Eyes
~1~
救世主大隊がタンクを撃退した、その日の深夜。パラティウムにて、ケントルムの首領らを含む各機関の上層部の歴々による緊急会議が行われた――と言っても、世界の最高機関たるケントルムのメンバーの召集率は、五割にも達していないのだが。
「まさかタンクを相手にしても尚、死者が出ないとはな」
某国の政界の重鎮が、わっはっは、と豪快に笑いながら言った。その言葉に、場の半数近い者たちが肯定的に頷いた。中には発言した彼同様、笑みを零す者も少なからず見受けられる。
「タンクの出没が原因で、定期的に確実に死者が出る戦いというのは、民衆や兵の親類から快く思われていなかったからな。これは国民からの支持を回復する好機だろう」
今度は、円卓を囲むほとんどの人間が頷く。
「あのタンクの巨大な一角を破壊し行動不能にした救世主、そしてタンクを始末した救世主――いずれも君が担当する救世主だと聞いているが、さぞ素晴らしい教育の技術を持っているようだな。ウィル・ミン・ヴォルンテス軍曹」
「勿体ないお言葉、ありがとうございます」
機嫌が良さそうな男性に名指しされ、壁際に立っていたウィルは一歩踏み出し、深々と頭を下げた。胸中よりマグマのように沸き、今にも噴出せんばかりの怒りを押し殺して。
「このまま事が順調に運べば、クラウズとの戦争問題は安定し、我々の政治活動も滞りがなくなるだろう。いやいや、イーヴァス様はとても良い後継者を選んだものだ」
別の、風船のような腹の男が言った。豊かな口ひげを揺らし、愉快そうに笑っている。ウィルは、今この場にいない聖王を少なからず恨んだ。彼がここにいれば、かの物言いをする人間はいなくなっていただろうし、仮に同じ発言をしたとしても、それを正してくれるはずだった。
ここにいる連中の殆どが、自分のことしか考えていないことは明白で、その事実を再認識したウィルは、円卓の下で拳を握った。彼らは救世主たちのことは半ばどうでもよく、それより近頃落ち目を見せ始めている民衆の支持率や、施行された政策に対する評価といった政治的な問題を気にしている。これはまた、民衆の満足度や生活の充実を目標に据えての懸念ではない。総じて、自らの保身のためだ。そして、それを咎められるほどの権力と正義感とを備えた人物は、不運なことにいない。信頼できる権力者の内、最も親しみを持つハオス国王も、スケジュールの関係で参加していない。この会議は、ウィルにとって恐ろしく窮屈で、何より悪意的なものだった。
「しかし、今回のタンクの出現には疑問点がある」
どれほどの時間だっただろうか、各界の上層部の面々が『自分の利益に繋がる行動をとった』救世主への称賛を惜しまず垂れ流しているところに、そんな一声が自分の耳に飛び込んできた。およそ無意義な会議に憤りを隠すのも限界が間近であると思われた頃合いに射した一筋の光に、ウィルは安堵した。
ようやっと、まともな議題が提案されたのだ。
「前回の出現から日は浅い。これまでの傾向からも、タンクが出現するのはまだ先の話であると思われていた。今までの戦闘から算出されたタンクの出現頻度も概ね当たっていたが、今回は初めてその数値を裏切る結果となった。これは軽んじることのできない、由々しき事態と捉えるべきだと思うが、どうだろう」
勇気ある発言の主は、軍部の最高責任者だった。ウィルは、いつかグレイたちや自分をパラティウムに召集するため遣わされたレイゼン准尉を思い出す――彼にその任務を言い渡した一人が、ケントルムから命を受けた、その軍部の最高責任者だった。
元帥の称号を持つ老人は、眼光を鈍く煌めかせ、円卓を囲む者たちを見回した。
「どうだろう、と急に言われましてもねえ……元帥閣下、参考までにあなたの見解を、まずは聞かせていただけないでしょうか」
そんな嫌味ったらしい物言いをしたのは、一国の財政を担う若い男性だった。自分より目上の者に物怖じしない様は、見る人が見れば勇ましい若気に感心しないでもないのかもしれないが、この場では、ただ生意気なだけだ。若くして成功し、調子に乗っている。相手が元帥でも、もはや老い先短い
元帥一同の代表として一人、この会議に臨んだ老人は、僅かに眉をぴくりと痙攣させたものの、若者の傲岸無礼な態度に抗議することなく続けた。
「兼ねてから、クラウズの侵攻の裏で糸を引いている何者かの存在が憶測されていた。この戦争の影で暗躍する黒幕の存在だ。今まで、その憶測はあくまで可能性の問題であり、現実的に考えるならばおよそありえないことだと無視されてきた。それが未曾有の脅威に対する恐怖からの心理的な逃避なのか、あるいは事を複雑化させたくない者がそうしたのかは知れないが。ともかく、しかしいよいよその憶測は色濃いものであるように思われる」
「……何を仰りたいのか、今のところ私には皆目見当がつかない。どうか結論だけを簡潔に述べていただけませんかねえ。我々もこの会議に参加しているとはいえ、暇ではないのだから」
元帥の熱弁を聞き終えても、若者の態度は変わらなかった。まるでそう、偏屈で頑固な変わり者の老人を煙たがるような声音で、若者は言った。そこには同時に、全盛期を過ぎた老兵への嘲笑も表れているようだった。
元帥はいよいよ身体を震わせながらも、しかし断固として彼の声に耳を傾けることなく、ただ淡々と自身の考えを説いた。
「クラウズに我々の世界を侵させている者がいる。いくらクラウズと戦おうと、その諸悪の根源を叩かない限り、終わりはないだろう。いよいよもって、我々は長らく忌避してきた次なる一歩を踏み出す時なのだ」
元帥の言葉が何を意味しているのかは、その場の全員が分かった。ウィルは、元帥の信念を宿した瞳に希望を見出だした。彼なら。彼や聖王たちが現行の政治体制を革新すれば、世界はより良い環境となるはずだ。彼らこそが、民衆の安全と幸福をもたらす希望となるのだ。
その時。ウィルは微かな音を聞いた。本当に小さな『チッ』という音だ。それは円卓を見渡して音ではなく声であると分かった。
声――つまりは人為的な音だ。声を出した当人が、意図して発した信号ということになる。ウィルがその声の主を特定するのに時間はかからなかった。いや、正確には特定していない。むしろ特定するのは不可能だろう。あくまでこれは、その声を発したであろう人物を選別できたというだけだ。さながら、殺人事件の容疑者のように。怪しむべき者が、露呈された。
同時に、ウィルは声の正体と、声が内包した感情なども解明した。これには証拠はいらない。その声は『舌打ち』だったのだ。元帥の『次なる一歩』というワードに反応した誰かが、胸中にひた隠しにしている怒りを零した瞬間を、ウィルは聞き及んだのだった。
そんな舌打ちが聞こえたとなれば、ウィルはその主が自分の周囲にいるとして、かなり容疑者を絞れそうなものだが、それでも特定は難しかった。
なぜなら『容疑者は複数いた』。ウィルが円卓を見回すと、元帥の発言に顔をしかめ怒りを露にしている者や、冷や汗をかいてキョロキョロと辺りを見回す者が見受けられた。明らかに挙動不審だ。その内の誰が舌打ちを零したのか、もしくは全員が舌打ちしたのか、ウィルは考えたくもなかった。
