四節:急用

 日も落ち、光の無い部屋に敦賀は一人頭を落としていた。

 ベッドに腰を下ろしたまま、手にしている携帯に向かい、ただ同じ言葉を繰り返す。

「……はい、……はい、はい。本当にすみませんでした、まさか、こんな事になるなんて…………はい、本当に本当にすみません」

 左手で額から側頭部辺りを押え、揺れる瞳を床に向けたまま、頭を下げ続けていた。

「明日そちらに行かせてもらいます。……いえ、俺のせいでもありますし……はい、本当にすみませんでした……」

 その言葉の後、敦賀はそれ以上喋ることはなく、ただ携帯を握りしめたまま、その場から動かずにいた。

 しばらく荒い呼吸を繰り返し、鼻をひと啜りした後、携帯を置いた。

「くそ……なんで……なんでこんなことに……」

 左手で目元を押え、震える声をなんとか落ち着かせようと、何度も深い呼吸を繰り返す。

 何度か目と顔を拭った後、視線が一点、部屋の隅に置かれた本棚へと向けられた。

 何かを思い出すようにそれを見つめ、すぐさま横に置いてあった携帯へと手を伸ばした。

 電話帳を開け、ある名前をディスプレイに表示させる。

 ――三谷恵子。

「…………」

 耳に携帯を当て、相手を待つ。

 一回、二回、三回、四回、五回、六か――。

「……はい、もしもし……」

 携帯の向こう側から聴こえる弱々しい女性の声に、敦賀がすぐに応えた。

「恵子ちゃん? ごめん突然電話なんて……久しぶり」

「……明弘……さん? ごめんなさい、名前も確かめずに取ったものだから……」

「いや、大丈夫だよ。俺も突然電話ごめん。……少し話がしたくなって……今、大丈夫?」

「……うん、大丈夫……でも、ちょっと体調が悪くて……」

 会話を遮るように、その所々に掠れたような咳が混じる。

「……体調? 風邪とか?」

「……うんん、違うと思う。熱はないんだけど……なんだか体が重たくて……」

「そうか……ごめんよ、そんな時に電話なんて……」

「大丈夫……それより、どうしたの急に電話なんて……」

「……その……実は、少し気になることがあって……」

「気になること? なに……?」

「今朝、麻祁さんって方が来て、邦彦と指輪の事を聞きに来たんだけど……その……智治君が色々調べているって話で……」

「そう……麻祁さんが……。お父さんのこと、今も調べているの。私も何か手伝えたらと思ったんだけど、何をしていいのか分からないから……それで麻祁さんに手伝ってもらって……」

