扉を三回、軽く叩いた。『どうぞ……』と唸るような声が言うと、モルブスは『失礼します』と中へ入った。


「こんにちは。具合はどうですか?」

「ああ、先生……変わりないですよ。痛みはないです。と言っても何も感じませんが」


 病室では二十代前半ほどの男性がベッドに横たわっていた。掛け布団によって覆われた彼の身体だったが、その上からでもはっきり見てとれるくらいに、その右腕は肥大していた。瞬間ギプスかと思われたが、違うということもまた即座に分かった。ギプスにしては表面がゴツゴツ隆起しており、そして節足生物が歩行するように蠢いている。


「一晩もお待たせして申し訳ありません。こちらの都合で――」

「いえ、志願したのは自分です」

「……確認しますが、今日の治療は」

「分かっています、先生。自分は全部承知の上で引き受けたのですから」

「……分かりました。では、始めます――皆さんも、もっと近くへ寄っていただいて構いませんよ。あ、僕の近くへ、ね」

「自分の近くでも構いませんよ」


 若者は微笑んで救世主たちを、正常な方の手で招いた。レインたちは畏怖の隠しきれない様子だったが、彼の厚意を無駄にすることはないと、次第に病室の奥へ歩み出していった。

 モルブスが掛け布団をめくると、まるで皮膚の内側に蛇か百足ムカデでも侵入して暴れているかのように、右腕が止めどなく変形していた。誰かが短い悲鳴をあげると、男性は僅かに顔を伏せてしまった。


「これは細菌と言うよりは生物が侵入しています。彼の傷口から体内へ侵入・寄生して腕を媒介に肉体の指揮権を乗っ取ろうとしているんですね」

「そんな……悠長に説明してる場合ですか!? そんな病状なのに一晩も放置してたんですか!?」


 誰かが怒鳴った。

 スノウが涙で眼を潤ませ、口を掌で覆っているのを横目で見ると、レインは彼女の傍へそれとなく寄り添った。


「生物によっては早急に対処しなければなりません。けれども幸い、彼に侵入した生物は大したものじゃありません。ぶっちゃけ放っておけば勝手に自滅します。腕も元通りに治ります。ですから今回、皆さんに治療の過程をご覧いただくため、こうして協力を煽ったわけです」


 モルブスは男性の変異した腕の方の袖を捲りながら、彼に頭を下げた。男性ははにかみながらそれを制する。


「……過程と言っても、ほんの一手間ですけども」


 モルブスは男性の患部に右手をかざした。すると、男性の右腕から黒々としたもやのようなものが噴出し、宙を漂った。そしてそれらはゆっくりと浮遊して、モルブスの右手に宿っていく。同時に男性の右腕も徐々に正常な形へ戻っていく。湧き水のように絶え間なく溢れ出る靄は余すところなくモルブスの体内へ吸収され、決して他の何物にも流入されることはなかった。

 やがて男性の右腕が完全に元の形状に戻った時、黒い靄もピタリと発生しなくなり、モルブスはついに全ての靄を右手に収めたようだった。レインら救世主たちはもちろんのこと、協力者たる男性さえ、その表情を驚愕で強張らせている。

 一方でモルブスは、何とも達成感に陶酔するような心地の良い顔で右の拳を握るのだった。


「はい。これで治療はおしまいです」


 モルブスは男性に、今日の夕方には家に帰れますよ、と快活に笑って彼の右腕を叩いてみせ、背後のレインたちを振り返った。


「これが僕の魔法です。悪いものを吸い取っちゃうんです。現段階でのキュアドリンクだと患部の治療と、改良されても精神面の療養しか効果がなくて、外部から生物が侵入したケースには対処できないんです。だから、僕がこうして身体を張っています。あ、移らないですから安心して。僕はこの療法を実行するために免疫も獲得していますから。隔週で全面的な悪性物質を摘出すれば万事オーケーです」


