四節:高校の話
角から聞こえる笑い声に紛れるようにして、机に置かれたベル付きの時計は一人、コクコクと針を進めていた。
時計の向かい側には台所を仕切る襖がそびえ立ち、その足元には仰向けでジッと天井を見つめている篠宮の頭があった。
前髪の被さっていない開いた右目を数回瞬かせ、声を出す。
「ねえ」
天井に向かい突き出された言葉はそのまま跳ね返り、宙で散った。
口を閉じた篠宮は再び天を眺め――しばらくしてまた声を出した。
「ねえ」
天井に向かい突き出された言葉はそのまま跳ね返り、宙で――。
「遅すぎない」
続いて出された声に、机右側に座っていた葉月が反応した。
手にしていた携帯から僅かに左へと視線をずらし、時計を確認する。――丸みのある身体しか見えない。
「時計が見えないので時間が分かりません」
再び視線を落とす葉月。篠宮は首だけを上げ――その様子を見ていた。
震え始める頭を床につけ、再び天井板を見つめたまま声を出す。
「何言ってんのよ、携帯見てるくせに――今何時よ?」
葉月が動かしていた親指を止め、視線を画面右上へと動かした。
表示される時間は八時半だった。
「八時半ですね。少し遅いですね」
篠宮が腹の上に置いた右手を軽く擦り始めた。
「……ねえ」
三度投げ掛けられる言葉。葉月はそれをすぐに受け取り、声を返した。
「なんですか?」
「お腹空かない? さっきからぐぅぐぅ鳴ってんだけど」
言葉に呼応するように、右手を置く腹からは低い唸り声が微かに鳴り響いた。
「ねえ、今の聞いた?」
「何がです?」
「私の虫が泣いてるのよ。『なんかくわせろー』ってさっきからね」
「……そうですか、それは大変ですね。冷蔵庫に何かあるかもしれませんよ? そこにありますから」
指も顎も指さず、ただ言葉だけで場所を示す葉月に、篠宮は顔を横へとずらし、上目で襖を見た。
高くそびえ、台所を仕切るそれは言葉を喋らない。どれだけ瞳で思いを伝えた所で、決して自身の意思で開くことはなかった。
篠宮は顔を戻し、また天井を見た。
目の下――下眼瞼から射し込んでくる灯りが、やけに眩しく映る。
「そろそろ準備した方が良いと思うんだけどなー。作るにも時間かかるしー、さすがに九時前には帰ってくると思うんだけどー」
天に向けられた独り言は、すぐさま別の声として机の横から返ってきた。
「ですね……」
――言葉が止んだ。会話の消えた二人と代わるようにして、テレビの声がその間に入ってきた。
篠宮は目を閉じた後、一言だけ呟き、
「そう……はあっ?」
上半身をあげた。
携帯をいじり続けている葉月に視線を合わせ、その動きを無言でじっと見続ける。
それを知ってか知らずか、葉月は気にする様子など見せず、ただ携帯に乗せていた指を頻りに動かしていた。
しばらく葉月の行動を観察していた篠宮が声を掛ける。
「なにさっきから必死になって携帯いじってんのよ? メール?」
画面を数秒間見つめ、葉月はそっと手にしていた携帯を右端に置いた。
「はい。友人からの」
「ゆぅじん? あんた友達なんかいたの?」
「いますよ、失礼ですね。よく他校での調査を依頼されるので、その時、お友達になられる方が多いんですよ。生きた情報は大事なので、非常に重宝しています」
「でも、終わった後には全て消さなきゃまずいんじゃないの? もし正体や仕事の内容、知られたらどうするの? 後々面倒な事になるわよ?」
「その可能性もありますが、そう危惧するものでもありませんよ。一度寄った学校は転校という形で離れますし、正体もなにも私はただ『椚高等学校に生徒』には違いありませんので、もし何か感ずかれたとしても、そこの生徒であるだけで、なんの支障も無いと思いますよ。それに依頼あとの交流に関しては、姉様の方からむしろ推奨されていますので」
「情報提供者としてか……」
「人の噂ほど急速に広がるものはありませんからね。一から聞いて走り回るよりも、それなりの噂を耳にしてからの方が以外と早く解決する時もあります」
「でも、中には嘘ってものもあるでしょ? もしそんなのに惑わされたりしたら、余計に時間食うだけじゃない?」
