山と海と人の夢

~1~


「キャンプに行こう!」


 風呂上がり、スコラ学院男性寮の一室で、寝巻きに着替え終えるとヘイルが叫んだ。グレイは嬉々として彼の言葉に耳を傾け、他の三人は轟々と響き渡るかの如き声音に不快そうな顔をした。


「男同士でキャンプ! それは青春! 深き森林と高き山河を越えた先にある、炎の闘技場! さながら仲間内の友情を試すかのような険しい前途を潜り抜けた先に待つは! 真髄! 熱血にして灼熱たる男の美学だ!」

「分かったから黙れ」


 クロムは舌打ちをしてピシャリと言った。


「黙らない! いいか、この愛すべきクソ野郎共め! 男たるものなあ! 山を登らないでどこ登るんだ! お前らは生粋の腰抜けか? 自然に見放されたうつけ者か? 洒落臭い! 甚だ以て洒落臭い! 山を登って河を泳いで! 飯を焼くのが男だろう! この一大イベントに参加しないとかのたまう不届き者はなあ! 言っておくぞ! いいか! 俺は泣いて馬謖ばしょくを斬る覚悟なんだ! 文句があるならなあ! 死をも厭わないくらいの気構えでかかってこいやド畜生め!」

「あぁ?」


 どうやらその豪語が逆鱗に触れたらしく、クロムはモノを両手に持ってベッドから這い出てきた。ヘイルを睨みつける眼光は一見して尋常でない憤怒を宿しているのが分かり、グレイとスリートは慌てて彼を制した。


「くだらん。男だけのむさ苦しいキャンプになんか誰が行くか。俺は嫌だね。絶対的に嫌だ。男女比9対1じゃなきゃ、俺は一歩も動かんぞ」

「あなたは、いい加減その救世主あるまじき煩悩を改めてください……」


 スリートはクロムを懸命に抑えながら言う。それを、ネルシスは鼻先であしらった。


「なら除夜の鐘でも鳴らすんだな」


 どうしてイタリア出身のネルシスが除夜の鐘を知っているのか、グレイはクロムを羽交い締めながら疑問を抱いた。


「はあ……どいつもこいつも救世主あるまじき薄情者だ。どうしてそう仲間の催す祝祭を拒む?」

「当たり前だ。同じ隊の仲間ってだけで、一緒にキャンプに行くなんて大学のサークルめいたことをするほど親密では、正直ない」

「誰がクソ野郎だ、この馬鹿が」


 やれやれとでも言いたげなヘイルに、ネルシスとクロムが罵詈雑言の限りを尽くす――とても最年長に対する言動ではないなと、グレイは思った。


「……待ってください。今、祝祭と言いましたか? 僕たちに何か祝うようなことが……?」


 スリートが思慮深げに言うと、ヘイルは真新しい右頬の引っ掻き傷を擦ってニヤリと笑った。その笑みを見ると、クロムの表情がますます険しくなった。


「よくぞ言ってくれた……よくぞ言ってくれたと言ってくれよう! そうだ! 今日は祝おう! 俺たちの仲間

とも

、グレイの帰還を!」

「……え、ええ!? 俺!?」


 突拍子もない展開に、グレイの声は裏返っていた。


「そうだそうだ! そうだとも! これはなあ、お前ら! 修行を終えて戻ってきたグレイの『おかえりキャンプ』という、実は心優しい性分である俺の粋な計らいだったのだ!」

「随分と恩着せがましい物言いですね……」


 スリートは怪訝そうな顔をした。クロムの方は、その表情から憤怒の色が失せ、少し驚いたような面持ちをしている。

 クロムにとって、グレイは親友である。修行から帰ってきたグレイのために開かれる催しならば、それを頭ごなしに否定するわけにはいかない。複雑な感情の渦巻く昨今ではあるが、それでも親友なのだ。彼の帰還を祝したいという心情は強かった。


「……そ、そういうことなら早く言えよ……ちゃんと食料とかテントは確保してあるのか、おい」

「問題ない。食料は食堂のおばちゃんに協力を得て、厨房の巨大冷蔵庫を借りている。テントはここだ」


 そう言ってヘイルは、ベッドの下から大きなバッグを取り出した。バッグの口からは固い素材の布と骨組みとが突出している。


「ロケーションは?」

「ソムニウム地方のムンスさんだ。そこの三番キャンプ場を予約してある。近くに海もあってな。頂上からの景色は荘厳にして無二ともっぱらの噂だ」

「日取りは?」

「明日の未明だ」

「……おい、そうと決まれば早く寝るぞ。やるからには徹底的にやる」


 言い放つと、クロムは音速が如き俊敏さでベッドに飛び込み、布団に潜った。その様をヘイルは満足げに、スリートは心底驚愕したような面持ちで、そしてネルシスは呆れ顔で見ていた。


「おいおい、これがグレイの『おかえりキャンプ』とやらなら、どうして女も誘わない? 祝うなら分隊総出で祝うのが筋じゃあないか?」


 ネルシスは何やらほくそ笑むのを堪えるように、口角をひくひくと痙攣させながら言った。すると、ヘイルは一転して意気消沈した。


「いや……俺も誘ったんだ。仲間が帰ってきたぞ、一緒に祝うぞ、と。でも、ブルートが前々から女五人で海水浴に出かける計画を立てていたらしくてな」


 ネルシスは稲妻が走ったかのように飛び起きた。スリートはそれを不快そうに一瞥するが、ヘイルは構わず続けた。


「俺は言ったんだぞ? 馬鹿かと。たわけかと。あんぽんたんかと。塩分が豊富でだだっ広いだけの水溜まりで遊ぶのと、数週間の修行をようやく終えて戻ってきた仲間に歓迎会を開くのと、どっちが大事なんだと。俺は言ってやったぞ。当然後者だと」

「馬鹿はお前だ。このたわけ。あんぽんたん。何をどうしたら後者を優先しようだなんてそんな軽挙妄動に及べるんだ。前者だ前者、前者に決まってるだろ。このすっとこどっこいのボンクラ野郎」