 彼の顔色が青白い理由であるように思われた。


~体~


 レインたちは次いで身体訓練部の構えられた階へ訪れた。心理部、病症部のフロアと同様の構造をした階層である。モルブスの案内に従い、一行は廊下を渡ってとある一室へ入る。

 そこは、これまで目にしてきた院内のどの部屋の特徴とも合致しない異質な部屋だった。病室数十室ほどもある広大で見晴らしのいい部屋は、床に茶色のフローリングが敷かれ、また随所に手すりが設置されている。隅の方には幾つかの棚が置かれ、そこに手のひらほどの大きさのキューブやバスケットボール大の球、あるいはダンベルに似た器具もあった。

 室内では患者たちが諸々の設備を利用し、健全な肉体の再興を目指し奮起していた。手すりを支えに歩く訓練をし、隅の棚から思い思いの器具を取り出して並の握力を取り戻そうとし、数人ではあるが腕立て伏せなどをして本格的に筋力の復活を試みる患者も見受けられた。皆、平常な生活への帰還や、戦線への復帰を見据え、鍛練しているのだろう。

 そんな光景を眺めていると、訓練を行う患者の補助をしているスタッフの内、マントを纏った一人が一行に気づき、軽く手を振った。モルブスが手招きすると、目下の担当患者に何か断りを入れ、こちらに歩み寄って来た。


「初めまして、実動部隊の救世主の皆さん。俺はコルプス。見ての通り、支援部隊衛生科身体訓練部に所属する救世主だ」

身体訓練リハビリテーション部――読んで字のごとくでしょう?」


 その言が些か癪に障ったようで、モルブスはピクリと眉を痙攣させた。モルブスはコルプスの怒気を勘ぐったのか、すぐさま『冗談だよ、冗談』と苦笑した。



「ここではクラウズに襲われた一般市民の患者さん、クラウズと戦い重傷を負った患者さんが、肉体の健康を取り戻す機関さ。多くは傷痍部、再生部、中枢器官部での療養を経てここに転院する患者さんたちだ。

 長期の入院・闘病・療養は肉体的衰退を引き起こしてしまう――言ってしまってはなんだが――ある意味、仕方のないことだ。過度に安静にしていなければならないケースもある。特にこの場所は、そういった場合に利用される施設だからね。

 足を怪我すれば歩行が困難になり、四肢のいずれかでも欠損すれば自発的な行動も控えるよう宣告される。脳や脊髄にダメージを与えられたら、自分の望んだことをすら出来なくなる。

 そういった重度の負傷をした患者さんが、元の暮らしに戻るために最後に訪れるのが、この身体訓練部なんだ」


 コルプスは懸命に自らの脚で立ち、歩く患者たちを見渡しながら、至極誇らしげだった。彼の、患者たちを見つめる優しい眼差しは、彼自身が内に秘めるおのが職務への信念を物語っているようだ。


「俺は関節や筋肉にかかる負荷や運動ベクトルが、その部位を見るだけで分かる。この能力を駆使して、患者さんに無理の生じない、それでいて効率的で実用的な訓練を提供している。この病院を、患者さんが笑顔で去っていけるよう――自分の脚で歩いて去っていけるように、俺たち身体訓練部スタッフは、日々全力を挙げている」


 レインはふと、スノウが語っているコルプスではなく、他のところを注視しているのに気がついた。コルプスの言葉を聞き終えると、レインはスノウの視線を追った。

 手すりに掴まり、震える両脚で自身の体重を支えようと奮闘する女性がいた。がっしりとした体躯の女性なので、おそらくは軍事に携わる人物なのだろう。

 彼女は訓練スタッフの補助の申し出を笑って断り、上半身と不釣り合いな細い脚を立ち上げた。ゆっくりと。揺れながら。女性は徐々に開けていく視界を実感しているのかもしれない。不安げに足下をばかり見つめていた女性は、自分の腰の位置が手すりと並んだ拍子に、パッと顔を上げた。半ば焦燥の感が窺えた彼女の表情に、仄かに笑みが浮かんだ。

