恐れ

~1~


 グレイは目覚めた。身体中に何か刺さっている感触と、身体中に包帯のようなものが巻かれている感触とが分かった。そして眼を開けると、そこにはクロムやスリート、それとスノウが、心配そうにこちらを覗き込んでいた。


「グレイ! 大丈夫か!?」


 クロムが言った。グレイはまだ意識が朦朧としていながらも、なんとか声を発して答えた。もっとも、それは単なる声であって、およそ言葉とは呼べないものだったが。


「みんな、もう目覚めていますよ」


 スリートが優しい眼差しでもって、部屋の全体を指した。病室と思われる空間には、グレイのものの他に、幾つもの寝台が設置されていた。全部で三つのベッド、その全てに負傷者が横たわっていた。全員、目覚めて間もないグレイの方に寝返りを打って、彼を見つめていた。


「……起きたか。そうか……良かった……」

「やれやれ、このまま死んでいてくれたら男女比が変動し、俺の円満なハーレム生活が充実する未来へ一歩近づいたんだがな」

「べ、別に心配なんかしてなかったんだからね!」


 ヘイルの様子がいつもと違うことに、グレイはすぐ気がついた。いつもの威勢はそこになく、ただひたすらにグレイの覚醒を安堵しているような、そんな面持ちだ。

 ネルシスとブルートについては問題なさそうである。


「――レインは!?」


 グレイは、見当たらない彼女の行方を二人に訊ねた。クロムが『落ち着け』とグレイをベッドに寝かしつけながら言う。


「今、取り調べを受けてる。俺とスリート、それからグロウとチルドは受け終えて、さっきレインの番が来たんだ」

「負傷した中では、一番早くに目覚めましたからね……最後まで目覚めないあなたを、とても心配していましたよ。歩けるまでに回復したら、一目会ってあげたらどうでしょう」


 グレイは肩の力が抜けたように枕に頭を落とした。心的余裕を得たグレイは、改めて周囲を見回す。ヘイルは全身に血の滲んだ包帯が巻かれており、この中では一番の重傷者のようだ。ネルシスも、ヘイルほどではないが、相当の深手を負ったらしいことが、寝台の近辺に立ち並ぶ機材から窺える。ブルートはというと、容態が少し変わっており、右の二の腕から先が鳥の姿形のままである。そこには、やはり包帯が巻かれている。


「一体、どうなったんだ?」


 グレイが問うと、スリートは全てを話した。


「パラティウムに勤務する官僚の一人が、我々を罠に嵌めたんです。敵はタンクを撃破したレインさんが、まず真っ先に排除すべき脅威と判断したのでしょう。同時に、僕たち同分隊の救世主も始末すれば、こちらの戦力が大幅に減退するだろうという目論みもあったようです。

 そんな企みがあって、彼はメシアという少年と結託し、僕たちを全滅させようとした。詳しい経緯は尋問中です――もっとも、その実は拷問でしょうが。

 ヴァントに細工したのも彼らしいのですが、その点に関してだけは、知らぬ存ぜぬの一点張りです。口封じでもされているんでしょうか……。

 僕たちを出発させることが出来たのは、仕組みとしては簡単で、本来なら軍事拠点もなく転移先として設定されていないはずのあの町に、ヴァントを一定時間だけ繋げ、十名が通過した段階で消滅し、またあの町との連結も切れるように調整したとか。

 ですが、ここで早くも誤算が生じてしまった。クロムさんを除く九人がヴァントを通った後、僕はクロムさんを呼びに再びヴァントを通り、スコラ学院へ戻った。この時、僕が学院へ戻ったことを、ヴァントが十人目の通過と認識し、町との連結を断ったのです。結果、僕とクロムさんは取り残されてしまった。

 その後、僕たちは万が一に備えて、ウィル隊長にこの件を報告しました。元々、僕とクロムさんはこの件が怪しいと睨んでいた側の人間でしたからね。そこで町民の失踪事件など起こっていないこと、この依頼はケントルムさえ把握していなかったことが判明しました。あの男は直ちに取り押さえられました」


 ここまでが僕たちの経緯です、と。スリートは言葉を切った。まだ目覚めてばかりのグレイには、この気遣いはありがたかった。一度、思考の定まりにくい頭でスリートの話を整理し終えると、グレイは『続けてくれ』と頼んだ。

