五節:寄り道

 乾いた黒土を麻祁が蹴りつける。

 地面を這う根を飛び越え、背中で揺れるザックと共に木々からのぞき見えている建物を目指していた。

 二階建ての白のコンクリートの塊は次第にその姿を現し始める。 

 ふと、麻祁が突然足を止めた。

 一呼吸ついた後、辺りを見渡し、ある一点でその視線を留める。

 荒く積んだ岩から貫く根。背よりも高いその壁の上で聳え立っていたのは一つの大木だった。

 僅かに覗き見えるその根元付近には葉の山が積まれていた。

 青々とした背丈よりも大きく細長い葉、それに枝なども紛れている。

 ゴツゴツとした肌を軸に合わせ、視線を登らせる麻祁は光の透く葉叢を確認した。

 時たま吹く風がガサガサと擦れ合う音を鳴らしている。――葉は楕円の形を落としていた。

 麻祁がもう一度、重なり合い出来る葉木の山に視線を向けた。

 じっと見つめながら、一歩、また一歩と近づいていく。

 岩を蹴り上げ、両手に土を付けながらも体をよじ登らせる。

 大木から吐き出されるように溢れる草木の山が眼前を覆う。

 麻祁は手を伸ば――。

「……っ!?」

 突き出る手。麻祁の腕に絡みついた。

 無意識に引く右腕。舞い散る葉。

 踏み下がる足元はそれ以上動くことはなく、麻祁は視線を落とした。

 腕を掴んでいた手の主はそこに倒れていた。

 土に汚れた作業着姿に黒くなり痩せこけた頬。仰向けの状態に虚ろな瞳で口を金魚のようにパクパクと動かしている。

「よかった……人だ……よかった……」

 くぐもり震えた声で男は同じ言葉を繰り返す。

「ありがとう……ありがとう……」

 鼻を啜り、目尻から涙を滴らせていた。

 麻祁は眉一つ動かすことなく男に手を伸ばした。

―――――――――――――

「あと少し頼みというか……見てきてもらいたいことがあるんですが……」

 一人の男が顔を上げた。

 どこか曇るその表情の先には同じくソファーへと腰を下ろす麻祁の姿があった。

 湯気の立ち上るカップを一口付け、それを机の右側に置いた。

「なにを?」

 麻祁の問いに、男は視線を一度だけ落とし、そして再び合わせた。

「実は……島を出るとき同僚を残し……置き去りにしてしまって……」

「残した? それは会社側には?」

「船着き場に本社から派遣されていた人がいたのでその人達には伝えはしたのですが……」

「反応は?」

「驚いた様子はなく……その平然とした感じでした。それから気になって会社のホームページを見たりしていたのですが、その事に関しては全く触れてなくて掲示板などでも調べてみましたがそんな話などは当然なく……共に働いていた仲間にも聞いてみたのですが、やはりそんな話はあの件以降は耳にしてないと……」

「後から出たという可能性は?」

「そう俺も思いたいのですが……ちょうど俺たちで最後の船だったので……」

「……考えられる原因とかは? もしかしてその瞬間を――?」

 男は顔を下げたまま一度だけ喉を動かし、首を横に振った。

「いえ……途中まで一緒に行動してましたが……その途中ではぐれてしまって……辺りを探してみても姿がなく、船の出る時間もなかったので俺だけ先に……それで……」

「そうですか……その人以外にその事で死者が出たという話を現地で耳にしたことは?」

「そのような話は全然……。突然の事でみんなパニックだったし、何が起きたのかすらわからなかった人が多いと思います。俺たちも食堂で飯を食っていた時に突然警報が鳴り響いて……それから人の声が聞こえて……」

