終節:先
右手に握りしめた石で何度も、何度も叩きつける。
響く硬音はすぐに音色を変え、辺りに血しぶきを散らせては、胸元に飛び乗った猿の頬や体に赤い斑点を模様付けていた。
廊下に現れる靴の音。
猿が手を止め、後ろを振り向く。
そこにはドアからこちらを覗き見る麻祁の姿があった。
唸るように喉元に付けられた機械が小さく音を上げ、緑のランプを灯す。
「コロス……コロス……コロス……」
瞬時に猿は向きを翻し、同時に手にしていた石を這わせるように投げつけた。
退く頭にドアが激しく揺れ動く。
麻祁はすぐに体を出し、猿に向かい突っ込んだ。
縮まる一人と一匹の間。幅の狭い通路内で麻祁は滑るように体を落とし、真ん中を突っ切る猿の横を通り過ぎた。
視界に捉え続けていたのは廊下に寝転ぶ銃。それを手に取るや、腰を落とし、構えた肘を膝に乗せ引き金を引いた。
空気の弾ける音に合わせドアに穴が空き、廊下、左壁へと弾丸が走る。しかし、すでに猿の姿はどこにもなかった。
ドアが遮る廊下の奥を麻祁は見通した後、銃をエスの横に置き、服とズポンのポケットを漁り始めた。
カードキー、弾倉、そして無線機。
麻祁はカードキーを手に取り、その場を後にしようとした――その時だった。
「エス、聞こえるか、エス」
無線機からケイの声が聞こえた。
「エス? エス! くそっ!!」
こちらの状況を知ったのか、廊下に伝わるほどの声を鳴らした後、それ以上の言葉はなく途切れた。
麻祁は気にする様子も見せずに部屋へと戻り、音を上げるボンベの横に手にしていたカードキーを放り投げ、パソコンからハードディスクを取り外した。
ザックに入れた後、ドアへと向かう。
未だうずくまる石山を横に、麻祁は独り言のように呟いた。
「ここ閉めますよ」
出ていく体にノブの握りしめる音。それを前に石山は顔を上げ、部屋を抜けた。
―――――――――――
両肩を揺らしながらケイが廊下を走る。
銃を握りしめたまま、ただ一直線に奥へと目指し、そして右へと曲がった。
「――っ!?」
瞳が一瞬で見開く。飛び込んで来たのは血に沈むエスの姿だった。
額から流れ出る汗をそのままに、靴音を響かせながらケイはエスの元へと駆け寄った。
「くそっ! 大丈夫か!」
ケイが呼びかけるも、顔を赤く染めるエスからの言葉はない。
顔から胴、そして足から廊下へと視線を移す。そこには赤く乾いた猿の足跡がつけれていた。
長く伸びる四本と少し離れた一歩の指が飛び飛びに廊下の奥へと走っている。
ケイは奥歯を噛み締め、再び走り出した。
―――――――――――
蛍光灯の明かりを避けるように、石山は不安そうな表情のままドアの横で立っていた。ただ静かに、ただ呆然と前に並ぶボンベを見続けている。
石山の肩が上がる。影が現れ横切った。
視線を追わせるとそこには麻祁の姿があった。
腰を落とし、アンテナの伸びた黒色の箱をボンベに置き、作業を始めている。
空気の抜けるような音が強さを増し、部屋を埋めていく。
左、右へと移動した麻祁はその背中にザックを掛けると、ズボンのポケットから携帯を取り出し、キーを打ち始めた。
親指を動かしながら、石山の立つドアへと近づき、ノブに手をかける。その時だった――。
麻祁が急ぎ顔を上げた。
そびえるドアを前に麻祁は言葉を発しず、ただ目を通す。
二人の耳に音が入ってくる。伝わる空気の音、誰かの靴音――。
「誰かが来てます。隠れてください」
小声で素早く石山にそう言った後、麻祁は角の棚へと隠れた。
石山も言われるがまま目の前にある棚の裏へと身を潜める。
階段から聞こえる靴音が強くなり、ノブがまわ――叩きつける音と共にドアが弾けた。
姿を見せたのは眉根に皺を作り、両手で銃を握りしめるケイだった。
左から右へと首を動かし、その場から動かず辺りを見渡す。
漏れ出す空気の音には反応を示さない。獲物を探すように今度は瞳を端から端へと移す。
突然銃声が鳴り響いた。続けざまに金属の甲高い音が声を出す。
麻祁が音のする方へと向く。緑を点灯させるボンベに変化はない。
ケイは銃を構えたまま、再び瞳を左から右へと動かし、そして叫んだ。
「いるなら出てこい!! クソ猿!!」
向けられる銃口がボンベの隙間から隙間へと移り行く。
二度視線を動かした後、大きく舌打ちをし、右足を後ろに引いた――が、
「そこかッ!!」
足を止め、即座に前に並ぶ棚へと向かい銃を撃ち続けた。
銃声と甲高い音を激しく轟かせ、硝煙をまき散らす。
音が止む、同時に何かが倒れる音が棚の奥から聞こえた。
ケイが棚の隙間から覗き込み確認をする。そこには人の頭があった。
