スコラ学院

~1~


 グレイとレインが救世主となってから、しばらく経った頃のことだった。二人共々、髪の毛がそれなりに伸び、またこの世界における所謂ファッションもある程度は心得、適応すべく倣っていた。

 といってもグレイはそれほど影響されているわけでもなく、どころか物心がついた後も自身の身嗜みにはあまり気を遣うこともなかったのだが、対してレインはこの世界の若者の時流を吸収し、見事に染まっていた。具体的には、肩ほどまで伸ばしカールさせている髪の毛を、若干ピンクがかった薄茶色に染めていた。その頭髪を染色していた。

 グレイは生まれ持った、この世界の若者からすれば時代遅れの黒髪を切らずに伸ばし続けている。その毛髪は全体的に左右へ流れ行くように成長していった。前まで眉までだった前髪はというと、左目の真上の分け目に沿って枝分かれ、ギリギリ目元を隠すまでには至っていない。なので戦闘に支障はきたさないと思われた。本人も、今のところ弊害を被ってはいないという意識なので、どうこうする理由もないといったところだ。


「二人とも、この書類に要記入事項を書いて提出してくれ」


 ウィルに、それぞれ一枚の用紙を手渡された二人は、その内容を見て腹を据えた。『救世主個人情報記入用紙 (極秘)』――いよいよ、本格的に事が始まろうとしていると、グレイたちは確信した。


「近々、上から召集がかかるだろう。それまで、然るべき準備を整えておいてくれ。その間、出撃は控えても構わないとのことだ」


 クラウズはポルタを介してこの世界に侵攻する。ポルタは幾つかの制限こそあれど、基本的にいつでもどこでも、任意 (この場合、クラウズを影で操る者の) の時間と場所に開く。連続しては開かないが。また、過去の襲撃を調べると、どうも人口密度の高い地点に開くと、そのポルタは通常よりも早く閉じる傾向にあるらしく、故にクラウズたちは、グレイらが召喚された時も、二人が初めて出撃したときも、人里離れた平野や森に現れたのである。一般市民に被害が及びにくいという点では、これは良いシステムなのだが。

 グレイとレインの初陣直後に発生した【救世主大量発生事件】(一部では皮肉を込めてそう呼ばれている) に際し、世界各地に救世主が出現したのは、それを考えると好都合だった。世界中に出没し得るクラウズの場所を問わない撃退効率と、民間人や市街の防衛、そして戦闘経験が皆無に等しい救世主の育成というメリットを鑑みて、ケントルムは『救世主によって構成される特殊部隊の本拠地』の完成を待つ間、各地の救世主を残留させ、ポルタが管轄内で確認されれば地元の正規軍と共に出撃し、協同で事にあたるよう指示した。これにより、グレイとレインは適度な実践経験を培うと同時に、決して短くない休暇を得たのだった。

 グレイは用紙に名前を書き終えたところで、ふと疑問を抱いた。今まで一体どうして不思議に思わなかったのか分からない、当たり前な疑問だ。グレイは今、初めて直筆で書くところの自身の名前を、すらすらと書けていた。普通なら、これこそ当たり前のことだが、グレイたちは事情が異なる。グレイやレインのその名前は、初めて書くのはおろか、つい先日、付けられたばかりのそれだ。思えば、この世界の言語だって、二人は学んですらいないのに、どうしてウィルやレッジをはじめとした現地の人々との意思疏通が可能なのだろうか。言葉が分からないのに、教わってもいないのに、なぜ新しい自分の名前が書けるのだろう。しかも、よりによって。


「俺の名前、どう見ても英語なんだけど」


 グレイが無意識に用紙に書き記した自分の名前は【GRAYグレイ】だった。レッジが与えた、その名前だった。


「私もだよ。同じだねー」


 レインは用紙をグレイの方へ寄越した。名前の記入欄には【RAINレイン】と、そう書かれている。だが、グレイが着目したのはそれとは別のところだった。

 名前の記入欄の下には、同様に救世主のプロフィールを書く欄が設けられているのだが――まあ、これは彼らの元の世界でもごく自然なことなのだが、しかし名前の記入欄の少し下には。性別や血液型を問う欄の下には、対象を女性に限定してスリーサイズを記入するスペースがあったのである。


「……たしかに。同じだな」


 グレイは答えながら、この世界に召喚されるまでの人生ではおよそ叶わなかった、女性の身体情報の把握という未曾有の好奇心を駆られるイベントを前に、壮絶なジレンマを以て相対していた。