この会議は、おかしい。なにか、想像もつかない事態となっている。ウィルの直感は、ウィルにそう告げていた。民衆の安全と幸福を目指すという立場にある者たちの会議だけれど、そんな思惑を抱いている者の人数など高が知れているような会議だけれど、それを差し引いたって絶対的におかしかった。
世界を脅かすクラウズ――その被害に遭っているのは、この場の全員が同じだ。民衆だけでなく、クラウズの魔手は政治経済にも及んでいる。クラウズが与えた民衆への被害が、そのまま彼ら上層部の面々の支持率にも直結している。クラウズの脅威に怯える民衆の不満や憤りが、反映されるからだ。
なので、早急にクラウズの問題を解決する案は、誰もが納得して取り組むべきであるはずなのだ。なのに、なぜ舌打ちが聞こえるのだろう。なぜ、怒りや焦りを隠せない者がいるのだろう。
この会議は、おかしい。この会議に参加している何人かは、おかしい。ウィルは胸焼けのような気持ち悪さを覚えながらも、円卓を囲む各界の重鎮たちを見回した。
キョロキョロ、と。言い知れない怪しさを孕んだ容疑者を、密かに選別した。
~2~
タンクとの激闘から一夜明け、レインはタンクを撃退した功績を認められ急遽表彰式が催されることとなり、早朝にパラティウムへ向かった。
「いえ、みんなと一緒に戦ったわけですし、それにタンクを倒したのは私じゃなくイフリートなので……」
と、彼女は上層部からの使者に謙虚に断ったのだが、既に式典自体の開催は決定されており、また来賓も招いているためキャンセルなど言語道断であるという旨を聞かされ、思い直した次第だった。使者の口調は終始一貫して柔和だったが、しかしその表情は彼女に即答するよう重圧をかけるかの如くだったらしい。それを、グレイは出立間際の彼女自身から聞き及び、胃がきりきりと痛むような感覚に苛まれながらも、使者に連れられパラティウムへ向かうレインの後ろ姿を見送ったのだった。
スコラ学院男子寮、第2中隊D小隊α分隊の個室では、ネルシス以外の面々が既に起床していた。
「なあ、今日の剣術学は特別講義らしいぞ」
部屋に戻ってきたグレイを見るなり、クロムが言った。グレイは驚きと、寝覚めたてということも相まって、裏返って素っ頓狂な声をあげた。
「なんだって?」
「お前がレインを見送ってる間に、報せが届いたんだ」
クロムは一枚の紙を取ってグレイに渡した。グレイは受け取った紙を見て、たしかにクロムの言葉が真実であることを認識する。
「ウィルが欠勤……」
「レインが表彰されるんだろ? それの付き添いか何かだろ。レインの隊長だからな。俺たちが寝てる間も会議に出かけてたらしいし」
「ハードスケジュールだな……」
グレイは、今どうしているか知れないウィルの身を案じながら、剣術学の通知の紙を読み進めた。どうやら今日は剣術の稽古に代わり、救世主連隊支援部隊の研究科を見学に行くらしい。
「あと、今日は広報科の連中が来るんだと」
「広報科?」
「ああ。今までケントルムへの報告が主な任務だったのが、本格的に民衆への広報も加わってくるらしい。犠牲者皆無でタンクを倒したのは大ニュースだからな。これを期に、救世主が民衆の役に立ち、世界を守ってるって実感を植えつける目的で、ここへ取材に来るって――ま、
クロムは苛立った様子で溜め息を吐きながら、ベッドに腰かけ靴下を履いた。クロムは、がやがやとしたことを好まないので、そのせいで機嫌が悪いのだろうと、グレイは彼をそっとしておくことにした。
となると、自分は遠出をすることになる。グレイは見学会のため、身仕度に取りかかった。すると、脇でスリートとヘイルが何やら話していた。
「そろそろ起こしてあげないと、遅刻してしまいますよ」
「無茶を言うな。こいつの寝坊は知っているだろう。タンクとの戦いで消耗しているのだ。なおさら起きんだろうよ。下手をすれば今日は一日中ぐっすりかもな!」
がっはっは、と笑うヘイルを他所に、スリートはクロムとは違う種の溜め息を零す。苛立ち、ではなく、呆れ果てているのだ。スリートは眼鏡をくいっと上げながら、未だベッドに横たわるネルシスを見た。
グレイは今一度、クロムに手渡された紙を見下ろす。見学会に参加する救世主の集合場所と時間が指定されている。いつも剣術学の講義を受けている教室だ。集合時間まで、あまり猶予はない。グレイは寝起きの気だるさが残る身体に鞭打ち、身仕度を進めた。
グレイが早足で教室に到着すると、既に剣術学を取っている救世主の大半が集っていた。見学会の通達の用紙には、見学を希望しない者は申告すれば自習扱いとして学院の残留を許されている旨が記されているため、単に遅刻の救世主がグレイ以外にもいる、という話ではなさそうだ。外部へ赴き、その活動を拝見するという授業内容に得心せず、そんなことをするより寮の自室なりスタジアムなりで稽古をつけた方が、いくらかクラウズとの戦いにおける実力の向上が見込めるという考えを持つ救世主が決して少なくなく、見学会の参加を拒否しているということだろう。
「グレイ君。君が寝坊なんて珍しいね」
そんな声が聞こえて振り返ると、そこにはブロンド色のウェーブがかった髪の少年がいた。
「いや。寝坊じゃなくて、たまたま用紙が回ってきた時間帯に寮にいなくてさ。情報が伝わるのが少し遅かったんだ」
「寮にいなかった? 外出してたってことかい?」
少年が怪訝そうに聞き返す。スコラ学院の寮生活は門限など時間には厳格な面があり、明朝に寮室から出ていたということが、果たして規律を破ったのではないかと疑われるのも無理はなかった。
「違う違う。ほら、昨日のタンクとの戦いでトドメを刺した召喚魔法。あれを使ったのが俺の知り合いでさ、朝早くにパラティウムに呼ばれて表彰されるんだって。その見送りで正門まで行っただけだよ」
「クラウズ一体倒しただけで表彰……お偉いさんは僕たちが何のためにいると思っているんだろうね」
「……まあ、今回はタンクとの戦いで初めて死者を出さずに勝利したってことだから、これを大々的に報じない手はないんだろ、きっと。ちゃんと人々のために働いてるってアピールをさ」
「働いてるのは他でもない僕たちだ」
「まあな――そういえば」
権力の圧力というか、権力を握る者の私利私欲が垣間見えるような事柄を憎んでいる嫌いのある彼なので、グレイは多少なりとも場の雰囲気を心地よいものに変えんと、そう言って話題を転換させた。
「
「いるよ。あそこにね」
グレイは指し示された方を向いた。するとヘッドホンで耳を塞ぎ、教室の隅の席の机に腰かけ、昇りかけている朝陽を窓辺から眺めている少年が目に入った。
「またニヒルを気取ってるのか、あいつは」
「まだ集団というものに慣れていないんだよ。どうやら彼は、元の世界ではよほど独りでいることが多かったらしくてね」
「性格に難あり、ってやつか?」
「いいや、根は優しい少年だよ、すごくね。ただ、少し臆病なだけさ」
そう言って少年は微笑みながらヒルトに歩み寄った。ヒルトは近づいてくる彼に気づくと、嫌そうな表情をして机から立ち上がり、窓の側へ移動した。
「やあ、ヒルト君。おはよう。どうだい調子は?」
「……別に」
ヒルトはヘッドホンの片側をずらしながら、微かな声で答えた。グレイの位置からは、教室内の喧騒も相まって、辛うじて彼が何か呟いたことを認識できるだけだった。何かしら返答してくれるだけスノウよりは対応に困らないな、とグレイは思った。いやいや、そうやって手間をかけさせられることこそが、案外やってて嬉しいものなのだが。
