六節:溝

「…………」

 青アザを付ける、メガネを掛けた顔――エミリーが目を覗かせていた。

 何とも言い難い表情で両手を岸壁の端に付け、四つん這いの姿で灯りもなく、ただじっと真上から暗闇を眺めていた。

「…………っ!?」

 突然肩を上げ、振り返る。

 通路へと続く入り口から光が入り込み、エミリーの顔を射した。

 逆光に映る影は少しずつ輪郭を表し、歩み寄ってきたのはジュニア達の姿だった。

 言葉もなく先立つジュニア達の横から、ハリーの手に持つ明かりがエミリーの後ろを射した。

 光の当たる壁からちょうど真下辺り。そこには、本来あるべきはずの足場となる煉瓦など見えなかった。

 ただ薄暗く、ただ荒れたような地肌が明かりに映るだけだ。

「ほお……、これはこれは……、大きな音がしたかと思えば……」

 目を見開かせたハリーが立ち止まる二人よりも前に進み、奥の壁から顔を僅かに逸らすエミリーへと明かりを移したあと、左に振った。

 流れるように足元に敷き詰められる煉瓦を左から右へと映していき、エミリーの横に寝っ転がる機械で止める。

 照らし出された片手で持てるぐらいそれは、姿勢どころか黒の顔色模様一つすら変えることはなかった。

 揺れる光を少し上げ、煉瓦と暗闇の境目辺りで留める。

「もう一人の嬢ちゃんの姿が見えんが、まさか落ちたのか?」

 ツナギ姿の小柄な背中が空いた穴に近づくと、右手に握る懐中電灯の胴体を人差し指と親指でつまむと、器用に上手へと持ち替えた。

 槍投げをするような形で、まるで逃げた囚人を探すサーチライトのごとく、ゆっくりと明かりを動かし始める。

 正面から右へと動かし、また戻す。

 ハリーは首を僅かに落とし、傾く懐中電灯の尻をさらに上へと浮かばせた。

「なっ!?」

 声と共に突然右肩を大きく振るわせ、後ろに下がる。

 同時――女の声がした。

「……ミリー……!!」

 光線をただ真下に射し続け、それ以上動くことのない背中に近づいたジュニア達は、その足元へと明かりを向けた。同時――女が叫んだ。

「――っしょ、ふぅう……アアアー-!!」

 頭が出た瞬間、瞳に直撃する光の眩しさに怯んだ金髪の女は顔を逸らした後、壁岸に置いてあった自身の右腕に顔を伏せ、怒声を上げた。

「ちょっと誰よ! 眩しいじゃない! ばっかじゃないのッ!!?」

「――えっ?」

 あまりの突然の言葉に、手に持つ明かりをジュニアがすぐに下げた。

 頭頂部を射す明かりは、岸壁から体を持ち上げようとする金髪を相変わらず映し続ける。

 すっと緑のフライジャケットが立ち上がる。後から来た三人の前に砂埃にまみれたグレイスがその場に現れた。

 グレイスの瞳が、正面から意味もなく瓦礫を映し続ける明かりへと移り、そして未だ横から射し向けられる熱にヌッと動く。

 唖然と立ち尽くすハリーのツナギ姿をさっと見た後、眉間を歪ませた。

「……何?」

 呆れるようにそう吐いた後、横で見上げ続けるエミリーに顔を向けた。

「行こう」

 ずかずかと暗闇の先へと進むグレイスに、寝っ転がる機械を手にしたエミリーはすぐに駆け寄り、フライジャケットの肩を掴んだ。

 歩く最中、耳元に口を寄せ、何かをつぶやく。

 二人が足を止め、身を翻すと前にいたジュニアへと近づいた。

 煉瓦を射す明かりの前で二人は止まり、互いの表情も見えぬまま、グレイスが一方的に声を流した。

「ねえ、ライト余ってない? あるなら欲しいんだけど?」

「――えっ?」

 問われたジュニアは足元を射していた懐中電灯をギュッと握りしめた後、振り返った。

「僕は明かりを……」

 光が煉瓦を射す前に、その横を麻祁が通り抜け、手にしていた懐中電灯をグレイスに渡した。

「これだけなら……」

 細く硬い胴体を掴んだグレイスはスイッチを入れ、明かりを付けた。

「ありがとう」

 そう一言お礼を言った後、奥にいた老人の顔に光が射した。

「くおっ!?」

 懐中電灯よりも少しか細い腕を前に出し、咄嗟に顔を伏せる。

「なんのつもりだっ!!」

 腕を突き出し、ハリーが声を上げる。

 照らす煉瓦。そこにはすでにグレイス達の姿は見えなかった。

―――――――――

「……ったく、これだから今の若いやつと言えば自分勝手な……大体、明かりの一つや二つのぐらいは用意しておくものだろ。あんな役にも立たない機械を大事に運んだところで…………」