 今度はクロムが話し始めた。


「俺たちは捜索隊を引き連れ、ウルプス周辺の地域を探した。俺たち救世主の目と鼻の先でヴァントに細工する時間は限られてる。遠い地域にヴァントを繋ぐのは不可能だと、支援部隊開発科に太鼓判を押されたからな。

 すると、平原の端っこに空間の歪みがあるって報告を受けたんだ。その空間を調査すると、あの模倣の町を見つけた。入り口付近にグロウとチルドがいたから、二人と協力して、内外から町をドーム状に囲うバリアを破壊できた。

 二人は、誰がどの道を進んだのかを俺たちに教えてくれた。本部からも本物の町の見取り図を資料として捜索隊に持たせていたから、みんなを発見するのに時間は掛からなかった――二人は町の方からなにか大きな音が聞こえたから、きっと何かあったものと思って、助けが来たときに順序よく説明する準備をしていたらしい」


 グレイは、その『大きな音』がレインの魔法――ロック・アートであると分かった。あの魔法は、爆音で敵に隙を生じさせる効果と、味方に自分の危機と位置を知らせる効果とを有している。

 グレイは病室を見たところ二人の姿が見えないことを言及すると、スリートが『グロウさんはチルドさんを連れて散歩へ行きました。子供に怪我人の見舞いは、少し堪えますからね』と答えた。

 たしかに、チルドは仲間たちの危機を知った上で身動きの取れない状態を、どれだけの時間かはしれないが継続していたのだ。精神的に追い詰められても仕方あるまい。

 すると、ネルシスが『あのガキと最初に戦ったのは俺だ』と言いながら、身体中に貼りついた管を鬱陶しそうに払いのけて上体を起こした。


「かなり善戦したんだが、あいつの小癪

こしゃく

な作戦に虚を突かれた。そこへブルートが助けに来てくれたんだ。空から俺の危機を見つけたらしい。まったく、愛ってやつは世界を救うぜ」

「うるさいわね! たまたまよ、たまたま!」


 ブルートが顔を赤くして反論した。それに構わず、ネルシスは続ける。


「だが、あいつは変身したブルートの翼に剣を投げつけたんだ。おかげで俺たち二人は仲良く墜落――俺が間一髪で水のクッションを作り出したから大事には至らなかったが、あのままだとペシャンコになってたな。変身した姿で負傷し、そのまま気絶した後遺症で、ブルートは……ぷくく」

「な、なによ! 言いたいことがあるならハッキリ言いなさいよ! 殺してやるから!」


 ネルシスが未だ人間の腕に戻らないブルートの右翼を見て笑った。ブルートは恥ずかしそうにそれを布団で隠すと、左手で魔晶台のリモコンをネルシスに投げつけた。曰く、しばらく変身魔法を刻まれた魂と同じ脈動のリズムの衝撃を与え続けることで、翼は徐々に元の腕の形へ戻っていくらしい。

 その光景を見ていると、グレイはスノウがちょこちょこと自分の裾を摘まんでいるのに気がついた。なにか話したいことがあるようだ。グレイは微笑んで彼女の口元へ耳を傾けた。

 スノウはグレイに、自分とヘイルの経緯

いきさつ

を話した。分かれ道でレインと離別したこと、墜落するブルートたちを目撃したこと、傷だらけのヘイルと共に敵に立ち向かったこと――そして、みんなが危険な目に遭った責任を感じ、ヘイルがすっかり落ち込んでしまっていること。

 その証拠に、ヘイルは負傷した皆々から眼を背けたいのか、命に別状がない様を見ていたいのか、どちらともとれないような挙動を繰り返している。


「レインの背中の傷も、相当な深さではあったけど、あんなのはキュアドリンク一本で何とかなった」


 グレイを安心させようと、クロムは言った。だが、グレイの心は完全には晴れなかった。レインの顔を見たいと、今は心から思っていた。


「……お前は三日三晩、ずっと眠り続けてたんだ」


 クロムは、黄昏色に染まった窓から外を見て言った。


「片時も離れず、レインはお前が目覚めるのを待ってたんだ……」


 グレイはクロムと同じ場所を見つめた。沈みゆく夕陽が、いつにも増して美しいと思った。生きている実感を、これまでの人生の中で得た機会は少なかった。それが、この世界へ来てからは頻繁に、生きる素晴らしさを教わっている。それだけ危険な目に遭っていると言ってしまえば、確かに災難かもしれないが。