「それを精査するのも仕事の内ですよ。少し大変ではありますが……あくまでも噂ですので、当然、思い込みもあるわけですし――唯一確かなことは、それが嘘である可能性は低いってところですね。事件の当事者なら、身を守るために嘘をつくことがありますが、自身に全く関係がなければ、世間話の一つとして、べらべらと向こうから勝手に話してくれます。ようは紐付けみたいなものですよ。噂が立つと言うことは、身近にいた人が必ずいたと言うことなので、そこまで辿り着ければ、後はその周辺を調べればいいってわけです」
「……んー、なんか聞いてるだけでもめんどくさい話ね。よくやってるわね、そんなの」
「結構楽しいですよ。いろんな方とお話できますし、何よりその人に起きた事実とも出会えたりで、普段では出来ない経験をさせていただいています。――嫌いですか? そういう人間関係を探るようなことは?」
「聞く分はいいけど、探るまでの興味はないわね。あまりそういうまどろっこしい事、好きじゃないのよ。――あんた達みたいに噂好きじゃないからね」
「それは惜しいですね。知れば知るほど見解というものが広がっていくのですが……興味が湧いたらいつでも言ってくださいね。またそういう場面があったらご紹介しますので」
「気が向いたらね。後、報酬は多めに」
「それは姉様次第で――」
「ふーん――で、携帯はもういいの? さっきから見てないけど」
篠宮の視線が右隅にある携帯を差した。それに合わせるように葉月も視線を落とす。
画面は暗いままで、うんともすんとも答えることはなかった。
「返信があるなら震えて知らせてくれるので大丈夫ですよ。――気になるんですか?」
葉月の細まる視線に、篠宮は平然とした表情で答えた。
「ぜんぜん――でも、あれだけ打ってたのに突然止まるからもういいのかな? って」
「相手にも都合がありますからね。バイトも忙しいみたいですし」
「へぇー、バイトしてるんだ。珍しいわね、相手は……高三ぐらいかしら?」
「そうですね。一年の時から始めて、今も続けています」
「へぇー、頑張りやさんね。よほどお金が欲しいみたいだけど、なんかあったのかしら?」
「さぁ、詳しいことまでは……、それぞれ複雑な家庭内事情ってものがありますからね。直接聞き出すのは野暮ってやつです」
「ふーん、まあ、直接関係ないからべつに興味はないんだけど……連絡しあってるってことはそれなりに大変な目にあってた、って事よね。苦労絶えないわね」
「その裏返し――ではありませんが、今は何事もなかったように充実している日々を送っているみたいですよ。卒業後の進路も決めているようですし、やはり、苦労している分、見返りってものがあるんですね」
「見返りね……。確かに築かれるのは経験則だから、見返りはあるかもね。でも、苦労自体が取り除かれたワケじゃないから、すればするほど、その場での適応力が増すだけで必ず別の徒労に当たることになるわ。運でも良くなればいいけど、そうそう上手くいかないし……、もし、苦労すればするほど運が良くなるなら、私は今頃、幸せの絶頂に居ると思うわ。一生遊べるお金に、不自由のない暮らし、そんな素敵な未来に包まれているハズよ」
「それは程遠い夢物語ですね。例え運が増すようになっても、私達は常に死と隣り合わせの危険な依頼を請けてる身なので、『生』という大きな見返りを戴いている以上、それより上は望めませんよ。もし『生』以上の何かを望むなら、必ず大きなしっぺ返しが来ると思いますが?」
「生きて帰ることは絶対事項の一つなのに何言ってんのよ。運の配分をそんなものにまで振っていたら、経験則なんてなんの意味もないじゃない。振るなら、生きるよりも、報酬の増額とか、落ちてる遺失物に高価な物があるとか、そういうところに振らないと」
「現金主義ですね。いつしか足を掬われますよ」
「常に気をつけているから大丈夫よ」
――小刻みに机が揺れた。
伝わる振動に葉月が動いた。
携帯を見入るその横顔に、ジッと見ていた篠宮が言葉を掛ける。
「やたら熱心ね。そんな重要な内容なの? その子とはどこで知り合ったの?」
その問いに、葉月は視線を逸らすことなく声だけを返した。
「やはり気になりますか? なにも遠回しに聞かなくても聞けばすぐに答えますのに――」
「別に興味なんてないわよ。――ただ、麻祁式が来ないから暇で暇で退屈なのよ」
「私が守秘義務ですから、と答えたらどうします」