 ひとり薄闇に向かってブツブツと呟くその後ろで、続くふたりは呼吸を殺すように口を閉じていた。

 三人は体の軸を僅かに傾け、中央に掘られた片足一つ分ぐらいはある溝を避けるようにして右端を歩いていた。

 老人の小言を音楽に足を進める中、先頭の明かりがふと左側へと向き、立ち止まった。

 二人が釣られるようにして、顔を明かりへと向け、足を止める。――そこに新たな道があった。

 ハリーが歩を僅かに進め、その分かれ道を正面に捉える。

 二つの光を奥に差し込んでみるも、そこには左右に狭まり行く壁と暗闇しかなかった。

「こいつは困ったな。時間もないってのに――」

 ハリーがポケットに手を入れ、中から時計を取り出す。――針は三時を指していた。

「ここらで撤退するか……。別れたところでどうしようもないしな」

「日の入りですか?」

「ああ、あと二時間ぐらいだな。二手に別れたところで、どうせこの先は迷路みたいになってるだろうし、探るだけ無駄だ。また明日にでも準備して、また時間をかけた方がいいだろう。あの恩知らず嬢ちゃん達も戻ってる頃だろうし、タダでさえ暗いってのに、外も暗くなれば、出たかどうかすら判らなくなるからな」

 大きな笑い声を響かせるハリーはくるりと身を返し、左側を歩いては、通路を戻り始めた。

 その背を顔で追いかけていた二人も、同じく跡に続く。

「うっ!」

 突然、声と共に後ろから差す明かりが強く揺れた。

 ハリーと麻祁はそれぞれ数歩ぶん進んだあと、振り返った。

「えっ?」

 目を点にさせ、二人を見てくるジュニアの顔が光に映る。

 眩しそうに目を細めた後、首を左右に動かし、振り返った。

「お前だよ、お前。お前の声がしたから、わざわざ振り返ったんだよ。他に誰がいるんだ?」

「えっ? 僕ですか? ああ……いや、この溝が……」

 ジュニアが明かりを足元に向ける。

 そこには不貞腐れたように中央の溝に体を半分だけ埋める一足の靴がいた。

 その姿を映していたハリーは、明かりを動かすことなく声を出した。

「……排水のための水路だな。上から降り注いだ雨を流すための道だ。文句も言えんだろ」

「排水……って、ここまで水が落ちてくるんですか? こんな下にまで?」

「……当然だろ。なに当たり前なことを言ってるんだ。上から降った雨が山の表面だけを伝って落ちると思ってるのか? ここに入って来る時に通った入り口が用水路と同じような作りになっていただろ?」

 ハリーの言葉にジュニアは瞳を僅かに落とした。

「まったく……お前いったい何を見てきたんだ? その青い目はガラス玉か何かか? 入り口の彫刻が派手に見えて、中にある柱も飾りの一つだとでも思ったのか。あれは大量に流れ込む水の力を分散させるために、わざわざ造ったものだ。この場所は相当人の手が加えられているようだから、ああでもしないと水が溜まって、その重みでどうなるかわからんからな。ここにある排水もより円滑に……」

 ハリーの差す明かりが奥へと続く溝に伸びる。

 突然言葉を止めと思うと、今度は前を見据えたまま、トボトボと歩き始めた。

 まるでボケた老人のように暗闇へと消え行く小さな背を、麻祁達は懐中電灯の光だけで追っていた。

 遠くの方でまっすぐ伸びる光が左へと向かい走る。

 今度は暗くなったと思うと、麻祁達の方へと射してきた。

 ジュニアが明かりを下げると、その輪に交わるようにして、もう一つの輪が戻ってきた。

「これは面白いことになってきたぞ。一つ、案が浮かんだ」

「それはとても危険な案?」

 麻祁の問いにハリーの口元が緩んだ。

「ああ、とてもとても。それでいて何か見つかるという保証もまったくないがな」

 何か悪いことを思い付いた子供のように笑顔を浮かべる老人と、それを注意するどころか関心すら見せない無表情の女は、向かい合ったまま互いの瞳を見ていた。

「……一体なにを始めるんですか?」

 二人の話す内容の先まで読めないジュニアは、瞬きを数回繰り返し、左右、忙しく瞳を動かすだけだった。

「分からないなら明日までの宿題だ。……いや、明日とは限らんか。――とりあえず今日はとっととホテルに引き上げて、テレビか携帯でも弄っておけ。状況次第では忙しくなるぞ」

 いつも以上に声を早めるハリーが、そそくさと元来た道を戻り始めた。

 明かりに映るその背を二人は眺める。

「一体なにを始めるんですか?」

 ジュニアからの問いに麻祁は瞳だけを向かせ、答えた。

「水道職員さ」

 同じく足早と道を戻り始める新たな背に、「はあ……」

ジュニアは小さく息を吐いた。

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