 しかし、生きている限りは。こんな具合の感傷に浸れるのも、救世主に召喚されたメリットだと思えば、なるほど悪くないとも思ってしまうのが正直なところだ。

 自分は今、この上なく生きている。仲間たちは、それを教えてくれるのだ。


「グレイ!」


 レインの声が聞こえた。振り返ると、レインは部屋の戸を開けた状態のまま立ち尽くしていた。その眼からは涙が溢れんばかりに出ている。

 グレイは全身に隈なく張り巡らされた管を意にも介さず、ベッドから立ち上がった。足に力が入らず、よろめいて壁に手をついた。数歩進むと、身体中の管が外れて痛んだ。だが、グレイはレインの元へ向かった。

 人前であるし、それに気恥ずかしさも直前に芽生えたので、したい衝動を堪える必要があったが、グレイは彼女を抱き締めはしなかった。ただ、向き合って。相対して。その涙に濡れた顔を直視する。


「レイン……」


 彼女の名前を呼んだ。すると、レインは声を零してグレイを抱き締めた。おいおい、人前で恥ずかしいじゃないか、なんて嗜めるのは、ここは不適切だと思われた。やがてグレイも、彼女の身体を両腕で包み込んだ。

 みんな生きている――それだけが、今のグレイにとっては全てだった。


~2~


 グレイたちは数日に渡り事情聴取を受け、その間はスコラ学院への帰還を許されず、ケントルムの監視が及ぶ施設での生活を強いられることとなった――事実上の軟禁生活である。

 グレイ、ネルシス、ブルート、ヘイルの四人は怪我の治療が済んだ時点から聴取が行われ、また他の六名は既に聴取を終えており、本来なら学院への帰還を許されていたのだが……。


「帰る時はみんな一緒です」


 そんなレインの言葉を聞くと、全員が四人の聴取が終了するまで、共に施設内で過ごしたのだった。

 そして先頃、ようやく全員の身柄が解放されることとなった。聴取した内容は、今回の事件の首謀者たるパラティウムの官僚の裁判で提出され、また今後の救世主部隊の方針転換案の材料にするとされた。肩書きだけという感は当初からあったが、それでもケントルム直属の部隊である救世主が、単独任務へ赴けてしまうセキュリティの甘さが、関係各所から指摘されたのだ。

 このままでは、また同じことが繰り返されてしまう可能性は大いにある。その凶事の芽を摘み取るには、改革しかない。どんな形かはまだ定かでないが、救世主部隊の形態は変わらなければならない。それは明白な事実であった。

 スコラ学院男性寮――本来ならば、既に閉鎖時刻を優に過ぎているはずの大食堂が、なぜか開放されていた。五人は軟禁生活において、決して良質とは言えない食事を摂っていたので、さながら第二の母の味とでも言うべき温かみを持った料理が出される場所へ、まるで取り憑かれたような足取りで向かった。

 行くと、食堂にはいつも、朝から晩まで変わらない味を提供し続けてくれるおばちゃんがいた。疲れ果てた五人の帰還を祝し、また重大な事件に巻き込まれながらも帰還を果たした彼らの功労を労い、終業時刻を大幅に過ぎても五人の空腹を満たしてあげようという、粋な計らいがそこにはあった。


「食べていきな」


 そんな事実を微塵も悟らせぬ、孫の帰りを待ちわびていた祖母のような優しい笑顔を以て、おばちゃんは五人を迎え入れた。

 五人は黙して、各々の席に着いた。そして、今まで必ず一日に一食は注文していたはずのメニューを、ここ数日は食べていないことを思い出した。


「――おばちゃん。俺、醤油ラーメン。ネギ少なめ」

「エビチャーハンなみ

「……カレーライス……辛口超盛りを一つ、頼む……」

「僕は魚定食をいただきます」

「俺はペペロンチーノを一つ。いつもの絶品、頼むぜ」


 グレイ、クロム、ヘイル、スリート、ネルシスが口々に好物を注文すると、おばちゃんは『毎度ね』と言いながら厨房へ姿を消した。

 食堂には、おばちゃんが料理する音だけが聞こえていた。五人は沈黙を守ったまま、机の端っこを見つめるばかりだ。軟禁生活を終えたばかりで、何かアクションを起こすほどの体力が残っていないのも、確かにあるが。

 問題はヘイルであった。


「はいお待ち。召し上がれ」


 最初に、ヘイルの元へカレーライスが届けられた。いつもなら同時にオーダーした場合、各人ともほぼ同時に料理が届けられる態勢なのだが。今日ばかりはおばちゃん一人ということもあり、全員に熱々の一品を提供すべく、一人一人の料理を順番に作っているらしかった。