グレイはヒルトの動向が気になって、二人の方へ向かった。
「……なんだよ、
「用があるから来たんだよ、ヒルト君……てっきり君は今日の見学会には参加しないものだと、少なくとも僕は思っていたんだけれど」
「……そんなの、お前には関係ないだろ」
「関係あるよ。友達と外へ出かけることが出来るんだからね」
「は、はあ!? なんだよそれ! いつから俺とお前が友達なんだよ!」
「えー。こうやって楽しく話してる時点で、僕たちはとっくに友達だと思うけど?」
「な、何言ってんだよ。変な奴だな……」
たじたじな様子のヒルトと、それを傍らで見て笑うシース。絶対にヒルトをからかって遊んでいると思われるシースだった。紳士的に見えて意外と性格が悪いのかもしれない、とグレイは思った。そういう意味なら、ベクトルは違えど、シースはネルシスと似ているのかもしれない。
「見つけたぜ! ヒルト! シース!」
その時。ガラガラと音を立てて戸が開いたのとほぼ同時に、教室に少年が発した轟音が響き渡る。グレイたちはおろか、他の救世主たちも一斉に彼に視線を移す。
「お前らを倒して、俺は今日こそ勝ち星あげてやる!」
そんな少年を見ると、ヒルトはうんざりした様子で溜め息をつき、シースは『やれやれ』と苦笑した。
「
「うっせえ! そんな小難しい話じゃねえんだよ! 俺はお前らに勝つ! それだけだ!」
三人は第1中隊に所属する、同じ分隊のメンバーだ。グレイは剣術学の講義や演習で、いつしか彼らと行動を共にすることが多くなった。どうもチームワークが良いとは思えないのだが、この方向性の不一致が逆に三人の戦闘を好転させている。らしい。
面倒くさそうにそっぽを向くヒルトと、彼の傍で苦笑するシース、そして二人を猛獣の如き眼光で睨みつけるガード――そんな一触即発のただならぬ雰囲気と化した教室。この状態となってからどれほどの時間が流れたのだろう。いや、おそらくは三分と経っていないであろうことはおよそ明白なのだが、それでも半永久的な時の長さをグレイは体感したようだった。
そこへ、またも教室の扉が開かれ、今度はしわくちゃでよれよれで汚れまみれの白衣を着た、白髪混じりの小柄な男性が入ってきた。パッと見は老人の姿だが、彼の年齢が三十を下回っているであろうことは容易に想像された。着衣と反比例するかのように肌は艶やかで、容姿も比較的端麗な部類である。男性は異様な雰囲気の教室を見渡すと、手垢だらけの眼鏡のレンズを拭いて言った。
「お、お待たせしました。僕は研究科の
忙しない口調で男性が言った。彼は教室に入ったその瞬間から、身の上を述べ終えるまでの間、絶えずグレイらをキョロキョロと、ジロジロと眼球を怪しく動かして見ていて挙動不審だった。そんなアグニーであったが、教室の救世主たちは怪訝そうな表情をしながらも、続々と立ち上がって指示に従った。
ガードは突然の来訪者から二人に視線を戻すが、やがて不満そうに舌打ちしながら教室の前方へ歩いていった。ヒルトは露となっている片方の耳を再びヘッドホンで塞ぎ、シースは肩を苛立たせるガードの後ろ姿を見送ると、それぞれアグニーの元へ集った。
グレイも、そんな三人の動向を見届けた後に、不慣れな様子で救世主たちの列を先導するアグニーに追従した。
学舎を出て噴水広場に差し掛かると、ヴァントが既に転移装置として起動されていることが見てとれた。正門の両脇に佇む石柱――その間に透明なベールのようなものがかかっている。
アグニーは『こちらです』と、おどおどしながら指してヴァントを潜った。彼に付き従ってグレイたちもベールを通り抜ける。そこにはグレイを初め、救世主たちが未だかつて見たことのない光景が広がっていた。
大がかりな機械がそこかしこに設置されており、大抵の装置が実験台と思しきテーブルや、何やら液体の入った円柱形の巨大な水槽など、別の箇所に接続されている。その周囲を十数名の白衣を着た人物が取り囲み、絶えず誰かに指示を出したり、目標物を覗き込んだりしている。広大な空間には、目視できるだけで少なくとも百余名の、白衣を着た研究科に所属していると思われる人物たちがいた。
「ようこそ、剣術学の諸君」
声がした方を、救世主たちは振り返る。そこにはこの場にいる他の人物たち同様、白衣を纏った男性が立っていた。その人物に、グレイだけは見覚えがあった。
「僕はレッジ・ノウ・スケンティア。ここの現場監督みたいなものかな。今日は来てくれてありがとう。これから、君たちと志を同じくする救世主連隊の……正確には支援部隊研究科の仲間たちがどのような活動を行っているのか、その一端を出血大サービスで大公開しようと思う――ああ、そうだ。あの『超磁力プラズマ放電ボルカニックキャノン試作機3型・壱号 (ver. 2.47) 』には安易に触れない方がいいよ。出血大サービスとか言っといて、君たちが出血大サービスになっちゃうから」
レッジが指した巨大な筒状の何かを見ると、一同の瞳に畏怖の念が宿った。グレイを除いて。そんな救世主たちを見ると、レッジは満足そうに笑って『冗談冗談』と言ってみせた。
でも本当に触ったりしないでね、と念を押して。
「ここでは大きく六つのプロジェクトが、各分野のエキスパートたる専門家と救世主たちによって平行して進められている。六人の救世主が、それぞれ一つのプロジェクトを、その道のプロと共にね。分野として区切るなら、兵器部門と魔法部門、生物部門と医療部門、そして事象部門と言うなれば雑多部門かな。うん。この六つだ。ちなみにさっき触れた超磁力プラズマ放電ボルカニックキャノン (略) は兵器部門の皆さんの力作だね――いやいや、さっき触れたとか言ったけど、触れちゃダメだからね」
やけに念を押すレッジであった。
「まあ大公開とは言ったけれど、どちらかと言うと大野晒しだね。今日は剣術学を専攻した諸君ら救世主たちに限り、特別に六つのプロジェクトの
「要は好き勝手に見て回れってことじゃないですか」
グレイは堪えきれず、ついに言った。レッジはその声を認め見やると、グレイの存在に気づいて手を挙げた。
「おお、グレイじゃないか。来てたんだ。おーい」
授業参観で教室の後ろから子供に話しかけてくる親御さんみたいになるレッジ。グレイは甚だやめてほしかった。救世主の視線は、やはりグレイただ一点に集約されることとなる。
マタドレイク氏の個別特訓の時以来である。
「では一先ず解散としましょう。どの部門でも自由に見て構わない。ただ皆さんの邪魔になるようなことはしないこと。あと超キャノン (略) に限らず、どの試作機にも実験体にも勝手に触らないこと。怒られるのは僕なんだからね」
レッジが言い終えない内に、救世主たちは疎らに散っていった。
「俺は兵器部門へ直行だ! あのプラズマなんたらってやつ、超すごそうだぞ!」
「ガードはああ言ってるけど、僕たちはどうする? 何か見たいものとかある?」
「たちってなんだよ。勝手に一括りにするな。俺は俺で回るから、お前も自分の好きにすればいいだろ」
そんな三人のやり取りが聞こえてきたが、グレイは彼らと別離し、レッジの方へ歩み寄った。
「やあ、グレイ。来てくれて嬉しいよ」
「ウィルから救世主関連の仕事に就いてるとは聞いたけど、まんま直接じゃないか」
「あれ、言ってなかったっけ?」