「……なによそれめんどくさいわね。さっき聞いたらすぐに答えるって言ったじゃない、どっちなのよ」
「……まあ、終わったことなので別にいいですよ。ここから少し離れた場所にある、豊中市ってご存じですか?」
「豊中市? 豊中市……豊中市ね……」
同じ言葉を独り呟き始める篠宮を余所に、葉月は携帯の画面から目を逸らすことなく話しを続けた。
「その街で以前殺人事件があったんですよ。それもご存じないでしょ?」
「えー、そんなのあったかしら……」
「その事件の担当をした時に出会った方ですよ」
「ふーん、で、内容はどうなの? 事件の詳細について」
「豊中市にある、ある高校の女子生徒が殺されました。死因は高所から背中に向かい木造製のゴミ箱をぶつけられたことによる転落死です」
「ゴミ箱ってどれぐらいの大きさなの?」
「そこから、その端ぐらいまでの大きさですよ」
葉月の人差し指が、篠宮の左側にある角を指し、次に自身の右側の角を指した。
「結構な大きさね」
「はい。重さにして四十キロはあります。当時、中にはゴミが入っていたので、さらに重量はありました。それを誰かが背中から投げつけたのです」
「へぇー、すごい力持ちね。じゃ、犯人は男……いやいや、それじゃありきたりよね。女子生徒が殺されたなら、近場の同級が怪しいわね……。――でしょ?」
「そうですね。ですので私が中に入り、色々情報を集める事になりました。その時出会ったのが、彼女ってわけですね」
「――で、犯人は誰だったの? 理由はなに?」
嬉々とした様子で聞いてくる篠宮に対し、葉月は正面にある襖に視点を合わせたまま答えた。
「犯人は同じ高校に通う一年後輩の女子生徒でした。理由としては本人の口からは明確にされてませんが、私と姉様の推測では、たぶん、『自身の優越感を満たす為のもの』だと思われます」
「はぇー、じゃ、能力使えるんだ。それなら分からない気持ちでもないけど――」
「それが中々理解できるものでもないんですよ。その犯人が狙う対象なのですが、どうやら、強いものではなく弱いものを狙うんです」
「弱いものを? ……恐怖心から来る現れじゃない? ほら、自身より強いものには敵わないけど、弱いものなら楽にやれるって思考のやつ。よく犯罪理由であげられるロクでもないものだけど」
「それならそう理解は難しくありませんが、この場合は、誰かに優しくされたらその人を殺る、といった感じです」
「へえー、変わってるわねそれは。じゃ、消しゴム拾っただけで、背中にゴミ箱ぶつけられるんだ」
「それだけではさすがにゴミ箱はぶつけられないと思いますが、次の日シャーペンを拾ったらぶつけられるかもしれませんね」
「はぁっ、迷惑な話ね。触れない方がマシじゃない」
「基準は判りませんが、優しくされるにも、態度や言葉遣いなども含まれると思います。所謂、同族嫌悪の類いかもしれません」
「じゃ高圧的な態度で接しればいいんだ。……難しいわねそんなの……。絶対的に回避不可じゃない」
「ええ、ですので多くの被害者が出ましたね。あまり積極的ではない本人の性格と、特殊な環境も相まって……個人的な頼み事も多く、それで感謝を口にしたら殺されたりで――」
「よくそんなやつ見つけたわね。自分からボロだしたの?」
「いえ、別口からの情報提供ですね。後はその様子をカメラで確認し、姉様と釣り針を垂らして誘いました」
「で、引っ掛けたと……やっぱ、話聞くだけでも面倒ね。私には無理だわ」
「神経を一段と使いますからね。普段から繊細かつ上品な方でないと難しいかもしれませんね」
「…………」
篠宮の視線が葉月の顔に突き立った。
「いるんだ。繊細かつ上品な人なんてこの場所に」
「いますよ。姉様と私、二人は間違いなく該当するとお思いますが?」
その言葉に、より一層、篠宮の視線が葉月の左目尻にあるホクロを貫いた。
「百歩譲ってそうだとしても、あの麻祁式だけは例外よ。あいつには上品さも繊細さも、何もないんだから」
「そうですか? 姉様とは長く居ますが、その様には見えませんけど……」
「それはあんたが妄信者だからでしょ? 一回遠目で見てみなさいよ。ほとんどが成り行き任せの計画性なんて皆無なんだから。あんまり信用してるといつしか首根っこ取られるわよ」
篠宮から出された言葉に葉月の視線はテレビから逸れることはなかった。
