事件 (後編)

~1~


 レインと共にヴァントを潜ると、グレイは先に到着した六人と合流した。眼前には、静まり返った町並み。辺りは夜の暗闇だったが、街灯に虚しく照らされた道は、はっきりと視界に映った。すぐそこには、北西と真北、北東の方角に二本の細い道、計四本の通りが、先の知れぬ闇に向かって伸びていた。


「ここ、見覚えがあるような……」


 グレイは呟いた。つい最近、似たような町並みを見た気が、しないでもない。何の確証も確信もないが、不意にそんなことを思ったのだった。


「本当? どこなの?」


 レインに訊かれ、記憶の奥底から情報を検索するが、何も思い出せない。


「あの水晶の男性も、町の情報の一つや二つ開示してくれればいいものを」


 唸るようにヘイルが言った。


「それが開示されなかったから、僕たちは怪しいと踏んだんですよ」


 結局は着いてきてしまいましたが、とスリートが落ち込んだ調子で言った。ここへ来て自らの行いを悔やんでいるようだ。

 町について思い出そうと奮闘するグレイは、ふと自分の服を摘ままれた感触を覚えた。振り返ると、そこにはスノウがいた。スノウは背伸びをしており、グレイは彼女が自分に何かを伝えたがっているものと察すると、屈んでスノウの口元に顔を近づけた。


「ク、クロムさんが……来ますよ……」

「本当ですか!?」

「どうしました? 何か思い出せましたか?」


 グレイの歓喜する声を聞きつけ、スリートが興味ありげに訊ねる。グレイはクロムが合流しに来る旨を、スリートや他のみんなに伝えた。


「素直じゃないんだよな、あいつは!」


 ヴァントの方へ戻ろうとするグレイを、スリートが『待ってください』と引き止めた。


「あなたは、この町について出来る限りのことを思い出してください。彼の迎えは僕が行きます」


 スリートはそう言って透明な膜の向こう側へ行った。その時。今の今まで開かれていたヴァントが、突如として消え去ってしまった。音もなく閉じたヴァントを目の当たりにしたのは、チルドとグロウだった。


「あっ! 消えちゃった!」


 チルドの悲鳴に、その場の誰もが気がついた。


「どうした、お嬢ちゃん」

「入り口が消えちゃったの! ふわ~って!」


 チルドはネルシスに訴えかけた。ネルシスはよしよし、と彼女の頭を撫でながら、それまでヴァントがあった虚空を見つめる。たしかに、先ほど皆が通った透明な膜は消滅していた。それを確認した直後には、ネルシスはブルートの変化した馬の足に蹴飛ばされていた。


「グロウ、お前も見たのか? 一体どういうことなんだ?」

「うちにも分からないよ~……眼鏡くんが通った途端、ふわ~って消えちゃったんだよ~」


 困惑している様子のヘイルに、グロウは間延びした口調で答える。


「ほらもう! だから言ったのよ! あのオヤジめちゃくちゃ怪しいから絶対に行きたくないって!」

「で、でも……」


 ヒステリックに叫ぶブルートと、そんな彼女の悲鳴に狼狽えるレイン。二人だけではない。八人全員が、その状況に直面し不安を抱いていた。

 敵の謀略に嵌まったのかもしれない――そんな予想と、そしてその予想を肯定するかのような現実。未曾有の事態に直面した不安感が八人を襲った。


「おい、これからどうするんだ?」

「どうするって、そんなの決まってるだろうネルシス! 消えてしまった人々を救出するのだ!」

「この状況をよく考えて喋るんだな、熱血漢。ていうか、お前のそれはもうもはや灼熱漢といったところだな」

「灼熱漢!? おいおい、なんだなんだそれは! なんだその、まさしく正義のヒーローであると豪語するかの如く潔い字

あざな

は! よし、気に入った! その二つ名はいただいた!」

「灼熱漢どころか熱血漢でもなく、お前はただの馬鹿のようだな」


 図らずもヘイルの情熱に着火してしまった様子のネルシス。夜の町で豪快に笑うヘイルに、ブルートが苛立ちを露にした。


「あーもう、いい加減にしなさいよ! バカ! あんた頭おかしいんじゃないの!? あたしたちは騙されたの、あの男に! なら、あの男があたしたちを騙してまで導こうとしたここに、何もないわけがないわ! 早く助けを呼ぶべきよ!」

「何を言っているんだ! 俺たちが消えた民衆の救出にやって来た『助け』だろうが!」

「だから――そんなの嘘に決まってるでしょ! 消えた人なんかいなかったのよ! あたしたちは騙されたの! 何から何まで全部嘘だったのよ!」


 ヒステリックに叫ぶブルート。その悲鳴にも似た声音は、静かな町中に木霊した。


「……いや、おかしい」


 しばしの沈黙が続いた後、グレイが呟いた。グレイは夜の闇に佇む家々を見渡し、眉間にシワを寄せていた。彼の言葉に、レインたちも注意を可視の町並みに向けた。

 そして気づくのだった。深夜の町の入り口で、八人の男女が頻りに騒いでいたというのに、咎める者が寝巻き姿で登場するどころか、周囲に立ち並ぶ家屋からは物音の一つさえしなかった。


「ねえ! ねえグロウ!」


 チルドの幼い声が響いた。グロウは気だるそうにチルドを抱き抱えると『なぁ~に?』と、やはり間延びした調子で訊ねた。


「お外に出られないの!」

「そっか~、そりゃ残念だね~」

「どういうこと、チルド?」


 終始ふわふわとした風なグロウを見かねたのか、レインが切羽詰まった様子で一歩進み出た。チルドはグロウの両腕の中で、うん、と頷くと、今さっきヴァントが開かれていた位置に手を伸べた。そして、まるでそこに遮蔽物でもあるかのように、宙に手を浮かべるのだった。


「ここから先に行けないの! 見えないカベがあって、チルドたちが出られないようになってるの!」

「なんだと! どこだそれは!」


 ヘイルはずんずんとチルドが手を伸べた方へ歩み出した。大きく拳を振る豪快な歩き方だった。しかし数歩進んだところで、ヘイルは何かにぶつかったように仰向けに倒れた。

 グレイたちもそれを見て、チルドがしたことと同じことをした。彼女の小さな手を見ながら、そっと自身の手を伸ばす。すると、今しがたヘイルが実演した通り、たしかにそこには、目に見えない障壁があるらしかった。

 移動したところで、やはり町の外と内とを遮断する障壁は存在しているようで、グレイの剣やレインの魔法、ヘイルの槍などでの破壊を試みたが、三十分に渡る尽力の末、物理的にこの町から脱出することは、現時点でのグレイたちには不可能であるという結論が出された。


「どうすんのよ、もう! あたしたち閉じ込められちゃったんじゃないの!? 騙された挙句に閉じ込められちゃったって、救世主の面目も何もあったもんじゃないわよ!」


 今にも泣き出しかねないようなブルートの悲痛な叫びに、グレイは任務受領賛成派の一員であった手前、自身の胸中に自責と後悔の念が着々と積もりに積もっていくのを感じていた。横目で見ると、それはどうやらレインも同じらしく、浮かない表情の顔を伏せている。

 だがヘイルは、全く動じている様子ではなかった。むしろ『それがどうした!』と、ここにいる八人以外に住民がいないかの如く空虚な雰囲気を醸し出す街道に、大声を轟かせた。


「見たところ――というか見かけないのだが――この町に人のいる気配はないぞ! 深夜に俺たち他所者の騒がしい来訪があるにも関わらず、この町は異様なまでに静寂している! 騙されようが閉じ込められようが、これは立派な事件だ! 人民が脅かされている可能性の少なくない、事件性を帯びた事態なんだ! ここで今こそ、俺たちは救世主としての使命を全うする大義名分を、名実共に得たんじゃあないか!」

「騒がしいのは主にお前のせいだけどな」


 ネルシスの野次を気にも留めず、ヘイルは続ける。


「この町の住民がいない様子であることは確かで、そしてそれは俺たちとしては見過ごすわけにはいかない状況だ! ともかく今は、周囲の民家を調査し、本当に住民がいないのかどうかを探るのが先決だろう!」


 ブルートは腑に落ちない風でこそあったものの、結局は全員、ヘイルの指示に賛同し、その通りにした。それぞれ散開し、各々で家屋を一通り訪問して回った――もっとも、どの家屋もきっちり戸締まりがされていて、入ることはままならなかったが――窓から家の中の様子を窺ったり、どんどんと喧しく扉を叩き、大声で喚き散らして中の住民を呼び出したりしたグレイたちだったが、ついに中に住んでいるはずの人々を認めることは出来なかった。

 再び町の入り口に集まり、八人は成果を報告し合った。どの家屋の戸にも鍵が掛かっていたこと、中に誰もいないこと、中に荒らされた形跡はなく至って普通の生活感が確認されたことが、ほぼ全ての家屋から共通して得られた情報ということだった。