長く伸びた髪が床に垂れ下がり、表情までは確認できない。
「くそっ……」
ケイは小さく悪態を付きながら振り返り、ドアに向かい肘を叩きつけた。
スチールが弾み、駆け足で登る靴音が徐々に小さくなっていく。
麻祁は少しだけ間を空け、倒れている石山の元へと駆け寄った。
うつ伏せのまま動かない体からは血が溢れだし、床を赤く染めていた。
それを確認した後、すぐにその場を離れた。
階段を登り、ドアを抜け、左右に伸びる廊下を見渡した後、右へと走る。
薄暗い廊下から道を曲がり、光の射す広間を突っ切る。
鳴り響く銃声を耳に麻祁は外へと出た。
―――――――――――
ケイが立ち止まり、銃床を肩に寄せた。
引き金に合わせ、飛び出す弾丸は廊下を突っ切り猿目掛け突き進んだ。
しかし、角を曲がった猿の身には当たることなく、ただ壁に穴を空けるだけだった。
大きく舌打ちをした後、ケイは銃を下ろし走った。
角を曲がり、今度は直線を駆ける。
見える足、ケイは更に床を踏み込んだ。
辿り着いたのは受付のある広間。銃を構え、辺りを見渡しながら歩を進める。
中央へと辿り着く、その時だった。
「――ッ!! くそっ!!」
突然上からあの猿が降ってきた。
視界が塞がれもがく中、次に襲ってきたのは鈍重の痛みだった。
「コロス……コロス……コロス……」
機械室な声と共に、何度も何度も頭部に置物を叩きつける。
ふらつく足元の中、ケイは右手で猿の背を肉ごと握りしめ、床へと叩きつけた。
左目を塞ぐ流血をそのままに、銃弾を数発その場に放ち、立て続けに穴を開けた。うち一発が猿の足に当たり、血を噴かせる。
「くそったれが!! それしか言えねぇーのかよ!! ああ!?」
罵声を浴びせ、銃口を猿に向ける。
赤く床に線を引く猿の喉元が緑に灯る。
「シネ……シネ……シネ……」
猿は足を引きずりながらも飛ぶようにして廊下の奥へと走り去った。
「っせぇ!! しねッ!!」
ケイは一段と怒声を轟かせ急ぎ跡を追った。
点々とする血を追い、廊下を駆け巡る。そしてある部屋の前へと辿り着いた。
引かれた線は中へと入り、左にある開かれたドアへと折り曲がっている。
ケイは口角を上げ、右手で左目を覆う血をぬぐった後、ドアへと近づいた。
見下ろす階段の先。開かれたドアから僅かに出る蛍光灯の明かりが狭い通路を浮かび上がらせていた。
「ははっ、くそ猿が、もう終わりだ」
側壁に肩を寄せ、両手で銃を構えながらケイがじらすように階段を一段ずつ降りていく。
開かれたドアから聞こえる空気の抜ける音。倒れる影に引き金を――。
―――――――――――
底から噴き出す上がる程の地響きが鳴り、施設の中央が吹き飛んだ。
巻きあがる灰煙が空を覆い、走る波が樹木揺らす。
遅れる爆音に鳥獣は喚き、麻祁は目を見開かせた。
無意識に振り返る。
黙々と立ち登る黒煙に麻祁は釣られるように視線を上げた後、右手に握っていた携帯に落とした。
画面に打ち込まれた七つの数字。押す受話器のボタン。
再び聞こえる爆音を背に、麻祁は萎びたザックを揺らしながらその場を去った。
時折聞こえる小さな衝撃音を耳にしながら、走る麻祁はある場所へと辿り着く。
現れたのはコンクリートで作られた倉庫のような場所。
開かれた場所に置かれたその建物の入口前には、龍麻、そしてあのチンパンジーの姿があった。
膝を曲げボールのように身を縮める龍麻の横で、チンパンジーは慰めるように左手を龍麻の肩に乗せ、座っている。
「…………あっ」
相変わらずの仏頂面を見つけた龍麻が言葉を発する。
「おい、なんだよあれ!! あの爆発なにしたんだよ!!」
後方で立ち上る煙を指さし、説明を求める声に麻祁は横目でそれを確認した後、答えた。
「知らん」
龍麻の目と口が自然と開く。
失う間を麻祁がすかさず埋めた。
「それよりどうしてここに? 何か用事でもあったのか?」
龍麻のズボンを掴むチンパンジーに視線を向ける。
「いや、それが――」
言いかけたその時だった。
ズボンを掴んでいたチンパンジーが手を離し、麻祁に向かい右手を動かし始めた。
立てた人差し指を前に出し、それを自身の方へと引く。
両手を地面につけ、体を上下に弾ませた後、建物の中へと入っていた。
消えゆく後ろ姿を見ていた麻祁が問いかける。
「――中は?」
その言葉に龍麻は口を濁らせた。
「それが……」
「なに?」
迫る麻祁にどこか気まずそうな表情を龍麻が見せる。
「俺にも分からなくて……ただ臭いが……」
再び二人の視線が建物へと向けられる。
窓もドアもないただ穴の開いた灰色のコンクリート。足を進める麻祁に対し、龍麻も同じく歩を進めた。