「……なるほど」

 麻祁は小さくうなずいた後、再びコーヒーを口にした。

「理由はわかりました……しかし、それが叶ったかどうかは私の口からお伝えしませんがよろしいですか?」

 男は一瞬麻祁の顔を見た後、小さく返事をした。

―――――――――――――

 大樹の木陰に座り、視線を落としている男。

 髪は埃で白くなり、肌は黒く焼けている。

 やつれた頬に散り散りとなる髭の周りには白いクリームがこびり付いていた。

 初め憔悴しきった様子を見せていたが、次第に落ち着きを取り戻したのか安堵した表情を見せていた。

「石山誠司さんですね?」

 名前を問いかけると、男は何度も頷き返事をした。

「は、はい……」

 力なく返ってきた答えに麻祁は言葉を続ける。

「以前ここで共に働いていた七瀬さんからお名前をお聞きしました」

「七瀬が……それじゃ救助に?」

 石山の言葉に麻祁は再び手を伸ばした。

「いいえ、私たちは別の件でこちらに来ました。立てますか?」

「はい……」

 合わさる手に、石山の体が引き起こされる。

 足元をふらつかせ、肩を揺らしながら立ち上がった石山はすぐに横にある大木へと背をもたれさせた。

「それじゃ……どうすれば……?」

「船着き場へと案内したいところですが、私が向かう場所とは別になります。向こうを進んでいけば必ず船着き場に着きますので、そのまま進んでください」

 伸びる指が示す先、その場所に石山が顔を向けた。

「ひ、一人で向かえってことですか? そ、それは……」

 石山の顔色が一瞬で変わった。それに気づいた麻祁が問いかける。

「どうかしました? 疲労で歩けませんか?」

「い、いや……さるが……さるが……」

「さる?」

 小刻みに震える身体。

「猿とは?」

 麻祁の問いに、石山は青ざめた唇を動かし始めた。

「ここの島には猿が集められていて……それに襲われて……」

「襲われた? 何かされたのですか?」

「石を投げられて……足やそれが当たってそれで船に乗れなくて……」

「そのあとは? よくご無事で――」

「別の猿が助けて……さ、猿というかチンパンジーなんだけど……石を投げたのは別の猿で、頭に針みたいなのが立っていた……突然声が聞こえて……そのあといなくなったと思ったら現れて……」

「それで……」

 麻祁の視線が根元に積まれた草木へとむけられる。

「この場所に――」

「手で何か言った後、葉に隠されて……そのあとはいろんな場所を転々として……だ、だから一人では!」

 石山が力のない声を張り上げた。

「この辺りにもまだいるはずですし……ひ、一人でなんて……!」

「不安なのは分かります。私も安全に船着き場までご同行したいのですが、その用事を終えない限りは行けません。もし、それでも一人で難しいのなら、あちらを進んでみてください」

 麻祁は振り返り指を突き出した。

「そのまままっすぐ進めば私と共に来た男性がいます。同じ作業着を着ているので見ただけで分かると思いますが……しかし、必ず出会えるとは言えません。途中で別れてしまったのでどこに行ったのかさえ私には知りませんので」

「そ、それじゃ、どうすれば……」

 石山は他の選択を求めるような視線を向けるも、麻祁はそれを絶った。

「私は施設に向かうのでそれ以上は選べません。……冷たく言いますが、私は私の目的があるのでそれを優先します。襲ってきた猿に関しては心配する必要はないと思います」

「ど、どうして? もしかして……殺した……?」

「いえ、排除はしてません。しかし、私達以外にもこの場所には別の方がみえているらしく、その方達の相手をしているみたいなので心配ないと思います」

「別の方? 君達以外にも誰が? もしかして本社の人?」

「ええ、そちらは本社が雇った方ですが目標は救助ではないようです」

「…………」

 石山の表情がさらに曇る。

「その方たちに事情を話せば、もしかすると保護はしてくれるかもしれません。しかし、彼らには彼らの目的があり、それに今、あなたを襲った猿と遭遇する可能性があります。船に乗りたければ一人、船着き場まで行くのがいいと思います。それでは私はこれで――」

 麻祁は再度、施設から左側の方を指さした後、それ以上の言葉はなくその場を後にした。

 背を覆うザックが遠ざかりゆく中、それを見ていた石山は右手で頭を掻きむしった。

 ボロボロと髪の毛から白い粉が舞い散り、額から流れる汗が地面に落ちる。

 石山は眉を歪ませたまま、フラフラと歩き始めた。

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