「そうなんだ……俺ももし何か手伝えることがあるなら一緒に手伝うから、いつでも言って」

「……ありがとう」

「……こちらこそ……本当は久しぶりに恵子ちゃんの声が聴きたくて電話したんだ。……こんな時にごめん、声が聞けて助かったよ」

「ふふ、それはよかったわ。私も……明弘さんの声を聴いたら少し楽になったわ、ありがとう……」

「…………それじゃ、また」

「……またね」

 通話が切れ、画面の表示が戻る。

 ぐっと携帯を握りしめた敦賀は更に頭を沈め、床に涙を落とした。

 拳を震わしながらいつまでも、その啜る声を部屋中に鳴らしていた。

―――――――――――――――

 一方的に話中音の聞こえる携帯を、恵子は力もなくその場で放し、机に落とした。

 椅子に座り、顔を伏せたままで、その場から動かない。

 左側のソファーの近くにあるドアが開き、智治が姿を見せる。

 手には奇妙な形をした物体が握られており、それをテレビとソファーの間に挟まれた机の上に置いた。

 姿を消し、しばらくした後みせるその手には、また別の物が抱えられていた。

 両手を埋め、机に伏せる恵子の前を通り過ぎ、正面にあるドアのノブへと手を掛ける。

「智治……またそんなもの出して……どうしたの急に……?」

 張りない声に、智治は足を止め、顔だけを向けた。

「なんでもないよ母さん、ちょっと借りてるだけだから」

「借りてるって……そんなもの昨日から突然並べだして……それにこの臭い……はなんなの……? キッチンで何を燃やしたの……?」

「これは……大丈夫だよ」

 智治が手にしていた物を机に置き、恵子の横に並んでは、肩にそっと手をあてた。

「何も心配しないで、ね。悪いものじゃないから」

「……そんなこと言っても、なんだかおかしいのよ……。体が重いし……、これじゃ仕事にもいけなくて……」

「……もう少ししたら楽になるから、……それに父さんにも会えるかもしれない」

「お父さんに……? ……なんでそんなことを急に……?」

「もう少し……もう少しだから……」

 そっと横から去ろうとした時、智治の視線が机に落とされた携帯へと向けられた。 

「…………」

 その先を透しするかのように、暗くなった画面を見続ける。

「ね、母さん」

「……なに……?」

「――指輪知らない? 探してるんだけど?」

「指輪……?」

 恵子は頭を上げ、虚ろな目を智治に向けた。が、すぐにその力をなくし再び伏せた。

 智治は携帯を手に取り、そっと恵子の前に置いた。

「探しても探しても見つからない。ねえ、昨日来ていたあの女の人が持っていったんじゃないの? 返してもらってよ、ね」

 再び掴んだ携帯を、重なる腕へと軽く押し当て、側面にある電源のボタンを押す。

「電話でさ」

「電話………」

 朧気な瞳が一点の青白い光を捉える。

「大事な物だから、早く」

「……早く」

 恵子は顔を腕に埋めたまま、指を動かし始めた。

 なぞる様に、遅くゆったりと人差し指を動かし、そして電話帳に登録してある名前を押し、電話をかける。

 一回、二回、三回、四か――。

 携帯の向こうから声が聞こえる。

『はい、どうしました?』

 聞こえてくる麻祁の声に恵子は唇を動かした。

―――――――――――――――

 電球の照らす部屋の中心で、麻祁は開いたノートパソコンに文字を打ち付けていた。

 雑音もなく、ただひたすらにキーのタッチ音だけを響かせるその左側には、あの指輪が置かれいた。

 玄関からドアの開く音が聞こえる。

 麻祁は気にもせず、ただ一点を見つめたまま、指を動かし続ける。

 玄関と居間を隔てる仕切りが動く。すこし、すこしずつ……。

 わずかに作られる隙間から、覗き見えたのは龍麻の右目だった。

 キョロっと一瞬左右に振った後、ふとため息を吐き、仕切りを開く。

「なんだ……帰ってきてたのか……」

 再び吐くため息と共に龍麻が麻祁の側面に腰を下ろした。

 麻祁は視線を向けることなく、キーを打ち続けながら、言葉を返した。

「毎回私が居ない時はそうなのか?」

「あたりまえだろ? いつ俺を狙ってくるかわからないんだから、一応、用心しないと」

 肩に掛けていた鞄を下ろし、それを机の横に置いた。