「これを町民の失踪と決めつけるには証拠不十分だが、それでも町の全員が総出で、深夜に外出するなんて可能性は薄いだろう」


 もはや恐怖心をすら煽りかねないまでの静寂を保つ町並みを見渡しながら、ヘイルは言う。


「何が真実であれ、ここで俺たちは、町の住民がいない事実を目撃した。住民の救出も任務として帯びている以上、もう俺たちが動かない理由はない。今すぐ捜索活動に移るべきだ!」

「……今のところ町の外へ出る方法も見当たらないんだ、それが一番かもしれないな」


 ヘイルの意気込みを受けて、先ほどまで感じていた――今も感じている罪悪感を払拭するかのように、グレイは彼の言を後押しした。


「――あー、もう!」


 話が進んでいく中、ブルートは苛立った様子で髪をくしゃくしゃとかきむしりながら叫んだ。


「ほんっと、バカばっかりなんだから! これで何かあったら、ほんとタダじゃおかないんだからね!」


 言い放つと、ブルートはそれきりそっぽを向いたまま黙りこくってしまった。口を尖らせて。腕を組んで。ツンとしてしまった。

 人々が消えてしまった事実に直面して、救世主としての正義を思い出したのも、そらは確かにあるのかもしれないが。八人の決意を助長したのは、町の外へ出られないという状況も強かった。

 外側へ脱出する手段がない以上、内側の問題を解決する他にない。


「よし、じゃあそれぞれ町を散策して町民を探そう。ブルートは変身して空から当たってくれ」

「わかったわよ」


 仏頂面で答えたブルートは、それ以上は何も言わず、次の瞬間には両腕を両翼へと変化させ飛び立っていた。


「散策もいいが、学院では、クロムとスリートがただ黙って突っ立っているだけでいるわけがない。町の玄関口らしいここに何人か待機しておいた方がいいんじゃないのか? 俺とグロウとレイン、それからチルドとスノウがここに残ろう」

「女性陣総なめじゃないか! 貴様、この期に及んでまだ私欲を満たすことしか考えていないのか!」


 先ほどからのヘイルの言動を端から見て、グレイは彼の一挙一動にスリートの影響が少なからず見てとれたような気がした。普段は折り合いが悪いように見えるが、存外、正反対と言える互いの性分が、もしかすると両者に適度な刺激を与えているのかもしれない。


「待機組はチルドとグロウにしよう。夜道を子供に歩かせるわけにはいかないし、この中で一番保護者足り得るのは、グロウしかいないだろう」


 それはどうだろうか――確かに年齢的に言うなら、それこそ彼女が適任かもしれないが、しかし彼女の性格からして、とても子供を預かっていい人物には思えないというのが、当事者らを除く三人の本音だった (スノウが彼女に対してどのような印象を抱いているのか、その実情はグレイをもってしても未だ判然としていない) 。チルドは嬉々としているが、当の本人は今にも地面に横たわって寝入ることも辞さないと言わんばかりに眠たげだ。

 こんな人物に子守を任せるのは果たしていかがなものだろうか――思いながら、グレイは残った面々を見回した。

 ネルシスとチルドとを真夜中に二人きりにするのは言語道断として、ヘイルは保護者というより熱血体育教師めいているし、スノウは失礼を承知で言わせてもらえばむしろ幼い少女に引っ張られることにかねない。自分こそ到底子供の面倒を見られるような器の人間ではないし、ここはレインをこそ任命すべきなんじゃないか。

 と、一度は導き出した結論を提示しようとしたところで、寸でのところでグレイの思慮は彼自身に待ったをかけた。いやいや、よくよく考えれば今回の任務は住民の捜索及び救助であって、そのためには深夜の町を散策しなければならなくて、一同はバラバラに散開することになる。

 グロウに単独行動をさせるのは、なんというか、はらはらして許せないという念が湧いてきた。最悪、道端でころっと眠ってしまいかねない。それを思うなら、まだチルドと共に待機を命じた方が、安心と言えば安心だ。

 なるほど、そこまで考えての人選だったのかと、グレイはヘイルへの尊敬の念を多大に抱くこととなった。

 ただの筋肉バカじゃなかったのか。


「頼まれてくれるな、グロウ」

「合点承知の助~」


 ヘイルの問いかけに、グロウはふにゃんとした動きで敬礼して応える。チルドはその挙動を見て、あはは、と笑った。


「なら、とっとと行くぞ。こうしている間にも、鳥人間さんがお前の言いつけ通りに空中を飛び回ってるんだからな」


 ネルシスは言うと、町の北西の方角へと去った。その後ろ姿を見送ると、ヘイルも『では俺もこっちから探すとしよう』と、真北の道を直進し始めた。

 残ったのは五人――待機を命じられたグロウとチルド、そしてグレイとレインとスノウだった。前方に残された道は二本――北東の方角へ伸びる、細い通りだった。


「じゃあ、二人は左の道を行ってくれ。俺はこっちに行くから」


 グレイは、残された二本の道の内、右手側の道の方へ一歩進んでみせた。先ほどヘイルも言った通り、この夜道を女性一人に歩かせるのはあまりによろしくない。なので、ここは残ったメンバーで唯一の男性である自分が自ら孤独となり、女性二人の共同体を作り上げるのが、ジェントルマンたる行動と言えるだろう。

 いつの間にかジェントルマンになったわけでもないし、ましてや自分にその器量があるとも思ったことはなかったが、ジェントルマン云々を差し引いても、この局面で女性一人を孤立させるような真似をする人間を、甚だ男とは呼べまい。


「……うん、分かった。行こう、スノウ」


 レインは怯えるように胸の前で組まれていたスノウの両手を握り、薄暗い路地の先を見つめた。道の先は、やはり宵闇が深く明瞭には見えない。


「……グレイ!」


 レインは、いざ行こうとするグレイを呼び止めた。


「気をつけてね……なんだか嫌な予感がするの」


 不安げに忠告するレイン。グレイはそんな彼女に対しては、笑って親指を立て、大丈夫だと言ってみせた。それからグレイは、スノウに『お気をつけて』とにこやかに声をかけた後、もはや語る言葉はないと意を決し、得体の知れない常闇を孕んでいるかのような夜道を歩き始めた。


「――じゃあ、私たちも行こっか」


 レインはスノウがこくりと頷くのを見ると、生唾を飲んで前進した。願わくば、この胸中に纏わりつく正体の知れない予感が杞憂に終わりますようにと、そう祈りながら。


~2~


 ネルシスは一人、夜道を歩く。自ら進んで先陣を切ったはいいが、しかし、今となっては先ほどの自分の行いを悔やむばかりである。

 見ず知らずの人を助けるなんて、馬鹿らしい。


「俺は良い女に囲まれた、怠惰で甘美な生活が――性活が出来れば、それでいいんだけどな」


 声に出して言ってみた。その台詞を聞く者などこの場にはいないと知りながら、それでも尚、言わずにはいられなかった。

 どこかで言われるがまま孤独に飛翔している鳥人間ことブルートが、上空から今の台詞を一言一句聞き逃さず耳に入れていて、じきに変化させているであろう鉤爪を以て襲いかかってきやしないかと、そんな淡い期待を抱いてみる。だが空を見上げても、暗雲が差し迫っていることなど露知らずと言わんばかりに地上を金色の光で照らす半月は、果たして一羽の鳥も見出だしてはくれなかった。

 まあ私利のおおよそ見込めない救世活動など不本意ではあるが、第一に発見した住民が月光の如き美貌の持ち主で、それを自分が救助と称して安全な場所へ誘導し、そのまま闇夜あんやの招く奇っ怪な衝動に身を任せ、組んず解れつのあれやこれやが起きるかもしれないと、そんな希望的観測を以て自らを奮い立たせ、ネルシスは町人の捜索を本格的に始めたのだった。

 ――瞬間。ネルシスは背中から腹部にかけて、身体が貫かれたような激痛を覚えた。


「ぅあっ……!」


 身体の中心線が、焼けるように痛い。何が、一体何が起きたのだ。ネルシスの頭は真っ白になった。背後から何かが突き刺さっていることは、感触からして確定的に明らかだ。そして、それを知覚したと同時に、ネルシスの身体から、その凶器が引き抜かれた。途端、ネルシスの血液が腹部と背中から噴水の如く噴出される。一度に大量に失血し、また先頃から絶え間ない激痛に苛まれていたネルシスは、ついにうつ伏せに倒れてしまった。


「そして俺に殺されたのだった」


 優に体躯の倍ほどの全長を誇る大剣を――幅の広い刃の先端に、深紅の血がべっとり付着した大剣を担ぎながら、少年が言った。その表情には笑みがたたえられている。


「ったく、なんだよ。救世主とか大仰な肩書きしてやがるから、きっととんでもなく強いめちゃくちゃヤバい奴らの集団だろうと思いきや、警戒に警戒を重ねて奇襲してみたはいいけどよ、弱すぎるだろ。俺が上空から馬鹿でかい剣を振り下ろさんとしていることに気づきもしなければ、あまつさえ一撃で死んじまうなんてよ。こんなの隠密したところで時間の浪費ってもんだぜ。真正面から残り九人、さっさと殺して帰るとするか」