四角に開けられた穴から中を覗く。
二人が左右に視線を向ける。壁際には人が入れるぐらいの大きなバケツや台車、スコップなど様々な道具や物が乱雑に置かれていた。
麻祁の鼻孔が僅かに上がる。
「……なるほど」
作業着から見えるシャツを引き出し、鼻元へと当てる。
「臭いがすごいだろ? なんなんだこれ……」
額にシワを作り声こもる龍麻の問いに麻祁がすぐに答えた。
「獣の臭いだな。多分実験用の猿が入れられていたかもしれん。奥に檻があるかも」
「ここに集めていたってわけか……よく耐えれるな……」
「日数が経っているからな。稼働していた当時は清潔にはしていただろう。……この奥か」
麻祁がためらう様子もなく中へと入っていく。先行く背に、龍麻は一瞬戸惑うもその後を追った。
僅かに開けられた穴から漏れる光を頼りに通路を進むと、二人は五つ並ぶ檻の前へと辿り着いた。
鉄格子の開いた檻の中は酷く汚れきり、虫などが飛び交っていた。
「うぐっ……」
漂う臭気に龍麻が頬を膨らませる。
「檻だな。ここに実験用の猿を置いていたんだろう。……ひどい衛生状態だな」
「こんなので……うぷっ……ふーふー」
言葉と共に喉から溢れかけるものを龍麻が何とか戻す。
「モノとしか見てないからな。まあ、職員のストレスを考えると掃除ぐらいはしていただろう――ん?」
麻祁がある違和感を感じ視線を下げる。
伝わる振動。下ろした先にはあのチンパンジーがいた。
ズボンを引っ張り、麻祁を見上げている。
「ここに何が?」
その言葉に返事するように、今度は廊下の奥へと向かい手を伸ばし、走り出した。
動くことすらもはや意識のない龍麻を余所に、麻祁が奥へと足を進める。
現れたのはこの場所を包むコンクリートよりも無機質で重みのある鉄のドアだった。
開く分厚いドアから覗き見える中は暗闇で何も視認できない。
チンパンジーは麻祁の手を引き、ドアに付けられたバルブへ置いた後、中へと入っていった。
少しのあいだ暗闇を見続けるも、中から出てくる気配はない。
麻祁は言葉もなく、両手に力を入れドアを押した。
錆びた金切り声が廊下を走り、鉄同士のハマった音が耳で轟く。
反響した音は龍麻の耳にも届き、体を大きく震わせた後、潤むその涙目をドアへと向けさせた。
奥から麻祁が現れる。
「何かあったのか……?」
麻祁はすぐには口を開かず、言葉と共に龍麻の横を通り抜けた。
「いや、ここを出よう」
あの子は――。
その言葉を言い切る前に、麻祁の姿はすでにその場所にはいなかった。
龍麻がふと左に顔を向ける。
耳障りな羽音が飛び交う廊下の奥、淡く浮かぶ鉄のドアが目に入った。言葉は一つもなく、ただ一人その場に留まっている。
僅かな間の後、龍麻はその場所を後にした。
外に出た瞬間、龍麻はよれよろになったシャツを離し、大きく深呼吸を繰り返した。
額から流れ出る汗を拭い、その手を振るう。
「あっつ……」
手で扇ぐ中、
「龍麻」
麻祁の呼びかけに振り向いた。
「ん? なに?」
龍麻の言葉に、麻祁は目をじっと見つめたまま話を続けた。
「少しだけ用事がある。先に船着き場に戻っていてくれ」
龍麻が眉根を寄せた。
「まだ何かあるのか? ……って時間大丈夫なのかよ?」
麻祁がズボンのポケットからアナログ式の時計を取り出し、時間の確認を始めた。
「後に二十分ぐらいで来るが……間に合わせみる。場所はわかるか? この道を辿って左右に分かれるはずだから左へ行けばいい。ここからだと船着き場は近いはずだから歩いても間に合う。私もすぐに追うさ」
表情を変えずいつものように淡々とした様子で告げる麻祁の姿に、龍麻はふと息を吐いた。
「分かったよ。この道を行けばいいんだよな? 先行ってるから」
そう言い残し、龍麻が背負ったザックを麻祁に向け歩き出す。
その後ろ姿を見送ることなく、麻祁は建物中へと引き返した。
―――――――――――
太く長いパイプが通る小さな室内。
音や光もないその空間に一匹のチンパンジーが立っていた。
何かをするわけでもなくただ呆然と立ち、前を見ている。
突然、部屋の中に空気の抜けるような音が聞こえ始めた。
強さが変わることもなくただ一定を保ち流れ続けている音に、チンパンジーは反応し、体を上下に揺らした後、両手を前に倒し、右手を左へと軽く払う動作を見せた。
――今から。
手を戻し、今度は立てた人差し指を自身に当てると、それを前へと突き出した。
――行く。
腰を下ろしたチンパンジーは、それ以降、動きを見せることはなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます