七節:扉

 土の濡れた匂いが辺りに漂う。雑音など聞こえるはずのない石柱だけの薄暗い空間に、その日は水玉の弾ける音が絶え間なく鳴り響いていた。

 足元では削られて造られた石床がさらに奥へと潜り込もうとする水流の多く拒み、つまはじきにされた泥水達は互いに慰め合うように集まると、今度は外へと向かい通路を駆け抜けていた。

――ふと、ジュニアが足を止め、顔を上げる。

 視線の先――大きくくり貫かれた円形の天井からは無数の霧雨が舞い散り、それに紛れるようにして落ちる大粒の水玉は、激しい音と共に地面へと叩きつけられていた。

 まるで魂でも抜き取られたかのようにその光景に見とれる中、突然、瞼を強くハッと張ると、今度は一人慌てた様子で辺りを見渡し始めた。

 柱の影に消えるザックを見つけるや否や足早とそれを追いかける。

 パタパタと後ろから聞こえてくる靴音に、作業着姿の麻祁とハリーは意識する様子など見せず、ただ前へと足を進めていた。

 幾重にも立ち並ぶ柱を縫うように避け、人の気を惹かせようと足下で絡み付く水流を蹴りあげ、三人は奥の暗闇へと潜り込んでいく。

 ハリーが立ち止まり、顔を僅かに下げた後、右手に握っていた懐中電灯のスイッチを入れた。

 暗闇から晴れて現れたのは肩狭くも息苦しい、下へと伸びる石階段の道だった。

 ハリーを先頭に、次は麻祁、そして懐中電灯に添えてある右の親指を見つめ――動かしたジュニアが最後尾として続いた。

 昨日とは違い、陰湿でくぐもったような空気が辺りに漂い、耳には常に小川が流れるような水音が届く。

 ジュニアがそれに応答するように、天井から左右の壁へと明かりを動かし、そして足下へと戻した後、声を出した。

「どこからか水の流れるような音が聞こえてくるんですが……気のせいですかね……」

 声は消え、ざりざりと地面を踏みしめる音だけが響く。

 少しの間の後、ハリーが言葉を返した。

「気のせいだ。もし聞こえるなら間違いなくこの階段は崩落する」

「ほ、崩落!? それって……つまり、壁が薄いってことですか?」

「それ以外考えれんだろ。水の音が聞こえるってことは、その間を水が流れてるってことだ。壁と言っても、もとある岩を削っただけのものだから、耐久性は問題ないだろうが……もし、後から付け加えたモノなら当然、隙間が出来てる可能性はある。まあ、付け加えたモノじゃなくても、浸食による影響で隙間が出来る可能性もあるけどな。今日みたいに雨水の浸食で、徐々に削られていくのだから、そこから崩れていくのは自然の流れだろう。――この場所が新築にでも見えたか? もし崩れて溺死したとしても施工した人間に訴訟は起こせんぞ」