「ですね。それは注意しないと行けませんね」
どこか魂の抜けた物言いに、その横顔を見ていた篠宮は呆れるように声を漏らした。
「ダメだこりゃ」
それ以降、二人の間に言葉はなくなり、部屋に響くのは世間の話題をまとめて話す女性の声だけだった。――場面が経済からスポーツへと切り替わる。
少しの間の後、葉月が声を出した。
「そういえば聞きましたか? 姉様が菖浦高で熊と戦った話を――」
突然の問いに、細めた視線を葉月に向けた篠宮はまたテレビへと顔を戻した。
画面内では野球部員数人が忙しく動き、捕球などを繰り返していた。その胸元には大きく『菖浦』の漢字が記されていた。
「知らないわ。――熊なんているの?」
二人の目の中で、今度はボールを弾ませる男子生徒が映った。
「いるみたいですよ。スタンガンで痺れさせたみたいです」
次に藍色の道着に防具をつけた男性が現れ、竹刀を大きく振り上げる。
「スタンガン? 物騒なもん持ってるわね、どっちが野蛮なのよ」
体格のある体に太眉毛、灰色のスーツを着た男性が仁王立ちし、白の道着を身に着けた男子生徒達を見守り続ける。
「突然の緊急事態でやむ得なく使ったものかと」
ふと流れ始める音楽に、切り替わった画面からは再びスーツ姿の女性が姿を見せた。
「どうせ不法侵入か何かで見つかって慌てて使ったのよ。だから、やることがメチャクチャって言ってるでしょ、あいつは――。いつかは絶対に捕まるわよ」
「それはそうですが、少なくとも正当防衛にはならないのでしょうか? 本当に熊が出た可能性もありますし、もしそうでなくとも先に手を出すのは必ず向こうだと思われますので、そう考えると正当防衛にはなるかと」
「許可無く入った時点で無理でしょうね。許可あってなら別だけど――。どっちだったの?」
篠宮からの問いに葉月はすぐに答えた。
「分かりません。そこまでは聞いてませんので」
「多分、無許可よ。そもそも行く用事がないんだし、あるなら先に連絡がくるはずでしょ? 中を探ってくれって」
「ええ、何かあるなら必ず」
「なら決まりね。不法侵入なんて裁かれて当然なんだから、守られる権利なんて一つも無いのよ。ましてやスタンガンでやるなんてもってのほかね。熊だって大柄な人に対しての比喩表現の一つでしょ? だったらただの犯罪じゃない、二犯は確定ね。私なら絶対にしないわ」
「他に手があるってことですか?」
「賢く行くならあるでしょうね。わざわざ入ってわざわざ見つかるようじゃスパイとしちゃ失格ね。二流も二流。必ず見つからず、必ず出られる方法が何処かにあるはずよ」
「それは可能性としては無いとは言い切れませんが……でも運も絡んできますよ。それじゃどうします? 許可を得ようにも許可が出ず、でもその場所に入らなければいけないのに、もう手がないとしたら」
「私ならありとあらゆる方法を探すわね。賄賂を渡すとか、別ルートを模索、後は専用の許可書を偽造するとか」
「それって結局はどれも不法侵入じゃないですか。『不法』にならない侵入方法は無いんですか?」
「はっ? あるわけないでしょ? どう見たって望まれてない人が行くんだから、不法侵入しかないじゃない? 何か手があるなら喜んで聞くわよ」
「えっ? ……いえ、ないと思いますが……。それじゃ、もし無事に侵入できたとしても、誰かに見つかった場合はどうしますか? 条件としては逃げ場もなく、手元には護身用のスタンガンしかなかった場合とかは?」
「スタンガンがあるなら相手の首筋か布地の薄い部分に当てるわ。もしそれも不可なら最悪、首でも絞めてやるしかないわね」
「それって重罪ではありませんか? 後で問われて捕まるまで追いかけられますよ?」
「はっ? ならどうすればいいのよ? 逃げる事も出来ないんだからやるしかないでしょ? いい? これは正当防衛ってやつよ。不可抗力からくるね。私は穏便に済ませたいけど相手がそうもいかないから仕方なく私はやったの。自分の身を守る為なんだから仕方ないって話よ」
「なるほど……そうですか……それはなかなか難しい話ですね」
顔を下げ何かを思いふける葉月に対し、篠宮は平然とした様子でリモコンを手にし、番組を切り替えた。
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