 しかし、ヘイルは一向に差し出された料理に手をつけようとはしなかった。普段であれば料理が到着したその瞬間にはスプーンを握っているのだが。

 その原因は誰の目にも明白だった――グレイがスノウに聞き及んだ通り、ヘイルは自責の念に苛まれているのだ。半ば強引に任務を受理し、それと同時に期しなかった事態とはいえ、全員を事件に巻き込んでしまったのだから。

 その、自らの愚行の被害者と言える四人の眼前で、彼らより先に飯を食うなど出来なかったのだ。彼の傷心は、自らにそれを許さなかった。


「……冷めてしまいますよ」


 沈黙を破り、スリートが言った。こんな痛々しい彼を見かねての一言だった。誰も、彼を責めたりなどしてはいなかった。

 彼の自責の念は深い。日頃は常に熱血的で情熱的な振る舞いを絶やさないヘイルだからこそなのかもしれなかった。その分、反動は大きい。自分に振り回される人たちの惨状を目の当たりにしたショックは、計り知れないのだろう。

 ヘイルも、四人も、互いにかける言葉を模索している最中だった。


「はいお待ち。召し上がれ」


 ついにヘイルが一口も手をつけることなく、次の料理が来てしまった。クロムのエビチャーハンである。


「――すまん!」


 それから数秒して、ヘイルは席を立ち、四人に土下座して言った。彼の目下の綺麗な床に、数滴の雫が落ちた。


「俺のせいだ! 全部俺のせいだ! すまん! 俺が何の考えもなしに行動したから! 俺がみんなに怪我をさせてしまった! 俺がみんなを巻き込んでしまった! 一つ間違えば誰が死んでいたか! 他でもない俺が真っ先に死ぬべきだった! みんなが負った傷を、俺が全て一身に背負うべきだった! ……本当にすまん! すまん! すまん……すまん……」


 ヘイルは泣きながら謝り続けた。


「……もういいって。誰もヘイルを責めたりしない」


 グレイが言っても、ヘイルは『すまん……すまん……』と謝り続けた。もはや自責の念に押し潰され、正気を失ったものとさえ思われた。


「はいお待ち。召し上がれ」


 続いて、ネルシスのペペロンチーノが届けられた。おばちゃんは、何を追及するともなく、ただいつもの台詞を言って去った。

 ヘイルは、絶えず謝り続ける。


「……なら生きろ」


 クロムが言うと、ヘイルは顔を上げた。


「生きて、たくさんの命を救え。悔やむより、嘆くより、救世主は救わなきゃならない。アンタが目指したのは、そういう存在だろ」


 ヘイルは鼻をすすりながらクロムの言葉を受けていた。ふと、視界の端のカレーライスを見ると、皿の端にエビが載っていた。これはヘイルが頼んだ普通のカレーライスには決して有り得ないトッピングである。

 するとネルシスが、そこへ更に自身のペペロンチーノの一部を置いた。『こういうことだ』と、そう言いながら。


「俺たちとお前は曲がりなりにも『仲間』だ。お前が躓けば俺たちも躓く。お前が立ち止まれば俺たちも立ち止まる。お前が傷つけば俺たちも傷つく。だから早く食え。お前が腹いっぱいになれば、俺たちも腹いっぱいになる」


 ネルシスは、自分のペペロンチーノを食べ始めた。クロムもそれを見て一考した後、エビチャーハンを食べ出した。


「はいお待ち。召し上がれ」


 グレイの眼前に醤油ラーメンが置かれた。グレイは間髪入れず、チャーシューを箸で摘まむとヘイルのカレーライスの端に置いた。その表情には笑みが見てとれる。


「……みんな……」


 ヘイルは呟きながら、更に涙を滲ませる。


「みんな、ヘイルに元気になってほしいんだよ。元気じゃないヘイルなんて、ヘイルらしくないからさ」


 言って、グレイはラーメンを思いきりすすった。『うまっ。食べてみ』と、そう促す。ヘイルは、泣きながらフラフラな足取りで席に着いた。自分のカレーライス。そして傍には、みんなが寄せてくれた、豪華なトッピングの数々――。