 果たして見るべきか、否か。己の欲望に忠実に従うか、理性によってそれを抑えるが吉か。裏を返せば、後悔と満足、どちらを取るかという問題である。いや、その数字を見れば彼女のスリーサイズを把握したという満足と、自責や自己嫌悪、更には彼女に対する負い目から後々に後悔に苛まれることだろうし。見なければ見ないで、理性的な自分を知覚できたことには満足できることだろうが、この先の人生、おそらく幾度となくこの瞬間の自身の小心さ加減に憎悪することも想像に難くない。結局のところ、見ようが見まいが、求めた満足は選択の先にはあるし、先に立たぬ後悔もまた、どちらの選択の末には待っているのだろう。メリットとデメリット。物事の比較として最も重要視すべき利点と欠点という概念なのだが、大抵の事象にはそのどちらも含まれているのが、人生のままならない原因の一つなのだ。

 ならば、とグレイは思った。行き詰まったら視点を変えよ、行き止まったら機転を利かせよとは、グレイの祖父の言だ。メリットとデメリットではなく、単純な客観的事実に則った観測を試みようではないか。たしかに、故意に異性の個人情報を掌握するのは、それは褒められたことではない。あとでバレたら一生軽蔑されるだろう。だがどうだろう。もしも『偶然』、『たまたま』それが目に入ってしまって、奇しくもそれを記憶領域にインプットしてしまったとなれば。自分を責めることなど誰にも出来はしない。それでも女性は『女の敵』と非難するだろう。『変態だ』と批判するだろう。だけれど、その時、自分はこう言うのだ。


『でも、それが書かれていると知った上で、自分にこれを見せた彼女にも落ち度はあるんじゃあないのかい?』


 この一言を切り札として持っておけば、いくらでもたまたま見てしまえるではないか。我ながら天才的な発想だ。こういう閃きが、世界の発展を担う発明を起こしてきたのだ。もしかすると今や自分は、歴史に名を残す偉人たちと並ぶほどの功績を成しているのかもしれない。


「名前以外の欄を見たら許さないからね」

「…………」


 釘を刺されてしまっては、どうしようもない。グレイは諦めて用紙をレインに返却した。もっと早くに見ておけばよかった。グレイの胸中には後悔の念しか残らなかった。


「でも、なんでだろうね? 英語は私たちの世界の言葉であって、この世界と私たちの世界とは別物のはずなのに」

「さあ……なんでだろうね」

「この世界と私たちの世界とに、何か関連性があるのかなあ?」

「さあね――それよりも俺は」


 グレイは手元を見下ろした。どうやらこの世界に鉛筆やシャープペンシルの類いはなく、ならば何を使って文字を書いているのかというと、今グレイとレインが持っている道具を使っているというのが真実らしいのだが。その道具の正体がレッジ曰く、エクゥスアヴィスの羽だというのだ。羽の根元にインクを付け、文字を書くというのが、少なくともこの国においてはスタンダードな手法のようだ。


「エクゥスアヴィスがどう扱われてるのか知りたいね」


 戦国時代でも言えそうなものだが、なんの関係もない大型動物を戦地へ赴くまでの、もしくは戦地を駆け抜ける乗り物として飼育するのは、果たして倫理的にどうなのだろう。グレイは思わざるを得なかった。その上、羽を引っこ抜いてペンにするなんて、ちょっと可哀想である。禿げたらどう責任を取るのだろう。


「グレイ。身長いくつ?」

「ん。175センチ」

「そう。私160」

「へえ」


 ポルタが開かなければ、それこそ一日中ずっと暇な二人である。しかも、現在この世界の人類において最重要人物である救世主でもあるので、その行動は常に上層部の幹部に監視され、制限されているのだ。ようやく新しい世界に慣れようという心持ちになったところで、外出もままならない状況に置かれ、昔話をしようにもグレイの方があまり覚えていないので盛り上がらず、結果、他愛ない会話はし尽くしてしまっていて、これといって話すことのない二人なのだった。ここ最近は、こういった中身のない、二言三言返せば途切れてしまうような雑談を、おもむろに繰り広げるくらいしかなかった。