「言ってやったら、だ。ブルートの奴、大事は大事だけど、海水浴の方が優先順位は上だと宣いやがったんだ」

「そりゃあ至極常識的了見だな」

「俺は怒ったさ。怒鳴り散らしたとも。ふざけるんじゃあないと。この薄情者めがと。魑魅魍魎の悪鬼羅刹めがと」

「俺は今お前を百鬼夜行の真っ只中に蹴り飛ばしてやりたいくらいだけどな」

「それが奴めの逆鱗に触れてしまったらしくてな。いきなり虎に変身したかと思えば、俺の顔に爪を立ててきやがった……」

「……ほう、その傷か」

「ああ……」


 ヘイルは血の気の失せた顔をして、右目の引っ掻き傷を撫でた。


「あの冷酷無比さ加減は尋常じゃない……忌々しい。忌々しいことこの上ないぞ。この世界の忌々しさ選手権グランプリを受賞できるぞ……バンパイア伯爵やウェアウルフに引けを取らない残虐さの持ち主……恐ろしいです。末恐ろしいです……」

「バンパイアは種族であって、伯爵はドラキュラです」


 小刻みに震え出したヘイルに、スリートは眼鏡をくいっと上げて言った。


「なんでもいい――その海水浴とやらはどこでやるんだ?」


 怪しい眼光を煌めかせ、ネルシスはヘイルに詰め寄った。


「ん? いや、そこまでは聞いていないぞ。いかんせん険悪なムードだったからな。少しでもまかり間違えば、たぶん殺し合いになっていた……あの爪牙、あの殺意……見る……きっと悪夢に見る……」


 ヘイルは我が身を両腕で抱き、『早く寝よう』『今日は枕の向きを変えよう』などと独り言を呟きながら床に就いた。ネルシスの方は、何やら陰湿に含み笑いをしながら横になった。

 スリートはしばらく突っ立っていると、自らも二段ベッドの上段に上がった。眼鏡を枕元の台に置き、そのまま仰向けになる。

 やがてグレイも眠る気になったのか、不意に電気が消え、部屋は夜の闇と静寂に包まれた。

 すぐには睡魔に襲われず、スリートは思案しながら、天井をぼうっと見つめていた。ヘイルの提案、クロムの心変わり、ネルシスの意味深な笑み――先頃行われた一連のやり取りを何度となく思い返してしまう。

 そうしていると、スリートはおもむろに寝返りを打った。眼前に真っ白な壁がある。壁面の一つ一つの模様が、なんだか顔のように見えた。

 スリートは眼を瞑ると呟いた。


「――絶対グレイさんのためというのは建前

たてまえ

でしょう」


 幸い、その微かな声音が聞こえた者はいなかった。


~2~


「海に行くわよ!」


 ある朝、スコラ学院女性寮の一室で、ブルートは言った。既に起床していた他の四人ではあったが、皆彼女の轟々たる声音に怯んだ。


「正確には明日行くから、今日はそのための水着を買いに行きましょう! まさか召喚された時、たまたま荷物の中に水着が紛れ込んでいたなんてラッキーは有り得ないでしょ?」

「チルド持ってるよー!」


 ふふん、と得意気なブルートに、チルドが意気揚々と手を挙げた。そこには紺色の、元の世界におけるスクール水着があった。


「違う。チルド。駄目。それは水着じゃなくてウェットスーツよ。今すぐしまいなさい。お買い物しよう。もっとちゃんとした可愛い水着を買ってあげるから」

「えー! だってこれ、チルドがちっちゃい頃から着てるのにぃ……」

「だってもへったくれもありません。ほら、早く着替えて。そんなはしたなさの権化的害悪は放っぽって。いくら女同士の海水浴でもね、外には危険とデンジャラスがたくさんあるの」

「いーやーだー! チルドこれがいぃいのー!」


 チルドはスクール水着を抱き、床を縦横無尽に転がり始めた。危機を感じた三人はベッドの上に避難し、ブルートはかつて見たことのないチルドの挙動にたじろいでいた。


「わ……わかった、分かったわよ。分かったから! だから泣かないで? ね? ほ、ほら、近くに美味しいケーキ屋さんが出来たから。食べに行こ? それならいいでしょ? 水着は買わなくていいから、ケーキ食べに私たちに着いて来よ?」


 狼狽えながら下手に出るブルート。しばらく彼女にあやされると、やがてチルドは床を転がるのを止め、満面の笑みで起き上がった。


「うん!」


 キャッキャと跳ねるように喜びながら、チルドは着替え始めた。


「――ねえ、ブルート。遊びに行くなら、グレイたちも誘ったらいいんじゃない? 外には危険とデンジャラスがたくさんあるなら、護衛も兼ねて……ね?」


 レインが言うと、スノウも飛び起きて激しく頷いた。その光景を見ると、ブルートはやれやれとでも言いたげに溜め息を吐いた。


「そしたら必然的に他の男共も誘わなきゃならなくなるでしょ? 考えてもみなさいよ。あんた、ネルシスに自分の肢体を晒すなんて暴挙に及べる?」

「お……及べません……」


 だったら私たちで行くしかないでしょ、と。ブルートは自らも外出の支度を始めた。レインも力なく項垂れながら、自分の着替えを箪笥から出していく。スノウからは明らかに影響が見られ、靴下を前後逆に履いてしまう始末だった。


「ふわあ~……そういえば、なんかグレイたちが夜明け前に学院から出ていくのを見た記憶があるよ~……」


 グロウが欠伸を掻きながら言った。


「あいつら、今日はキャンプに行くらしいわよ。私もヘイルに、女子を引き連れて来いって誘われたけど、断ったわ。虫とか嫌だし。それにキャンプなら確実に明日の海水浴に間に合わないわ。でもあんまりしつこいから、右目を引っ掻いてやったわ」


 ブルートは再び枕に頭を落としかけたグロウを、さながら猫にするように服の襟を掴み、無理矢理ベッドから引き剥がした。


「……で、海に行くのはいいけど、どこの海に行くの?」

「ソムニウム地方のマーレ海岸よ。そこの三番ビーチに目星を付けているわ。そこから近くの山を一望できるらしくてね。パラソルの下で寝そべりながら拝む山頂は、潮風や陽光と相まって極楽にして唯一と専らの噂らしいわ」