「はいお待ち。召し上がれ」


 最後に、スリートの魚定食が届いた。スリートは皿の中央にどんと配された魚の一部を、フォークとナイフで切り取る。


「……僕たちには、あなたの情熱が必要なんです」


 ヘイルの潤んだ瞳を見て言うと、スリートは魚の一部をカレーライスの皿に置いた。

 カレーライスの皿は、有り得ないトッピングに満ち溢れながらも、不思議と香ばしい香りを漂わせている。

 ヘイルは、エビとペペロンチーノ、チャーシューと魚、そしてカレーライスとを一気にスプーンですくった。


「……いただきます」


 ヘイルは涙声で言うと、それを口の中にかっ込んだ。もぐもぐ、と。いつもなら三回噛んだらすぐに飲み込むようなヘイルであるが、今日は味わうように、丹念に咀嚼する。


「……辛い……でも、うまい……」


 ヘイルは、そう呟いた――全ては許された。ヘイルは、全てを許せたのだった。


「……うっ。この魚、骨があるやつか」

「ええ、そうです」

「骨が喉に刺さったぞ」

「なら、それが今回のあなたに下された罰ということで、一件落着としましょう」


 スリートは言いながら、自身も魚定食を食べた。こうして全員が、無事にスコラ学院への帰還を果たし、母なる味を以て空腹を満たしたのだった。


「スリート。箸は使わないのか? 魚なのに」

「お黙りなさい」


 ヘイルの指摘に、スリートは顔を赤くした。


~3~


 スコラ学院女性寮の食堂もまた、今日に限り閉鎖時刻を過ぎても開放されていた――浴場も。五人は各々の好物を食べ終えると、軟禁生活中は衛生環境面の問題でしなかった身体の洗浄を、今ようやく出来る喜びに満ち溢れ、いざ入らんと脱衣所で衣服を脱いだ。


「わーいわーい! お風呂お風呂ー!」


 チルドが歓声をあげながら、熱湯を蓄えた浴槽に飛び込んだ。


「こら~、危ないよ~。飛び込み厳禁~」


 グロウは言いながら、倒れ込むような姿勢で自らも浴槽に入った。


「あんたはせいぜい溺れないようにしなさいよ」


 ブルートの危惧は早くも的中し、グロウは浴槽に肩まで浸かりながら、ぶくぶくと寝入っていた。それを見て、チルドは『あはははー!』と笑う。


「こら、まずは身体を洗わないと。浴槽に汚れが付いて、用務員さんが大変になっちゃうでしょ?」


 叱りながら、レインはボディソープをかけたタオルで身体を拭いた。その肢体は泡まみれとなり、白濁としている。

 その隣では、スノウがじぃっとレインを見つめている。正確には、レインの胸部を。レインは全身の白濁を桶いっぱいの水を被って洗い流したところで、それに気づくのだった。


「? スノウ、どうしたの?」

「……レインちゃん……大きいね……」


 ぼそっと。スノウは呟くのだった。


「私……ないから……」


 スノウは断崖の如き自身の胸部を撫でると、力なく頭を垂らした。普段から陰気な彼女が、より落ち込んでいるように見えた。


「そ、そんなことないよ! 私、最近蚊に刺されちゃって! それで結構腫れちゃって! だからそう見えなくもないのかなって思うけど――」

「私も……レインちゃんくらいあったら……」


 その先は、周囲の喧騒に掻き消されて聞こえなかった。

 頭髪も洗い終え、二人も浴槽に入った。五人全員が、広い浴槽を貸し切っているかのようだ。およそ三百人強もの女性が毎日利用する浴室は、一度に百人は入れるほどの広大さを有していた。