「血液型は?」

「A型」

「え、うそ!? Bじゃないの!?」

「なんだそれ。つーか、人に血液型クイズを出された時、真っ先にBと答えるのは失礼に値するってどっかで聞いたぞ」


 なんの根拠もない性格診断に準拠すれば、だったかな。グレイたちは存外、まだまだ盛り上がれるらしかった。


「いやいや、そういうことじゃなくて。小さい頃に血液型クイズを出されて『O型でしょ!』って答えたら『ぶっぶー、B型でしたあ!』って質されて、なんか無性にムカついた記憶があるんだけど」

「随分と具体的だなあ……ほんと、よく覚えてるよな、そういうの」

「え、いやあ、だって――」


 途端、レインは顔を赤くして黙りこくってしまった。どうしたのだろうか。グレイは彼女の異変に気づくと、気をかけてやろうと思い、話を続けた。


「まあ、日本人に限って言えば、そういう血液型クイズを出されたら、A型って答えとけば、案外大丈夫だと思うけどな」

「分かったから……もういいよ、この話。終わり終わり。早く書き切らないと、ウィルさんに迷惑かけちゃうでしょ」

「な、なんだよ。なに怒ってんだよ」

「怒ってないよ。やだなあ、もう。このくらいのことで怒らないよ、私。怒ってないのに怒ってるって言われると、それこそ怒っちゃうでしょ……私、ちょっとトイレ」


 レインはパシンと、エクゥスアヴィスの羽を机上の用紙に置くと、少し苛立った様子で部屋を出ていった。グレイは訳も分からないまま数秒固まった後、用紙の記入を再開した。

 すると、グレイは視界の端にレインの用紙を捉えた。むむ。あんなところに。人にはああ言っておいて、自分こそ書いてないじゃないか。

 …………待てよ。今、この場に彼女はいない。となると――。グレイは下衆な笑みを押し殺し、席を立って歩いた。レインの用紙の、真ん前に。レインの気配がしないか、扉の方を入念に確認しつつ、腰を屈める。端からすれば挙動不審だ。グレイは前代未聞、そしておそらく空前絶後の背徳感に胸を踊らせ、ついにその、数字の書かれた欄を覗いた。

 瞬間。バンと扉が開かれ、慌てて音のした方を向いたグレイは、不快そうに顔を歪めて文字通り仁王立ちしているレインを、その瞳で視認した。


「なにしてるの?」


 今に始まったことではないといえど、電車内から救世主に召喚されて以来、最近のグレイはどうも不運らしかった。


~2~


 ウルプスという、パラティウムが存在する大都市に、グレイとレインはウィルやレッジの同伴もあって到着した。用件はケントルムの召集だが、今回の目的地はパラティウムではなかった。例のプロジェクト――救世主によって構成される特殊部隊の本拠地がようやく完成したので、世界各地の救世主を一同に介するとのことだ。


「これからは、その【スコラ学院】が君たちの家になる。衣食住の全てがここで済むよう設計されている。他の救世主たちとの共同生活というわけだよ」

「全寮制ってこと……だよね?」

「そうだ」


 学院へ向かう道中、レインの問いかけにレッジが答えた。


「なんでわざわざ学校にしたんだよ」

「君たち救世主は、まだこの世界について学ぶべきことが山ほどある。地形学や歴史、それに戦術を教わる必要性も出てくる――何より、これからの活動の基本形態を考えると、一番理に適う環境は学校になる」

「これからの活動?」

「すぐに分かるさ」


 含んだような言い方のウィルに、グレイは首を傾げた。随分と勿体ぶった物言いに、眉をひそめた。まあ活動といっても、救世主の使命から考えて、想像というか予想はさして難しくもないと思われるが、にしたってなんだか訳のありそうな口調、裏のありそうな口ぶりだったのも相まって、グレイはそれ以上は追及しなかったものの、心の隅に取っ掛かりを残すこととなった。


「要するに救世主として戦いに励む傍ら、勉強にも隙なく勤しめってことなんだろうけどさ。その考え方には概ね賛成なんだけどさ。でも、ここ数日間は出撃の頻度も多いわけじゃなかったし、それは他の救世主たちの大半はそうだったんだろうし、外出禁止令を敷くより、少しくらい冒険とか探検とかさせてくれても良かったんだよな。俺たちの場合は、近所に図書館とかあったんだからさ。暇を無意義に無意味に持て余すしかないってよりは、そういう施設でこの世界について予習させてほしかったよな、レイン」