 僅かに口角を上げたまま、女性は着々と立ち上がっていく。背は曲がりっぱなしだが、それでも、膝は確実に直線を成しつつあった。彼女自身、一瞬一瞬ごとに視野が拡大する喜びを噛み締めていることだろう。

 そうして――ついに彼女は立ち上がった。背筋を伸ばし、脚から頭が直立し、彼女本来の身長となったのだ。

 しかし次の瞬間、女性はフッと力が抜けたように崩折れた。スタッフが彼女の身体を支え、地面に激突するのを防いだが、その面持ちは甚だ彼女の心境を案ずるものだった。レインも、反射的に眼を瞑るのと同時に、隣でスノウがハッと息を飲むのが分かった。

 だが眼を開くと、女性が笑っているのが見えた。


「立てた――立てましたよね、私!」


 自分を介抱するスタッフに問いかける彼女の笑顔は、歓喜で溢れんばかりだった。レインも、胸の奥がほんのり温かくなる感触を覚えた。その隣ではスノウもまた、密かな微笑みを湛えたのだった。

 スノウの魂は、確かな熱を灯していた。


~器~


 続いて一行は、中枢器官部の活動拠点及び患者の入院施設たる階層へ降りた。そこはこれまで訪ねた医薬部以外の階層と同様のフロアだったが、それらとは決定的な差異があった。広間のソファに腰かける患者が、一人としていないのだ。いるのは、カウンターで番をする数人の看護師のみである。

 こっちだ、とモルブスが歩き出すと、救世主たちは閑散とした空間から彼に視線を移し、慌てて後を追った。カウンターに通され、その奥のスタッフルームの中へと入っていく。


「おお、来たか。待っておりましたよ」


 戸を開いたモルブスと、彼の背後の救世主たちを振り返ると、マントを羽織る老人が白い口髭を震わせて笑った。


「皆さん、この方はキャプトさん。中枢器官部の救世主です――キャプトさん。本日はよろしくお願いします」

「相分かった」


 キャプトはよろめきながら立ち上がった。そうする様は端から見ればなかなか危うい印象が持たれ、レインやスノウをはじめ彼と初対面の何人かは、足下のおぼつかない老人の転倒を防がんと半歩ほど身を乗り出した。しかし幸い、それは杞憂に終わった。

 キャプトは救世主たちが慌てる様子を見やると、ふぉっふぉっふぉ、としゃがれた声をあげた。


「すまん、すまんのぅ。元の世界にいた時からこうなんじゃ。最近は取り分け体が言うことを聞かなんだ。じゃが、今日の見学会に支障をきたすようなことはせんから、心配には及ばんよ」


 キャプトは傍らのデスクに立て掛けられた杖を取ると、それを支えに歩いた。彼に道を空ける救世主たちに、モルブスはその後に続くよう言った。


「頭部や脊柱へのダメージは、大半の生物にとって致命的じゃ――人間も例外ではない」


 廊下にキャプトのしゃがれ声が静かに反響した。左右に病室が並ぶその廊下にさえ、患者の往来は一切ない。時偶ときたま、看護師が機材や薬品を持って病室を覗く程度だ。


「生命活動のかなめに重大なダメージを負ってしまったら、再起が絶望視されることが多々ある。我々の元の世界でも、この世界でも、それは同じ。しかし、私が授かった力なら、動力源を絶たれてしまった患者さんたちに今一度、命の篝火かがりびを灯すことが出来る」


 キャプトは廊下の中腹辺りの一室に入った。モルブスやレインらも、次いでその病室の中へ歩んだ。幾つもの巨大な機械に囲まれたベッド、その上では一人の男性が虚空を見つめていた。傍らには、年配の男女が患者に哀れみの眼差しを向けていた――彼の両親であろう。