「わーい! むにゅむにゅー! あはは! なんだか赤ちゃんみたいー!」

「やめなさいチルド~。下手したらもげるから~」

「くっ……」


 チルドがグロウの豊満な胸で戯

じゃ

れているのを、端で憎々しげに見つめながら、ブルートは首元まで湯に浸けた。


「……ヘイル、大丈夫かな……」

「平気平気。あの筋肉バカ、みんなから晩ごはんの具を分けてもらうだけで機嫌直しそうじゃない」


 レインが湯気が立ち上る天井を見つめながら呟くと、ブルートは湯船から顔だけ出して言った。


「……あいつより、あんたは心配してる奴がいるんでしょ?」

「え? どういうこと?」

「あんたの彼氏よ」


 途端、レインとスノウは驚愕のあまり吹き出した。


「な、なんであんたまで吹くのよ!」


 げほっげほっと咳き込むスノウに、ブルートはたじろいだ。


「なっ、ななな何言っちゃってんのブルート! そ、そんなこと、あっ、あるわけないじゃない! やだなー、もー! おっかしいなあ! ちゃんちゃらおかしい!」

「ちゃ、ちゃんちゃら?」


 レインは浴槽の湯を赤く染まった顔にかけながら言った。


「あっ、あー! 私、もうのぼせちゃったなー! やばいやばい! もう頭クラクラで眼もチカチカー! うわー、これは今すぐに上がらなきゃ無理っぽいやー!」

「あんた今さっき入ったばかりじゃない」


 一度は立ち上がるレインだったが、ほどなく再び湯に浸かった。チルドとグロウは、相変わらず抱き合っている。


「……あんたたちこそ、大丈夫なの?」


 ブルートは、レインとスノウを交互に見た。二人が首を傾げるのを見て、ブルートは溜め息をつく。


「――あの、メシアとかいう奴よ。襲われたんでしょ?」


 レインは思い当たったのか『ああ』と呟き、スノウは黙したまま俯いているばかりだ。


「うん……でも、グレイが助けてくれたし、それに危ない目に遭ったのは、みんな同じだから。私だけ弱音を吐いてちゃダメだよ」


 レインは言った。その隣でスノウが黙したまま俯き、身体を小刻みに震わせているのを見ると、ブルートはふっと眼を閉じた。


「……あたしは怖かった」


 震えた声で、そう言った。


「ネルシスが殺されかけてて、慌てて助けて、そしたら腕を貫かれて――おまけに入院してしばらく変身が解けなくなっちゃったし、起きたらみんな包帯ぐるぐる巻きだし、怖くて怖くて仕方なかった……」

「ブルート……」

「…………」


 レインは、瞳に涙を滲ませる彼女の肩に、そっと手を乗せた。スノウは、それをただ、じっと見つめている。


「それに……油断してると、一瞬、思っちゃうの。全部ヘイルのせいだ、って……。分かってるの。行くって言ったのはあたしだし、ヘイルはもう十分傷ついてるし、誰も何も悪くなくって、そんなことは分かってるの……だけど……それでも……気がついたら、ヘイルを睨んでる……」


 涙声で告白するブルート。レインにはかける言葉が見当たらなかった。この事件が及ぼした影響は計り知れない。おそらく男性寮では、グレイたちがヘイルとの関係修復に難航しているのだろうと、レインは思っていた。

 この事件は、まだ解決していないのだ。


「……大丈夫……だから……」


 すると、今まで沈黙していたスノウが、ついに喋った。ブルートの手を握り、湯から引き上げる。


「私、が……私たちが、いるから……」


 言葉に困ったのか、『えぇっと……』と吃るスノウ。すると何を思ったのか、彼女はブルートを抱き締めた。裸の少女と少女の肌が、直に触れ合う。


「ええ! ちょ、ちょっと、待った……当たってる! 当たっちゃってる! 当たっちゃっちゃっちゃ……!」


 ブルートはじたばたするが、スノウは放さない。ぎゅっと。互いの温もりを押しつけるように、強く抱擁している。


「……私たち、仲間だから……」


 スノウは相応しい言葉を探し当てたのか、はっきりした口調で呟いた。ブルートは暴れるのをやめ、今度はぽんぽんとスノウの背中を優しく叩く。『……分かった。分かったから、放して』と、そう言って。

 解放され、ブルートはスノウと見つめ合う。心なしか、胸の内に溜まっていた淀みが、湯気と一緒に天へ昇っていくような気がした。


「そうね。あたしたち、仲間ね」


 ブルートが微笑むと、スノウも微笑んだ。事件はまだ、解決しない。だが、判決を下すことは出来るのかもしれなかった。時効を迎えない限りは、悩み続けてもいいのかもしれなかった。

 ――ふと、スノウはブルートの視線が、よくよく見ると自分の視線と重なっていないことに気がついた。彼女の眼は、もう少し下を向いていた。

 追うと、スノウはブルートが自分の絶壁の如き胸部を凝視しているものと分かった。『あたしたち、仲間ね』……たしか直前に、そんなことを言っていた気がする。

 スノウは赤面し、ブルートの頬を平手で叩

はた

いた。


~4~


 スコラ学院学舎四階、相談室にて――。


「恐いんです……」


 グレイはウィルと、それから彼の右隣に座るマタドレイク氏、そしてウィルの左隣に座る、小柄で両目を覆うように黒い帯を巻いた老人に告白した。老人の眼には、およそ光は届いていないものと思われる。