「…………」


 同意を求めたグレイだったが、しかしレインは何も言わず、ただ黙々とウィルたちに追従しているだけだ。その態度には、少しばかりなんて程度では済まない、明らかな冷たさが認められた。まるで氷のよう。氷は氷でも、ドライアイスのよう (氷とドライアイスとは、明確に全く別の物質であるが) 。触れたら火傷してしまいそうだ。

 けれどもグレイは、火傷を負うことも辞さなかった。


「おい、なんだよ! なんなんだよ、それは! その態度は! 数日前から……正確には俺たちの元に個人情報の記入用紙が配られて、俺がレインのスリーサイズを盗み見ようとした直後辺りから、今までずっとそんな風に怒ってるけど、一体全体なにがあったんだよ!」

「自覚してるじゃん」

「ごめんなさい」


 その口調は先ほどにも増して冷ややかだったので、グレイはすっとぼけるのをやめ、素直に謝罪した。上体を地面と平行になるまで折り曲げ、彼女の爪先を注視する姿勢となる。


「いやもう本当、徹頭徹尾、終始一貫して俺のせいです。申し訳ありません。ほんの出来心だったんです。幼馴染みなんて都合のいい間柄を利用して私腹を肥やそうとした俺が、何から何まで間違っていたことに疑いの余地はありません。全ては俺の邪心に起因するところでした。重ね重ねになりますが、いくら重ねたところで到底謝りきれる罪でもありませんが、もう既に人として誤りきった行為に及んでしまい、及ぼうとしてしまい、本当にすみませんでした」


 下手をしなくとも土下座をしかねない勢いのグレイを前に、しかし特に動揺も戸惑いもみせないレインは、それでも彼の誠意を余すところなく受け取ったのか、やや間を空けた後、短く頷いたのだった。そして、


「次は未遂でも殺すからね」


 と言って、その件のことを落着させた。


「見えたぞ」


 そんなやり取りをしている最中も歩を進めていた一行は、広大な敷地を有する場所に辿り着いた。ウィルの言葉に振り向いた二人は、砂利の敷かれた、彼らの元の世界で言うところのグラウンドのような空間が、けれども見知ったそれの何倍もの面積を持って眼前に広がっているのを目撃する。その向こうに、新品同様の純白な外壁の、横長の建造物――ここが学校なら校舎と呼ぶべきなのだろうか――が佇んでいる。


「ここがスコラ学院だ」


 レッジが誇らしげに言う。驚愕とも感嘆ともつかない表情の二人を横目に、ウィルとレッジは得意そうな笑みを浮かべた。

 グレイが目を凝らすと、大勢の人々が続々と地平線の先にそびえる校舎に入っていくのが辛うじて見えた。


「あれ全員、救世主?」

「いや、全員ではない。この施設もとい学院には、決して少なくない軍部の役職に携わる方々が、教職員という立場で駐在することになる。それ以外は、君たちの仲間だ」


 グレイが指差すと、ウィルがうむと頷く。何やら未曾有の高揚感に駆られたグレイとレインは、心なしか軽やかな足取りで、ウィルやレッジを追い越し、目的地へと向かっていった。


~3~


 ようやく、これからの救世主の拠点――スコラ学院の、両脇にそれぞれ巨大な鉄柱の配された正門に立ってから、グレイとレインは気づいた。学院に入っていく人の数が、いくら何でも多すぎる。中には、明らかに軍部の役職に携わっているとは思えない、あどけない子供まで混じっている。


「レイン。先代の救世主のイーヴァスに召喚された、救世主候補査定委員会に認定された新しい救世主が、実際にどのくらいいるか知ってる?」

「ううん。私もこの目で判断したのは数人だし、あんまり詳しくは聞いてないんだ」

「そう……ウィルたちは知ってる?」

「ああ。このスコラ学院で学ぶ救世主は785人だ」


 平然とそう答えたウィルだが、グレイとレインは、当然と言えば当然に、言葉を失った。

 785人。なるほど、学校と言ったら全校生徒を総合すれば確かにそれくらいの数にも登る、言ってしまえば巨大組織なのだが。


「イーヴァス様は死の間際、咄嗟に座標を指定して君たちを召喚した、というのは知ってるよな。イーヴァス様が指定した座標は一つではなく、複数だったんだ。それも、レイン。君の証言した元の世界のおよそ全土に点々と、座標を定めた。そこら辺は、さすがは救世主様、といったところかな」

「いやいや、だからっていくらなんでも多すぎるでしょ。なんか、それだけ救世主がいたら多分、一般市民もさすがに怪しむだろ。疑念を抱くだろ。緊張感に欠けるっていうか、現実味がないっていうか――」


 黙認できない衝撃的な真実を前にして突っ込まずにはいられないグレイ。この事態にはレインも、口角を引きつらせてぎこちない笑みを見せた。文句や疑問を言わないだけで、彼女もまた、許容できないことなのだ。

 と、そこに。


「あら、来たのね。やっほー♪ また会えたわね」


 澄み渡るような美声を発して、エモが現れた。声色と同様の美しい容姿を持った、ウィルとレッジの旧知だ。


「どうしてお前がここに!?」


 ウィルは語気を強くして言った。レッジもきょとんとした顔をしており、どうやら彼女が学院にいることは、二人にとって想定外らしかった。


「まさか、この前『任務の都合』云々って言ってたのは……」

「そ♪ 影ながらスコラ学院全体の活動に協力させてもらうことになったの」


 思い当たった様子のレッジに、エモはウィンクして答えた。


「具体的には非常勤の教師って感じでね。まあ、機会は言うほど多くはないかもしれないけど、そういうことだから、よろしくね♪」

「待てよ……お前、こうなることを知ってたのか?」


 ウィルの驚いたような、というよりは訝しむような、怪しむような、探るような口調を受けて、エモは『そんな警戒しないでよ』と笑った――どうして、今のウィルを前にして笑えるのだろうかと、グレイは疑問に思った。少なくとも今の彼の剣幕は、尋常ではない。


「仕事柄、世界中を駆け巡ってるからね。そういう噂話も小耳に挟むの。イーヴァス様に召喚された二人と似通った出自の、身元不明の放浪者の噂をね。だから遠からず、なにか凄いことが起こるんじゃないかなって予感っていうか、まあ予測はしてたわ」

「……仕事柄と言うなら、ここの教職員というのは、君の担当する任務にしては適材適所とは言えないんじゃないか?」


 なんというか、場違いだろ。と、レッジは言葉を一つ一つ選んでいるかのように言った。その最中、彼がグレイとレインを横目でチラチラ盗み見ているのを、二人は気づいていた。なにか隠したいことがありそうな、あるいはエモに配慮しているかのような、そんな素振りだ。

 しかしエモは、やはりクスリと笑った。


「だから、あくまで裏方、建前よ。今回の救世主に関する事件は、各国で渦巻いてる陰謀に少なくない影響を与えてるの。あなたたち救世主が派手にドンパチやってる裏で行動するには、全世界的に内部情報が開示されないここに勤務しておいた方が都合が良いの――ああ、ごめんね。多分、何も聞いてないんでしょ? 私のこと」


 エモはグレイとレインを気遣うような台詞で話を区切った。子供をあやすような言い方だ。


「詳しいことは二人から聞いてね――あ、この子たちには話しても構わないわよ。これから付き合いも長くなるだろうし、隠し事はしたくないからね♪」


 それじゃ、と朗らかに言ってエモは去った。グレイとレインは胸中にもやもやした感情が蠢

うごめ

いているのが分かった。


「何が『隠し事はしたくない』だ……」

「あはは……どうやら二人は、とても信頼されてるようだね」


 苛立った様子で呟くウィルを、レッジは苦笑しつつなだめた。気分が悪い、とウィルはその場を後にし、レッジは溜め息をついてグレイとレインに向き直った。


「エモはね……ケントルム直属の隠密部隊の一員なんだ。以前より存在した陰謀や企てが、クラウズの出現した後から顕著に動き出していてね。当然、クラウズが原因で発生した新たな事案もあるわけさ――エモは、そういう国の内部事情を探る特殊工作員なんだよ」

「え……そんな……なんで――あんな綺麗な人が」


 その『綺麗な人』というのが探りを入れるのに都合が良いんだろう、とグレイは口から突いて出かけた言葉をすんでのところで飲み込んだ。それは言ってはならない。この世の闇を――どんな世界にだって潜む裏の一面を、レインが知ることはない。知らなくていい。知らないまま生きていてほしいと、グレイはそう思ったのだった。


「だから俺たちが初めてパラティウムに行った時、彼女がいたのか」

「任務のことで赴いていたのは、まあ間違いないだろうね」


 グレイは困惑するレインをさておき会話に介入することで、話の軌道を修正した。


「で、その活動をするにあたっての隠れ蓑として、このスコラ学院は最適なんだ。ほぼ世界全土の権力ちからと技術を有した大国の連盟であるケントルムが直々に、内情の開示を認めないと宣言した、ここがね。何かを企んでいる敵国も、ケントルムの監視がダイレクトに介入できる施設に探りを入れることは不可能だ。学院をメインに考えると、それほど世界的にイレギュラーな組織なんだよ、ここは――何より君たちは」


 救世主とは、すなわちイレギュラーなんだよ。レッジはそう締め括ると、『北側の学舎の4階に行くんだ』と言い残して、ウィルの後を追うようにその場を去った。

 まだエモのことを思慮しているのか、レインは瞳をうるうる震わせてうつむいている。グレイは彼女を気にかけながらも、ひとまずは周囲を見回す。3つの棟が漢字の『けいがまえ』のように配置されているのが、少なくともこの場では分かった。先ほどの広大なグラウンドが、この棟の背後……更に北方に広がっていることも。

 太陽の位置を確認し――この世界の太陽が果たして自分の知る時刻を表してくれているのか、そもそも上空で輝くその天体が本当に太陽なのか、この世界を地球と同じ視点で観測していいものなのか、何も定かではないが――レッジの言っていた学舎と思しき建物を見た。辺りの救世主たちも皆、続々とその学舎へ入っていく。グレイは目的とする場所を確信した。正門から向かって真正面にある棟ということも考えて、なるほど、この建物が今後の活動において主となる施設なのかもしれないと、同時に思う。東西2つの棟に比べ、眼前の校舎が一際大きいことから見ても、その可能性は色濃いだろう。


「行こう、レイン。人には……色々な事情があるんだよ。俺たちがどうこう言える問題じゃない」

「で、でも……だけど! 私、あの人のこと良い人に見えたよ。悪い人だなんて信じられない!」

「――良いか悪いかを決めるのは俺たちじゃないんだ」


 グレイは、およそ残酷な事実であることを知りつつ、しかしながらそれを無垢な少女に伝えた。レインはしばらく黙った末に『分かった』と短く言うと、グレイが指し示した北の学舎へ歩き出した。


~4~


 新築のように綺麗に仕上がった内装と、幼い頃より見知った元の世界の学校とさほど変わらないその雰囲気に、グレイは驚いた。


「わー、なんだか学校みたい!」


 というレインの言から、彼女も似たような印象を受けたことが見て取れた。聞き取れた。


「いや学校だし」


 言いながらグレイは、けれども一点、元の世界の学校との決定的な差異に当惑している。グレイとレインは、元の世界の『日本』で生まれ育ったのだが、しかしスコラ学院の舎内を行き交う救世主たちは全員、土足で廊下を闊歩していた。『上履き』という概念が、ひょっとするとこの世界にはないのかもしれない。年齢的に将来を見据え、志望する大学内を縦覧したことのあるグレイも、そのまま元の世界に残留していればいつかは体感せざるを得なかったことなのだが、それにしたってやや抵抗があるのは否めなかった。


「掃除の人とか大変そう」


 レインは呟いた。もっともな感想である。もしかするとその新築同然な純白の床を早くも小汚なくしている土や砂、埃の類いを掃除する羽目になるのが自分たちかもしれないことは黙っておこうと、グレイはそう決めた。時が来るまでは、せめて夢を見させてあげよう。確率的に正夢になる未来も、決してなくはないのだから。

 そこそこの混雑に見舞われながらも、二人はなんとか大勢の救世主たちが一堂に会する大部屋に辿り着いた。簡易的な座席が数百用意され、それだけで現世代の救世主の規模が計り知れないものであると痛感させられる。グレイは適当な場所を見つけ、レインに座るよう促す。ありがとう、と言って着席する彼女を見届けた後で、グレイはようやく自らも椅子に腰かけた。やけに紳士的だ。


「なにそのうやうやしい感じ。高校の面接以来だよ、そんなかしこまった態度見るの」


 レインは小馬鹿にするような笑みを浮かべて言った。そんなことない、とグレイは周りの救世主を見渡しながら、おざなりにそう答える。


「やっぱ外人もそれなりにいるな」

「うん。だから前にも言ったじゃん」

「あれ? 言ってたっけ?」

「言ってない」

「言ってないのかよ」


 不利な内容の会話を阻止すべく挟んだその場凌ぎの台詞が、あにはからんや、グレイの思惑にかなったようだった。


「今さっき思い出して気になってたんだけどさ。この前、他の救世主が云々言ってたって言ってたじゃん」

「言ってたっけ?」

「これは言ってたよ。俗衆は救世主を神聖不可侵の存在と捉えていて、敬愛し憧憬しょうけいしてるって」

「絶対そこまでは言ってない」

「それを他の救世主から聞いたってことは、つまり意思の疎通が出来たってことだろ? 俺たちと同じ元日本人に聞いたのか?」

「日本人の方にも聞いたし、外国人の方にも聞いたよ」

「そうか。外国語とか喋れるのか?」

「ううん。アメリカ圏の英語と韓国語、それと上海語を片言だけ」

「割りと多国籍的だな」

「でも南国出身の方やヨーロッパの国の人とも話す機会はあったよ。コミュニケーションはとれたけど」

「それだよ。それこそいよいよ疑問だ。なんで外国人と意思疏通がとれたんだ? 言葉が分からないのにさ。まあ、それは俺たちとウィルたちの間にも通用する問題だけどさ」

「相手の人も日本語で喋ってたよ」

「え、そうなの?」

「うん。それも流暢に」

「全員が全員?」

「全員が全員」

「そりゃありえないだろ」


 グレイは再び周囲を見回した。東洋人の顔も多いが、やはり救世主という職業は多国籍的だ。南米や中東、北米の出身と思われる顔ぶれが少なくない。むしろ、思いつく限りの人種が、この場にはほぼほぼ均等にいる。


「日本語を習うような国なんて限られてるし……」

「うん。私も同じこと思った」

「伊達に多国籍的じゃないな」

「だから私、聞いてみたの。『どこで日本語を習ったんですか?』って。そしたらビックリ。『自分は日本語なんか喋ってない、そもそも知らない』って、そう言ったの。日本語で」

「は?」

「他の人にも聞いてみたんだけど、アフリカの人も、ロシアの人も、台湾の人も、シンガポールの人も――みんな同じことを言うの」

「え? でも、それって……一体どういう」


 困惑して呟くグレイを、レインは片手で制した。まあ聞いて、と。そう言って彼女は続けた。


「私、考えたの。私たち救世主は全員、元の世界の名前を剥がされた。元の世界から魂が引き離された――これだけは私たち、みんな同じなの」

「ああ」

「救世主候補査定委員会の人たちとも話してね、結果的に結論付けたの。私たちの魂は、この世界に都合よく改竄されてる」

「なに?」

「外国の方たちはね、こうも言ってたの。『みんな自分の国の言葉を喋れるなんて凄いなと思ってたんだ』――あの人たちには、私の話してる言葉が自分の国の言葉に聞こえてたらしいの。全員」

「それは、つまり……」

「そう。私たち、相手が話してる言葉は関係ないの。私たちがアメリカの人に日本語で話しても、相手の人は私たちが英語で喋ってるように聞こえる。グレイも知らない誰かに話しかけてみたら? 誰が何を言おうと、全部日本語に聞こえるはずだよ」

「なんでそんなことになってるんだ?」

「ウィルさんやレッジさんたちに聞いたらね。この世界には共通語があるらしいの。国や地方で訛りや方言の存在はあるらしいんだけど、そういうのは身内や旧知の間柄で使われるもので、公では世界共通の一種類の言語を用いるんだって。ウィルさんやレッジさんも、エモさんや准尉さんだって、これまで私たちと話した人みんな、その共通語で喋ってたって。私たちも、同じ共通語で話してるように聞こえてたみたい」

「その世界観になぞらえて意思伝達に支障が出ないようになってるのか」

「そう」

「救世主の――イーヴァスのやったこと、なのか?」

「……多分」


 グレイは何とも言えない気持ちになった。日常生活においては、むしろ不便を解消してくれるはずの異常なのだが、それにしたって異常は異常だ。自分が本来の、生来の自分と少し異なると言うだけで、人生というのは無視できない塩梅に差し障るものである。である――はずだ。はずなのだ、が。

 しかし、グレイは不思議とその事実に納得してしまったというか、その事実を受け入れてしまえた。今喋っている言葉が、相手には違う言葉に聞こえている。相手が今話しているつもりの言語は、自分には全く異なる言語として伝わる。けれど、互いに伝わってしまう。互いが互いの意思を、全く別の言葉を相互が話しておきながら、理解することが出来る。

 これは、個々人の倫理観と切り離して考えれば、実に素晴らしいことではないか。たしかに気味が悪いかもしれない。言い表せない歯痒さに苛まれることも、遠くない未来であるかもしれない。だが互いに、客観的には何の努力も労力もなしに、全く異なる言語が習慣化されているとしても、その意思をおよそ誤差なく伝えることが可能となったのだ。

 今となっては、元の世界で絶えず話題に上っていたように思われる、多国籍間の人々の交流――くだけた言い方をすればグローバルなコミュニケーションが現実のものとなった実例ではないか。世界各地における諸問題の幾つかは、あるいは幾つもが、この事象によって解決できるのではないだろうか。

 それを考えれば、実際的には互いが全く異なる言語で喋っていることなど、問題ではない。本人たちに、問題は起こらないのだから。自分は自分で自分の言葉を話しながら、相手は相手で相手の言葉を話しながら、文字通り言葉の壁を越えて意思を伝え合えるのだから。主観的にも、客観的にも、なんの問題もないではないか。

 やがてグレイは、この件に関して特に何も疑問を抱かなくなった。この先、救世主たちの間はおろか、この世界に生きる人々と関わる中で、意思の疎通がとれないことなどないことが、今はっきりしたのだ。気にすることなど、何もない。レインもまた、同じように思っていた。このことが話題に上ることは、およそ金輪際ないだろう。二人はそう思った。

 客観的に見ると今のグレイは、かつて彼自身がレインに危惧していた『異常』に近しくあるように思われた。

 悩まされ、苛まれながらも、救世主としての使命を、快諾なんて言葉でも足らないくらい潔く引き受けた、受け入れた彼女に。近しくなっていた。


「でもさあ」


 しばらく沈黙が続いた後、グレイは切り出した。


「なんでさっきから言葉遣いが丁寧だったんだ?」

「ん?」

「いや、普通に『アメリカ人』とか『イタリア人』とか言えばいいものを、『あの国の方』とか『この国の人』とか、そういう周りくどいっていうか、妙にかしこまった言い方ばかりしてたじゃん」

「だって、そういう言い方は良くないよ。グレイだって唐突に『おい日本人』って声をかけられたら嫌でしょ?」

「嫌」

「でしょ? それよか『おい日本の方』の方が割かしマシってものだよ」

「いや『おい』って声かける時点でマシになってないと思う」

「グレイは肌の色が黒い人を『黒人』って呼ぶでしょ」

「呼ぶ」

「でしょ? でも、それはもうそろそろ差別用語として広く公に認知されちゃうところなの。ちなみに白人も、黄色人種もね。だから早いうちに気をつけとかないと、後になって尾を引くよ?」

「そんな媚びるような真似はしたくないな」

「え!? そ、そんな! 私、媚びてなんかないよ!」

「いや媚びてるよ。そんな四方八方の人から反感を買いたくないからって逐一言い方に気をつけるなんて、媚びを売ってないで何を売ってるんだって話だと思うんだよ」

「世界平和の指針だよ」

「貯金はたいてでも買うわ」

「どうしてそんな意地悪言うの!?」

「意地悪じゃないよ」

「じゃあ性悪?」

「そんな意地悪言わないで」

「じゃあ私のあれこれが媚びてるなら、さっきのグレイの無駄に紳士な態度はなんなの!?」


 ぎくり。グレイの胸中は、現実にそんな音が鳴ったような気持ちだった。凌ぎきったはずだったのに。上手くかわして事なきを得たつもりだったが故に、グレイは面食らって言葉を失う。


「あんなかしこまっちゃって! あれこそ媚びでしょ? 違う?」


 問い質されてグレイは黙りこくる。これはマズい。あの時、この件を先送りにしたことが今になって尾を引くとは――いや、この場合、尾を引くのとは少し違うか? グレイの頭の中もいよいよパニックでこんがらがる。先ほど面食らっているのに任せたばかりに、完全に会話の主導権を握られた感のする、哀れな少年だった。

 しかしその時。わいわい、がやがやと騒がしかった室内が、突如、轟いた音によって一挙に沈黙に包まれる。ケントルムがおさの聖王その人が、扉を開けて部屋に入ってきたのである。金色に煌めく厳かな外見のマントが、元より開け放たれていた窓から吹き込む風に舞った。これにはレインも黙らざるを得ない。

 どうやら今日のグレイは運が良いらしかった。

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