三節:ピアノ

 ドアは一人、暗闇に佇んでいた。

 何を考えているのか、先の無いその場所をただ一身に見続けていた。

 静穏が刻、刻と過ぎ行く中……ふと金具の外れる音が紛れ込んだ。

 その音にドアは枯れ声を上げた。

――――――――――

 中には入らず、廊下から壁に向かい光を当てる。

 浮かび上がったのは油で書かれた風景画だった。

 光をそのまま右へと流し、下、左、そして上へと移動させ、また絵の場所へと戻す。

 飾られた絵画に置かれた机と椅子、そして壺のある部屋。

 覗き見える右目で辺りを見渡した後、篠宮は閉ざした口を開くことなくドアを閉めた。

 先ほど目にした窓を再び光に捉える。

「大した家ね……」

 どこか呆れたような口ぶりでそう呟いた後、篠宮は赤い絨毯の上を歩き出した。

 暗い足元からはみしみし音が鳴り響き、伸びる光は折れ曲がる廊下の角を射す。

 篠宮は見える物を頼りに前へと進み、そして角を曲がった後、再び奥へと光を向けた。

 映りだされたのは両開きのドア。左右に明かりを振り、他に何があるかを確かめる。

 左側の壁には雨をしたたせる窓が三枚と、右側の壁にはドアが二枚あった。

 一番手前のドアまで近づき、ノブを捻り開ける。

 左右に目を動かした後、今度は光を追うようにして四方に瞳を走らせた。

 ぐるりぐるりと二週させ、ドアを閉める。

 次に奥のドアへと向かい開け――閉める。

 耳に聞こえるラッチ音を背に、次は廊下を仕切る両開きのドアノブに手を掛けた。

 音もなく開かれていく隙間に光を通し、広がっていく視界でその先を捉える。

 伸びる赤い絨毯の先には、ここと同じく両開きのドアが廊下を防いでいた。左右の壁には一枚の風景画に二つのドアと三つの窓が備え付けられている。

 息を吐いた後、歩き出した篠宮は手前のドアノブを握りしめ、開けた。

 怪訝な瞳が大きく広がり、再び戻る。

 左右に目を振った後、手に持つ光を落とした。

 篠宮の視界に映ったモノ。それは――淡く光る灯火器だった。

――――――――――

 注ぐ光を頼りに、葉月は机に置かれていた紙片に目を通してた。

 並ぶ文字列の一つ一つを辿り、最終行まで達すると一枚弾き、また上から光で追い始めた。

 最後の文字を読み終えた後、しばらく紙片を見つめ、そして机の端へと重ねる。

 改めて自身の周囲に視線を向けた。

 左右ガラス張りの本棚が並ぶ部屋。奥の壁際――葉月の前には一台の机があった。

 派手な装飾が施された取っ手付きの戸棚に、卓上には万年筆や分厚い本などが立て掛けられていた。

 葉月は横にずらしていた革張りの椅子を元に戻し、ドアに光を当て、その場を後にした。

 閉まる音を背に間を空けることなく、体を右へと向け赤色の絨毯を踏みしめる。

 左へと折れ曲がり、見えるドアに近づきノブに手を掛けた。

「――!?」

 突然、静穏が割れた。

 音に釣られ、自然と顔と明かりが右へと向く。

 照らし出されたのは廊下を仕切る両開きのドアだった。

 続け様に聞こえる破砕音に、葉月は急ぎドアを開けた。

 光に映る影。絨毯を踏みしめる足音が微かに薄れ聞こえる。

 割れた窓から断続的に吹き込む雨が床へと落ちていた。

 光を窓へと移し、絨毯に戻す。

 浮かぶ染みはさらに広がり、色を沈めていた。

 葉月は先に伸びる廊下の奥へと光を射し、消えた足音を追うため走った。

 正面にある開かれたドアを抜け、さらに前へと進む。

 包む暗闇を退けるように明かりを何度も左へと揺らし、そしてある場所で足を止めた。

――開かれたドア。懐中電灯を正面に据え、一歩、また一歩と進み、そして中に光を押し込んだ。

 合う目と目。葉月の前に姿を見せたのはリュックを背負った一人の女性だった。

 縁なしの眼鏡から覗き見える瞳はどこか怯えた様子で震え、青くなる唇は言葉を紡ぎだすため小刻みに揺れていた。

「あの、あの私、あのあの」

 身を守る様に腰を屈める女性は目を逸らすことなく同じ言葉を繰り返していた。

 葉月はその姿に何も言わず、ただじっと光を当てるだけだった。

「ごごご、ごめんなさい!!」

 突然女性が立ち上がり、頭を下げた。

「まさか本当に割るだなんて私思ってなくって! 弁償は必ずします! 本当にごめんなさい!」