「何が恐いんじゃ?」


 全盲の老人が、グレイを杖で指して問うた。


「仲間を――大切な人を失うこと。俺は守りたい人を守るために戦った。でも、守れなかった。ばかりか守られていた。敗北して、あまつさえメシアを取り逃がしてしまった。……このままじゃ、俺は誰かを失ってしまう。レイン、クロム、みんな……誰かが死んでしまう。みんなを守れない自分がいることが、許せないんです……」


 グレイは己の不甲斐なさに顔を伏した。その拳はぎりぎりと握り締められ、彼の胸中の恐れや憤りを露にしている。

 ウィルたち三人は顔を見合わせると、ほぼほぼ同時にこくりと頷いた。そして再びグレイに向き直ると、まずはウィルが口を開いた。


「お前には修行が必要だ」


 グレイは伏した顔を上げた。その瞳は、僅かに潤んでいる。


「剣術をマタドレイクさんが、そして一人の戦う者としての心構えを、この方が指導してくれる」


 ウィルはマタドレイク氏と、全盲の老人を指した。老人は両目を黒い帯に覆われているにも関わらず、グレイの眼を見つめていた。


「この方はグラディエラ・ポンデマカルシュ先生だ。現役時代は世界最強の剣士として名を馳せ、ケントルム直属の近衛このえ騎士団を指揮した。除隊後はグラディウス騎士団を創設し、若き精鋭を育成する立場となった」


 ウィルが言うと、老人は『ふぉふぉふぉ、照れるわい若造め』と笑った。


「グラディウス騎士団……ということは」

「ああ。グラディエラ先生は私の師匠だ」


 グレイは過去に一度聞いた名を思い出すと、マタドレイク氏を見た。すると氏は、こくっと頷いて答えた。


「……また、俺だけ個別指導ですか」


 グレイは再び俯き、自虐的に言った。それを聞き、三人は眉をひそめる。


「いいか。戦いへの恐怖とは、兵士なら誰しも持つ当たり前の感情だ。喪失や死を恐れるお前の反応は正常だ。それが人より顕著に表れているだけであって、そこに強者も弱者もありはしない」


 ウィルは懸命に説得したが、グレイは聞く耳を持たなかった。ただ自分に呆れ、それと同時に、心の隅の方では他に成功している救世主たちを妬んでいた。

 死を恐れない強靭な心の持ち主たちを羨んでいた。


「俺が弱いから……みんな……」

「それは違う。覚えているか? お前はかつて私と稽古をつけたな。あの時のお前の剣術は、並大抵の者では習得し得ない高度なものだった。それに、お前はタンクの角を覚醒させた力で焼滅させたと聞く。タンクの角の硬度は凄まじい。あれを一刀の下に焼き尽くすなど、他の救世主には出来ない所業だ」

「だけど、レインはタンクそのものを焼き払ったんだ。あの巨体を、一撃で消し炭にした……この程度でレインを守るなんて……俺は……」


 マタドレイク氏の激励にさえ、グレイは耳を貸さない。


「俺が弱いから……守れなくて……守られてばっかで……恐くて……」

「じゃからお主は死にかけたんじゃ」


 グレイは顔を上げた。グラディエラ氏が、黒い帯に隠された瞳でこちらを見ていた。


「自惚れるなよ、小僧。お主は特別に強いわけでもなければ、特別に弱いわけでもない。ただ己の確固たる決意をおごっているだけじゃ。誰かを守るという揺るぎない意思に酔っているだけじゃ。人を守るというのは、お主が想像しているより遥かに過酷な道じゃ。若者が背負うにしては、あまりに重い責任じゃ」


 グラディエラ氏は立ち上がると、しっかりした足取りでグレイの傍へ近づいた。


「――お主、眼が見えなくなったことはあるか?」


 漆黒に遮られた鋭い眼光を、グレイは帯の奥から見出だした気がした。


「大切なものが見えず、触れたくても触れられなくなったことはあるのか? んん?」


 グラディエラ氏は杖でもってグレイの胸を突

つつ

いた。


「お主は、まだ守りたい者が見えておる。当たり前のように触れられる。お主は、それを恐れる対象ではなく、戦う糧として魂に留めておかなければならぬ」


 グレイは自身に突きつけられた杖の先端から、グラディエラ氏その人へ視線を移した。


「じゃが、当然恐れを持たぬ者はいない。そこの若造が言った通り、お主は特にその耐性が欠如しているだけじゃ。それを、儂と弟子が鍛える――弟子がお主の剣術を、お主が納得いくまで鍛え上げる。そして、儂がお主の魂を鍛え上げる」