「わざわざ電気を付けてまで、帰宅を待つ暗殺者がいるのか?」

 その言葉に、龍麻の全てが止まった。感情の表れない視線で麻祁の顔を見た後、気まずそうにそれを逸らした。

「……そ、それはそうだけど……もしかして一緒にいるの分かっていて、麻祁が居ると偽装してくる可能性もあるだろ?」

「それもありだな。その能天気に帰ってくる、そのふ抜けた面が死ぬ一瞬で豹変する様を、直で見ればなお愉快だろう」

「……怖いこと言うなよ……」

 麻祁の言葉に、怯えた表情を見せる龍麻が何かを確かめるように、左右、そして後ろへと顔を向けた後、元に戻した。

「なんかまた不安になってきたな……」

「まあ、そう心配せずとも、すぐには来やしないさ。最近では自宅に防犯用でカメラを置く人もいるし、周辺の状況など念入りな準備もせず来る暗殺者なんて向いてない」

「だけど、いつかは来るって事だろ……? 早く見つけてくれよな……ん?」

 龍麻がパソコンの横に置かれた袋入りの指輪に気づいた。

 数十秒それを確かめるように見続けた後、机に片手を置き、腰を上げては、その場から離れようとした。

 見上げる景色にパソコンを打つ麻祁の姿が入り込む。

 まるで憑りつかれ、呪文を作り上げているかのように、淡々と文字を増やしている。

「さっきからずっと打ち込んでるけど、なに書いてるんだ?」

「報告書。一応、粗方は終わったから」

「報告書……」

 その言葉に、目が自然と指輪の方へとひかれた。

 塗装のおかげか、白の机の上に置かれた木製のそれはハッキリと浮かび上がって見えた。

 また捉われるように龍麻が動きを止める中、

「――気になる?」

麻祁が言葉だけをかける。

「ん? まあ……少しは」

「なら着けてみる?」

 指を止め、摘まんだ袋を龍麻へと向けた。

 ふらふらと揺らめく指輪と袋に、龍麻はじっと見た後、首を軽く横へと振った。

「いや、いい。どうせまともなものじゃなさそうだし。着けたらなんかあれだろ? 針なんかで薬みたいなの打たれて、頭がおかしくなったりするんだろどうせ」

「なにそれ? 木で作られているのにどうやって針なんか出るんだ? 輪の中に見える?」

 グッと近づく指輪の中を、龍麻は足を曲げ、顔を近づけては中に視線を通した。

 瞳を上から左下右へと移動させ、瞬きをした後、顔を戻す。

「んー……」

 どこか腑に落ちないような様子を龍麻が見せる。それに対し、麻祁は手を戻し、袋を開けた。

「なら臭いだけでも嗅いで感想を聞かせてくれ」

「臭い? ――うっ!?」

 眉をひそめるその顔元に、突如袋の口が迫ってきた。咄嗟に顔を背け、勢いで龍麻が立ち上がる。 

「クソッ! なにすんだよ! やめろよ急に!!」

 何もない空間を必死で手で払う。その姿に麻祁は口の開いた袋を持ったまま呆れた表情を向けた。

「なにやってるんだ一人。もう吸ったんだから肺に入ってるよ」

「くっ、どうなるんだよおれ。なんか出てくるんじゃないのか?」

 怯えるように龍麻が左右の両腕を別々の手で擦り始める。

「心配せずとも何も出てこないよ。それに葉月や篠宮もそれを吸ったんだ、そこまで怯える必要はない」

「葉月や篠宮も? ……麻祁は?」

「もちろん私も、で、感想は? どんな臭いがした?」

 その言葉に、龍麻は顔を傾け、記憶を掘り起こすように右手で天辺を掻いた。

「ええーっと……なんだろ……一瞬だったから覚えてないな」

「ならもう一度嗅いでみる? 何度嗅いでも問題ないよ」

 勧められるように再び口の開いた袋が伸ばされる。龍麻は顔だけを近づけ、息を、二度吸った。

 顔を離し、視線を一瞬左へと動かした後、答えた。

「ツナ……マヨ?」

 その言葉に麻祁は、一言も返さず、ただ視線を向けたまま、そっと袋を置いた。

「な、なんだよその顔! ツナマヨみたいな匂いがしたからそう言ったんだよ!」

「今朝おにぎり食べた? もしくは昼」

「……昼に昼食で買ったけど……」

「そう、ならその臭いだな」

 麻祁が再び文字を打ち始める。

「本当にそんな臭いがしたんだよ! 麻祁はどんな臭いがしたんだ?」

「飼料小屋」

「しりょうごや!? しりょうってあの牛とか飼っている?」