「言ってない」
「でもレインには言ったよ?」
「だからなんだよ。俺は聞いてないって」
「それはどちらかと言うと、僕から情報を聞き及んだにも関わらず君に共有させてあげようとしなかった彼女の落ち度じゃないかな」
「なんじゃそりゃ」
とんでもない暴論だ。
「ともかく、また会えて良かった」
「それはそうと、学院の授業はいいんですか? たしかレインが受けてる科目の講師だって」
「ああ、それは非常勤の人に代わってもらった。彼もここの職員でね、何かと融通を効かせられるんだよ。本来なら僕ではなく彼が君たちにここを案内する予定だったんだ」
「都合のいい職場環境ですね、どっちも」
「僕が采配した」
「悪どい」
権力の正しい使い方だった。
「だって僕がここを案内したかったんだもん。なんか現場監督という肩書きプラス、ここを初めて来た人に紹介する立ち位置って、無意味に尊敬の念を抱かれそうでたまらないよね」
「そのためだけに権力を行使したのか」
「ぶっちゃけあんな奴に花を持たせたくない」
「都合は良いけど人間関係は悪い職場だった!」
権力を手にしてもままならない現実がそこにはあった。あるいは、権力を手にしたが故の、現実。面白おかしく談笑はしたが、よくよく考えてみれば、なるほど権力を持つというのも考えものだなとグレイは思った。
「一度は断られたんだけど、来期のボーナスの話を持ちかけた途端、慌てて考えを改めやがったのさ」
次の瞬間には、そんな一抹の同情をレッジに寄せた自分を悔いることとなったグレイである。
「聞いたよ。レインがタンクを仕留めたんだって?」
「ええ、まあ――レッジさんはレインが召喚魔法を使えること知ってたんですか?」
「ああ、もちろん知ってたよ」
「これってイーヴァスが俺たちをここに呼ぶのに使った召喚魔法に通ずる技術ですよね?」
「名前は同じだが、原理は全く別の代物だ。特に別の世界同士を行き来させる類いの召喚魔法は、同系統の魔法の中でも最終奥義として位置づけられている」
「そんなに高度な技術なんですか?」
「レインや、おそらくは他の救世主が使おうとした召喚魔法は、自分の魂と予め何らかの繋がりを持った精霊に力を貸してもらうものだ」
「魂との繋がり?」
「具体的には名前だよ。人は名前を与えられた瞬間、特定の精霊とある種の契約が果たされるような状態になることがある。契約する精霊は性格であったり、土地に関係して自ずと決まってくる。それを魔法陣を介して現出させるのが、一般的な召喚魔法なんだよ。この魔法では、召喚された精霊は契約者の意思に従って動く。
対してイーヴァス様の行った召喚魔法は、全く見も知らない別の世界にいる君たちを、千人単位でここに呼び寄せた。しかも、君たちは自分の意思で行動している。召喚したものに自由意思を持たせるのは容易なことじゃあない。それだけ召喚主との繋がりが希薄だからね。加えて、イーヴァス様は君たちに完全な自由を与えたわけではない。救世主としての役割を果たすという束縛を、それとなく施している。君たちにいくら意思があろうが、これに逆らうのは難しい。
端的に言って、イーヴァス様は君たちに『救世主として生きる』という運命を付加した上での自由を与えたことになる。これは最終奥義たる別次元の召喚魔法でも、飛びきり難度の高い技術だ」
レッジは眼をキラキラ輝かせて言うのだった。彼の抱く、真の救世主への尊敬の念というものは本物のようだった。
逆らうのは難しい――この言葉が、グレイの胸のどこかで引っかかっていた。否。レッジはああ言ったが、それは自分への配慮として留めたまでだ。本当のことを言うなら、逆らえないのだろう。イーヴァスが付与した救世主としての運命は、人生は、覆らない。自分たちは、これからずっと救世主なのだ。眼に見えない鎖に縛られ、引っ張られ、永劫、クラウズと戦い続けるのだ。
そんな考えには至ったが、グレイは平然としていた。この間までの自分なら、この隠謀めいた策略を聞き及んだ時点で、定められた自らの運命ひいてはイーヴァスに反逆する意志を確固たるものにしたであろう。
だが、不思議とそんな気持ちは微塵も起きない。グレイの心中は、静まり返っている。前から予期していた真実であったから、既に心の準備が出来ているわけではない。
事実を突きつけられて、だから何だといった心境だった。運命を定められ。人生を決定付けられ。救世主としての任を強いられたからと言って、それがどうしたのだと自身に問いかけたくなった。
自分は、とうに誓ったのだ。救世主として、守るものを守り通すと。もう二度と失わないと。そう覚悟したのだ。
その決意を前にして、真実など無力である。
「レインは凄いよ……彼女は何体もの精霊を、その身に宿している」
「え?」
「イフリートは彼女の力の一端に過ぎないということさ」
グレイは黙りこくった。最近まで本当の力を発揮できていなかった自分に比べ、レインは既に常人とは一線を画する才覚と、それを使いこなす技量を身につけているのだ。
実のところは守ると言っておいて、守られているのかもしれないと思った。
「ところで、タンクを撃退したのがレインである一方で、タンクの角を破壊したのはグレイだと小耳に挟んだんだけど……」
「ぎくり」
「彼女に花を待たせる結果となってしまったわけだけど」
「俺の人間関係は円満だよ、幸いなことにね」
グレイはレッジの台詞を遮って言い放った。
「――さて、本題に入ろうか」
「本題!? これまでの会話を経て、なにか最終的な着地点が始めからあったってことですかいな!?」
「そうさ。全てはこの本題のための布石であり伏線だったのさ」
「それはないだろ」
仮にあっても、レッジの人間関係が劣悪であるという話題は絶対に不要だった。グレイは確信していた。
「ちょっと気になることがあってね……一緒に来てくれないか」
レッジは真剣な面持ちで、グレイを奥の別室へ促した。グレイは頷いて彼に着いていくが、ふと疑問が浮かんで足を止め、振り返った。
「そういえば、あのアグニーって人は――」
「ああ、彼も救世主だよ」
「え、ええ!?」
アグニーという人の挙動不審ぶりについて訊ねようとしたところに、思わぬ回答が得られた。
「本来なら七つ目のプロジェクトが発足されても良かったんだけど、彼ってすげえ中途半端なんだよね。能力も知識も。研究科に配属されたのは別に構わないんだけど、なんていうか――戦闘に不向きだから支援部隊なんだろうけど、能力的にはどの科に配属したものか迷うところで、人手が常に足りなくなりそうな印象が持たれる研究科にでも追いやってしまおうか、という上層部の背景が丸見えな子なんだよね」
「その上層部もすっとこどっこいですね」
「だから際立った能力や教養もないので、一つのプロジェクトを新規に設立して任せるには値しないと判断され、今じゃどこのプロジェクトにも属さない雑務係として大いに役立ってくれているよ」
「
「資料の整理とか資材の発注とか、実験場の確保とか被験者の調達とか、僕たちが寝てる間に掃除してくれたり疲れた時はお茶まで出してくれるからさ、いやあ彼って頑張り屋さんだなあって」
「こき使ってるだけだよね! 彼の中途半端な立ち位置にかこつけて、いいようにパシってるだけだよね!」
「彼、多分ここ一、二週間は寝てないんじゃないかな」