「…………」

「じゃが断っておく。誰も自らの恐れを完全に消し去ることは出来ない。これは、どれだけ鍛練を重ねても永遠に払拭できぬ問題なのじゃ。じゃから、これからの修行は、お主が恐れに負けぬ精神力を育む修行となる」

「……恐れに……負けない……」

「あるいは恐れに勝つと言うべきかもしれんな――いずれにせよ、今のままでは、お主の剣は鈍ったままじゃ。お主の炎は陰ったままじゃ。決して楽な道ではない。信念を持つのは大いに結構じゃが、救世主としての使命を片時も忘れるでないぞ」

「――はい」


 グレイは、グラディエラ氏の杖を払いながら言った。それから三人に、これまでの無礼を詫びた。特にウィルに対しては真摯に謝った。講義を受けている最中、自分の様子が事件前と比べて変であると指摘し、終業後にこうして時間を設け、また外部から協力者も呼んでくれたのは、他でもない彼である。

 自分のためを思っての行いに対する礼にしては、この部屋へ入ってからの自分はというと、あまりによろしくなかった。


「……すみませんでした」

「いいんだ。誰だって恐れとは常に戦う宿命にある。それを表に出さないだけで、レインやクロム、それに俺。マタドレイクさんやグラディエラ先生でさえも、決して恐れと無縁な人生ではなかったはずだ――俺の言っている意味が分かるな?」

「はい……隊長は俺たちをここまで導いてくれた。この世界では、あなたは俺たちの父親も同然です――ありがとうございます」


 ウィルがどんな表情だったかは、果たして兜に隠されて判然としなかった。


「――では、行こうか。修行は、ここより遠く離れた、心身の熟達に最適な環境で行う。しばらくここへは戻って来られないじゃろう」


 グラディエラ氏とマタドレイク氏が立ち上がるのを見て、グレイもいよいよ決心し、席を立った。


「仲間に挨拶する時間は、残念ながら与えることは出来ん。此度の事件に伴い、クラウズとの戦争事情が大きく変わることが危惧される。移り行く戦いの波に乗り遅れぬよう、今は迅速な行動が求められている。すぐに寮へ戻って支度し、間もなく出発だ」

「分かりました」


 グレイが頷いたのを見ると、マタドレイク氏は一歩進み出て、『では先生』とグラディエラ氏を扉の方へ促した。

 二人の後を追うように、グレイも部屋の出口へ歩き出す。ドアに手をかける寸前に、ふと思い立ったようにウィルを振り返った。


「どうか、みんなには隊長から言っておいてもらえませんか……しばらく帰れないから、あとは任せるって」

「もちろんだ」

「ありがとうございます――ウィル」


 グレイは、かつてそう呼んでいた名を思い出した。ウィルが微笑んだのは、兜越しにでも分かった。グレイは部屋を出、それから歩き慣れた廊下、階段を通って男性寮へ向かった。まだ多くの救世主たちが学に精を出しており、人の気配は丸切りしない。

 自室へ帰り、手早く衣服や私物などの荷物を、片っ端から鞄に詰め込み、荷造りを終えると部屋を見渡した。ここでの生活は長いようで短かったが、たしかに家と呼べるだけの心休まる場所となっていたことは違いない。それから、『また帰ってこれるのか』と一人で笑った。

 寮から出ると、ヴァントの開かれていない正門には、グラディエラ氏とマタドレイク氏が待っていた。グレイは荷を担ぎ直し、慌てて駆け出したが、途中でふと立ち止まり、後ろを振り返った。

 眼前にはスコラ学院の学舎、男性寮と女性寮、そして中央の広場で絶えず動き続ける噴水があった。この光景は、初めてここを訪れた時に見たのと同じだった。

 全てはここから始まった。なら、また新しい何かが始まるのも、ここからなんだ。そんな感慨深さに胸を締めつけられ、グレイは堪らず再び走った。

 また戻ってくる。その時まで、この瞳の熱さは秘めておこう。グレイは黄昏時の燃えるような夕陽が沈みかかっているのを、さながら剣

つるぎ

の如く鋭い眼光で捉えた。その両の眼に潜む恐れは、今も密かに、しかしながら確かに脈を打っている。

 グレイは己の内なる恐怖と戦うため、歩き出したのだった――。




〈続く……〉

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