 二人は救世主らの来訪を悟ると立ち上がり、母親が瞳に涙を滲ませてキャプトに駆け寄った。


「先生! 先生! 本当ですか!? 息子の治療が出来るって!? 本当なんですか、先生!?」


 キャプトの両腕を掴んで叫ぶ女性を、彼女の夫が宥めた。母親は我に返った様子で『すみません……』と頭を下げながら数歩退いた。


「ええ、本当です。先頃、息子さんの脳や脊髄に与えられたダメージの詳細が判明しました。今すぐにでも治療を始められますが――一応、確認をさせていただきます。連絡したように、この治療は多数の他者に見られながら行われます、よろしいですか? もしも息子さんのプライバシーを鑑みて、もしくはお父様とお母様が好まないのであれば、すぐさま退室させますが?」

「いえ。いえ……先生。息子がまた僕たちに話しかけてくれるなら、何だって構いません。目覚めた時、救世主様がお側に寄り添ってくださったら、きっと喜ぶでしょう。皆様のお役に立つことを、何にも優る至福と心得ていましたから……」


 涙ぐむ父親の言葉に、キャプトは力強く頷いた。キャプトは夫妻に『少し下がっていてください』と言って、患者に近寄った。


「皆さん、よく見ておいて」


 モルブスがレインたちを振り返った。


「皆さんには、この治療を見届ける義務がある。僕にも――」


 患者の額にかざしたキャプトの右手が、眩い光球に包まれた。光球は耳鳴りに似た、聞いていて意識が薄れゆくような高音を発している。一見してもその右手が患者に対する治癒を行っていようとは思えないが、彼の身体には変化が生じているのだろう。ベッドを囲む機材が示す何らかの数値が、みるみる変動していく。レインたち、患者の二親は、それをただ見守っていた。


「あっ……」


 レインは、隣でスノウが息を漏らすのを聞いた。


「どうしたの、スノウ?」


 医薬部の見学をした時のように、治療の様を見るのが辛くなったのかと慮って、レインは訊ねた。スノウは小さく頭を振った。


「今……患者さんの眼が、動いた……」


 レインは男性を見やった。確かに、彼の瞳は僅かながら周囲を見回しているかのように動作している。両親もそれに気づいたようで、懸命に我が息子に言葉を投げかけている。

 するとベッドに横たわる患者の喉から、微かに吐息が零れた。それは光球の発する奇妙な音に遮られて判然としなかったが、どうやら声は両親には届いたようだ。二人はもはや涙を流して息子に近寄り、一層呼びかけた。

 やがてキャプトの右手から光球が消え、患者の回復も明瞭に見られる状態となった。患者は痩せ細った腕を少し上げ、両親に触れようとした。だが長くベッドに横たわる、ただそれだけだった弊害か、その腕はすぐにパタリと布団の上に落ちた。両親は息子の名を呼びながら傍へ寄り、その手を取った。

 我が名を呼ぶ両親を見て、男性の眼にも雫が湛えられた。男性はガクガクと顎を震わせ、必死で何かを言おうとしているようだが、やはり肉体の衰弱が著しく、まともに発語が出来ないようだ。

 それでも、父と母は歓喜のあまり号泣して、息子を抱き締めていた。生きていることこそが、互いに幸せだったのだ。

 キャプトは黙したまま、病室の出口へ向かった。レインたちも、モルブスに言われるまでもなくそれに従った。


~再~


 キャプトと別れ、レインたちはモルブスと共にまた階を降った。衛生科の見学も、いよいよ二つの部を残すのみとなった。この階層は、その内の再生部のフロアである。

 心理部、病症部、身体訓練部、中枢器官部のフロアと同様、救世主たちはカウンターの奥の部屋へと通される。扉を開けると数人のスタッフが彼らを振り向き、そして中にはマントを纏う一人がいた。


「やあ、僕はサナーレ。再生部の救世主さ。主に人が失った手足をまた生やすことを仕事としているよ」


 それは長身の男性だった。


「じゃあ早速見てもらいましょうか。皆さん、もう五回くらい似たような説明をされてるんでしょう? ここはもう手っ取り早く、ちゃっちゃと進めて、最後の階へ降りてもらうことにしようではありませんか。さあ、どうぞこちらへ」