 少年は大剣をぶんぶんと振り回しながら、どこへともなく歩き始めた。ネルシスを完全に死んだものとして見限っているのか、突っ伏したまま動かない彼に背を向けている。


「ま、まてよ……」


 絞り出すような声音が聞こえると、少年は瞬時に振り返った。今しがた刺し殺したはずの男が、フラフラと立ち上がっているではないか。少年は刹那で男の背後に立ち、大剣を軽々と頭上に構えた。


「死体は綺麗に遺しておいてやろうと思ったんだが、なるほど、さすがは救世主ってやつだな……どうやら真っ二つにしないと死なねえらしい」


 少年は言うと、大剣を力の限り振り下ろした。剣はネルシスの身体を両断した。瞬間、ネルシスの縦に二分された身体はどろっと形を崩していき、液体のようにぱしゃんと飛沫をあげて消失した。


「真っ二つでも死ななかったな」


 少年は背後から声が聞こえたのと同時に、全身に凍えるような寒さが走るのを感じた。身震いしようにも、身体が自由に動かない。何かが全身にくまなくのしかかっているかのように、身体が重い。少年は水の球体に囚われていた。


「息苦しいか? 無理もない。人間、水だって摂りすぎると中毒になるんだ」


 ネルシスは片手を水の牢獄の方へ掲げ、したり顔で言った。牢獄の中で少年が、ごぼごぼと何か言うが、それは牢の内側に充満する水に阻まれ言葉として発音されない。自分の発言能力が損なわれたことに憤りを覚えたのか、あるいは一度は死んだものと見なした相手に反撃に遭った恥辱に苛立ったのか、少年は水中でネルシスを睨みつけた。ネルシスも、そんな少年に当初こそ飄々と振る舞っていたが、彼の深紅の瞳に宿る言い知れない凶相を前にすると、思わず鳥肌を立ててしまった。

 胸中ににわかに芽生えた少年に対する危惧と恐怖とを振り払うかのように、ネルシスは自惚れた顔で前髪をかきあげた。


「心配しなくとも、お前の言ってることは分かる――お前が俺に背中を見せた時だ。あの瞬間、俺は傍の配管を流れる下水を操り、俺の姿に形作った。お前が水の分身に気をとられている間に、俺は背後をとれたってわけさ」


 ネルシスは少年を挑発するように、腹部の出血を抑えていたもう片方の手で水の牢獄にデコピンした。『ほれ、ほれほれ』と、している内に少年の眼光がみるみる鋭くなっていくのを見て、ネルシスは優越感と恐怖心とを、二律背反に同時に覚えていた。


「さて、息苦しいとは思うが、生存に必要な最低限度の酸素は蓄えられてあるから、そこで少し待っていてくれるか。これから俺は仲間達と合流する。そしてお前を尋問する。お前が何者で、どうして俺たちを狙ってるのか、消えた町民はどこなのか。洗いざらいぶちまけさせてやるからな」


 最後に、ネルシスは思いきり口角の片方を吊り上げ、俗に言うドヤ顔で少年の間近にずいと寄った。


「俺の強さに溺れてな」


 キメ台詞とでも言わんばかりに、ネルシスは吐き捨てるような口調で言った。宣言した通り他のメンバーと合流すべく、少年に背を向けた。

 ――数歩進んだところで、ネルシスは異変を察知する。少年を閉じ込めている水の球体の制御が、徐々に自分の手元から離れていく。液体の牢獄は激しく波紋を広げ、今にも割れてしまいそうだ。


「なっ、何が……俺の水に、何かが……!」


 先ほどまで百パーセント純粋な真水で構成され、きらびやかな透明感のある牢獄であったはずのそれは、今やところどころが濁っていて、その汚濁を起点として己のコントロールが乱されていると、ネルシスは感じ取った。また、その濁りもどうやら少年の大剣から発せられているらしいことが、目視で確認できた。

 なんとか水の牢獄のコントロールを取り戻そうと奮闘するネルシスだったが、しかし努力も虚しく、水の球体は敢えなく破裂してしまった。

 ずぶ濡れの少年が、深紅の眼光を煌めかせてネルシスを睨んだ。


「何を勘違いしたのかは知らねえが、お前は俺の言っていたことを一つも理解できていやしなかったぜ」


 大剣が弧を描き、少年の肩に乗った。


「お前は絶対に殺す――そう言ったんだよ」


 少年が大剣を掲げて迫ってくるのを見て、ネルシスは周囲の配管を破壊させ、ありったけの水を操った。膨大な量の水を、さながら氾濫した河川の如く少年にぶつける。常人にはひとたまりもないであろう流水を前に、しかし少年は全く動じない。


「知ってるか? 油ってやつは水に浮くものなんだぜ?」


 少年は眼前を覆う滝にも似た荒れ狂う水災に、大剣を一太刀薙いだ。すると大剣は、神話や伝承の一節にあるように、ネルシスの繰り出す小さな海を断ち斬った。驚愕して立ち尽くすネルシスへ、少年はそのまま突進していく。ネルシスは我に返ると断たれた水を、今度は自身と少年との間に、さながら壁の如く立ち塞がらせた。

 せめて己が身を守らんとする、窮余の策であったが、しかし少年の大剣は水の障壁ごとネルシスを斬り裂いた。ネルシスは右脇腹から左肩にかけて、深い裂傷を負った。血飛沫が少年の顔や服にかかり、辺りは一様に血だまりとなった。

 先ほどの腹部の刺し傷に加えて、更に多量の出血をしたネルシスは、激痛もあって、今度こそ地面に倒れて動かなく――動けなくなってしまった。辛うじて息はまだあるが、失血が酷く、このまま放置されていても直に死んでしまうだろうという容態であった。

 力なく呻くばかりのネルシスの脳天に、少年は大剣の切っ先を向けた。


「馬鹿な奴め……自惚れは身を滅ぼすと、せめて来世にでも教訓として得ておくんだな」


 無抵抗、無戦力のネルシスに引導を渡さんと、少年が大剣を垂直に掲げ上げた――その時。少年の一撃は背後からのタックルによって阻まれた。その衝撃に吹っ飛ばされる最中、少年は一羽の猛禽がごろごろと地面を転がっていくのを見た。その姿は鷲か鷹のようだが、しかし顔だけは、人間味のある少女のものだった。少年が舌打ちして立ち上がった時には、鳥はネルシスを脚で掴んで飛翔していた。

 していたが、さすがに成人男性を引き下げての飛行はままならないのか、鳥は未だ上空へは羽ばたけていない。音もなく滑空しての救護は、果たして無意味だったように少年は思った。

 少年は数十メートルほど飛んだばかりの鳥の翼めがけて、大剣を槍投げの要領で投げた。大剣は鳥の右翼に命中し、少女の悲鳴が夜の町に木霊する。一羽と一人が落下していき、そして遠くでベチャという生々しい音が聞こえた。

 あの高度から地面に叩きつけられたならば、まず助かるまい。


「まずは二人……一人と一羽? ――なんだっていい。あとは八人だ」


 ぽつ、ぽつ、と。にわかに雨が降り注ぐ中、少年はいつの間にやら手元に出現していた大剣を担ぎ、次なる標的を探すべく町を彷徨った。


~3~


 ヘイルは上空を見上げ、掌を伸べた。伸べた掌に、雫が一粒、ぽつりと落ちる。


「雨か……まあ、たしかに雲行きは怪しかったがな」


 月を侵蝕しつつある暗雲を見ると、ヘイルはうむと唸った。何気なく、ふと視線を移すと、何かが羽ばたいているのが微かに見えた。


「あれは……ブルート、なのか……? なにかぶら下げているようだが……」


 暗闇で姿形ははっきりと目視できないが、それが鳥であること、鳥が何かを連れ立っているのは明白だった。

 しかし、地上から長大な何かが飛来し、鳥の翼に直撃した時、紛れもない少女の悲鳴が、その正体を露呈したのだった。


「ブルート! くそっ……待っていろ! 今いくぞ!」


 危機に陥った仲間を助けるという普遍的かつ情熱的な正義に執念を燃やすあまり、当初の町民の救出と町からの脱出という使命を忘却してしまったヘイル。眼前に燦然

さんぜん

と輝く正義があらば、それを目指してひた走る男こそヘイルであった。

 闇夜で眼はあまり利かなかったが、それでもブルートの変身した姿が墜落した辺りへ向かい、ヘイルは仲間の名を叫びながら疾走する。

 この任務は、自分が皆を巻き込む形で受理したようなものだ。もし仲間の身に何かあれば、それは事の発端を作った自分の責任であることは明確だ。それは、それだけは、ヘイルは許せなかった。