「へえ、そうなんだ。結構いい場所を見つけたのね」


 レインは着替えた服の上に救世主のマントを纏いながら言った。段取りはしっかりしているらしいことに安堵し、次いで灰色のローブを羽織る。

 各々が支度を済ませ (グロウの支度が済むのを、四人は十分待った) 、五人は朝の商店街へ出向いた。早朝の街ということもあって往来は比較的閑散としており、また五人分の灰色のローブの効果も相乗され、彼女らは普段のような一般人の批難がましい視線に脅かされることなく、女性洋服店に辿り着いた。

 チルドは店内の一角に置かれた椅子に座り、途中でブルートが買ったケーキを食べて至福の笑みを零していた。グロウは水着を一着だけ取るとそのまま会計を済ませに行き、他の三人はそれぞれ好みの水着をいくつか選び、試着室へ入っていった。

 レインとブルートは一着一着、着る度に互いに見せ合ったが、スノウの方は気後れして中々その姿を表そうとしなかった。数分してやっと出てきた彼女の水着姿は、果たして可憐だった。

 レインの選ぶ水着は、どれもスタンダードで無難なものばかりだ。派手でなく、それでいて地味でもない、良い意味で普通のビキニだ。

 一方でスノウは、肌の露出の少ないものを好んでいた。自分に自信がない彼女の性格が如実に現れている、そんな水着である。

 対して、ブルートは自身のプロポーションを存分に披露せしめんという魂胆の象徴とも取れる水着を選択している。しかし、それらは全て共通して胸部のボリュームをそれとなくオブラートに包むかのような構造だ。

 三人は互いの水着姿を披露し合った。


「……レイン。あんたやっぱり、その……大きいわね」

「…………」


 ブルートが苦笑を浮かべて言うと、スノウは黙しながら頷いた。


「や、やだ……ちょっと、ブルート、やめてよ……」


 それをレインは、やはり苦笑して否定する。その表情はどこか複雑そうだ。


「ふんっ。いいわよ別に。どうせあたしはペチャパイですよーだ。それでいいのよ、それで。路地裏を通る時とか困らないし? 重くならないし? 屈みやすいし? それにね。あたしには仲間がいるのよ、仲間。……ね、スノウ?」

「…………」


 卑屈になって、ブルートはスノウの肩に手を回し、彼女に微笑んだ。その笑みから言い表し難い強制力が感じられたが、珍しくもスノウが頷くことはなかった。むしろその面持ちには僅かに苛立ちが見られる。


「ち、ちょっと、だからそんなことないってば……私も仲間だよ、仲間。ね? そんなヘソ曲げないで? ね? そんな眼で見ないで……」


 ブルートの眼力は一層強まり、いよいよレインも困り果てていた。


「さ、行こう、スノウ。所詮あたしたちとは次元が違うのよ。雲泥の差、月とすっぽん……ん? 月とすっぽん……すっぽんぽん……はっ! これってもしかして、海水浴とかかってる!? あはははは! こりゃ傑作だわ!」

「…………」


 自分のギャグで馬鹿笑いする、自虐と嫉妬の念で常軌を逸した様子でバシバシとスノウの肩を叩くブルート。

 その手をスノウは、なんと嫌悪を露にして払いのけた。唖然とするブルートを他所に、スノウは目尻を上げてレインの方へ寄った。


「……私は……ち、違うから……」


 何か強い信念を秘めた語調で、スノウは言う。それを、レインもただただ見ているしかない。


「私は、まだ……発展途上だから……お、大きくなる、ポテンシャルが……あるから……」


 齢十四の少女が、齢十九の少女に宣戦布告をした瞬間だった。されたブルートは次第にワナワナと震え始め、その表情はと言うと、筆舌に尽くし難い恐ろしさである。

 もしかすると、ヘイルはこの表情をしたブルートと相対したのかもしれなかった。


「……言うじゃない……言うじゃないのよ、ええ? スノウ……」


 唸るような声音で言うが早いか、ブルートは二人に飛びかかり、その乳を憎悪に任せて揉みしだかん勢いで両手りょうしゅを伸ばした。レインとスノウは慌てて逃げるも、錯乱状態となったブルートに組み伏せられ、悲鳴とも嬌声ともつかない叫びが店内に木霊した。

 一方でチルドは、会計を終えたグロウの膝の上に座り、嬉々としてケーキを貪っている。三人が楽しげに戯れ合う様から、彼女は胸中で開花するかの如く芽生える予感に笑みを隠しきれなかった――なんだか楽しい海水浴になりそうだ。


~3~


 早朝のソムニウム地方、ムンス山のふもと――大きなリュックサックを背負った五人の男が、ウルプスの街のレンタル店で借りたエクゥスアヴィスから降りた。


「うはっ! 着いた! 着いたぞっ! やっほー!」


 ヘイルは両手で円を作り、それを口元に構えると叫んだ。数秒すると、山へ向けて発せられた言葉が幾重にも重複して返ってくる。


「やっ、やま! びこ! 聞いたか、おい! これが山びこってやつだぞ! すげえなあ!」


 齢二十八の男がはしゃいでいた。クロムとネルシスは、そんな彼を少し離れたところで、忌避するような眼差しで見ていた。スリートは、付近の海から吹き寄せる潮風を受けると、煩わしそうに髪を掻き上げた。

 グレイは、近くの高台に上った。朝陽の昇りかかった海が見える。黄金色に輝く水面が眩しかった。その光景は神々しく、煌々としていた。


「……というか、本当に良かったんでしょうか? あんな状態のグロウさんを放ったらかしてしまって――彼女、夢遊病よろしく噴水広場を徘徊していましたよ。あの様子だと、起きた頃には自分が学院を彷徨っている記憶は欠落していると思われます……」

「大丈夫だ、大丈夫だ。グロウのことだから、心配はいらないだろう。それに寝ている最中の記憶がなくたっていいじゃないか。道路に飛び出して死ぬことはない。だってこの世界には車なんてないからな」

「で、ですが――」

「お前は昨夜見た夢の内容を覚えてないと気が済まないのか? 昨日の夕食は何を食べたのか思い出せないと悶々として狂ってしまう奴なのか? 違うだろ。少なくともグロウは絶対に、そんな繊細さを持ち合わせてはいない。起きた時に足に泥が付いていても、それを何とも思わず二度寝するだろう」