 暗闇の中、一人頭を下げる女性に対し、葉月は掛ける言葉もなく、ただ光を当て続けていた。

 しばらくして言葉は止み、垂らしていた長髪をあげる。

 再び合う目と目の間に静寂の空気が流れ――。

「あの、あなたは一体誰ですか?」

――――――――――

「オレンジジュースです」

 灯火器が見せる光ように、グラスに入れられたそれは淡い橙色に輝いていた。

 椅子に座る篠宮は視線を僅かに上げた後、カウンターに置かれたそれを凝視し、鼻を近づける。

 鼻孔をくすぐる蜜柑の香りに顔を離し、次に目を透かしては、グラスの脚を手に持ち、口へと運んだ。

 一気に飲み干したカクテルグラスをカウンターに置く。

 木の乾いた音に、篠宮の前に立っていた男がグラスを拭いていた手を止め口元をあげた。

「いつでもお申し付けください」

 どこか博識ある雰囲気を漂わせ顔を戻すその姿に、篠宮は細めた視線をただ返すだけだった。

 ふと瞳が男の左奥へと動く。

 捉えたもの、それは篠宮の向かい側の席に座る別の男だった。

 やや小太り体型にごわごわとした顎髭。片手にウィスキーの入ったグラスを持ち、もう一つの手はカウンターに立て、その上に頬を乗せていた。

 小鳥のように小さな声で歌を呟き、開いてもないような虚ろな目で明後日の方向を見ている。

 酔った男に凛とし佇む男。篠宮は二人の顔を改めて目にした後、カウンターに寝かせていた懐中電灯を手に持ち、席を立ちあがった。

 背を向けドアへと向かう篠宮に対し、グラスを拭いていた男が言葉をかける。

「またいつでもお待ちしております」

 光は狭まり、金具がハマる。

 暗闇が再び篠宮の体を向かい入れた。

 手に持つ懐中電灯を再び点け、目の前を照らす。

 殺風景な湖の絵に、篠宮はふと息を吐いた。

「何なの一体……」

――――――――――

 正面に光が見えた。

 ゆらゆらと揺らめくそれはこちらに向かい徐々に、徐々に大きくなってゆく。

 誘われるように足を進め、距離を詰める。

 鉢合う二人は互いに光を胸に当てた。

 表情も変えず視線を交わす中、篠宮が葉月の左へと瞳を動かし、明かり移した。

 浮かび上がったのは眼鏡を掛けた一人の女性。眉をひそめ、浴びせられる光に視線を逸らしている。

「誰?」

 篠宮の問いに、葉月は視線を動かさずに答えた。

「山峰彩さんです」

「やまみねあや? 初めまして」

 篠宮の挨拶に、名前を呼ばれた女性は小さく頭を下げ、呟く声で言葉を返した。

「……初めまして」

 篠宮はその様子を見届けた後、光を葉月の胸元へと戻した

「馴れ初めは後で聞くとして、情報をまとめましょうか。まずはここが丁度中間ってことでいいかしら?」

「そう思いたいのですが私の方が結構歩いた気がします。ここの家主の部屋を見つけました。ですので、西よりだと思いますよ」

「へー家主ね……。居たの?」

「留守でした。見かけました?」

「いや、――でも変わった二人なら見かけた。バーで」

「バー? バーと言うのはお酒を飲むバーですか?」

「ええ、オーセンティックバーって言うのかしら、ただ酒が飲める場所よ。ちゃんとカウンターもあって、作る人も居たわ」

「何かお話は?」

「ええ、聞いたわよ、いろいろとね。で、そっちの成果は主の部屋と、あとその人だけ?」

「はい、今のところは、あと調べていないのはこの部屋だけです」

 葉月が光を左へと向けた。照らし出されたのは二枚の両開きのドアだった。

 篠宮は、そうねと一言返し、ノブに手を掛けドアを押した。

 開く隙間から明かりを通し、中を覗く。

 左右に揺れる二つの光が映し出したのは赤の絨毯が敷き詰められた大きな広間と一台のグランドピアノ、そして――流れる旋律だった。

 奏出る音は、弾けていてどこか滑らかで淑やかさを持ち、そして何よりも重々しい雰囲気を生み出していた。

 明かりもなく、ただ暗闇で鳴く音。

 二つの明かりはピアノで留まり、さらにその奥を射した。

――音が止む。ピアノの陰から微かに見える人の頭。

 葉月が横へと移動し確認をする。そこには一人の女性が座っていた。

 赤いドレスに長い髪。その風貌からは気品を漂わせている。