「ああ、その臭い」

「…………」

 不審そうに細められた視線が指輪へと向けられる。

「じゃ、葉月と篠宮は?」

「葉月は甘い匂い、篠宮は枯れた葉を燃やした臭い」

「……なんで全員違うんだ?」

「それが謎だからそれぞれ感想を求めてるの。繋がりなんて探ったって無駄だよむーだ」

「それはそうだろうけど……なんかそれ聞いたら気になるな……だいたいその指輪一体なんなんだ? まさか昨日言ってた首が飛んだのと関係があるんじゃ!?」

「ないよ。これは別件、っと」

 突然麻祁が立ち上がり、仕切りを開け、台所の方へと消えた。

 閉じられた仕切りに後を追うようにして龍麻の顔を向ける。

 遠くから聞こえるドアの開閉音。その後、ふと息を吐き、ベッドに腰を下ろした。

「俺が先に行きたかったんだけどな……」

 自然とだれる頭を持ち上げた時、目にあの指輪が入ってきた。

 袋の口は開かれている。

「…………」

 龍麻の手が自然と袋に伸び、掴んだ手がさらに口元を広げた。

 顔を近づけ鼻先を動かし、そして、離す。

「……ツナだよな、どう臭っても。俺の鼻がおかしいのかな」

 ふと左手を袋に入れ、中から指輪を取り出した。

 摘まんだ指輪が電球の光に当たり、木目がより浮かび上がる。

 瞳が中心を通る。

 龍麻は囚われるたようにその中を見――。

 ――続けていた。わずかに開かれた仕切り隙間から、麻祁は視線だけを覗かせて。

 だが、あれから数十秒以上は経っている。なのに一向に動く気配はない。

 ベッドに腰を下ろしたままで、まるで石像のように表情を変えず指輪を見ている。

 これ以上進展はない? もしくはただ愚鈍、いやそういう耐性があるだけか。

 麻祁の中で色々な可能性を考えている中、ふと『ツナマヨ』という言葉が現れた。

 それ以降、その言葉がすべてを阻害する。

 半ば諦め、仕切りを開けようとした時、麻祁が動きを止めた。龍麻が指輪を動か――。

 ――かした。右の人差し指に向かい、ゆっくりと……、

「っ!!?」

だが、ある音が鳴り響きその動きを止めた。

 龍麻の顔が自然と仕切りの方へと向く。

 鳴る携帯の音、同時に仕切りが開き、耳に携帯を当てた麻祁が姿を見せた。

「はい、どうしました?」

 驚く龍麻を余所に麻祁は振り返り、仕切りを閉めた。

 その間、龍麻はすかさず指輪を袋に入れ、何事もなかったような両手を膝の上に置いた後、窓の方へと顔を向けた。

「はい……えっ? はい……」

 返事を繰り返しながら麻祁が指輪の元へと近寄って来る。

 龍麻は今それに気付いたような素振りで、顔を横に向け、上げた。

「今からですか? 深夜か明け方になりますけど?」

 見えない電話相手に対し、麻祁が眉を少しだけ歪めた。

「……分かりました、できるだけ早く。――それより恵子さん、どうしたんですか? 声が小さく聞こえますけど」

 少しだけ間が空く。だが、すぐに麻祁がそれを埋めた。

「もしもし? もしもし?」

 何度か呼びかけた後、麻祁は携帯を耳から離し、指を動かしては再びあてた。

「急用ができた、今から車を出せるか? ……ああ、今すぐ。椚高の前で待ち合わせで、そこで待つ。目的地はその時伝える、大丈夫か? ……すまない、助かる」

 一方的な勢いで電話を切った後、麻祁は携帯を机に置き、龍麻の前を通ってはキーボードを弄り始めた。

 突然慌しくなる場に、龍麻が声を掛け――、

「どうし――」

る前に、麻祁が話し始めた。

「急用だ。その指輪の持ち主が、今すぐそれを返してくれと連絡が入った」

「なんだよそれ、急に。どうしたんだ?」

「それは私が聞きたい。……ただ、まともな様子じゃない。早めに向かう。パソコンは好きに使っていい、後で消しておいてくれ」

 腰を上げ、携帯と共に握った袋を左手に移し、またどこかに電話を始めた。

「急用だ、すぐに依頼主の所に向かう。道具はいい、それよりも一人人手が――」

 嵐のように一人慌しく部屋を出る麻祁の背を龍麻は見送った後、

「なんなんだ……」

小さく呟いた。

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