「そ、それもそうでしょうけれど――」

「そうなんだ。大体、記憶なんかなくたって、女は顔が綺麗で胸が大きくて脚が細ければいいんだよ」

「よくありません。どうしてそんな下賤な物言いが平気で出来るのか、僕は甚だ疑問ですね。そんな価値観を持っていて、よくおおっ広げに女性を口説けますね。あなたは水面に映る自分に見惚れているのがお似合いでしょう」

「はっはっは、生意気なことを言う眼鏡くんだ……ジョークに決まってるだろうが」


 あしらうように笑い飛ばすネルシスに、クロムは遠くから鋭く舌打ちした。グレイは高台から降り、それを懸命に『まあまあ』となだめる。自分のために開催されたキャンプで喧嘩が起きるのは、グレイとしては何としても避けたかった。


「よし! 登ろう! こんな早起きして来たのに、雑談にかまけて気づいたら夕方でした、なんて御免被るからな!」


 うわっはっは、と。ヘイルは豪快に笑いながら歩き始めた。スリートは軍手を嵌めた手で眼鏡をくいっと上げ、ネルシスは欠伸を掻いて彼を追った――朝に弱いネルシスも、今日はいつもと比べ寝起きの良い方だった。起床して十数分は愚痴を零してばかりいるのが日頃であるのを鑑みて、憎まれ口を叩く一方で今日を待ちわびていたのかもしれなかった。

 グレイは東より出づる朝陽から、三人の後ろ姿に視線を移すと、クロムの肩をとんと叩いた。


「俺たちも行こう。キャンプだキャンプ、俺のおかえりキャンプ。しこたま食ってひたすら騒ごう」

「はっ、こんなの筋トレだ筋トレ」


 ムスッとして毒づくクロム。グレイは一笑すると彼の背中を押し、三人に続いて山を登り始めた。地平線の彼方より現る太陽が、さながら五人の前途に幸あれと微笑んでいるかのようだった。

 山道は険しかった。想像を絶する傾斜が五人の両脚に着々と疲労を蓄積させていく。ネルシスは水筒の水を惜しむことなく飲み下していき、それを横目に四人は一抹の不安を抱いた。キャンプ場に到着するまでの配分を考えなければ、下手をすると中腹に辿り着く頃に限界を迎えてしまう、なんてことも十分に起こり得る。


「……おい、ネルシス! もうちょっと節約して飲め! 保たないぞ!」

「うへー、無理無理、そいつは無理な相談だぜ」


 クロムの忠告に、ネルシスは聞く耳を持たない。むしろ嘲笑を思わせる表情で答えるネルシスに、クロムの面持ちは怒りで歪んでいく。


「あー! マジもう無理! 飲みてえ! バケツ一杯分の水を飲みてえ! 飲もう! たらふく飲もう! どてっ腹にエンジェルフォール!」

「おい馬鹿! 本当に足りなくなるぞ! ――ああ、クソ! 勝手にしろ!」


 クロムはそれきり、ネルシスが水筒を取り出す度にそれを一瞥するものの、特に何を言うこともなくなった。

 しばらく歩くと、五人は足場が安定せず、一歩踏み外せば落下しかねない危うさを孕んだ地点に到達した。


「ここは危険だな……たぎるぜぇ……俺の中の男的情熱が炎となっているぜぇ……おっしゃあ! ここは俺が先行して安全を――」

「いえ、僕が先頭を歩きましょう」


 雷の如く轟かんばかりの声音で叫ぶヘイルを遮り、スリートは凶悪な断崖の傍へ躍り出た。


「むむっ……おい、なんだスリート。俺の不可逆的情熱の前に立ち塞がるなよ」

「ヘイルさんが列の中ほどにいれば、万が一誰かが落ちた場合でもトリプルスピアで助けられる可能性があります。ネルシスさんも魔法での救出が出来るでしょうから、お二人の両隣に誰かいる列順がいいでしょう」


 反論しようと口を開きかけたヘイルだが、スリートの提案は最適だった。結局、先頭はスリート、その後ろにヘイル、クロム、ネルシス、グレイの順で列を組むこととなった。

 自ら先陣を切ると申し出たスリートは、なかなか入念に前方の足場を調べ、地道に進んでいった。後続の四人が彼の歩調に合わせなければならないのは言わずもがなである。

 一歩踏み出せば、次の一歩を踏み出すのに十回ほど足場を蹴り、また一歩踏み出すため十回足場を蹴り、その繰り返しだった。五人が十メートル進むのに二十分を要する、何とも地道な道程であった。何分なにぶん命懸けである、そのくらい慎重な進捗となるのも当然だ。

 しかし、スリートの用心堅固な前進に痺れを切らし、いよいよ業も煮えてこんばかりの男がいた。


「……おい、スリート。もう少し早く進もう。こんな調子だと日が暮れるぞ」

「転落して没するよりマシでしょう」

「グレイのおかえりキャンプはどうする! 主役を待たせておいて、くたくたなままキャンプファイヤーとか洒落にならないぞ!」

「一歩間違えばまたいってらっしゃいなんですよ! ここは冷静沈着に、かつ独断専行は控えて――」

「ふんっ!」


 ヘイルは地団駄を踏むように、自分の立つ一歩先の足場を力強く踏みつけた。パラパラと砂塵が崖下へ落ちていき、土埃が空に舞った。四人は岩壁にしがみつき、ただただ愕然としてヘイルを見た。

 特に、足下のすぐ後ろで地面の一部が砕け崩落していく様を間近で目撃したスリートは、その額からとめどなく汗を掻き始めた。


「馬鹿でしょう! ヘイルさん! あなたは馬鹿なんでしょう! こんな足場で何をやらかしているんですか! いい加減にしてください! 早くキャンプがしたいからと言って、建前なのか本音なのかは知りませんが祝いたい人をも殺しかねないような所業を、どういう思考でもって行っているんですか! 馬鹿でしょう!」

「ほら見ろ! そんな怖じ気づかなくたって、足場は存外、丈夫だぞ!」

「言いたくはありませんが、ヘイルさん! あなたはメシアとの一件から何も学んでいないでしょう! どうせ僕たちの内誰かが死んだらまた凹むんですから! その猪突猛進癖を治してください!」


 スリートは半ば涙ぐんで叫んだ。その声が山に反射し、五人の耳に木霊する。しかし、五人の立つ足場が崩落しないのを見ると、ヘイルは『ふはははは!』と笑った。


「それ見たことか! それ見たことか! 何が冷静沈着だ! 何が独断専行だ! 見ろ! この足場は頑丈! この俺の鍛え抜かれた脚部の蹴りを以てしても破壊できないとなれば、その強度は一目瞭然! 恐れるに足らない! 恐れるに足らない! さあ、行くぞ!」