 か細い右手で目元の辺りを覆い、眩しそうな仕草を見せる。

 葉月は懐中電灯を消し、言葉を掛けた。

「申し訳ありません。まさか人がいるとは思いもしなかったので」

 後ろから照らす篠宮の明かりだけを頼りに、三人はその女性との距離を詰めていく。

「廊下からでは音が聞こえなかったので、ご迷惑を」

 光をピアノの方へと僅かにずらし、女性の顔を微かに浮かび上がらせた。

「本当にすみませんでした」

 ピアノの前に立ち頭を下げる葉月に対し、片手をどけた女性は鋭い視線でそれを見た後、ぐっと篠宮の方に瞳を移した。

 表情も変えずただ見返す篠宮に、女性は言葉も掛けず、また視線を戻した。

「私達ここに来たばかりで……ご気分を不快にさせてしまい、誠に申し訳ありません」

 深々と頭を下げてから数秒あとに顔をあげた葉月に対し、女性は変わらぬ表情のまま言葉を返した。

「お気になさらずに」

 ふと葉月の肩が下がる。

「お心遣い感謝します」

 安堵の表情を見せる葉月に、女性は顔を左へと動かし、暗闇から何かを出してきた。

 女性が握っていたのはノートを広げたぐらいの大きさの紙と万年筆一本だった。

 鍵盤の上に立てられた黒の透明な仕切りに楽譜を置き、万年筆で何かを書き始める。

 葉月はピアノから楽譜、そして女性へと視線を移し、黙々と文字や音符などを記してい

くその姿に言葉を掛けた。

「前奏曲第四番ですね」

 女性は手を止めずに答える。

「……ええそうよ、ご存じね。何か音楽でも?」

「管楽器などを少し、触れた程度ですが……」

「そう……」

 女性は万年筆と楽譜を再び横へと置き、またピアノを弾き始めた。

 緩やかに過ぎ行く旋律はどこか暗く切なくも、途中から脈動し気品を感じさせるように流れを変えた。

 包み込む独奏は次第に緩やかさを戻し、そして消える。

 並ぶか細い指は鍵盤から離れ、再び現れる楽譜に文字を書き始めた。

 その様子を真横で見ていた葉月が言葉を掛ける。

「私がお聞きした曲とは少し違うような気がするのですが……」

 女性は楽譜から顔を逸らさず答えた。

「いま手を加えていますから多分そのせいかと」

「編曲ですか?」

「ええ」

 楽譜を持ち、万年筆と共に横へとさげる。

「原曲のままでもよかったのですが、今度の式典には雰囲気が合いませんので」

「それで……でもそれなら選曲とかは? ほかにも色々とありますし……」

「――これが好きだから」

 女性が少し寂しそうな表情を見せる。

「どうしてもこの曲が弾きたくて。他の曲も考えたんだけど、今の気持ちにあっているから、ね」

「そうですか……もしかして、その暗闇で弾いているのも今のお気持ちで……」

 葉月の言葉に女性が顔を綻ばせた。

「不思議に見えますよね、暗闇の中一人ピアノなんて。でもこの方がよく音も聞き取れて落ち着いて弾けるんです、それに……」

 女性が左へと腕を伸ばす。暗闇から出してきたのは四角形の小型電灯だった。

「今はここを照らしてくれる明かりもありますしね」

 女性の視線が正面で照らし続けている明かりへと向けられる。

「なるほど、そうですか……いろいろとありがとうございました。私たちはこれで……お邪魔して申し訳ありませんでした」

 頭を深々と下げる葉月に、女性は手にしていた小型電灯を横へと置いた。

「お気になさらずに。またいつでもおいでください」

 揺れる明かりはピアノから外れ、背中にあるドアへと向けられる。

 三人は暗闇と旋律を背にその部屋を後にした。

――――――――――

 光が目の前にある濡れた窓を照らし出す。未だ降り散る雨粒は止む気配を見せない。

「どう?」

 篠宮の言葉に葉月が間を空けず答えた。

「変わった所はどこも見受けられませんでした」

「そう」

 もう一つの明かりが点るのを合図に篠宮が左へと歩を進め、二人もそれに続いた。

「何か不自然な点はありましたか?」

 葉月の問い掛けに、篠宮は視線を光の先から逸らさず答えた。

「あんな真っ暗闇の中で一人ピアノの弾いている以外はね」

「それも私は思いましたが、どうやら小型のライトを持っていたようです。演奏中については話してくださった理由で納得はしましたけど」

「よく音が聞き取れるだっけ? 本当かしら、指先が見えなくて余計困ると思うだけど?」

