グレイとレイン

~1~


 前方に大勢の兵士が集結し、更に先へ突撃していくのが見えてきた。眼前に広がる深紅の曇天も、すぐ間近のようだ。グレイとレインは、いよいよ始まろうとしている戦いに備え、気を引き締めた。戦場の後方には幾つかの簡易的な塔が建てられており、その頂上では高所から兵士が、それぞれ武器や掌から紫電やら火球やらを放っている。


「そういえば俺たち、身を守るもの何も着けてない!」

「わ! そうだ! 言われてみれば!」


 ここへ来てグレイは気づき、ウィルに声を張り上げた。レインも同調し『どうしよう!』と慌てふためく。


「数で物を言う俺たち兵士とは違って、少数精鋭の救世主には防具を着けないのが昔からの慣わしだ。機動力を優先させるためにな」

「そんなこと言ったって、俺たちは素人だ!」

「だからこそだ。何十キログラムもの装備を全身に巻きつけて戦うなんて、今の君たちには出来っこない。今回は防御より回避に集中しろ。生き抜いてくれ。クラウズを倒すのは二の次だ」

「そりゃそうだけど!」


 言いかけて、グレイは観念しそれ以上は何も言わなかった。重い防具を装着したところで、ろくに身動きがとれなくなるなら邪魔なだけだ。ウィルの言は正しいのだ。恨むべきは、充分に訓練できる時間を与えず侵攻してきたクラウズだ。

 戦場に着々と近づいていく一行。グレイとレインは、人生で初めてとなる戦いの舞台を前に、緊張の色を隠せない。その表情は強張り、不安と恐怖で全身の産毛を逆立てている。

 そんな二人を他所にクルスらエクゥスアヴィスは平原を駆け抜けていき、ついに軍団の最後尾から30メートルほど手前の位置で停止した。周囲には、グレイたちがウィルに助けられた時に見かけたような、成熟したエクゥスアヴィスの群れが並立していた。

 ウィルはエクゥスアヴィスの背から降りると、その頭を撫で、手近なところより羽を1枚、半ば無慈悲に思えるほど躊躇なく引き抜いた。


「こうやって自分とエクゥスアヴィスに、無事に生還を果たすと誓うんだ。お守りのようなものだな。さあ、二人とも羽を抜くんだ。先に頭を撫でるのを忘れるな。怒ってどこかへ行ってしまう」


 グレイはウィルの言葉に驚愕し、数秒ほど硬直した後、恐る恐る手を伸べた。こんな、自身と変わらないほどの体躯の生き物を触るのは、これが初めてだった。レインの様子が気になって隣を見ると、彼女は満面の笑みを浮かべてエイラのくちばしをくすぐっていた。


「あ、ここが痒かったの? そっかそっか~」


 何やら意思の疎通も出来るようだった。こういった大型生物との接触は男性こそ得意であるものだ、という主観的な潜在意識の思い込みもあって、グレイは一人の男児として居た堪れなくなり、すっとクルスの、人間で言う頬の辺りを擦った。羽毛が掌に満遍なく触れ、何だかくすぐったい。


「ほら、もたもたするな。もう戦闘は始まってる。早く合流しないと」


 一つ手間暇を付け加えた本人が言うことではないだろうと、グレイはウィルの言葉に含まれた理不尽に顔をしかめたが、従う他にないことは重々承知していたので、未だエイラとじゃれ合うレインの肩を二度軽く叩き彼に着いていった。

 ウィルは立派な大人のエクゥスアヴィスに乗り、何かしらの模様が刺繍ししゅうされた旗を掲げている、いかにも偉そうな兵士の前で立ち止まった。


「ウィル・ミン・ヴォルンテス軍曹であります。先の伝達にあった新たな救世主様の一行を連れ、加勢に参りました」


 険しい表情で兵士の密集する戦場を凝視していた彼は、ウィルたちの存在を認めると、『うむ』と応じて脇の部下に何かを耳打ちした後、上体を三人に向けた。


「では早速、君たち三名には最前線に参入し、部隊の先陣を切ってもらいたい」


 グレイは兵士の言に、ええ? と声を裏返した。すぐさま、話が勝手に流れていかないよう挙手し、意見を述べる許可を求める。兵士は『何かね』と言って、彼の発言を認めた。


「俺たち、まだ戦いなんてしたことなくて――精々、能力の発現のために手合わせしたくらいで、実戦経験は皆無です。そんな俺たちが、敵の真っ向に配されるんですか?」

「一度は、演習形式といえ、戦闘を行ったんだろう? それで充分だ。それに、君たちに支給されたキュアドリンクで、戦闘経験の不足はカバーできる。いわば、キュアドリンクの本数分までは死ねるのと同義だからな――即死でない限りは。正面から戦うことになるから、いくら混戦していても、能力を開花させているなら、簡単には死なないだろう。ましてや、対人戦ではなく、敵はクラウズだからな。武器を持っただけの知能の低い野獣共に遅れを取ることはない。仮に能力が不充分でも、そのフォローのためにウィル軍曹が君たちに追従する。心配は無用だ」


 でも、とグレイが尚も発言しようとすると、ウィルは振り返って、何も言わずに頷いてみせた。何とも頼もし物腰である。すると、グレイの肩をレインがぽんと叩き、『大丈夫だよ!』と快活に励ました。


「たしかに初心者だけど、素人ではないもん、私たち!」


 彼女は、うんうん、と。我ながら良いことを言った、とでも思っていそうな表情で、自信満々な表情で言った。表面的には、その言葉の意味は理解しかねたが、それでもグレイは、レインの言わんとしていることを感覚で汲み取り、『お、おう』と応えた。

 駆け出しではなく見習い、みたいな。

 そんな微妙なニュアンスの違いではあるが、確実に自分たちは、戦闘を行うには程遠い部類の人間ではない、と。レインは、そういったことを言いたかったのだ。

 グレイは、そう受け取ることにした。


「レインは魔法後衛要員だから、前線じゃなく塔からの牽制が主な役割だぞ」


 しかしウィルの一言で、一連のやり取りの全てが、何の意味もないものになってしまった。レインはバツが悪そうに苦笑すると、


「そ、それでも頑張るから……」


 と弱々しく言うのだった。


「行こう。ぐずぐすしていたら、無駄な戦死者を出すことになるかもしれない」


 その戦死者の一人として、俺の名前が連なるかもしれないけどな。

 そんな捨て台詞を、グレイはレインのこともある手前、口には出さず頭の中で吐いた。なかなかどうして、こういう台詞は、漫画やアニメなんかでは格好よく見えるものだが、いざ現実で言ってみるとなると、見ていられないものだ。リアルとフィクションの、どうにもならない境界を、グレイはその事実から感じた。

 そう、これは紛れもなくリアルだ。いくら世界の隔たりを越えようと。既知の理屈を超えようと。戦って、下手をすれば容易く死ぬ。そんなシビアな現実。そこに自分は生きている。

 生死の境界を、生き抜いている。


「ニア!」


 一声、レインは左手に優雅な曲線を描く色鮮やかな弓を持っていた。グレイが振り向く頃には、彼女は近くの塔へ向かっていた。

 グレイは思い直した。

 生きているのは『自分たち』だ。自分の周りには、これだけの人がいて。自分の隣には、こんなにちかしい人がいて。そんな人たちと、今この時を、グレイは生きていた。


「ヤーグ!」


 グレイは叫び、右手に灰色の剣を握った。


「グレイ!」


 梯子を登る途中のレインが、心配そうな表情でグレイを見つめていた。グレイは振り返ると、そんな彼女に親指を立ててみせた。出来れば彼女には悲しい顔をしてほしくなかったのだ。