「待ちましょう! 馬鹿! まずは待ちましょう! 今動いてしまうと、それは我々の死に直結します! グレイさん、クロムさん、ネルシスさん、僕……みんなの命が、あなたの暴挙に懸かっているのですよ!?」

「黙れチキン! 美味しいチキン! そんなもんパッパラパーだ! 前進あるのみ! のみの如く這いつくばるかのような焦れったい道中は止めだ! 俺の足は止まらない! とっとと行って――」


 ヘイルは半ばスリートを追い詰めるように、ずかずかと行進した。彼の後ろを歩いていた三人は、慌てて崖の手前の安全な足場へ戻った。

 スリートは逃げられない。ヘイルにされるがまま、切り立った崖を勇猛果敢に進んでいく。内心は恐怖と憤怒で竦み上がっているが、彼の雄々しい足取りからは、そんな様子は感じられない。そこへつけて、ヘイルは殊更歩調を早めていった。

 その時。スリートとヘイルの間の足場に亀裂が入り、それと同時に崩れ去った。ヘイルは瞬時にトリプルスピアを出現させて崖に突き刺し事なきを得たが、対応できなかったスリートは崖下へ落ちていく。


「うわあああああああああああああ!」


 しかし幸いなことに、スリートは数メートル下の出っ張りに落下し、大事には至らなかった。強く打ちつけたのか、頻りに腰の辺りを気にしながら、スリートは四人を見上げる。ヘイルはトリプルスピアにぶら下がった状態から自身で反動をつけ、ちゃっかり安全な足場に跳び移っていた。


「大丈夫か!?」


 グレイが問うと、スリートは眼鏡が壊れていないか確認しながら『ええ……』と答えた。眼鏡を掛けると、スリートは今度はヘイルを凄まじい眼光で睨みつける。


「ヘイルさん! あなたは後で僕に殺されるものと思ってください!」


 業腹である。


「あ、上がって来れそうか!?」


 クロムが崖下を覗き込んで言うと、スリートは苦虫を噛み潰したような顔で首を振った。


「不可能でしょう……この崖は傾斜が凄まじいですし、今の崩落で足場が綺麗に一掃されてしまいました――『誰かさん』のせいで」

「そんなぁ、褒めても何も出ないぞ!」

「この馬鹿に皮肉った僕が馬鹿でした」

「おい、スリート! 下を見てみろよ! 絶景だぞ! 少しくらい怪我をしたかもしれないが、その景色が見られたと思えば儲けものだ!」

「僕のリコイルトンファーはあなたの両目を潰すためにあるのでしょう」


 崖下からは広大な海と、水平線の彼方の上空で光を放つ太陽が見られた。スリートが憎々しげに言うと、ネルシスは何か思いついたかのように口を『お』の字に開け、掌を拳で叩いた。


「リコイルトンファーを使って上がってくればいいんじゃあないか?」

「……どうやってです?」

「ほぼ直角の傾斜を誇る断崖を、さながら匍匐

ほふく

するかのように、ざっくざっくと突き刺していくのさ。洞窟探検家やの登山家なんかが、ピッケルとかでよくやってる感じのやつ。ロッククライミングよろしく、その手で道を切り開くんだよ」

「道は道でも、道なき道といった感じですがね――あとヒマラヤです」


 スリートは言いながら、しかしリコイルトンファーを出現させた。目の前の岩壁に突き刺し、グリグリと抉ってみる。刺さってしまえば自身の体重を支えてくれそうで、ネルシスの提案は意外と実用性があるかもしれなかった。


「あっ、おい! 気をつけろ!」


 していると、ヘイルが叫んだ。スリートは彼を憎悪の込められた視線で一瞥すると、自分の足下を見やった。両脚が立っている地点を基軸に、足場に亀裂が走っていく。

 もはや一刻の猶予もない。スリートは覚悟を決めると、思いきり跳んで両のリコイルトンファーを急傾斜の崖に突き刺した。同時に今までスリートの立っていた足場が完全に崩れ落ち、いよいよ後戻り出来ない状況となった。生きるか、さもなくば死である。


「うおおおおおおおおおおおおおおおおお!」


 スリートは雄叫びながら、凄まじい勢いでリコイルトンファーを交互に突き刺していき、傾斜の直角に等しい断崖を這い上がっていった。その速度は目を見張るものがあり、ものの十秒程度でスリートは四人と合流を果たした――見ると、ヘイルのみが渡りきったはずの危険地帯の終着点に、なぜかグレイたちもいた。


「あれ……皆さん、確かヘイルさんの後ろにいましたよね? 僕が落ちて足場も崩れたんだから、そのまま戻って――」


 すると、ネルシスはしたり顔で掌から噴水を湧き上がらせ、重力に従い落ちてくる水流を飲み下していた。彼の魔法で、三人とも難なく障害を突破したのだ。


「……みんな死ねばいい!」


 スリートは立ち上がると、肩を怒らせて先へ進んでいった。ヘイルは『あっはっは!』と笑いながら、彼の後に続く。


「いくら何でも酷すぎるだろ……」


 グレイも頭を掻きながら歩き出した。クロムは、残されたもう一人であるネルシスを見た。また水筒の水をがぶ飲みしている。


「……お前、あのペースで飲んでおいて、どうしてなくならない?」


 クロムの水筒の中身は、残り僅かである。それに引き換え、ネルシスは当初と何ら変わらず、水筒の水を惜しみなく飲んでいる。おかしい。明らかにおかしかった。


「おやあ? 欲しい? この水欲しい?」


 ネルシスは挑発するように、再び掌から噴水を湧き上がらせた――クロムは理解した。ネルシスは自分が水魔法を使えるのを良いことに、その水を水分として補給していたのだ。

 魔法により生み出される水は無尽蔵。その特性を利用していたのだった。クロムはそれに気づくと、舌打ちをして悪態をついた。


「……誰がいるか」

「だろうな。俺だってやるつもりはないさ。誰がお前なんかに。欲しけりゃ海水でも飲んでな」


 憎まれ口を叩くネルシスに、クロムは忌々しげな一瞥をくれてやった――その時。


「ああああああああああああああああああ!」


 行く手でヘイルの悲鳴が聞こえた。クロムとネルシスは顔を見合わせると、すぐさま駆けつけた。そこにはヘイルが、自身の体躯の倍以上もある巨体の熊と相対していた。グレイとスリートは、彼の背後で後退っている。