 パンッと手を叩き、サナーレはレインたちが成す列を割るように部屋から出ていった。彼らを先導したモルブスが入室してから、実に十数秒後のことであった。やや当惑気味の救世主たちに、モルブスは苦笑して彼に着いていくよう言った。


「僕の魔法は、端的に言うと細胞を増殖させるものなんだよね。失われた部位を構成『していた』細胞を再現して増殖、それをかつてあったその人の身体の一部として活動させることが、そのまま治療となるわけ」


 サナーレは足早に廊下を歩きながら、早口で言った。初見より彼から、どうにもそそっかしい感の持たれる救世主たちだった。


「その細胞を再現するためのデータを導き出すのがちょっとした手間になってしまうけれど、そこからは僕のステージさ」


 サナーレは突き当たりの左手にある病室を無遠慮に開けた。彼が『失礼します』と言い終えたのは、病室に入って数歩進んだ後のことだった。

 患者は若い三十代半ばほどの男性で、物憂げに窓の外に広がる街並みを見つめていた。サナーレとレインたちの来訪に気づくと、男性は飛び起きた。


「先生! 先生、本当ですか!? 俺の腕が治るって! 今日!」


 男性が興奮したように訊いた。その拍子に掛けていた布団がめくれ、男性の首から下の状態が露となった――彼の右腕は、肘から先よりなくなっていた。


「はい。どうぞ落ち着いて、落ち着いて。治療の前に一つ確認しますけれど、今日は救世主の皆々様が同席します。いいですね?」

「ああ構わない。俺の腕が治るなら何だってな。書類にもマル付けて頼んだろ――なあ、早いとこやってくれ! 俺ぁもう一度、利き腕で飯を食いてえんだ! あと一日たりとも左手のみで読書なんざしたくねえ!」

「ええ、分かりました。分かりましたとも」

「頼むぜ――俺ぁ軍人なんだ。手前てめえの使い慣れた方の腕でなきゃ、剣も振れずに食いっぱぐれちまう――」


 落ち着かない様子で呟く男性に、サナーレは少し嫌な顔をして、『あまり動かないでくださいよ。腕が欲しいからって、もう二本も生やされたくはないでしょう?』と窘めた。

 レインやスノウ、何人かの救世主たちが批判的な視線を、サナーレからモルブスへ移した。

 こんな人物が人の治療を行っているのか――とても看過できたものではない彼の横暴な振る舞いに少なからぬ憤りを覚えたのだ。モルブスは額に若干の汗を滲ませて『根は良い人なんだよ……』と宥めた。


「――じゃ、始めますよ」


 サナーレは男性に無色透明な液体の入った小瓶を手渡し、彼がその中身を飲むのを見届けると、右上腕のに巻かれた包帯を解いた。レインたちの眼差しが、再びサナーレに向けられる。

 サナーレはまず、外気に晒された男性の患部――右上腕の切断面を、豪快に手で抑えた。一見とてつもない苦痛が伴うような所業だが、男性は至って冷静だ。一瞬こそ驚愕の面持ちを浮かべたが、今やそれはサナーレへではなく、平静を保っている自身へ向けられているらしかった。

 先ほどの液体。あれが一種の麻酔薬であることが、レインたちには分かった。キュアドリンクのように傷を治癒する薬品があれば、痛覚を麻痺させる薬品もあるのだ。

 サナーレはもう片方の手を、ちょうど男性の左腕の全長とほぼ一致する位置に掲げた。男性の右上腕の延長線上だ。おそらく、この手のある位置が、男性の右腕のおおよそのたけなのだろう。

