二節:カビとミミズの話

 ベル付きのアナログ時計が六時を差す。人目を避け、隠れるそれは、ひとり秒針を鳴らし続けていた。

 ふと篠宮が顔を起こす。机、テレビ、天井近くの壁へと視線を動かし、そして葉月のいるベッドで止めた。

 腰を曲げ、黙々と緑のファイルを読んでいるその姿を流し、ベッドの両脇、背の壁へと視線を向けた後、言葉をかけた。

「ね、いま何時」

 目を合わせる事なく葉月が答える。

「さあ、六時ぐらいじゃありません? ――その辺りに時計はありませんか?」

 どこを差すわけでもなく、ただ一人宙を舞う声に、篠宮はもう一度辺りを見渡した。――視界に入る景色は、先ほどと変わりはない。

「ないわよ、どこにあるのよ。見たことあるの?」

 どこか疑いのある物言いに、葉月はファイルから顔を上げると、机に目を向けた。

 左から向けられる視線を余所に、葉月はぐるっと卓上を見渡した後、今度は下に敷いてある灰色のラグ――敷物へと視線を落とした。が、隔たる天板と脚が邪魔をして、その下を見せない。

「机の下にはありませんでしたか?」

「したぁ?」

 身体を後ろに反らせ、篠宮が自身の足元を覗く。

 左脚の横、その場所に時計は居た。

「なんでこんなとこに時計があんのよ……ったく」

 口から溢れる出る悪態を時計に浴びせながら、篠宮は左手を伸ばし、それを手に取った。

 刻む針の位置を確認し、机の左端へと置く。――短針は六と七の間で留まっていた。

「おっそいわねー。何やってんのかしら」

「心配なら電話でもしてみます?」

 葉月の言葉を、篠宮は軽く上げた右手で、すぐに払いのけた。

「いやいいわ。待てば待つほどあいつに言いたいこと言えるしね。――そう言うあんたは電話しなくていいの? 気になるんじゃない?」

 篠宮からの視線と問いに、葉月は読む姿勢を崩さず声だけを返した。

「気にはなりますが、電話を掛けるほどではありませんね。二日、三日行方不明になったわけではありませんし」

「へぇー二、三日はもつんだ。じゃ、一ヶ月もすりゃどうなるか……見物ね」

「変わりはありませんよ。姉様の事ですから、必ず三日以内に一度は連絡してきますので、心配する必要はありませんし、それに、こちらから執拗に連絡しても邪魔になる場合があるので、何事もじっと待つのが一番なんです。――ですので、別に気になさらなくても大丈夫ですよ。心配なのは分かりますけど、もし電話を掛けたいなら私など気にせずにどうぞ。誰にも言いませんので」

 立てた右手を口元に寄せ、潜めた声でそう伝えてくる仕草に篠宮は鼻で突き返した。

「はぁん! 面白いこと言うわね。なんで私が世間体なんて気にして電話するのを躊躇わなきゃいけないのよ。今までどれだけアイツのおかげでえらいめ受けてたと思ってんの? もし何かあって音信不通だとしても、それはそれで私の苦悩が一つ取り除けるかもラッキー! って事よ」

「なら今すぐにでも電話してみてはどうです? もし出なければ、苦悩の一つは今すぐにでも消えますし、もし出た時は状況を聞いて、それ次第でお手伝いをすれば、高額手当てが請求出来るかもしれませんよ。どちらに転んでも悪いことはないと思えるのですが」