「がおおおおおおおおおおおおおおおおお!」


 ヘイルは威嚇するように、トリプルスピアを振り回しながら叫んでいる。クロムは、黙って後退り始めた。

 野生の熊と遭遇した時、下手に戦ったり逃げようとせず、背を向けないまま後退するのが対処として最も有効であることは、既に特筆せずとも十分に認知されているだろう。グレイとスリートも、進んで戦おうというたわけ者に構わず、その通説に倣っているのだ。

 クロムもまた、それと同じ行動をとったのだ。しかし、彼は後退るのとほぼ同時に、傍らでバタッと何かが倒れる音を聞いた。

 見やると、ネルシスが地に横たわっていた――死んだ振りである。野生の熊と遭遇した時の対処としては最悪手とも言われる、死んだ振りである。クロムは、呆れて物も言えないという心境を理解できた気分だった。

 ヘイルの方は、熊への威嚇をやめなかった。すると熊もヘイルを敵と認めたのか、山間を割らんが如く轟々と吼えた。その咆哮は、さながら毛むくじゃらの胸中に宿る野生を剥き出しにしているようだ。

 熊が毛深い腕を振り上げると、ヘイルはトリプルスピアを握り直し身構えた。熊の手先に伸びる鋭利な爪が、木々の間から射し込む日光に照らされ煌めいた。

 その刹那、人間と野獣との正面衝突に際して、何かを感じ取ったのだろうか、ヘイルは慌ててその場に伏した。すると熊の爪甲は、ちょうど今までヘイルの頭があった位置を薙いだ。

 グレイとスリートは熊と少し距離を置いているにも関わらず、その爪が切り裂いた空から凄まじい気迫を感じ、思わず後退する足を早めた。

 ヘイルは熊の片腕が頭上を過ぎ去るのを見計らい、すかさず立ち上がった。再び喉が潰れやしないかと四人に懸念を抱かせるような雄叫びをあげ、トリプルスピアを豪快に振り回す。


「うおおおおおおおおおおおおおおおおお! くらえ! 必殺! サウザンドスラッシュ! 24.7versionバージョン!」


 ヘイルは熊にトリプルスピアの連撃を浴びせた。本物の死体よろしく地に伏したまま微動だにしないネルシスを除き、三人はその光景を一見すると肝を冷やした。

 というのも、これは言うまでもないが、グレイたちは救世主である。野生の動物を――たとえそれが骨肉を食らう猛獣であろうと――殺してしまうなんて事態は、今の世情を思うと何としても避けたいところだ。

 しかし、よくよく見ると、ヘイルはトリプルスピアの柄の部分でもって熊を絶え間なく殴打していた。やがて熊は憎々しげにヘイルを睨みつけ、林の奥へ逃げ帰っていった。途端、ヘイルはトリプルスピアを取り落とし、仰向けに倒れると天を見つめて荒く呼吸をした。


「……では、先へ進みましょうか」


 スリートは汗を拭うと、眼鏡をかけ直して言った。グレイは半ば放心したまま頷き、彼に続いて歩き出した。ヘイルも、先ほどまでの疲労困憊した様子からは想像もつかない軽やかな動きで立ち上がり、肩をぐるんぐるんと回した。


「――おい、行くぞ」


 クロムも安堵の溜め息をついて三人を追おうとするが、ネルシスの存在を思い出し、振り返った。彼は未だうつ伏せになっていた。


「おい。早く行くぞ。置いて行かれたいか」


 クロムはネルシスの脇腹を数回蹴った。するとネルシスは僅かに呻き声をあげ、クロムを見上げた。


「……お腹……痛い……ぉえ……」


 異様にしゃがれた声だった。クロムは片眉を曇らすと、ネルシスの肩を蹴飛ばして仰向けの態勢にした。

 その腹部は通常の倍ほどに膨れていた。クロムは思い当たった。水を飲み過ぎて腹を壊したのだ。哀れ、自らの欲と才に文字通り溺れた男の末路は、果たして苦汁をめることとなったのだ。

 クロムは最後にネルシスを蔑むように、それでいて嘲るように見下ろすと、その腹を踏んづけて山道を進んでいった。蛙が潰されたような短い悲鳴が聞こえたが、クロムは見向きもしなかった。

 それからも幾多の困難に直面した一行だが、日没に間に合う形で、ようやく目的地のキャンプ場に辿り着くことが出来た。

 五人は汗だくで、息も絶え絶えだ。各々が平らな地面を見つけると、そこに腰を降ろし荷物を脇に置いた。


「……いよぉし……ご飯だ……晩ご飯を食べよう!」


 しばらく休息していると、ヘイルがおもむろに立ち上がった。彼が荷物から食材や調理器具を取り出すのを見ると、やがて四人も各自で分担し持ってきたものを探り始めた。

 スリートが折り畳み式の簡易的な台を設置すると、ヘイルがその上に七厘と金網を置いた。これが五人の空腹を満たす晩餐の調理の要となるのだ。

 傍らで、クロムとネルシスはテントを組み立てている。満腹感を覚えた後で寝床の準備をするのは、きっと億劫になるだろうとの懸念から、キャンプの設営と同時に、夕食を終えてすぐに就寝できる支度を整えておこうという全員の意見だった。


「今日の寝床は、ねえ、どこ?」

「俺は裁縫には自信があるんだ。その口を縫合されたくなかったら黙ってろ」


 ネルシスの洒落に、クロムが辛辣な言葉を浴びせた。


「む……弱りましたね……」


 スリートは七厘に火をくべ、金網に食材を乗せて調理に取りかかっていたが、加熱する際に火力の不足が問題に挙がり、眼鏡の曇ったレンズを拭きながら悩ましげに唸った。

 それを端で見ていたヘイルは、少し考え込むとグレイを呼んだ。


「グレイ。ちょっとヤーグ出してくれるか? とりあえず片っぽ」


 手招きされて歩み寄ると、ヘイルは何やら幼さの露となった笑みを浮かべる。グレイは、この局面に果たして剣が何の役に立つのだろうと疑問に思いながらも、快諾してヤーグを一本出現させ、ヘイルに手渡した。ハサミを渡すように、刃の面を水平にさせ、柄の部分を差し出す。