 サナーレの片手、そしてそれに抑えられた男性の患部から、唐突に光が放たれた。夕刻の西陽が地平の彼方へ消え行く頃合いに、病室は純白の輝きで照らされる。

 サナーレは男性の患部を抑える手を、徐々に動かしていった――否、彼の手は押されているのだ。男性の患部に。男性の患部より再生される、新しい肉体に。

 そう。男性の腕は甦っていった。肘から先の肌が少しずつ現れ、男性の失われていた部位が復活することで、サナーレの手を押し返しているのだ。それは生きている力。男性の腕が確かに存在していることの他ならぬ証明であった。

 治っていく我が腕を見て、男性は歓喜に喉を震わせた。救世主もまた、部屋の中心で、その光景を刮目していた。失われたものが復活する。それはさながら死者が甦るのと遜色ない、神技しんぎに等しい事象だ。レインたちのまなこからは、同時にサナーレに対する疑念の一切が消えていた。

 やがて、サナーレの両手の甲が重なった。その頃には、男性の腕は指先の蘇生を除いて全て再生した状態だった。左腕と見比べると、肌の色はやや白く、また体毛も薄く生まれたてのような潤さが目立った。

 サナーレは片手をのけ、男性の手先の再生を開始した。サナーレの掌に、男性の綺麗な五指の付け根が触れた。親指の関節、先端が構成されたのを先触れに、小指、人差し指、薬指――そして中指の二つの関節と、ついに先端が男性の手として生まれた。

 男性の右腕は完治した――サナーレが手を放すと、男性は何よりもまずもう片方の手でもって、再生された右腕の至るところを触った。生きている感触を、実感を、文字通り肌で感じているのだ。


「爪ばかりは硬蛋白質こうたんぱくしつを別途投与して角質化させる必要があるので、物を掴んだりとかはもうしばらく待っていてください。なに、ほんの数日で生えてきますから。爪が生えたら身体訓練部へ移転して、再生部分の筋力などを復活させることになります。再生はしましたけれど、生まれたても同然ですからね、その腕。あと、体毛や体色についても、左腕の状態を参考に今後自然と元に戻っていきます。

 腕の形が完全に元通りになるまでの間は、昼夜を問わずそれなりの痒みが生じますけれど、掻いたりして傷とか作らないよう、くれぐれもお願いしますよ――せっかく取り戻した身体、お大事にね」

「……ありがとう、先生! ありがとうございます!」


 男性が鼻水を垂らして奉謝するところを、サナーレは黙って振り返り、病室の出口へと歩き出した。


「はい。以上が再生部の治療活動です。おしまい。次は傷痍部へ行ってください。最後の部。僕は忙しいんでお見送りとか出来ませんけれど悪しからず。なるたけ早く出ていってもらえますかね。見世物じゃあないし、僕は忙しいんで」


 口早に救世主たちに告げるサナーレの顔が、どことなく赤らんでいるようだった。


~傷~


 いよいよもって最後の階に降り立った救世主たち。一階であるにも関わらず、そこには待合室の類いはなく、五階までのような椅子と机、魔晶台が幾つか並べられた広間があった。軍病院という特性から、外来患者の概念が希薄なのだろう。

 これまで通り (医薬部を除いて) モルブスが、実動部隊の救世主の来訪を告げる。


「申し訳ありません。先生は只今、急患の患者様の治療を行っております。先生の施術が終了するまで、あちらの方でお待ちください」


 奥の部屋は少々狭いので、と看護師が指した廊下の先には、玄関口よりも大きな扉が佇んでいた。もうじき陽が沈む時分、仄暗い廊下の端で待ち構える扉が、どこか不気味にさえ感じられるレインたちだった。


「ちょうどいい。皆さんに紹介したいものがあるんです」


 モルブスは救世主たちを手招きすると、その扉へと歩き始めた。今まで訪ねた病室のあった廊下よりも長い通路だ。そこは手洗い場や更衣室、掃除用具入れなどあり、患者より職員の行き来が多いようだ。

 モルブスに追従し、レインたちは扉の先へ進んだ。そこは、初めに彼女らがこの病院に入る時用いた倉庫と同様の広い空間だった。ただ一つ、先ほどの倉庫と決定的に異なるのは、その部屋の隅に、二つの巨大な柱がある点だった。