なるほど、彼の神経質そうな立ち振る舞いというか、挙動不審である原因は、そもそもこの職場にあったわけである。
にしても、グレイは傍らでそんなアグニーのことを軽そうに笑い飛ばしているレッジを見て戦慄することとなった。性格悪っ。
ともあれ、グレイはレッジに続いて別室へ入った。そこには資料と思われるファイルやらスクラップブックやら、カセットやらMDが、綺麗に整頓され、陳列されていた。
この世界にもカセットやMDがあったのか。そのくせビデオテープやDVDはないようだ。いまいちこの世界の文明レベルが分からない。
「今、雑多部門の方々が新しい記憶媒体について研究中でね。なんでも救世主の人が元の世界で『ブルーレイ・ディスク』なるものが開発され、最近ではそれが主流となっていることを教えてくれて、一同、気合いを入れて製造に取りかかっているらしいよ」
レッジは何かをごそごそと探しながら言った。
「これを見てくれ」
探し当てた物を、レッジは魔晶台の下に敷かれた機械に挿入した。なにか過去の記録映像を見せるつもりらしい。
ごく一般的な町並みが魔晶台に映された。レッジはリモコンのようなものを取り出して倍速にする。一体、何を見せようというのか。グレイは目まぐるしく人が行き交う町の光景を、じっと見つめた。
「ここだ」
レッジがリモコンのボタンを押すと、魔晶台は町並みのある一瞬を映して静止した。画面の中の時が止まり、人々が生きる『今』を切り取る。
「彼が何者か見当はつくかい?」
レッジは画面のある一点を、拡大して指した。そこには一人の人物がいる。家屋の陰に隠れ、なにか様子を窺っているような素振りだ。
「いえ、まったく――それに、解像度的にも顔の判別が……」
グレイが呟くと、レッジは棚から一枚の紙を取り出した。グレイは受け取ると、それが人相書であることが分かった。同い年くらいの少年で、瞳が紅い。なにやら不吉な印象を持たせる表情だった。
「彼がどうかしたんですか?」
「研究の一環で他所の町へ訪れることが多々あって、この町もその一つなんだ。ところが訪問してみれば、最近なにやら不審な人物がこそこそしているという噂で町は持ちきりだった。救世主を有する組織という身の上を明かしてしまっていた手前、相談を断るわけにはいかなくなってね。とりあえず、町の防犯用の魔晶台の映像と、目撃者の証言に基づく人相書を拝借したんだけど……」
グレイはレッジの話を聞きながら、人相書の人物を凝視した。会ったことはない。だが、なにかただならぬものを感じる。この少年には、何かがある。有り体に言って、不穏だ。
グレイは少年の真っ赤な瞳と、独り睨み合っていた。
~3~
スコラ学院では空前の騒動が起こっていた。世界を守るべくクラウズと戦う救世主の活動を、目的は違えど同じ救世主である支援部隊広報科の取材班が記録し、大衆に伝搬しようというのだ。それは、彼らの元の世界でいうところの、報道陣に群がる野次馬の如く。救世主たちは学業そっちのけで、取材班の内一人が持つ記録用の魔晶台に寄ってたかった。取材班としては、学業に現を抜かしてテレビに映りたがる救世主の姿など晒したくないのが本音だろうが、愛想よく笑って、
多くの救世主たちがとっている科目の一つとして挙げられるのが、戦術学である。この教科では、各々が有している武具や魔法の種類を問わず、基本的な戦闘における立ち回りやクラウズの弱点などを教示される。安定した戦績を望む者なら、誰もが選択する講義なのだった。
取材班は、自分たちが訪問しても周りの雰囲気に流されず、そこで比較的真面目に勉強している救世主たちに目星をつけた。突撃インタビューに動じず、それでいて黙々と勉学に励む救世主――これぞ民衆やケントルムを初めとした各界の重鎮が期待を寄せる救世主のあるべき姿なのだ。それを、映像として収める。広報科の評価も上がり、詰まるところ資金が増すというわけだ。
「突然ですが!
そんな口上を声高に述べながら、女性が数人の大それた機材を抱えた男性たちを引き連れ、教室に入ってきた。予期せぬ取材班の登場に、不機嫌そうに眉をひそめる者がいれば、待ちわびていたかのように身内ではしゃぐ者もいた。
「早速ですが! 今や世界の存亡をかけて、人々を守るべく戦い続ける救世主の皆さんに、今日は日々の生活のことやクラウズとの戦争に対する信念など、たあっぷり取材していきたいと存じます!」
女性はマイクを口元で構え、一人の男性が持つ機材を直視して言った。すると品定めするように救世主たちを見回し、やがて一人を標的として射止めたのか、ずいずいとその人物に歩み寄った。
「もし、そこの殿方! お名前は?」
「え、ええ! お、俺か! お、おお俺はヘイル! ヘイルという!」
マイクを向けられ、途端に顔を真っ赤にする筋肉質な男性がいた。
「ヘイルさん! やだ、ヘイルさんったら! でかい図体してますね!」
「ず、ず図体!? あ、ああ、この肉体のことか! ことなのかな!? うむ、俺は鍛えるのがライフワークみたいなところがあるからな! この身体は半ば必然と言って差し支えない! う、うう嘘は言ってないぞ!」
「言ってることは真実なんでしょうが、最後の一言で一気に信憑性が低くなりましたよ」
ヘイルの後ろでスリートが呟いた。するとそれに勘づいた女性が、ヘイルの体躯から顔をひょいと覗き込ませ、隠れるように座っているスリートを目視した。
「まあ! まあまあまあ! 熱血漢もいれば知的なクールガイもいるんですね、救世主! さあさあ、あなたのお名前は?」
「ええ!? いや、あの僕はそのこういう大勢に注目される状況を好まないというか控えたいというかそういうわけなのでお引き取り願いたく存じますけれどスリートですよろしくお願いします」
唐突にマイクを向けられ、何やらぶつぶつ言うスリート。心なしか眼鏡が曇っているように見受けられた。
「じゃあですね! そんなお二人にお伺いしたいのですがね! 救世主としての活動で何か力を入れていることはありますか? この学院で勉強するにあたり特に熱心に取り組んでいる授業とかは?」
「そっ、それはやはり実戦! 男は実戦ありきというのが俺の信条だ! ていうか実戦しない男とかマジありえねえ! 玉ぁちゃんとついてんのかって話だ!」
「いや、あの僕はそのなんと言いますかやっぱり日々の勉強が一番大事なんじゃないかと思っていますいくら鍛えても戦術の知識がなければ投石を覚えた猿と同じですからねはい。あっ、好きな科目でしたっけそうでしたよねそうだった。えーと僕は世界学が好きですね理由としてはまだやって来て間もないこの世界の歴史や各国の情勢について学ぶのは楽しいですし今後の生活においても十分役立ってくれそうだなと考えているからです。歴代の救世主の活動も教えていただけるので今後の自分の教訓として活かしていけたらいいなと思っています恐縮です」
交互にマイクを向けられ、頭から煙でも立ち込めそうな具合に顔を赤らめて答えるヘイルとスリート。下手をすれば顔面が破裂しそうだ。
「素晴らしい回答ですね! じゃあ次」
「次は俺を取材しないか?」
女性が二人から離れようとしたところに、色っぽい男性の声音が言った。女性は自分のマイクを持っていない方の手を掴んだ男性に視線を移した。
「あなた、お名前は?」
「俺はネルシス。水を操る【クラッシュ・スプラッシュ】という魔法を使うが」