 彼の横では、スリートも何を始めようとしているのか想像もつかないといった表情である。当惑と不安とが入り混じったような、もっと言えば凶兆をさえ感じ取ったかのような面持ちである。


「せいやっ!」


 ヘイルはグレイからヤーグの片割れを受け取るや否や、それを足下の地面に思いきり叩きつけた。驚愕するグレイとスリートを他所に、ヘイルは熱を帯びて真っ赤に染まった刀身を認めるとニッと笑い、そのまま七厘の方へ足早に向かった。


「クロム! ちょっと金網を持ち上げておいてくれ! 一瞬だけでいい! トングはそこにあるから!」


 クロムは深紅のヤーグを運ぶヘイルを訝しげに見ながら、顎で指された場所からトングを取り、言われた通り金網を持ち上げた。ヘイルは空いた七厘の上にヤーグを置くと、クロムに『この上に食材を移してくれ』と言った。

 どうやら事は想定した通りに運ばれたらしく、クロムが移した食材がヤーグの上で仄かに赤みを帯びていくのを、ヘイルは満足げな表情で見つめていた。


「すごい! さすがはグレイだ! 見ろ! 晩ご飯がみるみる美味しそうに仕上がっていくぞ!」

「人の魂の権化に何してくれてるんだ……」

「この晩餐は一応、グレイさんのために用意されているという名目なのですがね……」


 したり顔で腕を組むヘイルに、グレイとスリートは呆れたように呟いた。ヘイルは振り返ると『グレイ! もう片方のヤーグも貸してくれ!』と満面の笑みで叫んだ。今や空前絶後なまでに高揚しているヘイルに、二人の細やかな抗議の声は届かなかった。ヘイルはグレイから再びヤーグを借り受けると、嬉々として近場の巨大な岩に叩きつけ、やがて刃に炎を纏ったそれを食材に向けて掲げた。

 そうして晩餐が出来上がり、五人は人間の視野の及ばない、遥か外界の大自然に囲まれながら料理を食べた。肉などは全体的にやや焦げてしまっていたが (ヘイルのせいであることは一目瞭然であったが、それを敢えて口にする者はいなかった) 、それでも仲間と協力して作り上げた逸品だった。

 もしかすると、ヘイルのみならず全員の気分が高まっていて、美味くとも不味くとも構わず笑ってのけてしまえるような雰囲気となっていたのかもしれなかった。

 夕食を食べ終え、食器を付近の水道設備で洗うと、五人はぐったりとテントの中へ入った。すぐさま寝布団を敷き、横たわる。

 スリートが崖から落ち、あわや大惨事となるところだったこと。ヘイルが無謀にも熊に立ち向かったこと。ネルシスが水分を過多に摂取して一時体調を崩したこと――しばらくは談笑の尽きなかった五人だが、やがて誰も何も言わなくなった。疲労でもうろくに会話もままならないというのも一因であったが、その最大の理由は五人の視線の先にあった。

 一行のテントは屋根の部分が透けており、仰向けになれば月明かりが見てとれる形となる。五人は、世界を覆う満天の星空に眼を奪われていた。数多の光が虚空を越え、時空を越え、今こうして五人の瞳に捉われていた。

 一つ一つの光に歴史があり、伝説があり、物語があるのかもしれない……そんな幻想的な想像をすら、燦然さんぜんたる光景は五人に抱かせる。

 光る点を辿れば、そこには別の天地があるのだろうか。光と光を線で結べば、星座が形作られ、それが古来の神話を語り継ぐのだろうか。

 分からない。救世主と言えど、分からない。五人は、そう。まだ知らないことがたくさんあった。それこそ山のように。他の救世主だって、救世主じゃなくたって、どこの誰だって、それは等しく同じである。もしかすると、あのイーヴァスでさえも――気がつけば、五人は閉じた瞼の裏で、それぞれの夢を見ていた。

 それは幸福に満ちた夢なのかもしれなかった。


~4~


 ソムニウム地方、マーレ海岸――そこには五人の女性が水着姿で訪れていた。付近に悠然とそびえる緑深い山が、それを見守っているかのようである。


「うわあ、良い天気! 晴れて良かったね!」


 レインは可愛らしいピンクのビキニだ。オーソドックス且つスタンダードながらも、その形状からは圧倒的にして絶対的な王道感がありありと表れており、それがレインの端麗な容姿と、可憐な肉体の魅力に拍車をかけていることは言うまでもない。その姿は、砂浜や海面を金色に照らす太陽にも劣らない輝きを誇っていることだろう。


「うん……そうだね……」


 スノウは肢体の主張が控えめなタンキニだ。普段の私服と水着との境界線上に位置しているかのような露出の具合が、スノウの性格を反映している気がされた。更にその水着の上には純白のラッシュガードを羽織っていることも特筆すべきであった。


「当然よ! あたしがお天気と若者の流行り廃りを分析して最適な日取りと場所を割り出したんだから!」


 ブルートはブラとパンツにヒラヒラのフリルが付いたチューブトップだ。その格好は、見事に彼女の乏しいバストを誤魔化すことに成功している。この水着のチョイスから、ブルートが自身の胸部に抱くコンプレックスが如何に深刻なのか判明したと思われた。


「わーいわーい! 海だー!」


 チルドはやはりスクール水着であった。その容貌から如実に伝わる、チルドという少女の内面的幼稚さ、純真さ、無垢さの類いが、筆舌に尽くし難い背徳感を無差別的に振り撒いた。片腕に浮き輪を抱えている点も、ここでは重要な役割を担っているらしかった。


「こら~、あんまり走っちゃダメだよ~。泳ぐのもいいけど、あんまり沖に出過ぎないようにね~。万が一波に流されて遭難したりしたら喉が渇いても絶対に海水を飲んじゃダメだよ~」


 グロウは、豊満な胸を強調するかの如き挑発的なホルターネックの水着だ。女性陣最年長の貫禄が、その双頭に蓄えられているようだ。スノウとブルートは、数々の視線を受け育ってきたであろうそれを前に、ただ眼を伏す他になかった。


「みんな、行こう!」


 そんな二人も、レインの快活な笑みを見れば、気を取り直すことが出来た。チルドは浮き輪を被ってキャッキャッと駆け出し、グロウは欠伸を掻きながらビーチパラソルを砂上に差した。二人はレインが手招きするのに従って、陽光で黄金に光る異世界の海へと繰り出した。

 四人は遊泳し、バレーボールをし、スイカ割りをした。グロウは常にパラソルの下で寝転び、決して肌を焼くことはなかったが。泳げば彼女らの肢体に雫が伝い、砂辺で跳躍すれば特有の胸部の揺れが見え (程度は個々で差があった) 、視覚を遮断され棍棒を構えて右往左往する様は、端からすればさぞ心の洗われることだろう。

 日陰で寝息を掻くグロウ含め、五人が海を楽しむことには浄化の作用があると思われた。それは、さながら人の世を離れ、戯れる天使の集いのようだった。

 だが理想郷は永続しない。山の麓の方から、何者かが凄まじい勢力で迫ってきていた。四人はそれに気づくと畏怖を感じてスイカを頬張ったまま停止し、グロウもサングラスを外して起き上がった。どうやら、接近する人物は男性で、満面の笑みを浮かべているであろうことが分かった。

 それはネルシスだった。また眼を凝らして見ると、その背後ではグレイ、クロム、ヘイル、スリートの四人が彼を追っている。


「グ、グレイ!?」

「まっ、まさかヘイルの言ってたキャンプって、あの山でやってたの!?」

「…………!」


 レインとブルートが思い思いに叫んだ。スノウは一団の中にグレイの姿を認めた途端、普段の彼女なら想像もつかない速度で海に飛び込み、首から下を決して衆目に晒さなかった。見えるのは、真っ赤に火照った羞恥の顔のみである。


「あっ! 見て見て! みんなも来てるよ! 一緒に遊びたいのかなあ?」


 チルドは無垢な笑顔で言うと、グロウを手招いた。グロウは欠伸を掻くと、サングラスを掛けて再び横になった。


「ふはははは!」


 ネルシスが、何やら不気味な笑みを零した。すると、海水がこれまでと異なる挙動で波打ち際に迫った。海は意思を持っているかの如く海面より『起立』し、五人の女性に襲いかかった。


「えっ!? ちょっ!? 何これ!? どうなってるの!?」

「……! ……!」

「こらー! ネルシス! 後で絶対に殺してやるんだからー!」

「わー! きゃー! わー!」

「むにゃん~」


 五人は歪な形状へ変質した海水に捕らわれてしまった。更に海水は障壁のように立ちはだかり、海中にある五人の肢体は、ネルシスやグレイたちに露となった。不定形の水が、五人を天高くへ持ち上げた。

 レインが戸惑う隣では、スノウはラッシュガードが洗い流され、光の反射する瑞々しい肉体をグレイに見られたと知ると、半ば狂乱したようになって、チェーンウィップをやたらめったらに振り回した。

 ブルートは両腕を虎のそれへ変身させ、怒り心頭でもがくが、水中ではその動きに抑制がかけられ、全くの無意味であった。

 チルドは水上から下を見て、その高度に恐怖しているようだ。グロウは気の抜けた声音で水に翻弄されるがままである。


「クソ! 塩分濃度という概念事象、ひいては塩化物という物質そのものへの憎悪が計り知れない! おかげで海水を上手く操れないじゃないか!」


 ネルシスは水中の五人を見ながら、何やら悪態をついた。後続の四人は、より速く走った。一刻も早く事態の収拾をつけなければならない使命感に、それぞれが駆られている。

 特にクロムはモノを取り出し、レインたちが人質めいて捕らわれていなければ、今にも彼に発砲することも辞さないといった心持ちだった。


「ネルシスさん、やめなさい! 今日だけで二つの死体袋を用意させる気ですか!」

「ええい、黙れ黙れ! 夢だったんだ! 昔からの夢だったんだ! 女! 海! 水着! ふはは! ふはははは!」


 スリートの警告にも耳を貸さず、ネルシスが正気を失っているように思われた。その狂気は、常軌を逸していた。


「ぅ……」


 すると、何やら上空から唸るような声が聞こえた。


「ぅ……うぅ……」


 見ると、チルドが泣いていた。


「うわーん!」


 チルドがせきを切ったように号泣すると、ネルシスの手先が氷に覆われた。


「ぬわぁ!?」


 ネルシスがたじろぐと、海水が彼の魔法のコントロールから離れ、五人は水上に落下した。


「えーん! チルド怖い!」


 泣き叫ぶチルドを、ブルートがペンギンに変身して助け、岸まで運んだ。海面に浮いて一向に泳ごうとしないグロウは、レインとスノウに抱えられて地上に辿り着いた。


「よーしよし! ほら、泣かない泣かない! 見て見て! すぃー!」


 ブルートは浜辺を腹滑りしてチルドの機嫌を取ろうと尽くした。すると、チルドはやがて泣き止み、変身したブルートの芸を見て笑い始めた。同時に、ネルシスの手を凍てつかせていた氷が融解した。


「フ、フンッ。人騒がせなお嬢ちゃんだぜ。ま、世話を焼くのも俺は好きだがな」


 手が凍っている間中、頻りに喚き散らしていた面影を感じさせない、自惚れの表情でネルシスは言った。ブルートは彼を、氷河の如く冷徹な眼光で睨むと、方向転換して地を滑り、ネルシスに体当たりした。ネルシスは無様に転がった。


「んなっ、なんだなんだ、ペンギンちゃん……そんな得意の芸当を披露したいからって、何も――」


 ネルシスは黙った。腹滑りを続けるブルートやレイン、スノウがこちらを睨んでいた。凄まじい形相だ。ブルートのペンギン芸を見て笑い転げるチルドと、知らぬ間にビーチパラソルの下で何事もなかったように寝入ったグロウを除く全員が、ネルシスに痛烈な視線を送っていた。ネルシスの顔からは笑みが失せ、保ってきた虚勢が打ち砕かれた。

 ネルシスは後頭部に冷たい感触がして振り返った。クロムがモノを突きつけていた。


「どうした。百鬼夜行でも見たか」


 クロムの口角が吊り上がった。

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