 その答えに、ジュニアは目を見開かせ、ぐっと口を閉じた。

「…………」

 ざりざりと地面を蹴りあげる音だけ響く。

「……気のせいでした」

 ジュニアが一人、消えるような声量で二人の足下に向かい、 呟いた。

 狭い階段を降りた後、脇道など見えないただ直線に伸びる通路を突き進む。

 ふと、ジュニアの耳に、先ほど聞き覚えのある音が僅かながらに飛び込んできた。

 出所を探るため、灯りをぐるぐると回し、そしてその場をさす。

 それはちょうど通路の下、右角の辺りだった。

 心の中、気持ちいっぱいに顔を近づけ、確認する。――そこには水が流れていた。

 まるで溶け込むように、僅かに――僅かにだが、三人と並行し同じ道を辿っていた。

 ジュニアがぐっと唾を飲み込み、声を出す

「あ、あの……右下で水が流れてるようですが……」

 ハリーがふと、灯りを右下の角へと向けた。

 照らしたあと、すぐに頭を上げ、また正面に光を伸ばした。

「そりゃ流れとるだろ。ここは排水路だ。これがあるから今もここを歩けるんだ。なければ今頃すでにこの場所は崩壊しているかもしれんからな。感謝しないとな」

「つまり……この通路は水路になるってことですか?」

 ジュニアの問いに、先を歩くハリーは明かりの向きを変えず答えた。

「その通りだ。俺たちは今、『通路』ではなく、『 水路』を歩いてる。だから、昨日とは違う道をわざわざ進んでいるんだ。覚えとらんのか? 昨日も通ったぞ」

「えっ? それはその……」

 そう聞かされたジュニアの頭の中で、昨日の映像がふと現れた。

 それはほんの一瞬、他と同じく代わり映えのない石肌の通路ではあったのだが、ハリーの言う通り、それは――別の道だった。

 下に潜った後の帰り道。来た道筋、あの苦労して降りた梯子や体を擦り合わせた狭い通路を戻らず、わざわざ遠回りするように先頭を歩くハリーは、通路となる石床に顔を合わせ、一人うんうんと頷きながら歩いていた。

 その意図すら疑問に持つことなく、ただ背中を付いて歩くジュニアは帰ることだけを考えていたのだが、今思うと、あれは下で見つけた溝を辿るように歩いたかもしれない。

 それはアミダくじの最後に隠された一つの宝を狙うように、その報酬から順路を遡っていき、そして選択するところから再びそれを目指して突き進んでいく。それと同じ行動だった。

 休むことなく三人は水の流れる音と共に前へ、前へと、足を進めていく。

 荒く削られた狭い階段を下り、歩を止めたその場所は、昨日最後に見た景色だった。

 以前と変わった箇所と言えば、足下に掘られてある片足分ぐらいの溝に、溢れんばかりの水が溜まり、それが止まることなく流れていた。

 ハリーはその様子に頬を緩めた。

「よしよし、いいぞいいぞ」

 自身の思い描いていた事がそのまま視界の前に現れたことで気分が上がっているのか、鼻唄を携え歩き出す。

 残された二人は顔を見合わせる事なく音と光を追った。

 足元を走る水は、途中、道が二つになろうとも、決して躊躇うことなどなく均等に別れ、流れ続ける。

 その上を歩くハリーもまた、明かりを足下の溝に合わせたまま、道が別れた際は一瞬立ち止まるも、首と明かりを左右に振った後、片方の道を選んでは進んでいた。

 薄闇から途切れることなく聞こえてくる鼻唄に、どこか不安そうな眉を歪めるジュニアが麻祁の肩を軽く叩いた。

「先ほどから、えらく上機嫌がなんですが、どうして道が分かるのでしょうか? これといった目印もないのに、迷わず進んでるみたいで……水の流れに違いでも? どう思います?」

 呟くような問いかけに、麻祁は顔を合わせず首をかしげた。

「さあ、私も分からない。さっきから後ろで見てるけど、水の流れに変わりはないし……」

「ほお、アルゲンディアにも分からんことがあるとはな。まだまだ俺も年長者として誇れるな」

 はっはっはっ、と声高くして笑うハリーに、二人はただ聞き入っていた。

 しばらくしハリーが突然足を止め、二人も合わせるようにして歩を止める。

「ほら、ここを見てみろ」

 懐中電灯の灯りが指し示す場所、二人はそれを覗き込むようにして顔を向けた。

 溝を流れる水が分岐により、二方向に別れている。

 ジュニアが水を追うようにして、懐中電灯を左に向け、上げた。

 人ひとり分の肩幅しかない通路。その中央には片足がどっぷりと浸かるぐらいの溝が掘られ、そこから聞こえる水流の音が光と共に暗闇へと消えていく。

 次に右――同じく光線の先は音と共に闇の中へと吸い込まれた。

「ここで流れてくる雨水が均等に分岐しているように見えるが、右の方が水量が増しているように見えないか? 溝からも僅かだが溢れ出している。つまり、この先にはまだ道が続くということだ。均等に流れずこちらに多く流れているんだから、進むべき道標としてはこっちが正解となるわけだよ」