「あらそう。ネルシスさん。あなた私のタイプじゃないわ。ナンパなら他を当たってちょうだい」
瞬間、ネルシス白目をむいてバタンと倒れた。ヘイルとスリートが、一瞬遅れて彼に駆け寄る。女性はその光景などないものとしているのか、まったく構わず次なる取材対象を探す。
女性は瞳を怪しく光らせた。
「今度は女性の救世主さんにもお話を伺ってみましょう!」
言うが早いか、女性はずんずんと一ヶ所へ歩を進める。そして捕らえた獲物を狩る蛇の如く、マイクを彼女に向けた。
「お嬢さん! お名前は?」
「チルド! 十二才! よろしくお願いします!」
少女は快活に答えた。律儀に手を挙げて。さながら授業の際に出題され回答を求められた小学生のように。
「あらまあ、十二才? まだ小っちゃいのに大変ねえ」
「ううん! 楽しい!」
「あらそう。救世主になったこと、どう思ってるの?」
「楽しい!」
「あらそう」
先ほどまでスクープに対し貪欲である印象だった女性の表情が、徐々に和らいでいく。具体的に言うなら温泉に浸かった時のような表情となった。悦に入った、みたいな。少女の純真無垢な心と、それが生み出した清廉潔白な回答を受けて、汚れ荒んだ女性の魂が浄化されたのかもしれなかった。
「や、やめなさいよ! こんな子供まで質問攻めして!」
すると、チルドと女性との間にブルートが割って入った。傍で見ていて、我慢ならなくなって飛び込んだという様子である。
すると、女性はニタリと嫌な笑みを浮かべた。それを見たブルートも悪寒を感じ、身震いする。
「では、あなた! お名前は?」
女性はそう言って、ブルートにマイクを向けた。彼女がチルドを庇わんと介入したことで、女性は新たな取材対象に質問する大義名分を得たのだった。
「な、なによ! 人に名前を聞くなら、まずは自分から名乗りなさいよ!」
「あらやだ。救世主にはこんな野蛮な人もいるようですねえ~」
女性は先ほどのように、男性の持つ機材に語りかけた。ブルートはその機材にレンズのようなものがあることを認め、それがカメラの役割を果たしていることが推察できた。途端、彼女は自分の首の辺りが熱くなるのを感じた。
このままでは自分が野蛮な救世主として広く認知されてしまう。そんなことは許されない。
「ブ、ブルートですぅ~! ブルート! あたしの名前はブルートですよ~!」
ブルートは無理やり笑顔を作り、声を震わせた。今の彼女の胸中は恥辱にまみれていて、それはすんでのところで噴火するのを堪えていた。
「あら~、ブルートさん! では、ブルートさん。ブルートさんの救世主としての意気込みや、学院で最も楽しみにしている瞬間をお教えください!」
女性リポーターは名乗らない。一方でブルートはといえば、それはもう業腹である。引きつった笑顔の片隅で、眉間に筋が浮かび上がっている。
「入浴ですね! 一番楽しみなのは入浴です! 一日の疲れを癒すという点で、入浴に敵うものはないと思うわ!」
「え。いや寝るでしょ、普通」
なに言っちゃってんの、と。女性は冷淡に、辛辣に言うとそっぽを向いて歩き出した。ブルートは怒りのあまり叫ぶと、手近な椅子を持ち上げ床に叩きつけんと掲げた。それをチルドが慌てて制止する。
そんな状況となっても、女性は見向きもせず、今度は机に突っ伏している、およそ三十代と思しき一人の救世主に近づいた。
「もしもし、そこの方! セーヴァー広報です! お名前は?」
返事はない。大きないびきをかいていることから寝ていることは明々白々だ。女性は少し苛立ちながらも笑顔を絶やさず、眠れる救世主を揺すった。
「こんにちわ~! 広報科の者ですけれども! 取材に来ました~!」
するとようやく救世主は気だるそうに唸りながらも頭を上げた。額には袖に押しつけられた痕があり、ほんのり赤い。
「おはようございます! お名前は?」
「ぅう……はあ? グロウだけど――あんた誰?」
寝起きだからか、機嫌が悪い様子のグロウである。となると彼女はいつも不機嫌にしていなければならないことになるが。傍らで事の成り行きを見守っていたブルートは、それが概ね周囲の喧騒に対する憤りであると踏んだ。
女性は怯まずいつもの調子で続ける。
「どうも! 広報科の取材班です! 早速ですが、救世主の仕事で大変なことや、学院の授業で面白いと思う教科をお教えいただければと!」
「……それ答えなきゃダメ?」
グロウが眠そうに放った一言で、女性の表情は一変した。何も言い返さず、顔も引きつっている。当のグロウは猫のような唸り声をあげると、再び机に突っ伏してしまった。
女性は硬直したまま動かない。もしかするとグロウの言葉は、報道の界隈では質問される側が最も言ってはならない禁句として名高い捨て台詞なのかもしれない。果たして本当にそうなのか否かは、誰も知る由はないが。
数秒停止した後、女性は我に返ると再び眠りについたグロウには眼もくれず、また新たな取材対象を探して教室を練り歩いた。
「お嬢さん! まあお嬢さん! 可愛いお顔をしてらっしゃるのに、そんな無造作に髪を伸ばして! 美人が台無しよ! で、お名前は?」
直前の一件を脳裏から払拭しようとしているのか、女性はすぐ近くの席で俯いている少女にマイクを向ける。
「…………」
少女は――スノウは何も答えない。その後も女性リポーターが執拗に質問を繰り返し、あの手この手でスノウの言葉を聞き出そうと試みたが、それは最後まで叶わなかった。女性はさすがに健全な様子を保たせてきた笑顔を引きつらせ、別の取材対象を探すことにした。
やがて、彼女は見つけた。グロウと同じように、机に突っ伏す一人の少年の姿を。本来ならば、先ほど自分に未曾有の屈辱を味わせたグロウと似た状態のその少年は、女性は嫌悪の念を以て無視するに値する存在であるはずだった。
しかしこの少年は、ただ突っ伏しているわけではない。首をひねって、窓の外を眺めている。数多の経験から培われた彼女の洞察眼は、それを瞬時に見抜いたのだった。まるで、自分たち取材班の来訪を快く思っておらず、早急な授業の再開を今か今かと待ちわびているかの如く、少年が喧騒に消えゆく微かな溜め息を吐くのが分かった気がした。
女性は確信した。彼こそスクープだ。もしかすると今回の取材の真の目的について知っているかもしれないし、たとえ知らなくとも彼自身を模範的な救世主として取り上げ民衆の注目を集めることが出来たならば――彼を逃す手はない。女性は小走りで人混みを掻き分け押し退け、少年の元へ直行した。
「……チッ」
少年は何者かの気配を察知すると、その正体を確認することなく俊敏な動作で起立し、今まで眺めていた窓辺へ向かい、そしてそこから鳥のように飛び立った。
もちろん少年は鳥ではなく、その身体は重力に従って地上へ直下していく。女性は慌てて窓へ駆け寄り地上を見下ろした。2階からと言えど、それなりの高さから落ちたはずの少年だが、彼は平然としている。
「オクルス!」
女性は後ろで始終機材を構える男性の一人を振り返った。すると男性は親指を立て、そして次の瞬間に消えた。
クロムは空を見上げた。ようやっと、あの騒がしくて息苦しい空間から逃れることが出来たのだ。さながら鳥のように、とはいかなかったが。それでも、こうして籠から自らを解き放てた。救世主となってから、訓練や実戦を繰り返してきた脚部は、なるほど常人のそれより何倍も強固になったらしい。