「あれは……」


 レインが呟くと、モルブスは彼女の考えを肯定するように、優しい笑みを湛えて頷いた。


「そう、あれはヴァントです」


 モルブスの言に、他の救世主たちも一斉にレインの見る方を向いた。


「現地の医療施設で対処し切れない患者さんは、最寄りのヴァントを介してここへ搬送される。傷痍部のスタッフさんたちは特に、そういう突発的なケースを想定しての活動となるから、本来のスケジュールの通りにいかないことも多々あるんです」


 ヴァントは世界中で繋がっている。大都市の主要軍事施設には例外なく置かれており、ヴァント同士の連結を介せば、どこからでも、どこへでも移動が可能だ。


「外来の患者さんの受け入れは出来ないけれど、それでも当院は、常に世界中の患者さんの治療に携わるよ。これまでも、そしてこれからも」


 救世主たちはいつの間にやら散開していた。ひたすらに入院患者の実態とその治療を間近に見続け、知らず知らず疲弊した心身を休息させたいのかもしれない。

 レインは自ずからヴァントの傍へトボトボ寄っていった。ここから、ありとあらゆる戦地より、ありとあらゆる傷・病を抱えた人々がやって来る。そんな現実に悲愴していると、やがてスノウも彼女の隣に近づいた。


「……スノウ、大丈夫?」

「……うん……」


 レインはスノウの顔を覗き込んだ。スノウは咄嗟に伏したが、すぐに頭を元の通りに上げた。


「レ、レインちゃんだって……」

「……私?」

「うん……患者さんとすれ違う時、患者さんと向き合う時……悲しそうだった……」

「そう?」

「うん……」

「そっか……悲しい、か――うん。悲しい。私、悲しい」


 レインは空を見上げた――何層もの天井に遮られた、開放された世界を。


「……私も、悲しい……」


 スノウもまた、レインと同じ場所を見た。彼女の長い前髪が流れ、弱々しくも確かな光の灯る瞳を僅かに露見させた。


「どうして……『悲しい』なんだろ?」

「…………」


 レインの問いに、スノウは黙ってしまった。分からないからだ。その答えは、誰にも分からない。答えなどない。二人の少女の魂を打つ言い知れない感情の奔流、その真相は目下に迫る夜闇の中にさえ、存在しないのだ。


「お待たせ、諸君」


 広い倉庫に、聞き慣れない男性の声が響いた。救世主たちが振り返ると、モルブスの背後に男性が立っていた。


「私はウヌス。支援部隊衛生科傷痍部の救世主――済まなかったな。急な要請だったもので、最適な態勢が整えられなかった。立ち話もなんだから、一先ず中へ入ろう」


 救世主たちが集まったのを見計らって言うと、男性はモルブスと共に院内へ引き返した。レインやスノウらも、二人に続いてヴァントの倉庫を後にした。

 ウヌスはモルブスと救世主らを引き連れ、廊下の中ほどに設けられた休眠室の扉を開けた。


「いやあ、済まないね。本当はカウンターの奥に部屋があるんだけれど、人が多くてね。申し訳ないが、ここで辛抱してもらいたい」


 レインたちはウヌスに促されるままに部屋へ入った。中には数台のベッドが置かれ、部屋の中央に椅子と、テーブルの上に飲み物があった。右手には棚があり、その中は豆粒大の錠剤の入った瓶で埋め尽くされている。また左手には医学書の類いが陳列された本棚が構えられていた。

 『どうぞ掛けて』とウヌスが言うと、ベッドや椅子に近い救世主たちがそれぞれ腰かけた。大半の救世主は立つしかない。レインやスノウも、棚の端に何とか居場所を見つけ、そこに落ち着いた。