「えっ、でも、もし行き止まりだったらどうします? ほら、水は多く流れていたとしても、途中で水路が細くなったりとか、人が通れなくなったりとかしたりで」

 ハリーの視線がぐっと細まった。

 ジュニアの顔に瞳を合わせると、突然光を向けた。

「ほお、ならお前に道案内でも頼もうか。ちゃんとした順路とやらで連れていってくれるんだろ? 先に何が在るかも分からない果てへ果てへ、え? ――え?」

 懐中電灯の尻を上げ、カタカタと何度も音を鳴らす。

 ジュニアは目をつぶり、顔を逸らした。

「うっ!? わ、わかりましたって! 僕にはわからないのでお願いします!」

 懇願する一人の声に、ハリーはふん、と息を吐き、右の道を進んだ。

「目がおかしくなる……」

 瞼を強く閉じ、左手で目元を覆い、頭を軽く振るジュニアを余所に、麻祁は足を前へと動かす。

「あっ! ま、待ってくださいよ!」

 薄闇に残され、

「うわっ!? あぶっ!?」

一人慌てる左足は、中央を流れる水の中に突っ込んだ。

 崩れる体勢に、伸ばした左手が瞬時に地面を押さえ、浮いた右手の光が天井の在らぬところを差す。

 何とか前へ前へと押し出されようとしている左足を溝から出し、状態を確認するため光を当てた。

 黒の安全靴から深緑の濡れた作業の裾が映る。

 足を上げ、別の場所に降ろす。

 照らす地面にはくっきりとした靴跡が残されていた。すぐその横ではまた新たな痕跡が残ろうとしている。

「はあ……くそ、最悪だ……」

 足を振るい、明かりを暗闇の先に向ける。再び出るため息に、落ちる両肩を揺らしながら歩き出した。

 しばらくし、忙しく動く明かりがジュニアの目に入る。

 距離を縮める度にその明かりは、天井から横の壁、そして床の溝を照らしたと思うとすぐに天井へと動き続けていた。

 ジュニアが足を止め、明かりを差す。

 そこには何かを熱心に調べている二人の姿があった。

「……何かあったんですか?」

 一呼吸置いた後に出される問い掛けに、ハリーは懐中電灯の先を天井に向けた。

「これを見てみろ」

 ジュニアが声の差す場所に顔を上げる。

 照らされる円形に、一枚の鉄板が映りだされていた。

 当時から変わりがないであろう表面は銀色で錆びなどは見えず、その側面――天井にはその体が納まるように、溝が掘られていた。

「鉄……板ですか……」

 手に触れようと伸ばした時、ハリーが止めた。

「やめておけ。触ると崩れて落ちてくるかもしれんぞ」

 当たる指先をジュニアはすぐさま引っ込めた。

「え? それってその……腐食してるってことですか?」

 ジュニアの言葉にハリーは、息を吐いた。

「本当に何を学んでるんだ? アルゲンディアよ、この歴史も知らん現代っ子に世界の事実を教えてやってくれ」

 興味がなくなったかのようにそっぽ向くハリーの横から、ふと姿を見せる麻祁が話しを始めた。

「鉄製品が生まれたのはつい最近の出来事で、昔は鉄鉱石を加工するための技術などなかった。つまりこの鉄板は、鉄鉱石から生産されたものじゃない。――じゃ、これは何だと思う?」