「楽譜を完全に暗記している方なら可能だとは思います。次に鳴らす鍵盤の位置が遠いと少し難しい話になってきますが……彼女の話が本当ならば、あの曲が好きなようなので記憶しているのだと思いますよ。それに編曲の際に明かりを点けて楽譜を確認しているようなのでそれで記憶の方もより補完されているかと。明かりについては彼女のこだわりの一つといったものですね。電気を消したからと旋律の聞き取りに影響があるとは思いませんが、あのグランドピアノ、上前板……譜面を置く場所などを取り外していましたから、音に関しては繊細なのかもしれません」

「外すとよく聞こえるの?」

「はい、中には弦があってより音が通るようになります」

「へぇー」

 興味がなくなったのか、篠宮の口から出た言葉はどこか遠くへと飛んでいった。

「彩さんは何か楽器とか弾かれます?」

 二人の間に挟まれるようにいた山峰に突然葉月が問いかける。

「え、ええーっと何も……」

 どこか言い難そうに出された答えに葉月は笑顔を見せた。

「そうですか」

 前の開かれたドアを抜け、誰もいない室内を通り、再びドアを抜ける。

 暗い通路を歩く中、未だ不安そうに表情を浮かべる山峰が葉月に向かい言葉を出した。

「あの……このあとはどこに……?」

 その問い掛けに篠宮が答えた。

「玄関よ。待たせている人がいるから、早く合流しないとね。一人勝手に失踪されると面倒だし」

「泣いているかもしれませんよ」

「まだその方がマシね。どっかに行かれたら探すのすら躊躇うわ」

「そうですね。それに玄関が閉められていると私達も出れなくなりますし」

「出れない? へぇーなんで?」

「どうやら扉が閉まると開かないらしいですよ」

 葉月の言葉に篠宮が足を止めた。

「マジ? なんで知ってんの?」

 手に持つ明かりが葉月の顔を射す。

「山峰さんから聞きました」

 今度は山峰の顔を射す。

「え、いやあの……その……」

 突然の事に戸惑う山峰に対し、篠宮はその顔をじっと見続けていた。すかさず葉月が横から声を掛ける。

「ここで問いただしても仕方ありませんよ。後で情報をまとめましょ。今さら焦った所で私たちは玄関の前には居ませんし」

 その言葉に篠宮は明かりを前の廊下へと戻し、歩き出した。

「それもそうね。あいつ次第だわ」

 先行く背に不安そうな表情を向ける山峰の肩を葉月がそっと手を置いた。

「行きましょ」

 二人が光に続いた。

――――――――――

 篠宮の射す明かりが玄関の扉を照らす。

 光は先に続く闇へと飲まれ、その横に立つ龍麻の姿を映し出していた。

 眉根を寄せ、縮めた両肩を震わせている。

 射す光に龍麻が気付き、顔をあげた。

 互いに距離を詰めていき、先に口を開いたのは龍麻だった。

「遅い遅い、遅すぎる……」

 重ねた両手に四角形の物を抱え、発する口調に覇気はない。

 一人震えるその姿に、篠宮は龍麻の足元を照らし、光を上げた。

「なに一人震えてんのよ。寒いの?」

 龍麻が首を縦に振る。

「ああ、急に寒くなって……な、な、なんでだろ……」

 ガタガタと震えだし、さらに歯も鳴らし始めた。その異様な光景に、篠宮は不思議そうな表情を浮かべた後、横にいる葉月の方へと顔を向けた。

「寒い?」

 篠宮の言葉に二人は首を横に振った。

「いいえ」

 顔を戻し、改めて龍麻を見る。

 相変わらずカタカタと歯を鳴らし、肩を揺らしている。

 細めた目に無表情のまま数十秒その姿を見ていた篠宮は、明かりを出口へと向け歩き出した。

「まあ、もう外に出るから問題ないわね」

「え、外?」

 龍麻の声を背に三人は立ち止まる事なく、扉へと向かい突き進んでいた。

 近づく雨音の中に足を踏み入れようとした、その時だった。

「――くっ!?」

 突然強風が吹き、三人の体を押した。

 自然と出る腕が顔を塞ぐ。

 その瞬間、吹き抜ける風に木の叩きつける音が鳴動した。

『あっ……』

 篠宮と葉月が同時に声をあげる。

 四人は暗闇と静寂に残された。唯一灯る二つの明かりだけが、そこにいる存在を証明し続けていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る