 その問いに、篠宮は視線を下げ、じっと何かを考え始めた。……しばらくして、顔をあげた。

「――悪くないわね。掛けてみましょう」

 篠宮がポケットを弄り、携帯を取り出すと、慣れた手つきで通話を始めた。

 ――部屋の中に、男性の声が響く。

 しばらくし、

「……出ない」

片腕を落とした。

「全然出ないわね」

「そうですか。それなら、待つしかありませんね」

 そうあっさりと流した葉月は、再びファイルに目を落とし、読み始めた。

 残された篠宮は机に携帯を置き、テレビを見る。――画面の中から、男性の声が……。

「ねえ」

 どこに向けるわけでもなく突然篠宮が声を出した。

「さっきからなに熱心に読んでんのよ。面白い話?」

 テレビに向かい投げかけられる言葉に、葉月が顔をあげた。

「三年五組に居た、紫藤佑樹さんに関する情報ですよ」

「しとうゆうき?」

 篠宮が眉根を寄せ、目を合わせた。

「……聞いたことあるような、無いような名前ね」

「一年二組の紫藤えみさんってご存知ですか?」

「しとうえみ? ……聞いたことないわね」

「そのお兄さんが紫藤佑樹さんになるんですが、実は訳あって現在不登校らしく、今も姿を見せていないようなのです」

「へぇー、その訳がそこに書かれてるってわけね。……で、なんでその人のこと知ってんのよ。歳違うでしょ、何かの先輩?」

「いいえ。関わりはありませんが、そう言う情報はよく耳にするんです」

「へぇー怖い怖い。それって地獄耳ってやつじゃない。迂闊に噂話も出来ないわね」

「聞いたからとすぐに吐き出しませんよ。姉様か私自身に関係があるならすぐに調べて伝えますが、人に聞いてまでそんな情報を集めようとは思いません。それに不自然じゃありませんか? 全く見知らぬ人が突然その方について多く話し掛けてきたら――、もちろん姉様にも直接その話を聞くわけにもまいりませんしね」

「麻祁式から聞き難いってのはよく分かるわ。なんか一度でもその話を出したら、興味があるって勘違いされそうで気持ち悪いし――まあ、そう言う話なら心配する必要もなかったわね。余所で好き勝手吹かれると、これからの生活に支障が出るかもしれないから釘を刺そうと思ったんだけど――」

「刺さなくても、噂ってのは勝手に飛び交うものですから無駄ですよ。日頃から人に尽くし、良い印象をもたれるようにしないと」

「めんどくさいわね……なんでそんなこと気にして毎日生きなきゃなんないのよ。お金もらえるなら喜んでやるけどね」

「渡しても、そうすぐに変わるとは思えませんけどね。人の噂も七十五日って言いますし、それを過ぎるまでは我慢ですね」

「二ヶ月半も我慢しろって言うの? 下らない風評で、肩身狭いままで、廊下すら歩けない身体になったらどうするのよ? そんな息苦しい生活は私はごめんよ!」

「そのような態度だったら大丈夫ですよ。いったい誰が、好んで虎の尾をわざわざ踏むんですか?」

「誰が踏むか分からないから事前に刺しておくのよ。その紫藤佑樹の話だって、結局どこなの誰かが確信もなく勝手に話して、ただの思い込みの付け加えで喋ってるんだから、良い例になってるわ」