 仲間を傷つけるだなんて、正義以前の問題だ――それは、仁義に背く行為だ。そうなったら、おそらく、自分は自分を許せない。そして、自分は自分の正義を見失ってしまう……夜の闇に、消えてしまう。

 ヘイルは仲間を思い、ただ走った。その末に見たものは、町の一角、見通しのいい道のおよそ真ん中に出来た血溜まりだった。鮮度のいい紅き水滴を見て、ヘイルは確かに仲間の身に危機が迫っていること、その血溜まりが出来たのはつい先頃のことであることを判明した。


「くそっ……何てことだ……ブルート! どこにいる……誰にやられたんだ……誰が、こんなことを……――」

「俺だよ」


 そんな声がして、ヘイルは振り返った。同時に、何か重いものが空を切るような鈍い音が聞こえ、それと同時に半ば反射的にトリプルスピアを出現させ、声のした方へ構えた。

 トリプルスピアが何かと衝突した手応えを感じ、また鋭い金属音がそれを聴覚的に事実としてヘイルの耳に伝わったところで、ヘイルは吹っ飛んだ。高熱に半身を焼かれ、そして爆音が轟いた時には、ヘイルは数メートル離れたところを転がっていた。


「何が起きた……!?」


 言いながら、ヘイルは立ち上がる。見るとトリプルスピアの先端が仄かに赤らんでおり、また己が半身が軽度の火傷を負ったらしいことが分かった。視線を前方にやると、つい今まで自分が立っていた場所が灼熱の猛火で炎上していた。

 赤火の中心には巨大な剣があり、その傍には紅炎を纏うようにしてニタリと笑う少年の姿があった。少年は、刀身から燃え盛る火炎を発する大剣を持っているのだ。

 その光景を見たヘイルは、剣の特性と少年の年齢を目測し、一瞬グレイかと錯覚したが、しかしよく見れば別人であるとすぐに分かった。少年の顔も姿もグレイとは異なり、剣はヤーグに比べてずっと大きい。

 ――何より、その少年の瞳が宿す不吉な赤を、ヘイルは今まで見たことがなかった。


「ほう……どうやら救世主ってやつは、渋とさだけは並みじゃないらしいな」


 少年は挑発するように言った。


「お前がブルートを襲ったのか!?」


 ヘイルはそれを意に介さず問う。その手でトリプルスピアの柄をきつく握り締めながら。


「そいつは、あの水使いの自己陶酔野郎か? それとも鳥もどきのことか?」

「水使いの――まさか、お前はネルシスをも!」

「ネルシス……それがあの男の名前か。そしてあの鳥もどきがブルート――なら、そうだ。あの二人は俺がやった」


 一人と一羽かもしれないが、と少年は陰湿な笑みを溢しながら付け加えた。その態度に、ヘイルは怒りを隠せない。


「貴様……」


 ヘイルは奥歯を割れんばかりに噛みしめ、トリプルスピアをぶおんと振りかざすと、少年への敵意を表すかのように構えた。先ほどの条件反射ではなく、自分の意思を以て、少年と対峙する。


「貴様だけは絶対に許さない……」

「あいつらを助けず、まず俺と戦うか……まあ、懸命とも無謀ともつかない選択だな。何せ、あの一人と一羽は死んでるんだからな。助けに行ったって、もう遅い」

「貴様……よくもいけしゃあしゃあと……」

「いけしゃあしゃあついでに言わせてもらえば、懸命な行いがしたいなら今すぐ踵を返して他の七人を呼んで共同戦線を敷いた方がいいぜ。多分、お前らごときじゃ一人一人で俺と戦っても勝ち目はないからな。俺も勝ち戦をするなら、少しでも歯ごたえのある戦いがしたい。尻尾を巻いて逃げ帰る姿を眺めるのも一興だが、生憎今回はフィールドが隔離されてて逃走は不可能って設定らしいからよ。せめて烏合の衆を束ねてかかってこいや」


 徹頭徹尾、終始一貫して余裕綽々な態度を崩さない少年。自分より一回りほど歳の離れていそうな少年だが、そんな彼に対し、ヘイルは激昂していた。

 仲間を傷つけられ、それを亡き者として平然と貶め、あまつさえ生と死を懸けた戦いを遊戯か娯楽か何かと思い誤っているかのようなその物言いに、溶岩が煮えたぎるかの如き憤りをヘイルは覚えていた。

 その胸中で暴れまわる憤怒は、さながら今にも噴火せんと狂う活火山である。


「これより貴様には、正義の名において怒りの鉄槌を下そう――判決は待たずとも既に宣告された」

「おいおい、マジでタイマン張ろうってのかよ……なら簡単に死ぬなよ」


 少年は吐き捨てるように言うと、猛火を纏う剣を引きずりながら走り出した。ヘイルもほぼ同時に少年めがけ駆け出す。トリプルスピアの最長形態でも、まだ攻撃の有効範囲には届かない。少しばかり距離を詰めなければ攻勢に打って出ることはままならない。

 だが、ヘイルには勝算があった。ざっと目算したところ、少年の剣は纏っている火炎を勘定に入れても、トリプルスピアの三段階目の全長には及ばない。つまり攻撃有効範囲においてはこちらが優っているのだ。先手を打てる――となれば、まずはこちらに勝機があると見込んで差し支えはあるまい。

 彼奴きゃつめは大言壮語も甚だしい、自信過剰で威張りくさっているだけの若造だ。己が信条たる正義を迅速に遂行した後、早急に二人を救出し、八名そろって安全に町民を捜索、発見したらばこの町から脱出することとしよう。

 勝ち戦とは、果たしてどの口が言ったものか――と、得たり顔の少年を眼前にして、己が勝利がおよそ揺るぎないものであると確信した。この勝負、必ずやこちらに軍配が上がることだろうと。

 ヘイルは自らの攻撃有効範囲に互いが入ったところで、トリプルスピアの全長を極限まで伸ばし、一閃した。完全に少年の虚を突いたであろう一撃に、彼は対応する術を持つまい。

 だが、そんな予想を覆し、少年はトリプルスピアを最小限の動きで避け、そして隙だらけのヘイルに大剣を薙いだ。

 それをこそヘイルも間一髪で避けたが、しかし大剣の刃が纏う炎まではかわすことが出来なかった。


「なっ!」


 叫んだ時には、彼の視界は真っ赤になっていた。ヘイルの身体は猛火に覆われ炎上した。


「ぐああああああああああ!」


 雄々しくも悲痛な悲鳴があがる。火の勢いはあまりに激しく、侵食すること火の如くとはよく言ったもので、ヘイルがいくらじたばたしようと転がろうと、決して鎮まることはなかった。

 ここでヘイルは頻りに喚いた末、土壇場でなけなしの頭脳を働かせ、着ている服を脱ぎ捨てることで、奇跡的に重傷は免れた。が、それでも功を奏したとは言い難く、その皮膚はところどころが爛れ、立つのもやっとという状態であった。

 しかし当の本人は、常日頃から肉体を鍛練している甲斐あってか、通常なら痛みにもがき苦しんでもおかしくないところを、至極平然とその脚で立ち上がり、『危ない危ない』と安堵していた。


「あと十秒灼かれていたら、さすがの俺も危うかったぞ」

「……まさか俺の炎に直撃してピンピンしてるなんて、正直ビックリだぜ。いや、ナメてたぜ。俺はお前を――お前らを見くびっていた」

「救世主をナメるなよ、小僧」


 ヘイルは再度トリプルスピアを構えた――が、異変にはすぐに気づくこととなった。どうもトリプルスピアを持つ感触がおかしいと見てみると、両手のあちこちに水ぶくれが出来ていた。痛みに耐性のあるヘイルだが、それでもその、今までとは異なる武器の感触は未曾有だった。

 しかし、そんなことは戦いにおいて言い訳にならない。ヘイルは一抹の不安を振り払うように頭を振ると、今度こそ少年へ駆け出した。少年も、ほぼ同時に走り出す。

 両者は真っ向から対峙し、ヘイルの突きを、少年が大剣の広い刃を活かして防ぐ形となった。少年はヘイルの初撃を腕力のみで押し返す。

 じりじりと追い詰められるヘイル。平生の彼であれば、力で少年に劣る道理はなかったが、しかし今のヘイルは両の手に深手を負い、違和感を覚えている。このハンディを負ったままの戦闘に、ヘイルが慣れているわけはなかった。ヘイルは使い馴染んだはずのトリプルスピアの扱いをさえ、今に限ってはどうすればいいのか直感や本能では分からなかった。


「どうした救世主! そのデカい図体は見かけ倒しかよ! 頑丈なだけが取り柄で虚勢張ってたのか!? なあ!」


 少年はヘイルの闘争心を駆り立てるように吼える。ヘイルは『抜かせ!』と対抗して腕に力を込めるが、けれどいかんせんトリプルスピアを持つ手に上手く腕力が反映されず、苦闘が予想された。