さて、あの教室に戻るのは言語道断として、では次の講義までどう時間を潰そうか。そんなことを思案していると、クロムは突如、背後に気配を感じた。振り返ると、そこには正面にレンズが備え付けられた機材を抱える男性の姿があった。クロムは、すぐに彼が取材班の内一人であることが分かった。
「いつの間に……」
彼は飛び降りる瞬間まで、ずっと女性についていたはずだ。しかし、彼は今こうして、ここにいる。瞬時に、現れたのだ。
「カメラマンを舐めるなよ。俺の空間魔法からは何も逃れられない。鳥だろうが人だろうが――救世主だろうが、スクープなら逃がしはしねえ」
男性はニヤリと笑って言った。空間魔法――その言葉を聞いて、クロムは銃術学の講師を思い出した。壊れた的と新品の的とを一瞬で入れ換え、そして……。
「話を聞かせてもらおうかしら」
男性の後ろから、女性がもう二人の男性を引き連れて駆けてきた。教室からここまで徒歩で来たのだろう。クロムは苦い顔をして、再び空を見上げた。鳥が自由に羽ばたいている。地上を嘲笑うように。地を這う虫を、蔑視するように。
「私はラビウム。救世主連隊支援部隊広報科のリポート担当よ。この取材班のリーダーね。そこのカメラマンはオクルス。彼の空間魔法によって、スクープは常に私たちの手中というわけ。あなたも例外ではないわ」
女性はマイク片手に、得意気に述べた。その姿は絶えずオクルスの持つ専用の魔晶台に記録されている。
「こっちは音声担当のアウリス。確たる真実をお茶の間の皆さんの聴覚に伝えるわ。口は目ほどに物を言う、というやつね」
「え」
細長い機材を構える男性が、ニカッと微笑んで手を振った。意外と気さくそうである。
「そして彼が補佐のマヌスよ。もっぱら取材中に得た情報のメモを担当してくれるわ。カメラに映らない真実、マイクに入らない真実を、影ながら克明に記録し続けるわ。あとは下っ端だから買い出しとか行かせてるわね。足速いし」
他のメンバーから少し離れたところで手帳に走り書きする男性がクロムの眼に映る。しっかり認識したのは始めてだ。彼はクロムと眼が合うと『うす』と軽く会釈した。
「さて、こちらの自己紹介は済んだわ。さっき誰かに取材の礼儀作法を説かれた気もするし――さあ、あなたのお名前は?」
これまでと同じように、ラビウムは笑った。クロムはマイクを向けられると、不快そうな顔をしてそっぽを向いた。インタビューに答える気はない、という意思表明である。
「まあいいわ。今回は趣向を変えて別の質問をしましょう」
ラビウムは少し待って、クロムが取材に素直に応じる素振りを見せないことを認めると、観念したように言った。クロムの断固たる意思を悟ったのかもしれなかった。
「この学院にレインさんとグレイさんっていらっしゃるでしょ? 今どこ?」
口調も粗雑になった。クロムは見知った二人の名を挙げたラビウムを怪訝そうに見つめると、すぐに彼女の真意を悟った。
彼女らは終始一貫して、スクープを収めるというスタンスを徹底しているらしい――タンクを討伐した立役者の独占インタビューというスクープを。
そうと分かればまともに取り合う必要はない。クロムは取材班の一行を鼻で笑った。滑稽だ。そう言わんばかりに。なぜなら二人は今、ここにいないのだから。
見当違いな場所へ取材に来るとは、なんと粗末なことか。
「グレイは山へ芝刈りに、レインは川へ洗濯に行ったよ」
「ほうほう。さながら仲睦まじい夫婦のように」
「そんなこと言ってないだろ。ぶっ殺すぞ」
「あらやだ、救世主って乱暴な方が多いんですねえ」
「いやさっきの話を聞く限りあんたらも救世主だろ」
救世主連隊支援部隊を名乗った後でのやり取りである。
「じゃあレインさんが洗濯に行った川と、ついでにグレイさんが芝刈りに行った山をお教え願えますか?」
グレイはついでらしかった。たしかに、彼はあくまでタンクの『角』を破壊しただけで、やはり世間的に見ればヒーローはレイン一人なのかもしれないが。ヒーローではなく、ヒロインなのかもしれないが。
それでも、グレイの功績だって確かなものだった。彼がいなければ、あの作戦で多くの犠牲者が出ていたはずだ。おそらく、レインも――。
クロムは脳裏に浮かんだ思いを振り払うように、ラビウムたちにでまかせの情報を教えた。先ほどからの態度では疑われて然るべきだと、半ば冗談で言った場所を、取材班は思いの外真に受けたらしく、クロムに一頻り詳しい川と山の場所を訊ねると、その足で次なる目的地へ向かった。
意外とアホである。
クロムはくだらないことに割かれた時間を惜しみ、そろそろ良い頃合いでもあるので、次の講義が開かれる教室へ向かおうとした。
すると、その時。またも背後に、突如として人の気配が現れたのを察知する。取材班が嘘を見破って舞い戻って来たのだろうか。そんな懸念をしつつ振り返ると、そこには長身の美しい女性が立っていた。
「はっ……あら、クロムくんじゃない♪ 元気にしてた?」
エモは一瞬驚いたような表情をした後に、すぐさま以前のような笑顔をクロムに向けた。クロムは、その笑みに先ほどまでいたラビウムの笑みを重ねた。今にして思えば、二人の笑顔は似ている。大衆に媚びるような笑顔は、やけにクロムの癪に障った。
そんなクロムが、エモが笑顔の裏でほんの僅かに見せた戸惑いを見逃すわけはなかった。
「あはは……さっきはパラティウムでレインちゃんと会ってね。 ビックリしちゃった♪ ――彼女、すごい功績をあげたらしいじゃない」
クロムの耳に入る彼女の言葉は、全て聞こえていないに等しかった。彼の瞳はエモを見据え、ひたすら疑心を胸に、彼女を探りを入れるような視線で射殺さんばかりだった。
やがてエモは黙ってしまった。媚びるような笑顔が少し曇る。クロムの敵意を感じ取ったのだ――否。もしかすると、その敵意には最初から気づいていたのかもしれなかった。
「ウィルはいる?」
「ここにはいない」
「レッジは?」
「今日は欠勤だ」
代わりに彼の科目を教えるべく教壇に立った男性講師は、ひどく高慢ちきで救世主一同からは不評だったことを、クロムは思い出す。きっと、ああいう人間はどんな職場でも嫌われるんだろうなあと、そんなことを授業中、寝ながら思った記憶がある。
エモは『そう……』と落胆した様子で呟いた。よく見れば、顔からは汗が滲み出ており、眼の光もどこか陰っている。先日とは様子が違う。クロムは、あの時感じた彼女への疑心を思い起こし、更に警戒を強めた。
「じゃあ……今頼れるのは、きっとあなたしかいないのね」
作ったような朗らかな口調は一変して、なにか落ち込んだような声音でエモは言う。妖艶な容姿は、今や儚げに見える。それはそれで別のベクトルで美人と言えるのだろうが。
輝く美人がいれば、影のある美人もいるものだ。
「これからも、レインちゃんやグレイくんを守ってあげてね」
エモはそれだけ言い残して正門へ歩き出した。クロムは慌てて呼び止めるが、彼女がその声に応じることはなかった。
角を曲がって姿が見えなくなっても、クロムはエモを睨み続けた。今はもういないはずの後ろ姿が、彼の瞳にははっきりと映っていた。
彼女には何かがある。そう思えてならなかったのである。
~4~