 不意の問いに、ジュニアは視線を右下へと落とした。

「アルミ……か、チタンか……」

「――隕鉄だよ」

 麻祁の答えに、ジュニアは言葉を繰り返した。

「隕鉄? 隕鉄って、その空から降ってきた――」

 ちょうど真上にある鉄板を指差し――見上げては、はあ、と独り呟いた。

「隕鉄は鉄鉱石よりも低い温度で加工が出来たから、昔から加工できる石としては重宝されてきた。価値で言えば金よりも高いとされている」

「金よりですか? はぁえ……」

 再び顔を上げるジュニア。それは誰よりもだらしくなく口を開けていた。

「そもそも取得できる数には限りがある。……それはまあ、この地球上にある物質全てに言えることだけど、特に隕鉄の場合は、空にお祈りでもしないと降ってこないからね。だから、当時の人にとって、自分達の思い通りに加工しやすい石ってのは貴重だった。儀式の装飾から始まり、後は生活用品に使えるからね」

「へえー。それじゃこの扉も……はあ、なるほど……」

 天井から麻祁の方へと視線を動かし、そしてジュニアの瞳は横の壁を見る。

「……ということは、どこかにこれを持ち上げるための仕掛けが……」

 懐中電灯をぐるぐると回し、そして足下で流れる水路を差した。

「これですか?」

 ジュニアの問いに、麻祁は、そう、と一言返した。

「それじゃこの下に鎖か何かを巻き付ける仕掛けがあって、この流れる水が動かしたってことですか。なるほど……」

「えらく感心している割にはよくわかったな」

 少し遠くから聞こえてくるハリーの声に、ジュニアは言葉を少し上げて返した。

「ええ! それなりには勉強してますので!」

「ふん、隕鉄も知らんかったのに何を……」

 小さくなる語末に、ジュニアはそれ以上言葉は掛けず、明かりと顔を上に向けた。

「それじゃ、これ持って帰ったら高く売れるかもしれませんね。いくらぐらいになるでしょうか?」

「多分、数万円ぐらいにしかならないと思う」

「えっ? 結構安いですね。もっとすると思ってましたが……例え数百万とか」

「歴史的価値として値が付くなら、数百万、それこそ数千万以上はいくかもしれない。――けど、今の時代じゃ隕鉄に似た性質の素材なんて数多くあるから、そんな錆びてない鉄板なんて持ち運んだところで、世間からは笑い者にされるだけだよ。付加価値をより付けるなら、この姿で見せないと」

「つまり、外部の広告塔が必要ってことだな」

 ジュニアの持つ明かりの前にハリーが姿を現した。二人の視線がその顔に集まる。

「つぎ来た時にでも知り合いのライターに連絡しておこう。記事にして大きく書いておけば、そこら辺から物好きが集まって、勝手に価値とやらを話し始める。これほど大きい隕鉄で作られたものはそうと無いから、きっと話題になるぞ」

「その……歴史的価値とやらが付くとしたら、どれぐらいの価値になるのでしょうか?」

「単純に見ても一千万はいくだろう。――ただしそれは、これそのものの価値ではなく、観光名所としての収益での話だ。これ一つだけでは価値など付けてもどうしようもない。博物館に飾れるわけもないからな」

「持ち運びが難しい、ってことですか?」

「その通りだ。今こいつを持ち上げてるのは、多分、左右壁裏に仕掛けられた二本の隕鉄製の鎖だ。手早く説明するなら、降り注ぐ雨水を利用して、水路にある回転軸を動かし、跳ね橋の要領でこの鉄板を引き上げたんだろう。それと運が良かったのは、鎖を巻き付けるこの回転軸の状態だ」

 ハリーが足下の水路に光を当てる。

 流れる水の勢いは変わらない。

「隕鉄――もしくは木製で作られていると思うが、この地域を取り巻く環境のおかげで、軸は腐食せず、損傷もないからこうして可動し続けているんだろう。これを奇跡と呼ばずになんと言うか? 全く――夢を見続けさせてくれる場所だな、ここは!」

 声を高く上げ、一人笑うハリーは先に続く闇の中へと姿を消していった。

 背を見続けていた二人は顔を合わせる。

「えらく興奮してますが、この先にあるってことなんでしょうか? ――お宝でも」

 ジュニアの言葉に麻祁は首を小さく縦に振った。

「だろうね」

 再び背が消えた道の先を見つめ、そして二人は同じ道を辿り始めた。

 

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