「大丈夫だよね?」

「まあ、多分。ウィルもいるし」

「絶対だよ? 私、見てるからね! 危なくなったら、無理しないでね! 引き際も肝心なんだからね!」

「分かったって……約束するよ」


 グレイはウィルに頷いて準備が出来たことを告げ、彼に続いて戦場の直中ただなかへと舞い込んだ。


~2~


 兵士たちの雄叫びと獣の咆哮、多種多様な魔法の飛び交う音以外、グレイには何も聞こえなかった。同じ兵装の戦士の集団を掻き分け、二人は最前線へと向かう。グレイは度々ヤーグを取り落としては、瞬時に手元に出現させ取り戻すのだった。

 そうして、初めて戦場を目の当たりにした彼の眼前に、紅い楕円形の穴が見えてきた。その穴は大きく開かれており、まるでその空間を抉っているようだ。辺りを見れば平原の景色はのどかなものだが、赤黒い穴はその向こう側に広がる、こことは全く異なる場所を露見させている。そこからは、紅い霧のようなものが漂い、周囲一帯の空をも同色に染めつつあった。


「あれがポルタだ」


 ウィルに言われるまでもなく (兵士たちに負けじと、声を張り上げて) 、グレイは分かった。救世主に召喚されて、初めて目が覚めた時――電車内に居合わせた他の人々が、まだ生きていた時、確かにあの場所で、ポルタは開いていたのだ。赤い空は、あの時も見えていた。

 そしてポルタからは、続々と異形の怪物――クラウズが現世に侵入している。豚の顔と熊の体躯を合わせたような種がいたり、それが猛牛の顔とパンダの体躯だったりなど、外見が醜悪なのと筋肉質な体躯以外に統一性のない軍勢だった。

 ポルタより絶え間なく侵攻するクラウズを、あるいは怪鳥のようなクラウズが上空から自軍に強襲を仕掛けようとしているのを、レインを含めた後方支援部隊が迎撃するが、撃ち漏らした集団が、そのまま人間軍の先頭と衝突していく。魔法が次々と上方の飛行型クラウズへ向けて放たれているのを見て、グレイはどうやら後方支援部隊が地対空戦を優先しているらしいことが分かった。

 クラウズらの手には決まって、無骨な斧や大鎚が握られている。標的を目前に捉えた異形共は、涎を垂らして咆哮すると、一斉に駆け出すのだった。


「いくぞ!」


 ウィルの一声と同時に、グレイは前線に加勢し、交戦しているクラウズを撃退すべく走った。

 グレイは手近な一体を目標に定め、ヤーグを構えた。そのクラウズもグレイの存在に気づき、大口を開けて叫び、左右不揃いな牙を覗かせる。ブルドッグのような顔に、ボディービルダーのような体格の、巨大な斧を両手で抱えている個体だ。

 ついに、グレイの戦場では初となる戦闘が開始された。

 クラウズは本能的な動きで、グレイの脳天を狙い斧を振り下ろす。その大振りな動きを見て、グレイは行動として回避を選択した。斧は攻撃範囲が広く、一定の距離を保つべきだと考えたのだ。

 グレイが飛び退くと、先ほどまで彼が立っていた大地が、クラウズの剛腕と巨大な斧によって抉られた。

 斧は大地に深々と突き刺さっている。グレイは好機を逃すまいとヤーグを振り上げた。しかし、クラウズは怪力を以て斧を容易く大地より引き抜き、即座にグレイへの攻撃を続行した。

 丁度、グレイの振り下ろしたヤーグが斧と激突し、クラウズの圧倒的な腕力に押し負けた彼は吹っ飛んだ。

 その凄まじい力に、グレイは唖然とした。加えて、クラウズの動きは本能的で、ウィルと手合わせした時に感じた『動作の予兆』が全くない。奴らには『戦法』という概念がないように思われた。

 クラウズは後方で横たわるグレイに、斧を軽々と、狂ったように振り回しながら接近してくる。グレイは先ほどのクラウズとの交戦で痺れた右腕を奮い起たせ、立ち上がった。

 力比べでは勝機が薄い。だが当のクラウズは本能の赴くままに武器を振るう。ならば、冷静さを欠いていなければ、たとえ次の行動が予測できなくとも対処できる。奴らは動作の一つ一つが過剰だからだ。

 グレイは猪突猛進の言葉が似合うクラウズを真っ向から迎え撃つ気構えだった。クラウズは相変わらず斧を無闇やたらに振りかざし、咆哮をあげて迫ってくる。ヤーグによる攻撃を最小の動作で繰り出せるよう、グレイは態勢を整えた。

 クラウズはグレイに斧が届く範囲に差し掛かると、涎を撒き散らし、鈍重なそれを薙いだ。やはり腕力もあって、その速度もグレイの予想を上回る。しかし、グレイはあくまで冷静沈着だった。これも、救世主に授かりし恩恵の一端――なのだろうか。

 グレイは上体を屈ませて攻撃を避けると、俊敏な動きでクラウズの懐に潜り込み、その左胸をヤーグで一思いに突き刺した。クラウズという種の心臓がある場所が人間と同じ保証は皆無だったが、それでもどうやらそこは人間同様クラウズにとっても急所だったらしく、怪物は醜い断末魔をあげて倒れた。

 グレイは額の汗を拭った。すると、クラウズの亡骸が独りでに分解され始め、その形態は歪んでいった。波紋のように不安定になるクラウズの肉体は、やがて赤い煙のようになって空気に溶けた。今しがた、かつてクラウズだったものに突き刺したばかりのヤーグが、ぽとんと地面に転がった。

 グレイは戦禍の中心で立ち尽くした。まさに雲散霧消という表現が正しい、しかし生命の死としてはあまりに呆気ない……もっと突き詰めて言えば味気ない最期。生物の生涯の終端として、果たして相応しい消滅なのか、グレイは疑問を抱いた。何せ、姿形も遺っていないのだ。生きた形跡が、証拠が、たった今、目前で塵となっていったのだ。

 だがグレイは、それに関しては疑問を、あるいは興味を抱くに留まり、クラウズという一つの命を殺めたことについては、罪悪感の類いは微塵も覚えなかった。その事実さえも、彼は気づいていない。

 彼は、ただ当たり前のようにクラウズと戦い、そして殺してみせた。生き残った実感と殺生への悔いとは、彼の心中に両立し得なかったのである。

 グレイはヤーグを拾うと、次の相手を探した。しかし、ここら一帯のクラウズはどれも兵士に相手取られている。あるいは、周囲の兵士が粗方のクラウズを相手取っている。

 ならば味方に苦戦を強いているクラウズを奇襲でもしようかと、形勢が不利な様子の兵士を探し始めたグレイだったが、しかし突如、彼は後ろから何者かに左手を引っ張られてよろけた。あまりに唐突な出来事に完全に不意を突かれ、グレイは背中から倒れんばかりだった。


「何をしてるんだ!? 君みたいな少年兵が、こんな最前線にいちゃダメだろ!」


 グレイは何とか無様に転倒するのを堪えてを振り返ると、そこには自身の左手を掴んだ若い青年がいた。齢にして、およそ二十代前半といったところか。


「上官は誰だ? こんなところに君を出撃させたのは誰なんだ?」


若々しさの光る男性は、血気盛んな兵の群れの真ん中で、後方でエクゥスアヴィスに乗り戦局を見定めている兵士を探った。


「俺は救世主の代役として自ら参戦したんです。ここにいるのは、他でもない俺自身の意思です――さっき全体へ向けて、この事は伝達されたと思ったんですけれど」


 グレイは返す言葉を選びながら、男性から左手を振りほどいた。最初は何事かと訝しんだが、よくよく見ると武器を持った右手を封じない辺り、なるほど兵士としての訓練は受けたのだろう。しかし、まだ若く未熟な様子の否めない彼はおそらく、たしかに少年である自分が戦場に身を置いていることを、己が正義としては放っておけなかったのだろうなと、グレイは察した。

 その予想を裏付けるように、男性はグレイの言葉を聞くと、なんだって、と一歩身を退いたのだった。


「そうだったのか……すまない、引き止めてしまって。無粋な真似をしたな。謝るよ――しかしよくこんな幼いのに、救世主なんて大役を帯びたな。イーヴァス様の知り合いなのかい?」

「えー、まあ」


 グレイは返答に困り、そんな調子で茶を濁した。ここで『別に知り合いでもなんでもなく、むしろ今まで会ったことなんて一度もなくって、先方が人の意思なんて介入の余地もないまま勝手に召喚したんですよ』なんて言えば、それこそ彼は当惑するだろう。こんな戦場の渦中であーだこーだ議論するのは、あまりに場違いだ。というか、普通に無防備だ。大体、彼らがこうして会話をしていることそのものが、そもそも戦場において異常と言わざるを得ない。

 元の世界とは違えど、ここは紛れもなく戦場なのだから。

 今はまさに、戦争中なのだから。


「君の意思なら俺がとやかく言えることはないな。悪かった。じゃあ、あの怪物共をぶっ殺そうぜ」


 話というか戦いの腰を折った本人が、腰を折られたグレイよりも快活に、対クラウズ最前線へと躍り出ていった。なんて勝手な奴なんだ、とグレイは溜め息を吐いた。

 だがクラウズの軍勢も次の波が押し寄せてきており、先ほどまでの戦闘状況が一新されていたので、グレイは手の空いている (?) 一体を見つけると、ヤーグを振るって走り出した。クラウズも彼に気づくと、咆哮を以て応じた。

 グレイはヤーグを構えながら思索する。クラウズを手っ取り早く殺す方法――最低限の疲労、もしくは疲労がほとんど皆無の状態で勝ち抜く方法。確かにクラウズは腕力において、おそらく人間の追随を許さない。威力だけは、確実に圧倒するだろう。しかし、それ以外の点では、やはり人間側に分があるようにグレイは思った。

 先の戦いで得た経験から言うと、クラウズは一撃が強力な上に、その腕力から大振りな攻撃を、ほぼ隙なく連続して繰り出せる。ペースを掴まれれば、状況は防戦一方となることは想像に難くない。

 だが、クラウズ本体の身のこなしは、人間より遥かに劣る。あの図体に武器だ。俊敏なわけはない。一撃で仕留められるなら、敵の隙を突けるなら、こちらの勝ちである。

 グレイはクラウズが本能のままに重量感のある大剣を、しかし軽々しく振り下ろす。その軌道は直線的で、標的たるグレイの身体を縦に真っ二つにせんとしている。

 動きが直線的なら、避けるのは容易い。グレイは素早く右前方に駆け出すと、そのまま飛び上がってクラウズの首を根元から斬り裂いた。グレイの魂の権化たる剣――ヤーグの特性は『業火』。使えば使うほど、その斬れ味を増していく……先ほどの交戦で自動的に発動された秘術によって、クラウズの頭は胴体から切断された。

 グレイの戦士としての資質か、もしくは救世主が召喚の際に授けた恩恵の類いによるかは知れないが、彼は確実に、戦いにおいて進歩を見せていた。命の生き死にを左右する立場についての心境の希薄さという、内面的な部分でも。

 救世主の代わりとしての在り方を、示していた。


「うぐぁ」


 二度目の勝利の余韻に浸る間もなく、聞き慣れた声がそんな風に呻くのをグレイは聞いた。

 見ると、先ほどグレイを制止した男性が、一体のクラウズを相手に、苦戦を強いられているようだった。威勢よく最前線に舞い戻っていった勇姿は何処いずこへ、彼は剣を取り落として尻餅をつき、怯えた表情で後ずさっている。

 いや……ひょっとすると舞い戻ったのではなく、初めから最前線にはおらず、少し離れた位置での支援が役割だったのかもしれないが。先陣を切って突き進む兵がクラウズに敗れた際、タイムラグを生まずにその穴を埋めるような、補欠のような立場にあったのかもしれない。最前線で戦っていたグレイの手を後ろで掴んだのも、それで頷けはしないか。

 そんな事情など知ったことではないクラウズは、目先の獲物に唾を吐き散らしながら咆哮をあげると、両手に持ったついを振り上げた。

 男性はというと、あろうことか眼前の恐怖に竦みあがり、眼を固く閉じて身を庇う姿勢をとってしまっている。完全に無防備だ。もはや生存も抵抗もしない、逃避の姿勢である。

 グレイは自分の出せる最高速度で走り、ヤーグを構えた。空気摩擦により、その斬れ味は更に増すことだろう。味方に当たらぬよう気を配り、剣をほぼ水平に倒す。

 最速で殺せなければ、彼は死ぬだろう。あの巨大な鎚に、容赦なく叩き潰されるだろう。グレイは焦るあまり片足を挫きつつも、なお全速力を保った。

 新たな世界の適応が早くとも、戦いに慣れるのが病的に早くとも、グレイは人間である。見知った人物が目の前で死ぬのは、やはり嫌だった。というより許せなかった。知り合いを殺すクラウズを、許せそうになかった。

 彼が死んだら、彼を救えなかった自分を、許せそうになかった。許せないだろうと思った。

 グレイは今まさに振り下ろされんとしている鎚を握るクラウズの腕を断ち斬った。かなりの重さであろう武器は筋骨隆々な片腕と共に宙を舞い、その持ち主は痛みに叫んだ。グレイは間髪入れず振り抜いた腕を戻し、クラウズの胸元を斬る。金属同士の凄まじい衝突により発生した熱がヤーグの刃を格段に鋭くし、異形の分厚い胸部は、いとも容易く崩れ落ちた。その感触としては、油揚げを切り分けるようなものに近いものであった。

 グレイは呆気に取られている男性に駆け寄り、大丈夫か、と肩を揺らした。失禁などしていたら、今後の戦いに響くだろうと危惧したが、幸いそれはなかった。未熟なれど兵士は兵士。戦う決意を固めてから日も跨いでいないグレイとは、やはりその辺りの覚悟は違うのであろう。


「どこか怪我とかないですか?」


 グレイは男性の剣を拾って寄越し、先ほど挫いた足首を気にかけながら言った。痛みは顔をしかめる程度にはあり、下手をすれば戦いに影響を及ぼすかもしれなかった。


「い、いや、大丈夫だ、ありがとう。でも君が……」


 そんなグレイの状況を察したのか、男性は申し訳なさそうに彼の脚部を見つめた。グレイはにこっと笑ってみせ、僕は平気です、と言ってみせた。


「これもありますし」


 思い出して、グレイはポケットから液体の入った小瓶を取り出した。出撃の直前に准尉から手渡された回復魔法薬――キュアドリンクだ。


「これ、飲むんですか? それともかけるんですか?」

「あ、えーっと……うん、この場合はかけた方がいいね。キュアドリンクは外傷や局部的な怪我ならかけて、内出血や骨折、あるいは疲労や眠気なんかの内面的な異常なら飲むという方法になるんだよ」


 グレイが率直な疑問を投げかけると、男性は朗らかに答えた。戦場で、それも最前線で、なんともまあ悠長なものである。納得しつつ、そこのところの戦争事情を思って辺りを見回すと、自軍がクラウズの軍勢をポルタへと押し戻しており、今二人がいる場所は、既に最前線ではなくなっていた。


『各隊に告ぐ。間もなくポルタの開門刻限が過ぎる。直にポルタは閉門し始めるだろう。もう少しだけ持ちこたえてくれ。クラウズを押し返すんだ!』


 脳内に伝達される指令を聞きながら、グレイは言われた通りにキュアドリンクを患部にかける。すると、痛みや腫れがたちまち引いていくのが分かった。素晴らしい効力だ。元の世界に持ち帰ったら大騒ぎになるだろう。しかし、同時に今のところ帰還する手立てがないことを思い出し、グレイは落胆した。


「本当に、助かったよ。なんてお礼を言えばいいか……年下に守られるなんて、情けない話だよな」

「いえ、そんなことは……」

「――俺、戦場は二度目なんだよ。数日前、外れの方の森に出撃したのが最初だったんだ。最近、身元不明の人々が百人くらい殺されたって森さ」


 男性は落ち込んだ様子で切り出した。


「世のため人のため、この命はクラウズを駆逐することに使うって決めて軍に志願したんだけど……どうも俺は実戦には向いてないらしい。荒事は苦手らしい――民衆を守る兵士にはなり得ないらしい」


 グレイは男性にかける言葉を探した。こんな戦場のど真ん中で悲観的になるのはやめてもらいたかったが、しかし初めてではないにしろ、戦いを前に弱腰になり、逃げ腰になり、へっぴり腰になってしまう気持ちが、グレイは分からないわけではなかった。同時に自覚していた。そんな心情を、少なくともこの場で一番理解しなくてはいけないのは、理解したままでいなくてはならないのは、他でもない自分だということを。


「誰だって恐いですよ。戦うのも、殺すのも、死ぬのも。誰だって、生き延びたいと思うものですよ」


 グレイは言っておいて、全く説得力のない台詞だな、と自虐的に笑った。先ほど救世主としての使命を帯びたばかりで、これまでの人生で一度も戦場に立ったことすらなかったにも関わらず、戦いを恐れず、殺しに臆せず、死に怯えない自分の言葉では、到底ないように思えたのだ。

 こんな、半ば人間めいた心情の欠落した今の自分が、目の前の男性を励ますなど、およそお門違いというものだ。

 だがしかし、グレイは彼を放っておけなかった。見放しておけなかった。やはり、知人には生きていてほしい。まだ人としての心を十全に持ち合わせている彼には、この先も生き抜いてほしかったのだった。


「だから――生き残りたいから逃げたい、という感情の移り変わりは、別に臆病だとか弱虫だとか、そういう類いの話ではないんですよ、きっと。あなたの今の心境は多分、異常なまでに正常なんです。そもそも、こんな戦場で平静を保っていられる人間に、俺はなりたくないです。狂った正気を、保ちたくはないです」


 たとえそれが、世のため人のためでも。

 どうしても人は、生きたがる。故に心は死を恐れる。戦いを避ける。それでも、殺しが根絶することはない。この因果が絶たれるのは、業が断ち切られるのは、まだ当分先の話ではありそうだが、それはともかく。

 男性はグレイの言葉に首を振って応じ、今しがた返された剣を支えに立ち上がって、尚も激戦の続くポルタの大口の目先に敷かれた最前線を見据えた。


「いいや……俺は逃げはしないよ。もし恐れることが人ならば、臆することが人ならば、怯えることが人ならば、俺は人間じゃなくていい。人を守れるなら、人でなくなってもいい。俺はもう、とっくにそう誓ってるんだ。たとえ、いつか俺がこの手で奪った命について責任を問われる日が来ても、それで守れた命があるなら、俺はきっと悔いはしないと思うんだ」


 男性の瞳には、その決意の程が凛と表れている。グレイは彼の眼光に強い信念を感じ、それ以上は何も言わなかった。


「ポルタが閉まり始めたぞ!」


 誰かが大声で言った。見ると、赤々とした空間の裂け目は徐々に収縮していき、そこから漂う空を覆わんばかりの霧もポルタの向こう側へと引き返している。

 男性は『よし』と己を奮い立たせると、同じくらいの背丈のグレイを見て言った。


「ありがとう。もう弱音は吐かないよ。生きるために戦う、それが兵士だ。ああは言ってたけど、君もここで退くわけじゃないんだろ、救世主様?」


 ニヤリと笑ってみせた男性を見て、グレイは頷いた。そうだ。自分こそ悲観している場合ではない。かつての日常を失った自分を、嘆く暇はない。何があろうと、この局面を越えなければ、生きたい明日も生きられない。

 もちろんですよ、と。グレイは言ってのけたのだった。


「当たり前じゃないですか。じゃ、行きましょう」


 グレイはヤーグを携え、キュアドリンクによって完治した脚で、最前線へと舞い戻った。兵でごった返す中を駆けるその脚に、迷いはなかった。

 一体のクラウズを標的に定め、対峙する――と言っても、クラウズはグレイを視認した瞬間、赤い布を眼前で翻されている猛牛の如く、本能的に直線的に突撃してきたので、対峙している期間は一瞬にも満たなかったが。

 野獣も顔負けの咆哮が轟き、クラウズは巨大な剣を片手で軽々と薙いだ。自分の腕力がその攻撃を受け止めきれる自信のないグレイは、地面に這いつくばるようにしてかわす。凄まじい勢いの風が、彼の頭上を通過した。

 グレイはクラウズの両足の間に剣を滑り込ませ、胴体を下から両断した。クラウズは股間からつむじまで、その身体を一閃されたのである。この光景を人に置き換えたなら、きっと無惨極まりないだろう。しかし、やはりグレイに抵抗はほとんどなかった。命を奪うことに、抵抗を見せなかった。


「ぜやぁ!」


 グレイはそんな一声を聞いて振り返ると、男性が今まさに一体のクラウズを撃退している様を目撃した。男性は自らが斬り伏せたクラウズの遺骸が、グレイの時と同じように粒子状になって消えていくのを見ると、その手に握る剣に視線を移した。ここが最前線であるにも関わらず、ただ呆然と立ち尽くしている。

 グレイが見かねて歩み寄ると、男性はか細い声を、全身と共に震わせながら呟いているのが分かった。異変を感じて駆けると、その声音が何を言っているのかが聞こえた。


「嫌だ……」


 それが戦いに対する拒絶反応だということは、殺生に対する拒否反応だということは、グレイにとって理解するまでもないことだった。

 あくまでクラウズへの情、ではなく、命を殺めた自分への畏怖。

 人でなくなってもいい――そう豪語した彼は、しかしながらやはり人であった。恐れることが人であり、臆することが人であり、怯えることが人であり、そして彼はどうしようもないほど人間だったのだ。

 今しがた自身が振るった刃を見つめる男性の前方から、ポルタの向こう側へ後退していく群れを掻き分けて、一体のクラウズが狂った叫び声をあげながら迫ってきた。グレイはそれを察知し、だがとても咄嗟の自衛すら出来そうにない男性を認めると、走り出した脚を速め、ヤーグを堅く握り直した。

 間一髪でクラウズの一撃を受け止めたグレイだが、やはり異形の腕力は人間のそれとは桁外れに強く、防ぐのがやっとで押し返すことは困難に思われた。グレイが後ろで茫然自失としている男性を気にかける一方、クラウズはヤーグごとグレイの身体を叩き割らんと、武器に体重をかけ続けている。


「ちょっと!」


 グレイはクラウズの重い攻撃を受けながら、奥歯を噛みしめて言った。いつ自分の限界が来るかも分からない状況下で、男性が身動きが取れないのは危険極まりない。なんとしても彼には我に返ってもらう必要があった。

 幸い男性はグレイの一声に気づいたらしく、短く呼吸をすると、眼前に掲げていた剣を腰の辺りで構えた。彼はグレイの危機を目の当たりにし、ヤーグを真っ二つにせんとするクラウズの武器を脇に叩き落とした。グレイは自由になった両手で、業火の発動したヤーグを振るった。クラウズは胴体を綺麗に斬り裂かれ、他の個体と同様に消滅した。

 無理な態勢からの反撃により、グレイは腰を捻ってしまった。別段、戦いに支障をきたすほどの影響はないが、ほんの一瞬、動きに隙が生じてしまう。周囲のクラウズはほとんど誰かが相手取っており、現時点において危険はないように思われ、グレイ自身も、腰の痛み、それも一瞬の微々たる痛みを気にすることはないと判断した。

 しかし。何事の心配もないかに見えた刹那――グレイは誰かに弾き飛ばされ、仰向けに倒れた。突然の衝撃で反射的に閉じた眼を開けると、そこにはつい今まで自分が立っていた、まさにその場所で、一矢に胸を射抜かれている男性の姿が映った。男性は成す術なく地面に臥

せった。

 あまりに唐突な出来事に、グレイは唖然とする。彼に刺さった矢の軌跡を辿ると、その直線上では、背丈が他の個体の倍はあろう体躯のクラウズが、最前線より離れた後方、今や小さくなり完全に閉まりつつあるポルタの付近で、弓の弦を絞っていた。奴が、彼を射たのだ。

 グレイは今の今まで、どこかでこの戦いにほぼ揺るぎない勝機を見ていた。クラウズには知恵がない。その武器も近接戦闘用のもののみで、魔法などを使い遠距離からの攻撃にも対応できる人間側に軍配が挙がると確信している節があった。だがグレイの脳裏に、その考えを否定する記憶が――己の過去が、蘇った。

 電車の中で異変に遭遇し、巻き込まれた日――救世主に召喚された、あの日。レインと共に、命懸けでクラウズの追っ手から森の中を逃げ回った、あの時。二人で駆け抜ける逃走経路を阻んだのは、飛び交う矢の雨だった。

 そう、クラウズは弓も扱うのだった。

 男性は、あのクラウズがグレイを仕留めんと狙いを定めていたのを察知し、身を挺して彼を庇ったのだ。その事実を前に、グレイの頭の中は、真っ白になる。

 クラウズは、今度こそグレイを射殺さんと、矢をつがえ弦を引く。回避できない。グレイは死を覚悟した。

 ところが、グレイの頭上を燃え盛る火球が高速で通過し、直後、クラウズの放った矢に着弾し、その細い柄を焼き払った。

 思わぬ助け船を出されたグレイは、そのまま男性の元へ駆け寄る。彼の身体からは血の気が失せ、息も絶え絶えだ。眼が辛うじてグレイの姿を追うだけで、あとは一切の身動きも見せない。胸に深々と突き刺さった矢の傷口からは、溢れるほどの血液が漏れ出ている。


「ああ、そんな……」


 グレイは狼狽えながらも男性の傷の処置を決意し、数秒迷った末、胸の矢は抜かずに放置しておくことにした。医学知識のない自分が下手なことをすれば、返って悪化させてしまうかもしれない。傷は心臓に近いので、矢を抜いた途端、大量に出血してしまうことも考えられるだろう。

 次にグレイはポケットをひっくり返し、持っている回復薬の全てを取り出した。残るキュアドリンクは二本。グレイは一本の栓を開けると、傷口に中身の液体を振りかけた。同時に男性は痛烈な悲鳴をあげる。傷口に沁みて凄まじい痛みに襲われているのだろう。だが傷が塞がることはなく、回復効果は見られない。


「そんな……なんでだよ!」


 動揺して震える手が、最後のキュアドリンクの栓を取り払う。今度は男性の頭を上げ、液体を飲ませる方法を採った。小瓶を男性の口に持っていき、そのまま喉に流し込む。しかし、身体が拒絶したのか、単にむせただけなのか、彼は液体の全てを吐き出してしまった。

 なんということだ。もう回復の手段はない。このまま男性が死ぬのを、黙って見ているしかないのか。グレイは頬に一筋の雫が垂れるのを感じた。


「大丈夫か!?」


 グレイが情けない顔で声のした方を見上げると、周囲のクラウズを軽やかな身のこなしで一閃しながら、ウィルが駆けつけてきた。


「俺が……俺のせいで……この人が!」


 グレイが喋ることもままならないほどの動揺を見せていると、続いて後方での飛行しているクラウズの迎撃に当たっていたレインも、彼らの元に到着した。


「グレイ! 大丈夫!? 怪我はない?」


 ウィルが間髪入れず、最前線にやって来たことを彼女に咎めるが、レインは『グレイが危なかったから、心配になって来ちゃったのよ!』と言い返した。どうやら先ほどグレイを救った火球はレインの魔法のようだが、しかし有無も言わせぬ語気である。本来、グレイこそレインに叱ってみせるところだが、今の彼にはそれどころでさえなかった。


「レイン、頼む! キュアドリンクをくれ! この人が! 俺のせいでこの人が!」


 レインは戸惑いつつ三本の回復薬を取り出す。グレイはそれを半ば引ったくるように受け取ると、全ての栓に手をかけた。


「グレイ、よせ!」


 すると、ウィルはグレイを制止した。その声を聞こうともせず、グレイは栓を抜き去る。見かねたウィルは、彼から強引にキュアドリンクを奪い取った。


「やめるんだ!」

「なにすんだよ! 早くしないとこの人が!」

「彼はもう死んでる!」


 ウィルの言葉に、グレイは胸の中心に穴が空いたような、空虚な感触を覚えた。驚愕とも、衝撃とも言えない心境で視線を下ろすと、男性は半開きの眼に涙を浮かべていた。呼吸はしていない。その眼は何も見てはいなかった。グレイは男性の存命を信じ、心臓の鼓動や手首の脈を確認するが、やはり彼は生きてはいないようだった。


「そんな――嘘だ」


 クラウズを殺すのとは、比べ物にならない喪失感を、自責の念をグレイは覚えた。自分が殺したも同然だと思った。己の不注意が、慢心が招いた犠牲であるとした。クラウズを殺しても何も感じなかったはずの自分が、間接的に一人の人物を殺めてしまった現実に直面して、グレイはまだ自身が人間であることを証明したのだった。

 悲しい。悔しい。虚しい。何より、彼を救えなかった自分が憎い。みっともない。これで救世主を名乗るなど、不相応も甚だしい。


『ポルタの閉門を確認! 繰り返す! ポルタの閉門を確認!』


 自軍の勝利を告げる通達が、全ての兵の耳に文字通り飛び込んだ。しかし、グレイの耳に通達が行き届くことはなかった。

 グレイは男性の亡骸を前に、ただ立ち尽くしているだけだった。


~3~


 ポルタの閉門までに退却することの叶わなかったクラウズの残党が処理されると、戦死した兵士の亡骸はエクゥスアヴィスに繋がれた専用の荷台に乗せられ、生還した者たちと共に本国へ連れ帰られた。グレイの心身の疲労は激しく、帰還の道中、気を失って倒れたところを医療班やレインらが介抱し、ハオス王国に到着した直後、彼は緊急入院することとなった。

 後日――グレイは自身が眠っている数日の間に世の中で起こったことを、院内に設置された魔晶台 (元の世界で言うところのテレビ) で知ることとなる。なんでも、最近は世間で衝撃的な出来事が立て続けに起きていることに際して、一連の出来事をまとめ、一括して報道し直すという主旨の番組らしかった。

 まずはケントルムの歴々が、パラティウムの一室で会見を開いている様子が中継されている映像から始まった。現在の全世界における最高意思決定機関であるケントルムが、先日の何者かが故意に引き起こしたとされる謎の現象で、救世主が殺害されたことを全世界の人民に知らしめた事件に関して、救世主の死が事実であることを認めた。

 しかし、同時に二名の新たな救世主の出現を明言し、その内の一人であるレインを公開することで、世界規模のパニックを未然に防いだ。『一部』で憶測や議論が飛び交う事態となったらしいが、間もなく鎮圧され、社会的には実害は皆無とされている。

 そしてその日を境に、世界各地で続々と救世主を名乗る人々、あるいは救世主をかくまっているという人々が相次いでケントルムに一報した。というのも、ケントルムは世界中のパニックを防ぐため、先代の救世主より強く確かな希望を明示することを画策し、新たな救世主の出自も公開したのだ。レインやグレイの証言を、細部を着色した上で世間に伝聞させた、イーヴァスが別の世界で育成した次世代の救世主という思い切ったでっち上げは、世界全土の『別の世界からやって来た人々』を引き寄せ、問い合わせが殺到したという。

 これによりケントルムは急遽【救世主候補査定委員会】を開き、事前にレインから聴取した『別の世界』の情報を元に、名乗りをあげた者たちが本当にグレイやレインと同列の存在なのかを検証し、救世主を判別するという前例のない事態となった。

 結果、驚くべき数の救世主が登場し、世界に期待と疑念の両方を与えたのだった――。

 グレイは自身の膝の上に置かれた四枚の紙を見下ろした。それぞれレイン、ウィル、レッジ、そして何故かエモからの置き手紙だった。レインは古くからの付き合い故の親身になった文面、ウィルからは戦いにおける生死や心身の教訓諸々がつづられた叱咤激励の文面だ。レッジの手紙には戦地にいなかった者ながらも心配しているという旨が書かれており、エモはというと社交辞令めいた見舞いの言葉の後に『これから忙しくなるからよろしくね♪』と、本題と思しき意味深長な一文が記されていた。

 そんなわけで、エモの事情は知る由もないが、他の三人が一様に救世主候補査定委員会の役員に任命され、その仕事で看病できず見舞いも行けないということが、それぞれ手紙で述べられていたから、久方ぶりに目覚めたところで誰と会うこともないグレイは、暇を持て余し、心の傷を膨らまし、魔晶台を眺めているのだった。

 皆忙しくしている中、ただ寝ていただけの自分がとやかく言えることは何もないと知りつつ、グレイは一言、偏屈な老人の独り言のようにぼやくのだった。


「せめてみんなから直接聞きたかったなあ」


 新しい救世主を公表したこと。併せて世界中で救世主が――もしかしたら同じ世界から来たかもしれない人々がたくさんいること。それらを、レインたちの口から聞きたかったグレイだった。

 グレイの脳裏に、あの男性の死に顔が蘇る。もう戦いは嫌だ。誰かが死ぬのは嫌だ。自分が誰かを見殺しにしてしまうのは、嫌だ。犠牲の上に成り立つ命などいらない。救世主などではなくていい。いや、元から救世主ではなかった。人一人守れないで、何が救世主だ。そもそも、レインが救世主になると言ったから自分もなる、という決意から間違っていたのだ。レインの危うさに、引っ張られたに過ぎないのだ。端から自分は、救世主など柄ではなかった。

 にしても、いくら仕事で忙しいとはいえ、ここまで来客も訪問もないのは、ひょっとすると、自分は見限られたのかもしれない。グレイの思考は、戦いの逃避から己の卑下へと移り変わった。移行した。こんな、戦士として情緒の不安定な自分は、とても救世主にそぐわないと切り捨てられたのではないか。まあ、自分の不始末で一人の兵士を死なせてしまったのだから、仕方がないと言えば仕方ない。しかし、今となっては戦いに対して否定的な、拒絶的なグレイだが、やはり心の中ではレインたちと共に世界を救えることを誇っており、それを悪く捉えてはいなかった感があるのも否めない。現に彼自身、ウィルと手合わせし、初めてヤーグを握った頃は、存外、乗り気だったようにも思っていた。

 人の死に対する責任感と、誰にも相手にされなくなった孤独感から、半ば自暴自棄に陥りつつあるグレイは、いくらでもある時間を惜しみなく熟考することに費やし、やがて一つの結論に至った。


「誰も止めないんだし、困らないんだし、このままずっと、独りで悩んでいよう。責任を問い続けよう」


 それは現実逃避のような、今のグレイの卑屈な精神ならではの、皮肉な台詞だった。


~4~


 自堕落な様子で魔晶台を眺めているグレイに、ようやっと面会客が来訪したのは、彼が目覚めて二日後の夕暮れ時のことだった。連日に渡って報道されている救世主関連のニュースを――正確には多数の救世主登場に対して現役の軍人や、殉職した兵士の遺族がどんな感想を抱いているのか尋ねるという内容の番組を――ぼうっと見聞していた彼の耳に、扉を三度叩く音が飛び込んだ。次の瞬間には、知った顔の三名が、グレイの病室に入ってきたのである。


「具合はどうだい?」


 最初に口を開いたのはレッジだった。グレイは瞳だけで彼を見ると、小さく頷いて答えた。


「すまないな。君が意識を取り戻すまでは立ち会っているつもりだったんだが、それすら叶わなくてな」


 兜はおろか、鎧も脱ぎ去ったウィルが、申し訳なさそうな表情で言った。なかなか長身で、適度に筋肉のついた身体つきをしている。だがウィルとレッジが並び立ったことにより、レッジの方が遥かに長身であるという事実が判明した。


「ごめんね、グレイ。私もずっと心配だったんだけど、ケントルムでもごたごたしてて……」


 不機嫌な顔のグレイだったが、レインの方に視線を移すと、その態度を改めた。彼女の眼には隈ができている。瞳はかっと開いてグレイを見つめているが、どこか睡魔に苛まれているような印象を受ける。

 ひょっとすると寝ずに仕事をこなす毎日を送り、睡眠時間を削って会いに来てくれたのではないか、この三人は。そんな憶測が脳裏をよぎると、グレイは彼らへの八つ当たりめいた姿勢をやめ、ちゃんと相対そうと決めた。


「もういいって――随分と忙しかったらしいし、今までずっと眠りっぱなしだった俺の言えることは、何もないよ」


 そう言って、グレイは三人が感じているであろう負い目を解消した。懐の広さ、と言うほど大それた行動でもないけれど。そもそも、彼らの多忙を承知の上で、それでも見舞いに訪れないことに対して、たとえ若干であれ些細であれ不満を抱いた時点で、人間として小さくはあるけれど。

 グレイは三人を安心させるのだった。


「まあ、ともかく大事には至っていないようで良かった」


 レッジは脇の水晶体 (三度目の登場だ) を眺めて言った。どうやら、その水晶体は患者の状態が分かるような仕組みとなっているらしい。


「もうすぐ救世主候補査定委員会とケントルムの協同で、大規模なプロジェクトが開始される予定だ。グレイが完治したら、すぐにでも動き出す。とはいえ、何も焦ることはない。自分のペースで体調を整えてくれ。他の救世主たちにも、まだ経験が不足しているから、それまで実地訓練なども出来るしな」


 ウィルはグレイの肩を叩いた。痛々しい、生々しい顔の傷が至近距離まで迫り、威圧というか畏怖すらしそうになった彼だが、いざ間近になったところで、別段、何か思うわけでもなく、意外となんでもなかったのだった。

 しかし、グレイは感じていた。この話の流れは、自分が忌避しているそれに、だんだん近づきつつある。救世主――このワードは、今のグレイにとっては地雷であり、爆弾だった。


「そうそう! 私たちの仲間も、いっぱいいるんだよ! 世界中に、た~くさん! このままみんなで救世主すれば、すっごい心強いよ!」


 『救世主する』という謎の動詞に対するツッコミをすることなく、グレイはただ諦念を抱いた。この流れでは、回避は不可能だ。出来る限り先延ばしにしたかったイベントは、しかし当たり前と言えば当たり前だが、もう今この場で起こってしまいそうだった。グレイは心中で確固たる、だが不明瞭な決意を持っていた。


「……そのことなんだけど」


 グレイは言った。言い辛そうに。言い難そうに。けれども、それでも言った。


「俺は――救世主をやめる」


 その後の三人の表情から、グレイは彼らがこの展開を、ある程度予想していたであろうことを悟った。まあ、当然と言えば当然だ。特にレインやウィルは、その原因となった出来事に立ち会っているのだから。

 忘れもしない、忘れてはならない――グレイは目の前で、一人の兵士の死を見たのだ。それも、自分の落ち度による、不始末による、未熟さによる死。それは到底、十代の少年が耐えうる衝撃ではなかった。

 人が死ぬ……それは誰もが人生において体験する、生きる上で通過する事柄だ。避けては通れない。避けては生きられない。だが、自分がその原因――元凶となる経験は、トリガーとなる経験は、決して誰もがすることはないだろう。限られた罪人、もしくはよほどの不運に見舞われた人間にしか、体験できない、通過できない出来事だろう。

 グレイの場合は後者だが、しかし事態が起こってしまった後に残る罪悪感や後悔の念は、およそ一般人には理解し得ない、重みのある感情だ。


「なあ、グレイ。彼が死んだのは、いわば彼の責任だ。戦場に身を置く者は皆、自分の命に責任を持っている。誰かのせいには決してしない。誰かが死ぬことで、別の誰かが足を止めることになるのは、死んだ者にとっては遺憾を残すことになる」


 この場の誰よりも戦場を、死を理解するウィルの言葉だった。が、グレイの心には届かない。深奥には響かない。グレイは今や、腑抜けも同然だった。


「記録を見た。彼は本来、前線にいるべきではなかった。これは彼の上司の監督不行き届きによる殉職。君が悪いところは何もない」

「違う……俺があの人を焚きつけたんだ。俺が変なこと言って、あの人の思想を後押ししたんだ」

「だからと言って、君が彼を引きずっていったわけじゃない。そうだろ? 彼は自らの意思で前線へ赴き、そして死んだ。君が気に病むことなどないんだ。それは彼にとっても不本意だろう」

「だけど、俺がなんの罰もなしに生きていくなんて、そんなのまかり通っちゃダメだ。俺があの人の死に一役買ったことは間違いない。その責任を取らなきゃ俺は――」


 すると、グレイは自身の視界が揺らぎ、身体が持ち上げられるのを感じた。言い終わらない内に、ウィルが彼の胸ぐらを掴んだのだ。ウィルは自らが死線を潜り抜けた兵士であることを裏付けるように、恐ろしい形相でグレイを睨み、片手で彼の全体重を支える。レインの小さな悲鳴に、レッジはやれやれといった仕草をして、安心させるように彼女の頭をぽんと叩くのだった。グレイはというと、あまりに唐突な出来事に思考が働かず、たた呻くことしか出来なかった。


「じゃあお前は『彼が死んだのはお前のせいだ』とでも言われたいのかよ?」


 ドスの効いた声音がグレイに訊ねた。グレイは恐怖と、図星を指されたような心境も相まって、何も答えられない。そんな彼に構わずウィルは続ける。


「責められて納得するのかよ……ただ逃げたいだけだろ! 救世主という大役から! 世界の存亡を担う重責から! ただ逃げたいだけだろうが! 死人を盾にしてんじゃねえ!」

「…………」


 グレイは何も言い返せない。ウィルの言っていることが的を射ているからだ。的中しているからだ。

 そう。グレイは逃げたかった。戦場から。死線から。自己防衛本能の命じるままに、危険を回避したかっただけなのだ。彼らが訪問した当初、救世主という単語を頑なに忌避し続けたのと、同じように。学校で委員長を決める時の生徒よろしく、嫌なことから目を背けたかったのだ。


「戦いに死がつきまとうから恐くなったんだろ。救世主は期待を受けるから怖じ気づいたんだろ。けどな、そんな自分勝手な逃避行を許してもらえるほど現実は甘くねえ! お前の意思を尊重すると、聖王様はああ言ったけどな、お前はそれでも、救世主としての使命を全うすると、あの場で誓ったんだろ! それを易々と自分で覆すんじゃねえ! たとえ今日、救世主をやめたいと思っているとしても、あの時あの場所では確かに、お前は救世主になることに肯定的だったはずだろ! 自分が救世主をやってもいいと思えるだけの理由が、そこにはあったんだろうが!」

「――だって……」


 ようやく、グレイは口を開いた。口を開いて、そして胸ぐらを掴まれ自由の利かない首を捻って、ベッドの正面に設置された魔晶台に視線を移す。ウィルをはじめ、後ろで事の成り行きを見守る二人も、グレイの視線を追った。つけっぱなしの魔晶台が、未だに救世主関連の報道を流していた。そこには、救世主登場に対して意見を述べる、死んだ兵士の遺族が映されていた。先ほどから繰り返し流されている映像の一つである。


『私の息子は、二人の新しい救世主様の初任務で行われた戦いに参加していました。なのに……私の息子は死にました。危険の少ない場所での援護が担当だからと、心配はいらないって言ってたのに――救世主様がいるのに、なんで息子は死ななければならなかったんですか!?』


 母親と思しき年配の女性は、ペンダントを握りしめて叫んだ。そのペンダントの装飾の表面には写真が入っており、彼女ら家族と思われる四人が映っている。数年前の写真だろうか、今まさに泣き叫んでいる女性の若き日の姿と、その隣には同年代の男性、女性は赤ん坊を抱いており、父親が肩車をしているのは――グレイの目の前で死んだ若者の、少年の頃の姿だった。


「俺がこの悲しみを生んだんだ。俺が救世主になっても、変わらず誰かが犠牲になるんだ……人一人守れないで、なにが救世主だよ!」

「だったら今度こそ守ってみせろよ!」


 グレイは瞳に涙を浮かべて、ウィルと対峙した。もはや両者とも言葉はなかった。ただひたすら互いの意地を押しつけ合っているような、そんな膠着こうちゃく状態に陥った。その様子を、レインとレッジは、息を潜めて、あるいは息を呑んで見届ける他にない。

 やがてウィルはグレイをベッドに突き飛ばし、長い沈黙を破った。


「救世主によって構成される特殊部隊の本拠地を建設する――信じるぞ」


 そう言い残して、ウィルは病室から去った。窓から射し込む夕陽の光がないことを、グレイは今になって気がついた。

 打ちのめされたような感覚にとらわれ、グレイは放心して虚空を見つめる。自分にとって、本当は男性の死など関係ないのかもしれない。きっと間近に死を見なくとも、決して少なくない死者の数を聞いたところで、結局はこのような事態となっていたのかもしれない。結果は、変わらなかったのかもしれない。

 それは裏を返せば、実のところ自分が臆病者であることの証明になり得ると、グレイは思い至った。クラウズを殺してなんともなくとも、武器を握って平然としていても、根底にある性根は、果たして変わらないままなのだと、そう思い知らされたというのが、今回の出来事の真相なのかもしれなかった。


「ウィルは不器用だから、ああいう言い方しか出来なかったんだろうけどさ、言いたいことは分かってやってくれないか」


 レッジは魔晶台の電源を切り、グレイの肩に手を置いた。


「死者のことも大事だけど、もっと忘れてはならないこともあるだろう、ってことさ」


 とにかく無事で良かったよ、と言うと、レッジはレインにも別れの言葉を述べ、続いて病室から出ていった。

 残されたのはグレイを除けばレインのみとなった。しばらく沈黙が続いた後、レインは話の切り出し方を模索するように『あのー』やら『えーっと』やら、呟き始めたのだった。


「他の救世主の人たちに聞いたんだけど、この世界の人たちって、救世主のことを神聖視してるのと同時に、憧れてるっていうのもあるらしいんだよ」


 己の行く末を案じて、というより、己のこれまでを見つめ直して思考を巡らせているグレイには、その言葉は半分ほどしか耳に入らなかった。しかし、レインはそれに勘づいても尚、『つまりね』と、話を続けるのだった。


「自分こそ救世主になりたいって思ってる人はね、決して少なくないんだって。だから私、思ったの……人がやりたいことを自分がやってるって、意外と分からないけど、よくよく考えればそれは恵まれてるし、羨ましがられることなんだよね」


 だから、と。半ば右から左へ聞き流しているような感の拭えないグレイの生返事にもめげず、言った。


「他の人には出来ないことが出来て、にも関わらずしないって、それは他の人からすれば、裏切りに等しいと思うんだ」


 守りたくても守れない人の代わりに、私たちが守らなきゃいけないものが、きっとあると思うんだ――そんなレインの言葉で、グレイは思い出した。

 元々、最初に救世主になると言ってのけたレインの身を案じて、グレイもまた救世主となったのだ。言ってしまえば、彼女を守りたいから、自分は救世主となったのだ。

 三人の言葉が、脳裏で反復される。救世主になる理由が確かに存在したこと、死者のことで立ち止まるより忘れてはならないことがあること、守りたいものがあっても守れない人たちがいること――グレイの救世主となる動機にしては、彼の決意を後押しするには、充分すぎるだろう。

 ただ、やはり男性の死に顔が頭から離れない。罪悪感と後悔が、自身の不甲斐なさが払拭されない。

 やはり恐いのだ。また自分が人を殺してしまうのではないか。人が死ぬのを、止められないのではないか。人を、守ることが出来ないのではないだろうか……そんな、不安が。恐怖が。彼の足を、進む足を、引き止める。自分で自分を、思い留まらせる。


「だからこそ守ろうよ」


 まずは守りたいものを守ろうよ。レインはグレイの胸中を見抜いたように、そう言った。


「不特定多数の、ましてや世界中の人たちを守るとかは、その後でもいいじゃない。結果的に世界を守ることになるなら、まずは目先の大切な人からだよ……私も、頑張るから。一緒にいるから、だから――守っていこうよ」


 今度こそ。救世主として。レインはそう締め括って、あとは何も言わずに、グレイの傍に居続けた。暗くなっても、夜になっても、見舞い客用の椅子に腰かけ、ただグレイの苦悩に、苦闘に付き合った。そして、これからも付き合っていくのだろう。


「……ありがとう」


 わがままに付き合ってくれた少女は、悩める少年に優しく微笑む。こうしてグレイは再び、今度こそ救世主として戦う決意を固めたのだった。


「守ってみせるよ――必ず」


 グレイには守りたいものがあった。守りたい人。およそ他の人では守れないか、あるいは守るまでもないような、そんな人。かつて、ケントルムの偉方の面前で救世主になると誓った時も、たしかその守りたい人のためだったような気がする。結論は既に出ていた。だが、そこに至るまでの経緯を、今更ながら復習しようというのが、もしかすると今回の件の真相だったのかもしれない。

 いや違う。グレイは確信していた。この出来事は、自分が救世主になるためのものだった。犠牲を知って、己の無力を嘆いて、そのどちらも叶わない人たちに代わり、世界を守る。そんな大役に、重責に見合う人間になるというのが、グレイの課題だったのだ。

 思えば、レインもまた、既に覚悟が出来ていたとはいえ、戦場に辿り着くまでは迷っていた。悩んでいた。自分を疑い、使命を疑い、世界を疑っていた。そんな彼女を励ました自分がこの様なのだから、今にしてみれば滑稽だ。

 辛くなったら頼っていい、なんて格好のよさそうなことも、たしか言った気がする。こんな奴には頼りたくはないだろうに。グレイは自虐的に笑った。ところがレインは、その笑顔を彼の心の余裕が生んだものと捉えたのか、それに応えて自らも笑うのだった。

 まあ別にそれでもいいや、と。グレイは思った。いいじゃないか。心に余裕を持たせよう。自分に自信を持たせよう。笑える時に笑っておこう。少なくとも、今――彼女がいれば、笑っていられる。

 死者を……都合の悪いことを忘れて前に進むとか、後ろを振り返らず前進し続けるとか、そういう話ではない。くよくよして。うだうだ言って。ぶるぶる震えて。そしてゆっくり歩いていこうという、そういう話だ。止まらなければ、いくら遅くてもいい。なんなら匍匐ほふくしても構わない。恐れて。臆して。怯えて。そうして歩き続ける人間の在り方を踏まえて、それでも普通の人間には出来ない救世主の使命を果たしていくという決意を、グレイは改めて――否、新たに固めるのだった。

 救世主の代わりとなった者たちは、こうして本物の救世主をすることとなったのであった。

 グレイは呟く。もう一度。レインには聞こえないような微かな声で。

 必ず。守ってみせるよ。

 君を。

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