レインは肩を落として、いかにも高級感の漂う椅子に、どっかり座った。普段ならどれだけ疲れていようが遠慮して立たせていただきたくなるようなその椅子でも、今日のレインは我が身を預けたくなった。それほど、今日という日はひたすらに疲れるものであったのだ。
タンクを撃退した功績を讃えられ、豪華絢爛な様式の部屋にもてなされ、上流階級と思しき貫禄のある来賓を前に萎縮し、延々と気が引き絞られた弓の弦の如く張られっぱなしだった。表彰式ですんなり帰れたならまだ良かったのかもしれないが、事もあろうに、その後は食事会が催された。テーブルマナーのあれこれを嗜んだことなどないレインにとって、権力者や富豪と顔を合わせてのランチは地獄も同然だった。
巨大な姿見が設置されたテーブルに突っ伏していると、三度ドアをノックする音が聞こえた。入室を許すと、正装を纏ったウィルが入ってきた。表彰式でも、食事会でも、レインの唯一の心の拠り所は彼だった。初めてのことばかりで戸惑う彼女を導き、支え、助けた彼である。今日だけで色々な人物と面識を持った (と言っても顔や名前はほとんど覚えていないが) レインも、入室を許せるのはウィルのみだ。
「ご苦労様」
「うん~……でも、私ばっかりじゃないよ。私のための式典と誰かが言ってくれていたけれど、それはつまり私のせいでこんなにたくさんの人が何かしら負担を抱えたわけで。ウィルも会議があって徹夜って聞いたよ。大丈夫?」
「気にするな。徹夜なんて兵士は慣れっこだ」
「そっか」
レインはぐったりした様子の身体を起こし、部屋の中央にある高価そうなソファを指して『どうぞ』とウィルに促した。ウィルが頷いて座ると、レインは彼の正面のソファに倒れ込んだ。
「ウィルは剣術学の先生だよね。今日は授業があるらしいけど、大丈夫なの?」
「ああ、心配ない。レッジの職場を見学させることにした。あいつも快諾してくれてな」
「えっ!? グレイがレッジさんの職場を!?」
「ああ」
「いいな~……いや、私をメインに開かれたパーティーの直後にこんなことを言うのはあまりに失礼だとは重々分かってるけどさ、私もそっちに行きたかったよ……」
「行っても素人には理解し難い空間さ」
ウィルは何かを思い出したかのように、ふっと笑った。
「じゃあ、そろそろお暇するとしよう。先に学院に戻っててくれ。正面玄関のスタッフに声をかければ転移魔法で送ってもらえるよう手配しておいた。式に参加していただいた人たちに挨拶するのも忘れるな。疲れてるとは思うが、救世主なんだから、愛想は良くしておかないと」
「ウィルさんは?」
「俺はまだ仕事だ」
「……ごめんね。私よりウィルさんの方がよっぽど疲れてるんだよね――」
「気にするな。それが教師というものだ」
ウィルはソファから立ち上がり、レインに『今日は本当によく頑張ったな』と言って部屋を出た。残されたレインは溜め息を吐くと、十数秒キュッと眼を閉じた。眠るか眠らないかの瀬戸際で、レインはパッと眼を開ける。
「よし!」
レインは意を決したようにソファから立ち上がり、少ない手荷物を持つと、テーブルやら椅子やらを元の状態に戻し、個室を後にした。
カーペットの敷かれた廊下をしっかりした足取りで歩くレイン。彼女は、その行く手に見知った人物を見つけた。
「エモさん!」
手を振りながら駆け寄ると、呼ばれた当の本人はえらく驚いたようで、半ば飛び上がらんばかりだった。
「久しぶりだね!」
レインが腰辺りに抱きついてきてもたじろぐばかりで、その表情は強ばっている。レインはそれに気づくと、今の自分の行動を拒まれていると思い、慌ててエモから離れた。
「どうしたんですか? 何かあったんですか?」
「えっ!? ど、どうして? 別に何もないわよ?」
「そうですか?」
「ええ……レインちゃん、今日は表彰式だったのよね? どうだった?」
「もう大変でしたよ……私、お上品な振る舞いも出来ないし、原稿もリハーサルもなしにいきなりスピーチしてくださいって言われるし――くたくたになっちゃった」
「そう……でも、レインちゃんは立派だったわよ。貴族や官僚にも、誰に対しても常に笑顔を絶やさなかった。作法がなっていなくても、それだけでみんなは好感を持つものよ♪」
「見ててくれたんですか?」
「ほんの少しだったけれど、あなたなら大丈夫って分かってたから」
エモの吃ったような口調に違和感を覚えたレインだったが、彼女と会話をしている内にその取っ掛かりは胸中から払拭されていた。
「アフェクタス」
そんな声が聞こえると、エモは表情を一変させて振り返った。レインも同時にエモの横から顔を出し、声の主を確認する。立派な髭を蓄えた、小太りの小男だった。服装から、彼が政界の高官であることがレインは分かった。
「例の件はどうなったんだ?」
「……はい、問題ありません」
男性の問いに、エモは苦々しい表情で答える。レインに顔を覗き込まれると、彼女は慌てて眼を逸らした。レインはエモの表情や声色に、どこか男性への批難の念が込められている気がした。今、ここで、その話題に触れたこと自体が、彼女の気に障ったような印象が抱かれる。
「そうか。あまり時間を取らせるなよ。私だって暇ではないのだから――おや? そこのお嬢さんは……」
男性はふとレインに視線を移すと、髭をひくひくさせて彼女を見つめた。レインはその怪しい眼光に恐怖を感じたが、先ほどエモに言われたよう、咄嗟に笑顔を浮かべた。
「私、レインです。こんにちわ」
名乗るや否や、男性は彼女のことが既知である風に『ああ、君がレインか!』と声高に言った。その様子を端で見ているエモが、より憎々しげな表情で男性を睨んでいるのを、レインは見逃さなかった。エモはレインに見られていることに気づくと、今度は辛そうな表情で顔を背けた。
「君の功績は聞き及んでいるよ。あのタンクを独力で倒すなんて、素晴らしい戦闘力だ」
「あ、いえ……あれは仲間の救世主と協力して――」
「機会があれば、君とはじっくり話をしたいものだ」
レインの言葉を遮るように男性は続ける。なにか変に興奮している様子の彼に、レインは一抹の嫌悪感を覚えた。エモが苦い顔をするのも、今なら頷ける。
「貴重なお時間を割かせてしまった上で誠に恐縮なのですが、そろそろ取りかかった方がよろしいのでは?」
エモが沈黙を破り、レインと男性の間に割って入るようにして言った。男性は舌打ちをすると悪態をついてエモに先に行くよう言い放つ。エモはしばし男性を睨みつけたまま動かなかったが、やがて申し訳なさそうな表情でレインの方を見ると、何かに耐えるように下唇を噛み締めながら去っていった。
「口うるさい部下で済まないな。さて、君も疲れているのだろう。何分、格式張った催しの後は気が滅入るものだからな。もう帰りたまえ」
「あ、はい。すみません……失礼します」
レインはそう言って、足早に廊下を歩いていった。あの男性から早く離れたかった。相対していると、彼が終始自分を見ていたように思えてならなかった。あの眼は、危険だ。レインは恐怖に急かされるように、男性を一度も振り返ることなく角を曲がった。
男性は、そんなレインの後ろ姿をいつまでも見つめていた。角を折れるまで、口角を吊り上げて陰湿な笑みを零しながら、彼女を捉えていたのだ。
その眼には怪しげな光が宿っている。
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