 両者の力は拮抗せず、少年はついにトリプルスピアを押し切ると、ヘイルの身体に深い切り傷を与えた。


「ぐあっ!」


 火傷で脆くなった皮膚に、裂傷は最悪の相性だった。いくら鍛え抜いたとは言え、火傷と斬撃の相乗した痛みは尋常ではなく、ヘイルは久方ぶりに感じた痛みに呻いた。

 その隙を少年は逃さず、立て続けにヘイルの身体を大剣で斬り、痛めつけた。ヘイルは加えて五度の攻撃を受け、とうとう地に伏してしまった。


「はあ? ちょっと待ってくれよ……弱すぎんだろ、どいつもこいつも。口だけ達者な噛ませ犬の集団のことを呼ぶのかよ、救世主ってのは。となると、お前らのリーダーだけはしっかり強いんだろうなあ?」

「ぐっ……」

「まあ実際、本物のリーダーはめちゃくちゃ強かったけどよお」


 少年の挑発に業を煮やしたヘイルだが、身体は思うように動かない。痛みで感覚が麻痺しているようだ。今やヘイルは指の一本すらろくに動かすことは出来なかった。

 少年は一向に動く気配のないヘイルを一瞥すると、苛立った様子で大きく溜め息をつき、大剣の先端を横たわる彼の脳天に突きつけた。


「つまんな」


 無気力に言うと、少年は大剣を振り上げた――瞬間、その両腕は鎖のようなものに絡め取られ、剣が振り下ろされることはなかった。少年の視線が鎖を辿ると、そこには前髪が目元まで伸びた陰気そうな少女が、唇を噛みしめて立っていた。

 スノウがチェーンウィップで少年の動きを封じたのだ。


「ス、スノウッ……ど、どうしてここが!?」

「また邪魔されんのかよ!」


 少年は舌打ちすると、縛られた両手を振りかざし、スノウをヘイルの傍に叩きつけた。スノウは小さく呻いて地面に倒れ、チェーンウィップも少年を解放してしまっていた。

 スノウは少年が手首の跡を気にしている間に、今度はヘイルの腕にチェーンウィップを巻きつけた。狼狽えるヘイルを他所に、スノウはチェーンウィップを握る手に力を込める。するとヘイルはみるみる痛みが引いていくのを感じた。


「こっ、これは……エナジーチェーンなのか?」


 スノウはヘイルが呟くと、肯定するようにこくりと頷いた。エナジーチェーンで少年の体力を吸い取り、吸い取った体力をヘイルに注ぎ込んだのだ。次いでスノウは、分かれ道でレインと離別した後、ヘイルが町中で叫んでいるのを聞き駆けつけた旨を、か細い声で吃りながら何とか伝えるのだった。


「チッ……なんだか妙な力を使いやがったな」


 少年は痺れを払うように右手を振って言った。


「にっ、逃げるぞ……俺は完全には回復していないし、おそらく君では奴に勝ち目はない! チェーンウィップのリーチを駆使して、この場から離脱するんだ!」


 ヘイルは大剣を振り回しながら迫り来る少年を見るや否や、スノウに小声で耳打ちした。スノウは戸惑いながらも頷き、傍の街灯にチェーンウィップを伸ばした。ヘイルも、辛うじて動くようになった身体を奮起させ、最長の状態にしたトリプルスピアを近くの家屋の壁に突き刺した。

 少年が大剣を二人に振り下ろそうとした瞬間、スノウはチェーンウィップの柔軟性を利用して街灯の方へインディアナ・ジョーンズよろしく移動し、ヘイルはトリプルスピアを『短くする』ことで先端の方へ跳躍し、家屋の傍の路地に入った。スノウも、足元のおぼつかない様子のヘイルを案じながら、街灯の光の届かない闇の中へ消えた。

 一人残された少年は、地面に思いきり叩きつけた大剣を引き抜き、空を見上げた。気づけば雨はそれなりに強くなり、戦意を喪失した少年に呼応するように鎮火し始めていた剣の炎を、更に責め立てるように消していく。


「ふざけやがって……」


 少年は憎々しげに呟くと、二人の内どちらも追うことなく、また次なる標的を探すべく、眼前に伸びる夜の街道を進んでいった。


~4~


 まるで時が止まっているかのような沈黙に支配された夜の町を、グレイは消えた住民を探しつつ歩いていた。ところが、既に分隊が離別し散策を開始してから一時間ほどが経過しようとしているが、人っ子一人さえ見つからぬまま、次第に雨も勢いを増してきているという始末であった。

 グレイの脳裏には、未だこの町並みを過去に見た曖昧な記憶がチラチラと存在を主張していて、しかしその正体が判然としないままだった。いつ、どこで、どうして見たのか――風景が闇夜でよく見えないこともあり、真実の解明は難色を示されていた。

 そんな折、グレイはいくつ目かも分からない十字路に行き着いた。いよいよ、チルドやグロウの待つ町の入り口に自力で戻れるものか不安になってきた。似た外観の住宅が立ち並び、また町自体も入り組んでいるようなので、単独での調査は些か無謀であったのではないかと、今更ながら思うグレイ。有り体に言えば迷子である。

 さて、どの道を進んだものか――グレイは前方に伸びる三本の道を順に見回した。その時。ふっ、と。右手の道を見た瞬間、グレイはその道を過去に見たことがあるという強烈な確信を抱いた。そしてそれは、同時に先頃から常に脳裏にチラついていた記憶と、歯車が噛み合うかのように合致した。


「そんな……」


 グレイはすぐさま踵を返し、来た道を戻った。思い出したのだ。いつ、どこで、どうしてこの町を見たのか。

 数日前、レッジの兼務先たる支援部隊研究科の施設を見学した時である。あの日、グレイはレッジに連れられ、ある映像を観せられた。そしてその映像には、一人の少年が映っていた。人相書きまで手渡され、まじまじと見入ったその少年の容姿を、グレイは鮮明に覚えている。

 あの真っ赤な瞳の少年が、かつてあの道端にいたのだ。もし、この件にあの少年が関わっているとするなら――あの不吉な少年が絡んでいるとするなら、一刻も早く全員を一ヶ所に集めなければ。分散してはならない。あの少年には、何か得体の知れない凶相を感じる。

 グレイは冷や汗を額に滲ませながら走った。彼の思考は、ただ赤い瞳の少年に対する恐怖に支配され、冷静さを欠いている。夜の町には、グレイの荒い呼吸だけが聞こえていた。

 すると、グレイは行く手の右の曲がり角から人影が出てきたのを見た。誰だ。背格好からして、一瞬ネルシスその人だろうと安堵したが、違った。人影を目視して数歩も進まぬ内に、グレイは人影が発する真っ赤な眼光と眼が合った――。

 人影はどこからともなく体躯を優に超える大剣を出現させると、それを野球のバッターの如く構えた。このままでは、疾走の勢いのままに両断されてしまう。グレイは、しかし速度を落とすことなく、ヤーグを握った。

 恐くないと言えば、それはもちろん嘘になる。あの瞳に睨まれた人間が恐怖しないことなど、およそ有り得ない。だが、彼の背中には仲間がいる――少なくとも、救助を待ちわびるチルドとグロウは、確実に町の入り口にいるのだ。このまま回れ右をしたところで、別の誰かが襲われるかもしれない。それよか、たとえ恐かろうが、ここで正面切って戦ってしまえば、いくらか助けにはなるはずだ。

 全員が生きて帰る助けには……。

 グレイはむしろ走力を上げ、少年にヤーグを振り下ろした。それを少年は、ホームランでも狙っているのか、大剣を大振りして遮る。

 途端、ヤーグの刀身から炎が立ち込めた。大剣と一度ひとたび衝突した際の熱が、秘術・業火を超えて一気に秘技・炎天を発動させたのだ。が、それは少年の大剣も同様だった。ヤーグと同じく――否、ヤーグよりも格段に激しく燃え盛る炎を、大剣の刃は発している。煌々として燃ゆる二つの炎が、まるで競り合っているかのように揺らめいた。

 だが少年が腕力に任せて大剣を薙ぐと、刃の炎が爆裂し、グレイはその衝撃で遥か後方に吹っ飛び、地面に叩きつけられた痛みに呻いた。


「お前はちゃんと戦ってくれるんだろうな……?」


 少年が大剣を振り回しながら、苛立った様子でこちらへ歩み寄って来るのを見て、グレイは顔をしかめながら立ち上がった。


「アンタ、何しにこの町に来てるんだ?」

「はあ?」

「この町で不審人物をちょくちょく見かけるって通報があったんだ。アンタがここにいた証拠だって残ってる。目撃者もいる。俺たちをここへ呼んだ奴と関係があるのか?」


 グレイの問いに、少年はニヤリと笑った。その邪悪な笑みを前に、グレイは自身の胸中に芽生える恐怖が増すのを感じた。


「俺は調査に来ていたんだ。この町にある仕掛けを施すためにな」

「仕掛け?」

「この町のレプリカを造り出し、本物の町と入れ替える仕掛けさ」

「……何でそんなことを?」

「お前たちを殺しやすくするためさ」


 少年は闇夜に佇む町並みを見回しながら言った。


「一時的に本物の町を別の空間に移動させ、代わりにレプリカの町を置く。お前たちがレプリカの町に入ったところで、本物の町を元の場所に戻す。そしてお前たちのいるレプリカの町を空間的に隔絶し、俺に殺させる――そういう計画なのさ」