「始めは担任からの説明らしいのですが……そうですよね。それが一人、二人と広がっていきますし……。妹のえみさんも大変でしょうね」

「本当に相手のことを考えるなら全く知らぬ存ぜぬが一番いいのよ。近親者の都合もあるんだし、巻き込まれるのが一番苦労するのよ」

「……ですね」

 どこかしんみりとなる空気の中、篠宮の声が突然それを切り裂いた。

「――で、その紫藤佑樹って人は、なんでいなくなったの?」

 篠宮からの問い掛けに、葉月視線をぐっと向けた。

「えっ、気になるんですか?」

 その言葉に、篠宮は淀みもなくすぐに答えた。

「ええ。――えっ、気にならないの? 気になってたから読んでいたんじゃないの?」

 平然としたその様子に、葉月はふと息を吐いた。

「今の流れだと、この話はもう終わりだと思ったのですが……」

「終るわけないでしょ。まだ最初の部分なんだし、聞けるものは聞いておかないと、損しか残らないじゃない」

「まあなんと能動的な……」

 呆れと驚きが混じ合う感情の中、葉月はファイルに書かれていた内容を話し始めた。

「ファイルによれば、カビを媒体にした研究室から資料を持ち出す仕事を請け負っていたようです。その途中で行方不明にと」

「カビねー。よくそんな場所いけるわね。私なら絶対に行かないけど――詳細は書かれてたの? その行方不明になった状況とか?」

「当時、研究室はすでにカビが蔓延しており、室内の全てが侵食されていたみたいです。その中で一人、紫藤さんは回収作業を行っていたようですね」

「一人でやってたの? はあーん、それなら行方不明になっても仕方ないわね。誰も付けなかったんだ」

「そのようですね。その分、報酬は減らないので一長一短ではありますが……」

「どれだけ経費を抑えた所で、結局受け取れないんじゃ意味がないわよ。まず大切なのは自身の命。次に報酬よ」

「二番目に報酬ですか。案外早めの優先順位ですね」

「当たり前じゃない。報酬の為に行くのに、いったい何のためにやるのよ。情報とか地形とかそんなもんは『自身の命』に含まれてるからいいのよ」

「そうですか。さすが、よく一人で依頼を請けられている方は違いますね。貴重なご意見しかとこの身に刻み込ませていただきますね」

「ええ、じゃ、ついでに授業料も。それぐらい悪くないでしょ?」

「残念ですがそういう契約を交わしていないので今は無理ですね。また次回の時にこちらからお願いしますね」

「はぁーあ、つれないわねー。さっきの話はすっごく為になる話だと思うんだけどねー」

「思うだけは自由ですから。良かったじゃないですか夢もみれて。あっ、私がいただきましょうか? 夢見代行者としての賃金を――」

「誰が夢見るだけにお金なんて払うのよ。それにそんな夢見て何が楽しいのよ。……で、行方不明の内容はそれで終わりなの? もうないの?」

「今読み進めている中ではそこまでですね。後はカビの情報ばかりです」

「それならまだ見つけていないのかしら? 見つけてたら普通、色々と書くわよね」

「その可能性はありますね。視認しない限りは断定出来ませんし……」

「なら、これ以上談論は無駄ね。そこに書いてないことまで話すときりないし……。――カビについてはなんて書いてあるの? そっちの方が多く書かれてるんでしょ?」

「カビについて判っていることは、温度により形状が変化することと、人などの動物類に寄生し、繁殖することですね」

「うえっ……気持ち悪いわね。よく造ったわねそんなもの」

「宿主間での移動方法も非常に気持ち悪いですよ。寄生した後、その生き物を操作して、別の宿主を探し出し、そこから移るみたいです」

「筋肉とかも動かせるの? 珍しいわね」

「筋肉だけではなく、脳も、ですね。それで信号を送って別宿主を見つけるみたいです」

「見つけるにはどうするわけ? 目でも使って探すっての?」

「ハッキリとは書かれてませんが、どうやら体温とか、温度を感知して探すみたいです。人には必ず熱がありますから多分それで……ちなみに宿主間での移動方法としては、口からの吐瀉物によって移動するみたいですね」

「なら、胃袋空っぽにしておけば大丈夫ね。感染も広がらないし、菌が死ぬまでうろうろしてりゃいいんだわ」

「そうもいかないみたいですよ。宿主から体温が失われた後は、形質が変化して硬くなるみたいですね。それで後はその場に長く留まり、また別宿主を待つと……」

「そんなめんどくさそうな奴が街に流出しなくて良かったわね。出てたら今頃えらい騒ぎになってたわよ。どうせ対抗策なんて何も用意してなかったんでしょ。事故って資料取りに行かせるぐらいなんだから、造って放っておくだけの奴は易くていいわね」

「そのおかげで私たちにもそう言う機会に出合えるので、気持ちとしては複雑ですけどね……」

「出合えても良い気はしないわ。ほら、寄生虫で思い出したけど、学校にヘリが墜落した時だって、あれから出てきたミミズに良いことでもあった?」

「あー、あれは確かに面倒でしたね。掃除とか特に」

「廊下から窓までべったり付いてるし、なによりクネクネ、クネクネ動いて気持ち悪かったわ」

「あれは何のために造られたんですか? お聞きになりましたか?」

「聞いたけどよく分かんないわよ。寄生物にしては目的が分からないし、そもそも、自然的に出来たものか、それとも人工物かどうかすらもね」

「私はあまり詳しく聞かなかったので……そうですか……」

「まあ、修理代とか掃除費をたんまり貰ったみたいだから別に良いんじゃない。私も銃試せたし」

「あの銃声はやっぱりそうでしたか。傍迷惑な煩さですよね」

「それでも音は中庭から逃がしたのよ? 急な呼び出しで選ぶ時間なかったし、中途半端な武器じゃ確実に仕留めれないしで……本当なら焼夷弾で一気に焼き払おうと思ったんだけど、そっちじゃなくて良かったでしょ?」

「はい。最良の選択だと思います。とてもナイスな判断ですね」

「あの時は良かったわ。校内であれだけ堂々と撃てることなんてないもの。損害も気にせずにさ」

「出合って良いことあるじゃないですか」

 篠宮が葉月に顔を合わせる。僅かな間の後、

「そうね 」

そう一言、声を返した。

――短針が七に被さった。

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