 場が静寂すると、ウヌスは『それでは』と切り出した。


「改めまして、私は傷痍部のウヌス。一応、衛生科の救世主全体のチーフなども兼任している――さて、諸君がここへ来てから、各部でどのような説明を受けたのかは想像するに留めておくけれど、残念ながら傷痍部では実際に治療の現場に立ち会ってもらうことは出来ない。

 この部は臓器の損傷を含めた、あらゆるケースの重傷の患者さんを治療する。スピード勝負だ。腹部を斧で裂かれた患者さんを放っぽって見学会を始めよう、なんてことは有り得ない。

 先ほど運ばれた患者さんも、一刻の猶予も許されないほどの重体だった。他の部のように、安静にさせられる状態を確保した上で詳細な治療法を導き出すという手段を採れないんだ。

 だから治療そのものに関しては、私の使う魔法についてしか言及することは出来ない。ご了承願いたい」


 ウヌスは腰を屈めた。


「私は対象の傷を治す魔法で患者さんの怪我を治療する。言葉通りの意味だ。『傷を治す』という効果の魔法――この世界の歴史においても、善行の神と称された救世主と、数人の英雄のみに見られた能力だ。裂傷、火傷、打撲、骨折、脱臼、内出血、潰瘍――首から下、背骨より前方なら治療が可能だ。

 だが、脳や脊髄などの繊細な部位の治療は出来ない。これらは単なる治療で済む問題ではないからな。心臓に関わる特に重篤なダメージの場合も、この魔法が使えない時がままある。完璧な魔法などない。完璧な医療など、ない。それを補うために、衛生科は七つの部によって構成されてるんだ」


 ウヌスが言葉を切ると、救世主の一人が手を挙げた。


「ここに入院する負傷兵の話を、これまで何度も伺いましたし、この目で実際に見てきましたが、いずれの問題もキュアドリンクで解決できるんじゃありませんか? 個々人の所持数を増やしたり、在庫を多く確保したりして――」

「キュアドリンクは現在、枯渇している」


 ウヌスの一声に、救世主たちがざわついた。


「昨今、クラウドが民間に紛れて潜伏している。決して遠くないところに隠れ潜む脅威に、最近では民衆がキュアドリンクを買い求め、開発企業の生産が追いついていない。軍部もその影響で従来のようにキュアドリンクを入手できていないのが現状だ」

「そ、そんな……」


 レインは呟いた――思えば、グレイと行きつけの商店を訪ねた時、前より品数が少なかったような気がされた。


「――これまで六箇所もの医療現場に赴いたんだから、きっと諸君は同じ話を何度となく聞かされているかもしれない。けれど、私は言わなければならない。ここにいる患者さんのために。患者さんの家族のために。友人のために。この世界の全ての人々のために」


 ウヌスは一人一人の顔を見つめた。


「誰かが戦う一方で、誰かが傷ついている。誰かが悲しんでいる。この世界においては、その原因の最たるものがクラウズだ。今まで傷ついた人々が、そしてこれから傷つくかもしれない人々がいる。現時点で、奴らに対抗できる最有力の組織は、他でもない私たち救世軍だ。諸君は、中でも前線で奴らと戦うことの出来る者たちだ。医者がでかい口を叩くなと思う者もいるかもしれない。けど、これは確かなんだ。痛みを知る人がいる。痛みに耐える人がいる。そして痛みに支配され、死んでいく人がいる……。

 ――終わらせよう。この戦いを」


 ウヌスの言葉を、誰もが真に受け止めていた。


「レインちゃん……」


 スノウに袖を摘ままれたのを感じ、レインは振り返った。


「私……今日の見学会で、思ったの……悲しんでるだけじゃ、ダメだって……私、何も出来ないままじゃ、ダメなんだって……私より悲しい人を、救わなきゃって……私、たち……きっと、頑張らなきゃいけないって……」


 レインは、スノウの前髪に覆われた瞳を見た。その芯に、彼女の強い思いを具現するかのように光があるのを。その光が、彼女の魂であることを。


「……うん!」


 レインは頷いた。この悲しみはきっと、愛で満ちていた。

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