「……じゃあ、あの男はグルだったのか」


 魔晶にメッセージを残した男――グレイは未だ実際に見たことはない彼への憤りを隠せなかった。


「民政を司る役人のはずだろ……いや、肩書きも嘘か……だとしても俺たち救世主を罠に嵌めるなんて……どうしてこんなことを……」

「知るかよ。俺は頭が良いだけの連中の考えは分からねえ。俺はただ強い奴と戦えれば、それで構わねえんだからな」

「……アンタはあの男と同じ、政府の人間じゃないのか?」

「はあ? おいおい、聞き捨てならねえことを言う救世主様じゃねえか。今すぐ死にたくなかったら、その言葉を撤回してもらおうか。人間とかいう腑抜けた存在と、俺とを一緒くたにしてんじゃねえよ」

「……何を言ってるんだ?」

「俺は人間なんかじゃねえって言ってんだよ」


 少年のあまりに突拍子もない返答に、グレイは言葉を失った。


「俺はクラウズだ」

「何……!?」

「正確には『元』クラウズだ。クラウズは殺した人間の魂を食らう性質があるらしい。だが、殺しただけじゃあただの野獣だ。人間を殺した後に名前を付けてもらうことで、クラウズは人間と同じ肉体と思考を持つことが出来るんだ。殺した人間の魂に刻まれた技術を会得してな。つまり、理性的な人間と本能に忠実なクラウズとのハイブリッド――両者のメリットを兼ね備えた人間を超える人間ってわけだ」


 驚愕のあまり、グレイには時間が止まっているように思えた。服や顔を濡らす雨粒の一つ一つが、身体に当たっているのを感じた。その感覚が、鋭敏に伝わってくる。冷たい。寒い。凍えてしまいそうだ。だが、地面に打ちつけられる雨音よりも、少年の告白は鮮明に聞こえた。

 名前を付けられることで力を得る――まるで、自分たちみたいじゃないか。


「名前……誰か、お前に名前を付けた人がいるのか?」

「人かどうかは知らねえが、いるにはいるぜ。ピンピンしてら。俺にメシアMESSIAHって名前を付けてくれた爺さんがな――救世主を殺した褒美に、付けてくれた名前だ」


 力をなくしたグレイの手から、ヤーグが足元の水溜まりにぽとりと落ちた。グレイは雨が瞼に入るのも気に留めず、眼を見開いた。今、少年が何を言ったのか。聞こえはしたが、理解が追いつかなかった――否、理解したくなかった。

 彼が救世主を殺した張本人だと。たとえどの口がそう言おうと、到底受け入れ難いことだ。


「救世主だよ、救世主。お前たちの親玉の部屋に置いていった死体。イーヴァスとか呼ばれてたっけな。あいつを殺したのは俺だ。敵の最大戦力たる救世主を亡き者にした一匹のクラウズに、褒美として『メシア』って名前が与えられた……そして、俺が生まれた」

「…………」

「まだあいつの能力が身に馴染んでなくてよ。唯一、この馬鹿でかい剣が俺自身の魂の権化みたいで、それだけは端から使いこなせてた」

「――誰だ」

「あ?」

「誰がお前に名前を付けたんだ」


 グレイは放心しつつも、辛うじて取り戻した理知を要に問うた。もし少年の――メシアの言っていることが全て本当なら、相当な実力者であることには違いない。救世主を打ち倒し、更には彼の能力を受け継いだとあっては、想像するだに恐ろしい戦力である。

 そしてメシアの現在の目的は、自分たちを殺すことらしい。ならば、こうして真っ向から対峙している時点で、既に自分は彼の獲物なのだろう。戦いは避けられないものと見るべきだ。

 ――自分は敗北するだろう。過去の状況からしか、今彼の戦力を推察する手がかりはないが、それだけでもう十分だ。

 オリジナルの救世主。世界の平和を守っていた救世主。民衆の安全と無事を保たせていた救世主。何より、自分たちをここへ呼び寄せた救世主。そんな彼を、殺したというメシアが相手であれば、死闘の果てにどちらが立っているかなんてことは、目に見えて明らかだ。

 だったら――なるべく多くの情報を聞き出して彼から逃げ延び、一刻も早く仲間と合流し、共有しなければ。そして、この町から脱出しケントルムに報告しなければ。

 この情報が外部に行き届かなければ、それは情報を持ち出せなかった自分の落ち度だ。数日前、レッジがレインの情報の共有を怠った責を追求していたが……それは自分の保身をのみ考えての物言いだったのだろうが、なるほど、今思えば的を射ている。

 ここで自分が死ねば、人類が得るものは何もないのだ。


「俺たちのリーダー【クラウンCROWN】様だよ。クラウズの生みの親にして、俺たちの名付け親さ」

「俺『たち』……だと?」

「ああ。俺に名前を付けるまでは、クラウン様も名付けの効果は知らなんだ、俺がクラウズから進化した最初の例だったわけさ。そしてクラウン様は俺が誕生した例を踏まえて、人間を殺して帰還したクラウズに片っ端から名前を付けていった。クラウズ軍団の飛躍的な戦力増強だ」

「戦力……増強……」

「ああ。そしてクラウン様は部隊を組織した。人間を殺し、名前を与えられたことで新たな存在として昇華した俺のような連中を集めた精鋭部隊――【クラウドCLOUD】をな」


 これで十分だ。グレイは敵側の有益な情報を出来る限り聞き出し、且つメシアの不意を突いて逃走を図る絶好のタイミングと思われた。グレイは再び来た道を引き返し、全力で走った。方向からして、確実にグロウやチルドがいる町の入り口とは正反対だ。しかし、今メシアから逃げおおせないことには、話にならない。聞いた話を、別の誰かに伝聞できない。

 グレイは自分こそが、この戦いを救世主側の勝利に導く鍵であると信じひた走った。


「待てよ」


 だが背後から、散々自分の精神に打撃を与える真実を言って聞かせた声音が唸った。グレイは振り返ると同時にヤーグを出現させ、身を守るように構えた。すると、ヤーグは重々しい一撃を受け、グレイはそれを腕力の限り受け止めることで辛うじて耐え延びた。

 そこにはメシアが、炎を纏った大剣を振り下ろしていた。


「お前の質問にわざわざ答えてやったんだ。お前も付き合えよ!」


 大剣の炎が、まるで意思を持っているかのように、ヤーグの刃を避けてグレイ本人を焼き尽くさんと燃え盛った。グレイはヤーグの刀身に溜まった熱が瞬時に炎へと変化したのを認めると、すぐさま秘技・炎天を以てそれを相殺した。


「へえ、少しはやるみてえだな……こちとら納得いかねえトドメを刺すわ、ザコ二人を取り逃がすわ、挙句雨に濡れるわで苛々してんだ。ちょっとは楽しませてくれよ」


 人相書きを見た時と同じく、やはり本人を目の前にしてもメシアは自分と同い年くらいの印象だが、にしたって言動が乱暴極まりない。

 だが、その台詞をグレイは聞き捨てならなかった。トドメを刺す、ザコ二人を取り逃がす。つまり、自分より以前に誰かと戦い、そして――。


「殺したのか……誰か殺したのか!?」

「ああ、殺してやったぜ。……ネルシスと、ブルート、とか言ったか? 槍を持った大男と、スノウとか呼ばれてた陰気な女も、殺せはしなかったが戦った」

「お前……!」


 胸がむかむかする。拳がわなわな震えている。グレイはメシアに怒っていた。仲間を手にかけられた怒り。それはグレイの判断能力を鈍らせたが、しかし完全に理性を奪いはしなかった。

 今すぐ彼を斬り伏せたい衝動と、逃走に徹しなければならない理屈とが、グレイの心で拮抗する。メシアの表情からして、これは明らかに挑発である。逃げ延びようとしている自分に戦意を芽生えさせる目的で口走ったことなのだ。

 グレイは歯を食いしばり、メシアにヤーグを投げた。メシアはそれを容易く大剣で払うが、グレイはその隙に曲がり角を西側に折れていた。この方角へ進めば、レインやスノウと合流する可能性が高いはずだ――スノウは、先ほどのメシアの言から襲われたらしいが、今は無事を祈るしかない。

 仲間を殺されたとはいえ、メシアと戦うわけにはいかない。出任せである可能性もなくはないのだ。戦わずして逃げの一手を取れば、瀕死の彼らを見つけ出して助け出すことも不可能ではないはずだ。グレイは、半ば現実逃避気味だと分かっていながらも、そう信じるより他になかった。


「待てっつってんだろうが!」


 迫り来る熱気を感じ、グレイは振り向きざまにヤーグで背後を斬りつけた。すると刃は眼前の炎を払いのけた。だが視界が開けた直後、濁った液体がかかり、グレイは思わず眼を瞑った。液体は眼球に沁みてしまい、視覚は著しく損なわれてしまった。


「どうだ。俺の剣には油が大量に染み込んでいてな。何かを斬りつけた衝撃で発生する熱によって油に引火し、刀身が炎上して爆発的に斬れ味が高まるんだ……お前も似たような能力なんだろう? 鬼ごっこは終わりにして、どっちの方が強いか決めようじゃねえか」


 油が入り込んだ瞳は、夜の闇も相まって、ほぼ何も見えない状態となってしまった。これは逃げる上でも、最悪の場合戦う上でも、絶望的なハンディだ。人間の一番の情報源は視覚だ。人間は見えるものから一番多くの情報を受け取り、処理している。その要たる眼がやられれば、人間は容易く命の危機に陥ってしまうのだ。

 グレイは視界の全てを覆い尽くさんばかりの闇夜をも凌駕する漆黒に怯え、ヤーグを杖の代わりにしてメシアの声が聞こえたのと真逆の方向へ走り出した。

 それを追うメシアが、雨音に混じって水溜まりを踏みつけるのが辛うじて聞き取れるので、グレイはそんな足音が間近に迫る度にヤーグを振り回した。秘技・炎天の火炎は雨に打たれて既に鎮火してしまっていた。今のグレイは恐怖と寒気で震えるばかりだった。

 だが自衛のために振るったヤーグを、メシアはいとも容易く大剣で払いのけ、グレイの身体を斬りつけていった。雨の中、巨大な剣が空を切るのが僅かに聞こえ、それだけを頼りにグレイは間一髪のところで刃を退けていた。しかしその都度態勢が崩れ、グレイは幾度となく水溜まりに倒れ込んだ。もはや方角も分からず、ただただ恐怖に駆られ、情報云々など忘れ果てひたすら自分の命欲しさに逃げ回っているというのが実のところであった。

 転がるように攻撃を避けるばかりのグレイに業を煮やし、メシアは炎を操ってグレイに襲わせた。大剣の物理的接触は今までかわしてきたグレイだが、自在に形を変えおよそ無尽蔵の炎を避ける術はなく、ヤーグを盾のように構えはしたが、けれども敢えなく全身を焼かれてしまった。


「うわあああああああああああああ!」


 しかし、ヤーグは吸熱性が高いため、グレイの身体を焼き焦がす炎は間もなく消失し、代わりにヤーグの刀身からは太陽の如き火炎が燃え盛った。

 だが、グレイは立ち上がれない。剣を振るうことさえままならない。全身を灼熱に焼かれた痛みで呻くばかりだ。もはや生への執着のみが心と思考を埋め尽くし、行動する力を失ってしまったかのようだ。

 着実に我が身に迫る死を前にして、恐れ、臆し、怯えるばかりであった――。


「痛い……痛い……熱い……」


 グレイは震える喉から声を出した。瞳からはしとしとと涙が落ちてくるが、顔にも及ぶ火傷が沁みて更なる痛みを呼ぶ。

 人が一般的に地獄を炎が伴った場所だと想像する理由が分かった気がした――この痛みは、そう、まさに地獄だ。

 メシアは腹立たしげに表情を歪め、這いつくばって呻くグレイを一瞥した。


「なんで……こうも弱いんだ……」


 呟くと、メシアは全身に軽度といえど火傷を負ったグレイを力強く踏みつけた。焼けんような背中の痛みが倍加され、グレイは苦しそうに悲鳴をあげる。


「どいつもこいつも! 俺をコケにしやがって! こんな! 弱い奴らなんかに! くそ! くそ! くそ! くそ!」


 メシアの行動は悪化し、グレイの腹部を蹴ったり、背中を執拗に斬りつけたりした。グレイの上体は血みどろになり、彼の悲痛な叫びと、メシアの怒号だけが夜の住宅地に木霊する。

 延々といたぶられ、もはや意識が朦朧としてきたグレイだった。眠ってしまえば終わりだ――分かっていても、睡魔に似た倦怠感が、彼の心身の気力を失わせていく。立ち上がることも、剣を握ることも、悲鳴をあげることも、瞼を開けているのも、かったるい。全身を蝕む激痛に苛まれながらも、しかし謎の虚脱感が同時にグレイを安眠へいざなっているかのようだった。

 いよいよもってグレイの命の火が消えようとしていた。その時。


「ロック・アート!」


 少女の声が町中に響いたのとほぼ同時に、グレイとメシアの鼓膜を割らんばかりの、およそ世界中の人々に聞こえるのではないかと錯覚するほどの轟音が、少女の構える弓より発せられた。

 すると路地から声の主が、弓の弦を引き絞りながら二人の元へ走った。


「ホイール・ダッシュ!」


 次いで少女が叫びながら弦を離すと、矢の代わりに棘の付いた車輪が放たれ、グレイを足蹴にするメシアに激突し、彼を後方へ吹っ飛ばした。


「グレイ! 大丈夫!?」


 誰かが駆け寄って来るのを、グレイは感じた。少女が眼に涙を滲ませ、口元を手で覆いながら彼の顔を覗き込んだ――レインだった。


「グレイ……今、助けるからね!」


 レインは、まずグレイの身体を仰向けに引っくり返した。足蹴にされた背中や全身の斬り傷がジクジクと痛んだが、しかしうつ伏せのままでも水溜まりに顔が埋もれて呼吸がし辛かったので、レインの判断は正しいと思われた。


「くそったれ!」


 レインがそのか弱い肢体でもってグレイを担ごうと苦闘しているところに、メシアの怒りに満ち満ちた声音が轟いた。振り返ると、棘付きの車輪を蹴飛ばし起き上がるメシアが、雨に打たれても尚その勢いを弱めない猛火を纏う大剣を振るっていた。


「いい加減にしろよ救世主共……くだらねえ茶番で俺を煩わせるんじゃねえ!」


 メシアは二人めがけ、大剣の刃から炎を放った。グレイは言わずもがな、レインも彼を介抱する態勢をとっていたため、避けることが出来ない。グレイを担ごうとする姿勢のまま、レインは隙だらけの背中をメシアに晒し、雨中に棒立ちしている状態である。グレイは、眼球に付着した不純物が雨で流されたのか、そんな彼女の姿が辛うじて見えた。濡れた夜の町の中心で、自分を守る一人の少女が見えたのだった。

 しかし、避けられないなら避けられないで、それでもあくまでグレイの身を守ろうという意思は頑なに揺るがないレインであった。レインはグレイの身体に炎の熱気をさえ触れさすまいと、彼の盾となるように立ち塞がった。その背中を、眼を瞑りながらも、臆面なく火炎に晒したのだ。

 燃え盛る火炎がレインを灰燼へ変えんと着実に迫る最中、ただただ守られているだけの自分を、グレイは激しく憎んだ。

 今の自分は、あまりに無力で、あまりに弱くて……あまりに情けない。散々、守ると誓ったはずなのに。そのために救世主となる決意を固めたはずなのに――また、繰り返してしまうのか。自分の無力さに直面し、自分の弱さを痛感し、自分の情けなさが侵蝕することになるのだろうか。

 ――そんなことは、嫌だ。グレイは半ば無意識に、そして傷だらけの身体の限界を越え、レインの背中を遮るようにヤーグを振るった。灰色の刃はメシアの炎を受け止め、レインの無防備な背中を守った。

 だが、掻き消された炎の後ろからは、メシアが突進してきていた。雨音に紛れての奇襲に不意を突かれたグレイは、当然その行動を予見することはできず、彼に対しては何も出来なかった。メシアは大剣を振り上げ、レインの背中を斬り裂いた。

 短い悲鳴と共に倒れるレイン。同時にグレイは水浸しの地面に投げ出された。ばしゃばしゃと転がり、剣も取り落とした。グレイの身体は、転げ落ちた勢いのまま、自然とレインとメシアが視界に入る態勢になった。レインの背中の裂傷は相当に深いと思われ、大量に流れ出た血が周囲の水溜まりを等しく深紅に染め上げていた。

 メシアがメラメラと燃ゆる大剣を振り回し、気を失ったレインの傍らに立ち、彼女を見下ろした。蔑むように、見下した。


「ああ……」


 そんな声音が聞こえた。それが自分が意図して発した言葉なのか、それともただの呼吸がたまたま意味を孕んでいるように聞こえただけなのか、グレイ自身、知る由もなかった。

 身体に力が入らない。剣を手元に呼び出すことも、這いつくばって彼女の元へ近寄ることもままならない。刻々と、恐れていた瞬間が近づいているように思われた。

 メシアは赤い瞳でチラッとグレイを見た。レインを見ていたグレイも、それに気づき彼と視線が重なり合う。

 メシアはニッと邪悪な笑みをこれ見よがしに浮かべると、高々と大剣を掲げた。どんな豪雨に見舞われても決して消えない、そんな予感さえ起こさせる豪炎が、絶えず巨大な刃で揺らめいている。

 レイン――グレイは、彼女の名前を呼べなかった。声を出そうにも、喉にすら力が入らない。全身に満遍なく行き渡ったかのような虚脱感が、グレイの精神を蝕む。大量に失われた血液、身体中の痛み、そして守ると誓った者を守れない自分への諦念が相まっての結果であった。

 守りたい。その一心だけは、変わらず今も自身の胸の内で、己を動かす原動力として燦然と輝いているのが、たとい現状が現状でもひしひしと伝わってくるようだ。いや、むしろそれを自覚しているからこそ、グレイにとって、この瞬間は耐え難かった。

 助けたい。守りたい。その揺るぎない信念は、確かに存在している。今この瞬間も、それが瀕死の彼を生かしているようなものだ。だが、今は生き延びることが限界なのか、身体は動かない。望んでも、努めても、動けないのだ。

 名前すら呼べず、グレイはただ、芋虫のように地に伏せるばかりだ。


「このクソアマが……」


 メシアが憤怒に表情を歪めて呟いた。ついに、彼は最悪の所業を行おうというのだ。グレイの思いは、レインを守りたいという、ただそれのみだった。しかし、それは果たされないものなのかもしれない。そんな懸念をさえ、グレイは抱く暇がない。

 グレイは、ただ、守りたい人を守るための力を真に欲した――だが、大剣は振り下ろされてしまった。

 ……その刃を、煌々と燃える炎が遮った。炎が質量を有しているかのように、メシアが渾身の力で振るった大剣が宙で制止する。


「クソッ! なんだよ、これは!」


 次いで炎はメシアの周囲を踊るように舞った。自在に動く火炎を、メシアは苛立たしげに大剣で払うが、しかし炎は尚も動きを止めなかった。

 何が起こったのだ。グレイは眼を見開いて炎の発生源を追った。炎はヤーグの刃から放たれていた。

 ヤーグの秘めたる能力の一つ――秘技・炎天の効果は、秘術・業火によって刃に蓄積された熱を炎へ変換することだが、その用途は何も、刀身に纏わせるだけではない。メシアが先頃から行使しているように、炎を独立させ自らの意思で操ることも可能なのだ。その炎は身を守る盾となれば、敵を焼き尽くす剣ともなる。その真価を知らずにいたグレイではあったが、彼のレインを守りたい一心が、無意識下で炎を使役したのかもしれなかった。

 決して故意に行ったことではなかったが、しかしグレイはこの時、ヤーグの根源たる魂で以て、秘技・炎天の真骨頂を知ることとなった。マタドレイク氏の教えは、あながち間違いではなかったのだろうか……。

 グレイは、最優先事項としてレインを救出すべく、己が命の火を吹き消さんが如く全身全霊の力を振り絞り、地を這った。芋虫のように。それでも、生きている人間のように。

 情熱を持った若者のように。


「あああああああああああああああああ!」


 怒りがピークに達したのか、メシアが曇天に吼えた。炎に焼かれながら、メシアは大剣を振り上げてレインの元へ駆けた。狙いは一つ。彼女の命である。


「やめろ!」


 グレイは立ち上がり、ヤーグを手中に出現させた。自身の魂の権化たる灰色の剣を強く握り締め、メシアの振り下ろす大剣を受けとめた。

 だが重傷を負ったグレイが、憤怒に身を任せたメシアに腕力で敵うわけはなく、刃を逸らすのが精一杯だった。加えてグレイは大剣に弾かれる形で尻餅をつくが、それでも、レインの命は救われた。

 グレイはフラフラと立ち上がった。両腕は力なくだらんと垂れ、身体を支える脚はガクガクと生まれ立ての動物のようだ。この有り様を見て、グレイがまだ戦える状態だと思う者はいない。


「死に損ないが……面白いじゃねえか」


 メシアは不敵に笑った。半ば、グレイを奮起させるためにレインを狙ったというのも、ありえないと言えば嘘になる。レインを殺せれば、それはそれで良しだ。しかし、どうせなら歯応えのある戦いがしたい。奇しくも自身と似た能力を魂に宿すグレイに、その期待を僅かながら寄せていたのも確かなのかもしれなかった。

 その実は、両者共に知る由もないが。雨に打たれながらの死闘が、何を合図にするでもなく開始された。

 未だ意識が朦朧としているのか、虚ろな表情で棒立ちしたままのグレイに、メシアは特攻をしかける。メシアが大剣を振るえば、グレイは辛そうに受け流した。メシアの猛攻を前に、グレイは防戦一方である。これまでの負傷からすれば、それは無理もないが。その動きは無気力とも気だるげともとられるやもしれないほどに鈍重ではあったが、しかしその全身の至るところに深々と刻まれた傷を見れば、誰しもよくここまで戦えるものだと評することだろう。

 更に、二人の傍らでは、両者の剣から放たれる炎の熾烈な激戦が展開されていた。こちらも、その勢力からどちらの炎がグレイのものか、メシアのものかは一目瞭然である。メシアの炎はグレイを焼き焦がさんと執拗に彼の動きを追跡するが、グレイの炎がそれを辛うじて遮っている状態だった。

 メシアが衰えを見せぬ俊敏な動きで大剣を振るい、それをグレイが紙一重で弾き続ける。その周囲では、メシアの炎がグレイを舞い踊るように攻め立て、グレイの炎がそれを弱々しい忠犬の如く必死に妨害する。

 全く異なる様相を見せる二局の死闘。しかしそのどちらも、グレイの方が劣勢であった。身のこなし、炎の活力、負傷の度合い。全てを鑑みてそれは明らかだった。だが、死闘はそんな二人の予想を越えての長期戦ともつれ込んでいた。グレイはというと、もはやいつ死んでもおかしくない。常にそんな状態であるにも関わらず、しぶとくメシアの攻撃をいなし続けている。危うい動きながら、確実に命を繋ぎとめている。

 そして、ほんの刹那の隙が生んだものなのか、あるいは負傷と長時間戦闘が相まって限界が訪れたのかはしれないが、突如として。何の予兆もなく、ついに終止符は打たれた。

 それまでと変わらぬ攻防が続いていたところに、メシアがヤーグを払いのけ、大剣の刃がグレイの右肩を深々と斬り裂いた。グレイは倒れ、身動きの一つもしなくなった。

 メシアはグレイの傍らに立った。微かに息をしているのが分かった。大剣の炎を掲げてみれば、眼も開けて意識を保っている。しかし、もう戦えはしない。グレイは死力を尽くした果てに敗北したのだ。


「残念だったな」


 メシアはとびきり嬉しそうに笑って刃先をグレイに向けた。一巻の終わりだ。グレイは、メシアが何か心変わりしてレインだけでも見逃してくれやしないかと、そんなことを祈りながら自分の死を覚悟した。満身創痍だ。もう、この身ではレインを守ることは出来ない――。

 すると、メシアは大剣を振り下ろすことなく振り返った。何かを目撃したのか、メシアは舌打ちしながら屈み、しかめ面をグレイの顔にずいと近づけた。


「救世主ってやつは運頼みで戦ってんのかよ、クソ! ……いいか、殺すのは今度にしてやる。その女共々、せいぜい醜く生き延びやがれ! いつか、そう遠くない未来、絶対にお前たちを皆殺しにしてやる! 寿命が先伸ばしになっただけだ! こんなつまらねえ奴らが救世主を名乗るなんざ、俺は許さねえからな!」


 ひたすら怒鳴った末に、メシアは視界の端へ消えた。グレイは眼だけ動かしてレインを探した。少し離れた場所に倒れている。生死の判別は、ここからでは出来ない。

 地面が揺れている。そう気づいて、強烈な睡魔を誤魔化しながら辺りを見回す。眼だけ動かして。眼以外の何も、今は動かせる気がしなかった。

 遠くから、雨音にも負けないような音が聞こえてきた。それが足音であることに気づくのには、僅かに時間を要した。

 やがて、その足音の特徴から、エクゥスアヴィスの群れが近づいて来ているのが分かった。が、なぜエクゥスアヴィスが群れでこの町を疾走しているのか。そもそも、この町は隔離されているんじゃなかったのか。普段なら気にかけるであろう諸々の疑問だが、今のグレイに思考する能力や体力は欠如していた。ただ、エクゥスアヴィスの群れが来ている。その事実だけが、今のグレイにとっての全てだった。

 いよいよ眠たくなってきた。遠くから自分やレイン、仲間たちの名前を呼ぶ、覚えのある声を聞いたのを最後に、グレイは眼を閉じた。

 レインの無事を祈ったきり、グレイの意識は途絶えた。

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